- 前ページ
- 次ページ
最近、高校野球の7回制の話になると、SNSなどでは、かなり強い言葉が飛び交ってたりします。
「現場の声を無視するな」とか、「アンケートでも反対が多かったじゃないか」とか…
まあたしかに、それだけ聞くともっともな話にも思えます。
でも、ここで一度立ち止まって、整理して考えてみました。
そもそも、その「現場」って、誰のことなんでしょうか。
▼ アンケートの「現場」は誰だったのか
今回のアンケートは「加盟校」に対して行われたという表現になっています。
つまり回答しているのは部員ではなく、多くの場合は監督や顧問、校長など学校側の人たちのようです。
だからまず、最初に整理しておく必要があるのは、「現場」と言われているのは、野球部員ではない、つまり実際にグランドでプレーする選手たちではなく、高校野球に関わっている「大人たち」だということです。
さらに、この「大人たち」も、一枚岩ではありません。
どういうことかと言うと、学校運営の立場で部活動を見ている大人もいれば、純粋に野球指導者としてグラウンドに立っている大人もいれば、さらに、教員でありながら一方で同時に指導者でもあるという大人、がいるということになります。
つまり、同じ「大人」でも、それぞれの立場で、見ている景色が違うんだということです。
▼ 高野連が見ている高校野球
ここで押さえておかなければいけないのは、高野連の考え方で、高野連は、これまで一貫して、高校野球を「競技」よりもまず「教育」として捉えている、という点です。
勝敗やドラマよりも、安全管理、学校教育との整合性、教員の責任体制など、高校野球を「教育制度の中で成立する活動」として見ています。
だから議論の出発点がそもそも違って来るってことになるわけです。
▼ 制度側が認識している「現場」
高野連などの、いわゆる制度側が言う「現場」とは、「学校運営の現場」なんだと思います。
教員の引率負担、部活動時間の制限、安全管理、そしてなにより、学校教育全体とのバランスなどを考える大人たちです。
要するに、ここでの現場とは、「学校として運営できるか」という視点の「現場」ということになります。
▼ 7回制に批判的な側が認識している「現場」
一方で、7回制に批判的な側が言う「現場」は、グラウンド側の「現場」です。
実際にグランドレベルで選手たちと関わり、試合に直接関与し、投手の球数、試合の流れ、9回という時間の意味、勝負の緊張感、選手の心理などを、つぶさに見て、感じている大人たちです。
要するに、ここでの現場とは、「野球として成り立つか」という視点の「現場」ということになります。
さらに、これに加えて、7回制に批判的な人たちが言う「現場」には、高校野球を本気でやってきた人たちの実感を指していることもあるのだと思います。
元選手であったり、指導者であったり、保護者であったり、はたまた、高校野球ファンであったり…
こういう人たちの「現場」とは、制度でも運営でもなく、高校野球の価値そのものです。
▼ 現場という概念
つまり、制度側の言う現場は「運営の都合」であり、批判側の言う現場は「野球の本質」や「高校野球の意味」みたいな感じで、現場という概念が、微妙に違ってるということが言えると思います。
同じ「現場」という言葉なのに、指しているものが違うということです。
言葉の定義が揃わないまま議論しているから、そりゃ、話が噛み合うはずがありません。
制度の話をしている人に、競技の論理をぶつけたり、高校野球とは!みたいな感情を語ったり、競技の話をしている人に、教育制度の論理を返したり、とか。
結果として議論は深まらず、「批判のための批判」みたいなことになってるように思います。
▼ まず前提を揃える
7回制の是非については、以前も
提出された最終報告は
甲子園でやる
夏休み中にやる
ということを前提として議論した結果
であるのに、その前提を欠いた批判がされていたりしたこともありました。
今回の場合もそれと同じで、
アンケート結果は反対が多い!
現場の声を無視するな!
