ベネズエラのマドゥロ大統領がアメリカ軍によって拘束?!のニュースが、先日から飛び交っています。
恥ずかしながら、世界情勢に極めて疎い僕としては、

え?なに?なに?どうしたの?

って感じでありまして…
はい。
例によって、にわか勉強してみました。

あくまでも「僕調べ」の結果なのですが、僕が感じたこととしては、

ベネズエラの独裁者が突然暴走した話でもなく、また、アメリカが急にキレた話でもない

ということでした。


▼ まずはチャベス大統領という存在

話はまず、ウゴ・チャベス大統領という人から始まります。

僕は知らなかったんですが、ベネズエラは世界有数の産油国ということらしいんですね。
そうなんだけど、でも国民は貧しい、という状態だったんだそうです。
石油の儲けた富は一部の富裕層だけが享受しているという、そんな国。
ここに登場したのか、チャベス大統領。
チャベス大統領は、

石油は国民のものだ!

と言って、石油産業の国有化をしたり、石油マネーを貧困層へ配布したり、その他にも、医療と教育を無償化したりしたんだそうです。
で、ベネズエラ国民の生活は、実際に良くなったんだそうです。

だからチャベス大統領は、独裁者というより、国民から圧倒的に支持されたカリスマ、という存在でした。

▼ チャベス政治の「置き土産」

ただ問題があって、それは、チャベス大統領が作った政治の仕組みです。
どういうことかと言うと、大統領権限がとても強すぎた、ということや、反対派は「敵」扱いする、とか、議会や司法がだんだん形だけになってしまった、ということがありました。
しかし、そういうことは、石油価格が高かった時代には、この危うさが見えなかったんですね。

でも、確実にこの時点で、権力が一か所に集まる構造は完成していた、ということは言えたわけです。

▼ その仕組みを引き継いだマドゥロ大統領

チャベス大統領が亡くなった後、後継者になったのが、今回、アメリカに拘束されることとなった、ニコラス・マドゥロ大統領、ということになります。

ここが大きな分かれ道となった、ということです。

なぜかと言うと、マドゥロ大統領には、チャベス大統領ほどの求心力はなかったし、経済運営の引き出しも少ない状況で、でも、権力だけは集中したまま、という状況になったからです。

例えて言うと、「ブレーキのない車を、そのまま引き継いだ」という状態、になってしまったわけです。

▼ 石油価格の下落が追い打ちに

その上で考えてみると、ベネズエラ経済というのは、「完全な石油一本足打法」なわけです。

原油価格が高い間は、何とかなっているように見えました。

でも、世界的な石油価格の下落が始まるとどうなったか…

国家収入が激減し、輸入に頼っていた食料・医薬品が買えない状況になり、社会保障制度も維持できないということに陥ってしまい、一気に詰みます。

▼ ハイパーインフレが起きる

こういう状況において、マドゥロ政権が選んだのが、お金を刷って乗り切るという方法、です。

結果、どうなったかと言うと、給料をもらってもすぐ価値が下がり、物の値札が毎日変わり、スーパーの棚が空になるという状況です。

教科書レベルのハイパーインフレが起きました。

国民は生活できず、何百万人も国外へ流出する事態となりました。

▼ 決定打が、「選挙」

そんな最悪の状況の中で、マドゥロ大統領が決定的に信用を失ったのが、選挙のやり方です。
マドゥロ大統領は、大統領選挙をするにあたって、反政府候補の立候補排除したり、選挙管理機関の政権寄り運営をしたりしたので、選挙の結果に対して、国内外から強い疑念が沸くという事態となりました。

要するに、勝つ前提の選挙をやったのではないかと。

これを境に、「これはもう民主主義じゃないだろう」という評価が、国際的に固まったというわけです。

▼ 対照的な存在のマリア・コリナ・マチャド氏です

こうした中で、反政府側の象徴的存在として注目されたのがマリア・コリナ・マチャド氏です。
マチャド氏は、マドゥロ政権を正面から批判した上、不正選挙を明確に問題視して、民主主義の回復を訴え続けました。
一方で、国内では政治活動を制限され、選挙から排除されるという扱いを受けることとなります。

