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亘理郡在住の『K』による手記

人によってはショックな内容ですので苦手な方はご退席ください。

ですが、事実を知るという事も大切です。

全文見るかどうかは自己責任でお願いします。

以下全文転載。

http://blog.goo.ne.jp/paddy1004/c/2264dd125488597097bb7debcfcb9e0d

2011年03月25日 11時49分30秒 | 亘理郡在住の『K』による手記
コレは私の友人『独楽』氏に送られて来た彼の友人の手記です
以下独楽氏の文面途中からそのまま転載します


届いたメールを公開しようと思う。
このポスト内で一気に公開します。(文字数制限にひっかかるかな?)

悩んだけど、、彼の意向でもある公開です。
相当な長文ですが、良かったら読んでください。
因みに彼はスポーツインストラクターでありながら、文筆活動もしています。(していました。かな?)
一句一文の表現が大袈裟(K!ゴメンな!)に感じられるかもしれませんが、彼が目の当たりにしている事実を、彼が文体表現として“伝えよう”としているものなのでご理解ください。

別に何かを煽るつもりは毛頭ありません。
余震、計画停電、原発に振りまわされつつも、何とか震災以前の生活リズムを取り戻しつつある関東以西ですが、これを読んだ方が何かを感じてもらえたら嬉しい。