などと批判するよりも前に、まずその「現場とは誰なのか?」をはっきりと定義して、共有しないと、議論としては、ずっと空回りする気がしています。
以上でーす。
ミラノ・コルティナオリンピックが閉幕しました。
たくさんの日本人選手が大活躍し、メダルラッシュに沸いた今回のオリンピックで、感動のシーンも数多くありました。
そんな中で、僕がものすごく印象に残ったシーンがあります。
それは、日本人選手が金メダルを取った場面ではなく、逆にメダルを逃した選手が、競技を終えた後、深々とその競技場に頭を下げる姿でした。

高木美帆選手
テレビに映ったその姿を見て、僕は思わず、涙が出てきました。
いちばん金メダルを取りたかったレースで、それが叶わず、でもそのレースを終えたあと、静かに、きちんと、リンクへ頭を下げて、去っていく高木美帆選手。
誰に見せるでもなく、誰かに言われたわけでもなく、ただただ自然に、一礼する。
ああ、きれいだな、美しいな、と思いました。
▼ グラントに挨拶するかしないか論争
最近、少年野球の世界では「グラウンドに礼をするかどうか」という議論をよく見かけます。
礼は必要なのか。やらせるのは古いのか。うちはやらせない方針です、などという声もあります。
でも正直に言えば、僕は以前からこの議論にあまり興味がありません。
僕の考えはシンプルで、やりたければやればいい、ただそれだけです。
過去のnoteにもそう書いたことがあります。
礼を強制する必要はないし、やらないからといって非難するものでもない。
形そのものに価値があるとは、僕は思っていません。
ただ一方で、あの高木選手の一礼を見たとき、やっぱりいいなと思ったんです。
あれは「やらされている礼」じゃないし、「正しい作法」でもない。
きっと、自分が全力で戦った場所に対して、自然と出てきた感情なんだと思います。
自分を支えてくれた場所、練習してきた時間、整備してくれる人、支えてくれる仲間、などなど…
その全部が、あのリンクの上にある。
だから、ほんの少し頭を下げる。
それだけのこと。
でも、それがとても美しく見えました。
僕は、礼を教えたいわけじゃありませんし、礼をさせたいわけでもありません。
ただ、そういう気持ちが自然に生まれる人を育てたいと思っています。
そういう選手に、そういう人になって欲しいと思っています。
ありがたいと思えること。
当たり前を当たり前と思わないこと。
道具も場所も人も、大事にできること。
そういう感覚を持っていれば、礼なんて教えなくても、必要なときに自然に出るのだと思います。
ありがたいことに、うちの息子も娘も、グラウンドに入るとき、出るとき、特に言われなくても頭を下げています。
僕はやれとは言っていません。
でもきっと、彼も彼女も、自分なりに、なにか感じているものがあるのだと思います。
それで十分です。
少年野球の大人たちが議論するべきなのは、礼をするかしないかじゃなくて、
どうしたらそういう感覚が自然に育つ環境を作れるのか
そこなんじゃないかなと思います。
礼を強制すれば、形だけが残るし、礼を否定すれば、感謝のきっかけを失います。
そのどちらでもなく、自然に頭が下がる選手を育てる。
それが一番いい形なんじゃないかと思います。
昭和の親父と言われるかもしれませんが、僕はやっぱり、戦った場所に静かに礼ができる人が好きです。
それは、礼儀正しいからではなく、ちゃんと何かを感じている人だと思うから、です。
静かに、そっと、リンクに頭を下げる
高木選手のあの姿を見て、あらためて、そんなことを思いました。
以上でーす。
先日、我が家の野球の娘が軽自動車をはじめて所有することになり、自動車保険を契約しました。
彼女は初心者、若い、当然、事故リスクは高い。
というわけなので1年目は「少し手厚めにしておこう」という判断をしまして、車両保険も付けた、
いわゆる「守り寄り」の内容にしました。
ここまでは、よくある話です。
▼ 保険をどう使うか?
「でも、ちょっと擦ったらどうする?」
契約内容を確認している中で、ふと、こんな疑問が湧きました。
仮に、1年目にちょっと擦って、修理代が3万円だったら、どうする?
娘は社会人1年目。
給料も高くない。
3万円の手出しは、正直かなりキツい。
だから「保険を使う」という判断になるのが自然だと思うんですよね。
そのために保険に入ってるわけだし。
でも…
そこで保険を使うと、等級が下がって、2年目以降の保険料が上がるってことになります。
数年トータルで見ると、3万円以上、下手をすると5万、6万と余計に払うことになる計算…
……ん?
それって、保険の意味、なくない?と、はたと考えたわけです。
▼ 僕は、ずっと勘違いしていた「保険」
正直に言うと、僕は長年、自動車保険をこう理解していました。
「何かあった時のためのもの」
「だから、何かあったら使うもの」
でも、等級制度を前にすると、この考え方はどうにも噛み合いません。
使うと損、みたいになるし、使わない方が得か?なんてことも思ったりするわけです。
じゃあ、何のための保険なんだろう?ってなるわけですよね。
▼ ようやく気づいた保険の本質
僕なりに考えて、整理して、ようやく腑に落ちたのが、この「境界線」です。
数万円の修理代
→ 工夫すれば何とかなる
数十万〜数百万
→ 家計が壊れる
人身事故
→ 人生が壊れる
この境界線を守るのが、保険なんだと思います。
そう考えた瞬間、今までの違和感が一気に消えました。
▼ 保険は「損を防ぐ道具」じゃない
自動車保険は、小さな出費をゼロにするための仕組みじゃないんですよね。
そうではなくて、家計や人生が一発で吹き飛ぶような事態を、防ぐための装置です。
だから、例えば、3万円の擦り傷なら、痛いけど自腹を切る。
50万円とか100万円なら、保険を使うことを検討する。
対人・対物事故なら、迷わず保険。
こういう使い分けが前提として組み込まれているのだと思います。
等級制度も、「使うな」という意地悪ではなく、使いどころを考えさせる仕組みなんだと思います。
▼ 1年目に手厚くした理由
それでも、娘の1年目は免責0円の車両保険にしました。
理由は単純です。
事故直後は、人は冷静じゃいられません。
相手は?修理額は?警察?保険会社?
