その時は来た。
僕らの目の前に能管を吹く能面をつけた人が現れたのだ。恐怖で歯が鳴る。脂汗が額に垂れる。ぴたりと笛の音が止んだ。そして能面がニヤリと笑った。
声にならない叫びが身体中を駆け巡る。気付けば部長もビビリも他の部員もいなくなっていた。ここにいるのは僕と、例の人だけだ。頭の中が真っ白になる。慌てて僕はお辞儀をした。お化けにだって最低限の礼儀は必要な筈だ、と頭の奥の方で声がした気がする。肝を据えて頭を上げると驚いたことに例の人も頭を下げたのだ。そこで僕は声をかけてみることにした。
「こ、んばんは......あの、僕は、新聞部の坂田、竜と言います。や、夜分に恐れいりま...す」
これが精一杯だった。なんて言ったって恐怖で頭が働かないのだ。恐らく相手は幽霊なのだから。するとまた驚いたことに例の人は軽く会釈し話し出した。
「今晩は、坂田さん。私に話し掛けて下さいましたのは貴方で二人目です。有難う。」
柔らかな優しい声だった。僕を包むようなその声は先ほどまでの恐怖を消し去った。
「ありがとうだなんて、とんでもないです。でも僕が二人目ってことは過去に誰かがここに来たっていうことですよね?」
「ええ、そうですよ。大分前のことですが、貴方の様な男性の方が此処に来て下さいました。彼は私と色々な話をしてくれました。学校のことや家庭のこと、今のこのお国のことも。けれどある日を境に彼は姿を消して仕舞ったのです。」
能面がこんなに美しいことを僕は知らなかった。彼女は寂しかったのだろう。僕が話し相手になることを了承した瞬間に堰を切ったように語り始めた。
「私は毎晩、彼を捜しました。けれども一向に彼の姿は見えないのです。身も心も引き裂かれる思いでした。今も彼を忘れる事は出来ません。」
「あの、貴女はいつからここにいるんですか?後その男の人の特徴とか、わかったら僕、捜す手伝いしますよ?」
彼女は淋しそうに少し俯き、こう言った。
「私は...気付いたら此処に居ました。面を被って、笛を持ったこの姿で。ですから『いつから』に対する明確な答えは分かりません。彼は、そうですね、恐らくこの学校の生徒だったと思います。彼は大変美しく小鼓を叩いておりました。」
「さっき、今の国のことを話してたっておっしゃいましたよね?具体的な話は覚えていますか?」
「たしか戦がある、と。天狗の国と揉めたそうで。」
「あの、B29とか言ってませんでしたか?」
「聞いた事がある様な気がします。」
恐らくその男性は太平洋戦争の頃学生だった人だろう。そうなると学徒出陣で戦場に出たと考えるのが妥当だ。もし生きて帰ってきたとしても、今現在健康で生きているとは限らない...
「申し訳ありませんが、その方は戦に出てしまったのではないかと、思います...」
「矢張り、そうでしたか。」
彼女はそう言うと笛を吹き始めた。孤独な音色...僕は彼女の側に一人の男性の姿を見た気がした。音は辺りを震わせ、空へと登って行った。
嗚呼、彼女とあの男性は繋がっているんだな。漠然と、そう感じた。彼女はきっと『彼』に出会えるまで永遠と彷徨い続けるのだろう。淋しげな笛の音を奏でながら。