以下、友人Kからのメールです。
俺の名前が“独楽”にしてあるのと、念のため個人名は伏せてありますが、それ以外はそのまま記します。

今からメールを6連発で送る。

あの日、

俺がどこで何をしていたか

独楽にも知って欲しいと思ったんだ。

また記録として様々な人へ転送してもらえると嬉しい

東京の小中学校では俺の手記を全校集会で使ってくれたそうだ。

事実から目を背けず、

現実にあったことを忘れないためにも。

それが亡くなった人たちの供養になるかもしれないと思った。

でも被災者には厳しすぎる現実かもしれない…


【生還】
3/11(金)午前9時。
亘理町・荒浜海水浴場。
今夏の死亡事故0を目指し、役場からの依頼で今年初のライフセービング訓練を実施。
金土日3連チャンの予定で救助要員の大学生たちと朝からブッ通しで砂浜ダッシュなどをこなし、
ヘロヘロになった15時を目前に初日の訓練を終えようとしていた。
ストレッチしながら海を見ると、海面が煮えたぎったお湯のように泡立っている。
その直後、
立ってはいられないほどの激震にみな尻餅をついた。
揺れに揺れる。
さらに揺れる。
異常な揺れが際限なく続き背骨の底から戦慄が走る。
砂浜がひび割れて段差がで始める。
ただの地震ではないと悟り防波堤まで戻るよう指示。
しかし往復18�もある浜の中腹にいたため、
かなりの距離を走らなければならない。
遠い遠い、
めまいがするほど遠い道のりを、
何度も足を取られながら、胃液が逆流するほど走りに走った。
それぞれの車で高台へ逃げるよう声を張り上げる。
続いて自分の車へ向かおうとした矢先、
海に落ちた釣り人&サーファーを発見。
消防団のにいちゃんたちは泳げないという。
仕方なく外気温が3℃の中、パンツ一丁で海へ飛び込み、重装備の釣り人から救助。
だがオッサンは完全にパニクッて鬼のような形相でつかみかかってくる。
顔面をぶん殴って大人しくさせ、
水中で立ち泳ぎをしながら肩に足を乗せて防波堤へと押し上げた。
続けて1人また1人と救助し4人目を助けようとした時、
今の今まで横にいた若者が一瞬で沖へ運ばれた。
空は墨をぶちまけたような暗黒に渦巻き、
砂浜を境に青と黒まっぷたつに割れている。
辺りは雷鳴のような轟音が鳴り響き、
信じられないほどの早さで一気に波が引いた。
見たこともないほど沖まで砂地が露出し、
魚がピョンピョンと飛び跳ねている。
アカン…
要救助者はまだ多数いたが俺だって死にたくない。
水から上がり、慌てて服を着た。
「助けてくれ!!」と泣き叫ぶ怒号と悲鳴。
悲しそうな目で俺を見つめ沖へ運ばれてゆく人々。
見なかったことにして先を急いだが…足が止まる。
くるりと振り返り、
ふたたび飛び込もうとして上着に手をかけた時、
見上げるようにそそり立つ巨大な白い壁。
俺は走った。
死に物狂いで走った。
轟音が背後に迫り来る。
波に飲みこまれる間一髪でブロック塀へ飛びつき、
すぐさま真横の電柱へ飛び移った。
上へ上へ死に物狂いで這い上がる。
足のすぐ下を怒濤の勢いで濁流がなだれ込む。
家屋を飲み込み、
松林をなぎ倒し、
電柱を引き抜き、
すべてを木端微塵に破壊しながら流れてゆく。
そこで俺が見たものは、
地球の滅亡を想わせる光景だった。
あちこちで爆発が起こり、火柱が上がる。
高圧電線が音を発てて弾け火災が多発。
ワイヤーで固定された電信柱と鉄筋の建物以外はすべてが飲み込まれた。
それから約3時間、
俺は救助が来るのを信じ、必死で電柱にしがみついていた。
横殴りに雪が吹き付ける。
歯がガチガチに鳴って噛み合わない。
上空をヘリが飛び交う。
どんなに叫ぼうとけし粒のような俺に気付いてはくれない。
握力がみるみる削り取られていく。
刻一刻と陽が沈み、
吐く息は白くなる一方。
耳はちぎれそうな激痛。
指先の感覚はとうにない。
このままここにいたら死ぬ…
俺はついに覚悟を決めた。
電柱の一番上まで上ると、高圧電線に恐る恐る触れてみた。
電流がないのを確かめて、決死の覚悟でぶら下がる。
レスキュー隊のように3本の高圧電線を伝い、
一歩、一歩、這うように次の電柱まで進む。
落ちたら引き潮の渦に飲み込まれて死ぬ。
地上20メートルの上空に猛烈な吹雪が吹きつける。
突風にあおられ何度も落ちかけながら、
果てしなく遠い次の電柱へイモ虫のようにノロノロと進む。
どんどん陽が沈んでゆく。
焦っても焦ってもなかなか先へ進まない。
何度もとまり、
何度もあきらめかけ、
叫び声を上げてまた進む。
クンダリーニ・ヨーガの火の呼吸で体の中心に炎を宿し、
完全に凍えるのを防いだがそれにも限界がある。
すっかり陽が沈んで辺りが夕闇に包まれた頃、
やっとの思いで最後の電柱へとたどり着いた。