そのときに
「とりあえず保険で受けられる」という選択肢がある安心感は、初心者には必要だと思ったからです。
慣れてきたら、2年目以降に少しずつ削ればいいですしね。
まとめると
たぶん、多くの人が
自動車保険を「使うと損なもの」と感じていると思います。
でもそれは、保険の本質を知らないからじゃなくて、誰もちゃんと説明してくれなかったからなんだと思います。
僕自身、娘の自動車保険を契約して、はじめて理解しました。
保険は、損得を競うためのものじゃなくて、人生を壊さないための、最後の防波堤です。
そう思えるようになっただけで、自動車保険との付き合い方が、ずいぶん変わりました。
以上でーす。
ちょっと気になるニュースがありました。
この春のセンバツ出場が決まっている高校の野球部員が、授業中の校則違反により学校から謹慎処分を受けた、ということです。
まあ、ここまでは、学校生活の中で起こり得る出来事として理解できます。
ただ、その後の流れが気になりました。
どういうことかと言うと、学校はこの件を高野連に報告し、高野連はその件を審査し、結果、その選手に出場資格停止処分を下しました。
期間は3月19日から1ヶ月なので、つまりセンバツには出られませんってことになるようです。
僕がこの件の何が気になるのかって、処分そのものより、仕組みの方に引っかかるんです。
▼ 二重の処分になってる
法律の世界には「一事不再理」とか「二重処罰の禁止」いう原則があるそうなんですよね。
少し意味合いは違うのですが、要するに、確定した判決について再度の心理はしない、一つの行為について再び処罰を重ねるべきではない、という考え方です。
もちろん学校と、高野連という大会主催者は別組織ですし、この法律の原則をそのままそこに当てはめる話ではないとは思います。
それでも、なんか、今回のようなケースを見ると、どうしてもモヤってしまうんですよね。
校則違反があって、学校は教育機関としてきちんと判断して、謹慎処分を下しました。
これは学校の責任として当然の対応です。
その上で、大会側の高野連が確認すること自体は理解できます。
学校が問題をどう扱ったのかを見るのは必要だと思います。
ただ、その学校の下した処分が社会通念上相当なものであるなら、さらに大会側が追加の資格停止などの処分を科す必要は本当にあるんですかね。
高校野球は教育の延長だと言われます。
だとすれば本来は、どんな失敗をしたかよりも、その後その選手がその失敗とどう向き合ったかを見る場であってもいいのではないかと思うのです。
つまり、学校が指導し、本人が反省し、チームに戻る。
それもまた教育の一つの形なんじゃないかなと思ったりします。
学校が責任を持って指導し、本人が反省していて、それでもなお大会から排除するのだとすれば、
それは教育というより、制度の硬直ということも言えるのかもしれないです。
僕は、高校野球をやってきた子供を持つ親の一人として、どうしても
もし自分の子どもだったら…
と、思ってしまうんです。
毎日グラウンドに行き、仲間と声を出し、勝っても負けても帰ってくる。
その積み重ねの先にある大会に、制度の重なり方によって出られなくなる。
そりゃ、校則違反をやったことは許されることではありません。
ルールが必要なことも分かります。
公平性が大切なことも分かります。
それでも、処分の重さ、ということではなく、処分の重なり方、について、もう少し考えてもいいし、議論していいのではないかと思いました。
野球の前に、人であれ。
それは確かに大事だし、僕も常々、息子にも娘にも言ってきたことです。
ただねぇ…
高校生という「生き物」を育てた経験として思うのは、彼、彼女は、人であると同時に、やっぱりまだまだ高校生、という存在でもあります。
そしてその高校生をどう導くのかは、当然ですが、大人なんですよね。
だから、それに関わる大人が、今回のような件について、制度としてどうあるべきなのか?を、一度、ちゃんと考えて、相応しい制度を作る必要があるのではないかと、強く思いました。
以上でーす。