歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡
2002年〝明菜のスキンヘッド〟の衝撃
20周年飾る全国ツアーに
2002年。
ユニバーサルミュージックに移籍した中森明菜は2年4カ月ぶりのアルバム「ZERO album~歌姫Ⅱ」(3月20日発売)を引っ提げてのコンサートツアーも行った。
イベント関係者は「アルバム発売2カ月後の5月末からスタートしました。東京・新宿の東京厚生年金会館に始まり、7月の千葉・松戸(森のホール21)まで全国で14公演。メジャー・レーベルに移籍して、しかも歌手生活20周年の節目を飾るとあって、明菜もこれまでになく意欲的だったように記憶しています」
と当時を振り返る。
アルバムは初回出荷分(15万枚)を発売週に売り切ってしまうほどのセールスとなった。
東京・池袋の東武百貨店内にあるCDショップ「五番街」の販売担当者(当時)は語る。
「あの時はおそらく、どこの店でも枚数を絞って入荷していたのではないでしょうか。
というのは、基本的に初回の入荷は過去のセールスを参考にしていますから。
明菜さんの場合、もちろん移籍第1弾という話題はあっても、店側は「この程度だろう」という数字を出します。
初回出荷が15万枚とは強気だと思いますが、結果として初回分を売り切ってしまったのはすごかった。
確かに当初の予想を上回るセールスでした。
実際、再入荷までに欠品状態が数日間、続いたと思います」
ユーザーにとって明菜のスキンヘッドのジャケットは衝撃的だった。
「改めて思ったのは選曲はもちろん、ジャケットのインパクトの大きさでしょう。頭を丸めた明菜なんてビックリでしたよ。
アーティストとしての明菜の才能がよく表現されていました」
(前出の販売担当者)
明菜も「多くの方に喜んでいただける結果を残せた」と振り返っていたほどだが、CDショップにとっても明菜復活ののろしになったようだ。
そんな中で発表されたのがコンサート・ツアーだったわけだが、そこで噂になったのが、明菜としては初の「アジア・ツアー構想」だ。
音楽関係者が言う。
「そもそも「歌姫Ⅱ」は香港や台湾でも発売されましたからね。
ユニバーサルも10万枚を出荷するほどで、とにかく評判になったことが大きかった。
というのも、1985年と86年に2年連続で日本レコード大賞を獲得するなど、80年代のアイドル界を席巻し、アジアでも広く知られていました。それが「歌姫Ⅱ」で再び脚光を浴び、台湾や香港のプロモーターからツアーのオファーが舞い込んできたそうです。
おそらくアルバムの中で山口百恵や松田聖子、高橋真梨子、テレサ・テンの作品をカバーしていたことも拍車をかけたのかもしれません」
もちろんユニバーサルのアジアの拠点が香港にあったことも功を奏したかもしれないが、実際、明菜の移籍に動いてきたユニバーサルの寺林晁氏(執行役員マーケティング・エグゼクティブ)もアジア・ツアーには意欲を見せていたという。
「そもそも寺林さんはかつて(海外イベント会社の)ウドー音楽事務所の辣腕宣伝マンでしたからね。
当然アジアにもネットワークはあったと思います。
ところが国内ツアーに続いて、アジアでも…という流れに対して、イベンターから内容をめぐっての要望も多かったようです。
当然、スケジュール調整を行ったと思いますが、最終的には整わなかったようですね。
20周年というタイミングにはこだわっていたようですが…」
一方、明菜はツアー後のレコーディングも気になっていたようだ。
「20周年という意味合いもあったのでしょうが、実は自らのヒット曲の数々を新しいアレンジでレコーディングし直したアルバムを出したいと思っていた。
明菜にとっては集大成というべきアルバムです。
「歌姫」を実証する作品集を出したいと思っていたのだと思います」
(前出の音楽関係者) (芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)
■ 中森明菜(なかもり・あきな)
1965年7月13日生まれ、東京都出身。
81年、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」で合格し、
82年5月1日、シングル「スローモーション」でデビュー。
「少女A」「禁区」「北ウイング」「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE―情熱―」などヒット曲多数。
NHK紅白歌合戦には8回出場。
85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。
<記事引用>