▼ アメリカは「国家元首扱い」をやめた

そんなわけだから、アメリカは、不正選挙、民主主義の破壊、汚職や犯罪への関与疑惑、などということを理由に、マドゥロ大統領をベネズエラの国家元首とは認めず、訴追・制裁の対象にしました。
その他にも、薬物組織との関係などもあるようで、アメリカとしては、もはや普通の大統領として扱わない、というわけです。

▼ まとめ

まとめると、ベネズエラの今は、

・チャベス大統領の成功と副作用
・石油依存という構造の問題
・マドゥロ政権による権力集中
・不正選挙で決定的に失われた正当性

この延長線上にあるようです。

つまりこれは、「変な国の変な話」じゃなくて、正義から始まった国が、チェックを失うとどうなるかという、わりと普遍的な話なんたなぁ、というのが僕の印象です。

というわけで、ベネズエラに関するにわか勉強でしたが、この他にも、石油の利権が絡んだりもしてるし、アメリカの行動が、国際法的に許されるのか?という問題も大いにあって、今後の展開も、ぜひ注目していきたいと思います。


以上でーす

元日から昨日まで、投稿を休んでいたので、今回が今年最初の投稿となります。

改めまして


明けましておめでとうございます。

本年も、この


はらさんのミーティング始まるよ


を、よろしくお願いします。

というわけで、本年の初投稿ですが、今回は、


年の初めに


ということで、ツラツラと考えたことを書いてみようと思います。



▼ いよいよ女房と2人の生活に


5年前に、長男が大学進学と同時に家を出て、2年前に、娘の1人がまた、大学進学のため、家を出て、そして今年、もう1人の娘が、短大を卒業し、就職をするので、間もなく、家を出ることになります。

これで我が家の子供、3人とも、僕ら夫婦の元を巣立って行くということになりました。

最後まで残っていた娘がいなくなるのは、これまでの2度よりも、なんかとても、すごく寂しく感じています。

彼女が新たなステージでの生活を始めるのは、2月初旬です。

寂しい反面、頼もしくも感じるし、楽しみでもあるし、少し、肩の荷が降りた気もするし、まだあと1人は大学生ですが、我が子を社会に送り出したという達成感みたいなものを感じたりもしています。


これからは女房と2人、僕らにとってもまた、新たなステージが始まります。



▼ 今年やりたいこと


こうやって、我が子3人ともが、巣立って行ったわけでして、そういう中で、僕が今年やりたいことは、


3人それぞれのところに行く


ということです。


息子は、野球やってるので、彼のお世話になっているチームの試合を、今年は1試合でも良いから、観に行きたいなぁと思います。

まだ、彼が社会人として野球をやっているところを見たことないので、今年はぜひ、観に行きたいなぁと思います。

今年は、全日本クラブチーム選手権の、準決勝、決勝が、東京ドーム、ということなので、願わくば、そこで観たいよなぁ…

なーんてね。


それから、今回の件短大を卒業し、社会人となると娘も、野球を続ける予定なので、観に行きたいなぁ。

彼女のお世話になるチームは、関西のラッキーリーグという女子野球リーグの所属なので、タイガースウーマンと対戦すると思うんですよね。

タイガース戦、観に行けたら良いなぁ。


そして、もう1人の娘。

彼女はまだ大学生。

大学は大学なんだけど、遠〜い大学に行っていて、今年の夏からは、さらに、遠〜い遠〜い大学に行くんだよなぁ。

その、遠〜い遠〜いところに、行きたいけどなぁ。


そんなこんなで、2026年。

僕にとっては、子供たちがいない、という新たなステージが始まるわけでして、そんな年の初めに、ツラツラと思ったことでした。


以上でーす。






なんとか年内に読み終えることができました。

津島稜さんの

封印 警官汚職

画像
430ページの本ですが一気読み間違いなし


平成22年が初版発行、なので、ちょっと古い本になりますが、めちゃくちゃ面白い小説でした。

題材としては、さらに前の、昭和57年に起きた警察による機汚職事件なので、小説の中身からは、昭和の匂いがプンプンとしてきて、懐かしい感慨に浸りながら読み進めました。
魂、とか、根性、とか、仕事にそういうことが求められ、そういうことを誇りにしていた時代ですね。

当時、実際に新聞記者をしていた著者さんの、実体験を基に、フィクションを交えながら、およそノンフィクションで書かれた内容です。

▼ あらすじは…

ある日、ある新聞社の当直電話に、匿名の電話がかかってきます。

警察官が賄賂を受け取ってる

電話を受けた新聞記者さんは、その情報を、懇意にしていた検察庁の刑事部長に持っていきます。

そこから検察の内偵捜査が始まり、ジワジワと事件の概要が明らかになっていきます。
検察と警察の関係上、いつかの時点で警察に捜査状況を伝えないといけませんが、じゃあ、いつの時点か?そして伝える内容はどこまでにするか?

