【 真実を探る 】 世界各地の不幸や犠牲のプラスマイナス | 國體ワンワールド史観で考察するブログ

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日本の教育への疑問から始まった当ブログは、教育への関心を残しながら落合莞爾氏の國體ワンワールド史観に基づいた情報発信にシフトしています。
また最近はサニワメソッドを活用したスピリチュアル関連の情報発信も行っています。

等価交換の法則。


ある時代、ある地域が多大な犠牲を払ったのなら、別のある時代、ある地域が同等の犠牲を払うべき?


多分払うべきなのだろう。


そこに自分が入るのなら戦慄だけど、世界や他人から見たら知ったこっちゃないんだろう。


生き物は、中枢神経がその生物のすべてを司り、他が末端として動く。


人間社会において、この中枢神経となる存在は誰だろう。

中枢がなければ、民主主義の大義名分の元に多分カオスになる。


その中枢となる存在を中枢たらしめているのは、何だろう。


中枢の話はさておき。


国王の領土争いはさておき、国民国家同士の広範囲に巻き込んだ戦いや奴隷貿易などによる犠牲の大小と、その時は無関係で平和を謳歌して犠牲のゼロのところは、何かで等価交換の法則を求められる?


それが日本の場合は、大東亜戦争だったのだろうか?


一神教同士のヨーロッパとイスラムは血を流し合い、ユダヤは本人たちにも原因があるかもしれないが差別され続け。

(イスラム教はカトリック対応のために創始された)


日本はこれまで平和を謳歌してきた分、また何か犠牲を求められるのだろうか。

大東亜戦争の時のように。


地政学は自国には大切だけど、他国に対して戦略上の駒にし、そうしたら他国はいい気はしないよなと。


バランスって難しい。


一つ言えることは、犠牲や不幸は他人事でなく、世界がこうして繋がっている以上、誰にでも訪れる可能性があるということ。