検察庁上層部と、警察上層部の腹の探り合い、駆け引き。
事件の着手時期をめぐる、報道機関のスクープ合戦。
捜査機関と報道機関の関係から、書きたい記事を書けない新聞記者。

最終的に、2名の自殺者を出すまでの社会的な騒ぎとなる中で、捜査は終結します。

警察とは?
検察庁とは?
報道機関とは?
記者とは?

昭和の時代が舞台になっているからこそ、心にグサッと刺さる、とても良い小説でした。

以上でーす。

年末になると、SNSによくに流れてくる、社会人野球選手の「勇退しました」などという投稿、という話を前回書きました。
前回は「なぜ年末に多いのか?」について、僕なりに調べた結果、僕なりに納得したことを書きましたけど、そこからさらに進んで、もうひとつ気になることが出てきました。

それは、企業チームは、年末に「勇退」の話が多い一方で、クラブチームの選手においては、年末だからって、勇退の話はあまり聞かない感じがしていて、企業チームとクラブチームで「勇退」の意味合いって違うのだろうか?ってことです。

というわけで、気になって少し調べて整理してみたわけですが、これが思った以上に「違う世界」の話でしたので、書いていこうと思います。

▼ 企業チームの勇退は、「組織の中の節目」

まず企業チームの場合ですが、ここには明確な前提があります。
どういうことかと言うと、企業チームの場合、選手は「野球選手」なんだけど、同時に「会社の社員」でもあるわけですね。
だから勇退は、ただの「野球の区切り」ではなく、チームの編成とか、会社の人事の回しの中でとか、はたまた、来年度の組織計画とか、こうした 企業の論理の中で起きる出来事 なんだということです。

シーズンは秋で一区切りで、そこから編成や人事の検討が進むわけです。
だから結果として年末から年度替わり前にかけて、発表がまとまる。

「勇退」が並ぶのは偶然もはなく、企業のサイクルにきっちり噛み合っている現象なんですね。

そして面白いのは、
勇退=人生の引退ではないということだ思います。
勇退とは、社業へ本格シフトすることだったり、指導側へ回ることだったり、部署異動だったり、今後はOBスタッフとして関与するだったり…

つまり企業チームの勇退は、「野球から去る」というより、「会社の中での役割を切り替える」そんなニュアンスの強い節目なんだと思います。

▼ クラブチームの勇退は、「生活の中の選択」

一方でクラブチーム。

こちらは世界観がまったく違うようです。

まず選手は「仕事のある社会人」です。
その上で「野球を続ける人」ということになります。

そういうわけなので、クラブチームの選手の勇退は、仕事が忙しくなる、とか、家族との時間を大事に、とか、体力や怪我、とか、自分の気持ちの維持が困難、とか、生活リズムとして継続できない、とか、こうした 「人生側の事情」が、主役 になるんだと思います。

だからタイミングも企業チームほど固定されません。
年末に集中するわけでもなく、それぞれの生活の波に合わせて静かに決まっていく、というもの。
それを見ていると、

競技人生の整理より、自分の暮らしの選択

そんな言葉の方がしっくりくるのではないかなぁと思います。

しかもクラブの場合は、他のクラブへ移籍したり、仕事が落ち着いたら復帰したり、別カテゴリーで野球を続ける、などといった「戻れる余地」が残されていることも多いということも言えると思います。
だからどこか「柔らかい勇退カップなんですよね。

▼ 同じ「勇退」でも世界が違う

こうして整理してみると、こういう違いが浮かび上がってきます。

企業チームの勇退は
「組織のサイクルの中で迎える節目」

クラブチームの勇退は
「人生のバランスの中で選ぶ区切り」

同じ「勇退しました」という言葉でも、そこに乗っている重さや背景はまったく違うんだなって思います。

それでも共通しているものがひとつあって、それは

どちらも

ここまで全力で野球をやってきた人の、ひとつの到達点

だということです。

年末やシーズンの終わりに流れる勇退の投稿は、
ただの報告じゃなくて、その人の人生のひとつの物語の区切りなんだと思います。

そしてまた、新しい背番号がグラウンドに立つ。
社会人野球って、そういう終わりと始まりが
毎年静かに入れ替わっていく世界なんですよね。

なんてことを思った、今年の年末でした。

以上でーす。

年末が近づくと、SNSなどに社会人野球選手の

「勇退しました」とか「ユニフォームを脱ぎます」

のような、そんな報告が一気に増えるように感じるんですよね。

社会人野球を真剣に見出してから間もない僕としては、

「え、そんなに一斉に辞めるものなの?」
「なんだか“人材整理”みたいで少し寂しいなあ…」

ということを感じたし、なんか不思議だなぁなんてことも思っていました。
たまたま、そういう情報が、僕のタイムラインに流れてくるだけなのかなとも思ったりもしました。
で、例によって、気になったからちょっと調べてみることにしました。
分かったことは、これは、単に「なんとなく集まっている」のではなくて、社会人野球界のちゃんとした「仕組み」と「現実」の中で起きている現象だということです。


▼ シーズンが「秋で終わる」競技だから

社会人野球の1年は、ざっくり言えばこうです。

夏:都市対抗野球
秋:日本選手権
そこまで終わる と→ チームとして一区切り

つまり、プロ野球みたいに、日本シリーズが11月にあって、契約更改が12月、という世界とは違って、社会人野球は「秋で競技の一年サイクルが終わる」というわけです。
そうして、そこで一区切りがつくと、チームは次のシーズンの編成に入るんですね。
その判断がまとまってくるのが、だいたい年末になるということです。

だからこの、年末のタイミングで、

続ける人
新人を迎える枠

そして、ユニフォームを脱ぐ人

という、チーム内の整理が一気に表に出てくるわけです。

▼ 選手=社員。という現実

もうひとつ大きいのは、社会人野球の選手は 「野球選手」であると同時に「会社員”」だという現実です。

会社には会社の事情があります。
人事サイクルもあるし、適材適所の配属というのもあるし、会社の予算も関係してくるし、部署部署の組織としての優先順位ということもあるでしょう。
それらが動くのが、日本企業では 年度末である3月に向かって流れているということです。

だから、秋にシーズンが終わると、チームで今後を検討するし、会社としても来年度の人員計画を考えるということがあり、その結果、年末〜年明けに「勇退」として形になるという、とても企業的で、でも現実的な流れの中にあるわけです。


▼ 人材整理なのか?

じゃあこれは、いわゆる「リストラ」と言われるようなものなのか?というと、答えはたぶん 「半分YESで、半分NO」 なんじゃないかなというのが僕の感じるところです。

確かに、

若手が入ってくる
チームとしての競争力を維持したい
役割が減っていくベテランが出る

という面もあるので、そういう「入れ替え」の側面はあると思います。

でも同時に、選手自身が、
社業に専念したい
家庭の事情
体力の限界
など、自分自身の区切りとして、自分で決めるという、そんな 「本人の選択」 がちゃんと存在している世界でもあるようです。

そして、「勇退」とか「卒業」とか、という言葉が示すように、多くのケースは「終わらされた」というのてめはなく、自分で

節目として区切る

という、社会人としての選択をしたのだということです。

▼ ちゃんと「年末に増える理由がある」

年末に勇退報告が並ぶと、どうしても少し寂しさが先に来ていました。

でも調べてみると、
競技としての区切り
であり、
会社としてのサイクル
であり、
チーム編成の現実
であり、
選手個人の人生
であり…

それらが重なるタイミングが、たまたま「年末」だっただけなんですよね。

だから、タイムラインに流れる「勇退」の文字は、
どこか切なくて、でもちゃんと

前に進むための節目

なんだと思いました。

来年、また新しい背番号がグラウンドに立つ。
そして、勇退した選手たちは、違う形で社会人野球や会社、そして人生を歩んでいく。

そう考えると、年末のタイムラインが少しだけ温かく見えてくるなぁ、なんて思うようになりました。

以上でーす。