しかし…
電線は根元からずたずたに切り裂かれていた…
この時の落胆と絶望をどう表現すればいいのか。
俺はがっくりとうなだれ、両手に顔をうずめた。
思考も体も外気温の低下とともにみるみる凍結する。
もはや万事休す。
切れるカードはみな使い切りもう打つ手はない。
眼下には目を背けたくなるような地獄絵図。
人形のような屍の山が藻屑とともに流れくる。
耳の穴に少しずつみぞれが降り積もり、
冷たいや痛いを通り越し、吹き付ける雪になぜか熱を感じる。
辺りは既に漆黒の闇。
尋常ではない暴風雪。
このままでは凍死する。
救助を期待することはもう完全にあきらめた。
頼れるのは自分だけ。
子供の頃から絶えずあった概念が今、
究極の形で試される。
喉が焼けただれんばかりに絶叫し、
すべての迷いを断ち切る。
犬や猫など置き去さられたペットの死骸、
牛、馬、豚など家畜の死骸。
そしてるいるいたる人間の遺体が浮かぶ中、
俺はうねり逆巻くどす黒い激流へ飛び込んだ。
全身に電流が走る。
さっきの冷たさなど問題にならない。
冷水をたっぷりとふくんだ衣服が水の鎧と化す。
複数の人間がしがみついているように動きを阻害し、
すさまじい水圧が俺の体を沖へ運び去ろうとする。
「ちきしょうッ!!」
「死んでたまるかコラッ!!!」
叫ぶことで自らを鼓舞し、木から木へ瓦礫から瓦礫と泳いだ。
手をかき足をかき、
墨汁のようなうねりの中を持てる技術と能力と精神力を残らず出しきり、
全身全霊をかけて泳いだ。
泳ぎ続けた。
海へ引きずり込まれる寸前防波堤の残骸にぶつかって止まる。
震える手でコンクリートをつかみ凍りつく体を引き上げた。
もう体が動かない。
朝から飲まず食わずで一体どれほどエネルギーを消費したのか…
あきらめたら死ぬ。
死んでたまるか!!
よろめきながら立ち上がり震える歩を進める。
本当に1�ずつ足を進めた。
低体温症になるのを防ぐためにまた火の呼吸をする。
しかし極度の疲労と空腹、そしてあまりに膨大な消費エネルギーに崩れ落ちる。
ずぶ濡れの体に吹き付ける氷点下の風。
足元も見えぬ漆黒の闇。
雄叫びを発して膝を立て、
渾身の力で立ち上がる。
そしてまたひきずるように震える歩を進める。
釘が飛び出した瓦礫の山にうず高く積み上がる流木が行く手をさえぎる。
海面と地面の区別がつかず何度も深みにはまり、
首まで海水につかる。
また這い上がる。
またはまる。
そんなことを嫌になるほど繰り返しているさなか、
またも地獄の底から轟音が響く。
「うそだろぅ…」
驚愕の眼差しを向けた時、
暗黒の大海から押し寄せる強大な白い壁。
逃げる間もなくやすやすと瓦礫の山を乗り越え、
津波の第二波が来襲。
今度は完全に頭から飲み込まれた。
どっちが空でどっちが大地かも分からないほどぐらんぐらんに引き回され、
巨大洗濯機へ放り込まれたようにぐるぐる回る。
あぁ……
俺はこんなことで死ぬのか…
そうか…
死ぬのか……
塩辛い暗黒の無重力世界で俺は他人事のようにそんなことを考えていた。
あきらめかけた矢先、
背中が鉄柱に激突。
何がなんだか分からぬまま上半身だけで這い上がり、
一度は完全に消えたはずの握力で鉄柱にしがみつく。
すさまじい水圧が俺の体を根こそぎ引き離しにかかる
死んでたまるか!!
死んでたまるか!!
体が真横になっても絶対に手は離さなかった。
その時、
俺は確かに声を聞いた。
誰かの声が、
「お前はまだ生きろ」
「お前にはまだやるべきことがある」
そう言っていた。
10分後、
クツもズボンもパンツも靴下もすべて流され、
下半身丸出し。
素足のまま寒風が吹き荒ぶ闇夜をとぼとぼと歩いた。
漏れた油が月光に反射し、夜行虫のようにうごめいている。
足を踏み出すたびに水面がキラキラと光る。
時間も方角も分からない。
もう自分がどこで何をしているのかも分からない。
見慣れているはずの亘理の風景はどこにもない。
気が遠くなるほど長い闇を機械仕掛けの人形のように黙々と歩いた。
そしてついに力尽きる…
完全なる電池切れだ。
がっくりと膝が折れ、
汚泥の上に崩れ落ちた。
あおむけに横たわる。
見上げれば満天の星。
ひっきりなしに流星が飛び交う。
助けてください。
助けてください。
くちびるが声にはならない声をつぶやく。
タイタニックのジャックのように、髪の毛やまつ毛がバリバリに凍りついている。
精も根も尽き果て、
静かに瞳を閉じかけた時、
瓦礫の中にゆれ動く灯りが見えた。
俺はガチガチに固まった体を無意識に引き起こし、
また1�ずつ歩いた。
もう一滴の声も出ない。
誰かが俺の体を勝手に操作しているようだ。
水産加工会社◎◎ビルの3階から薄灯りがもれている。
俺は30分以上かけて階段を這い上がった。
屋上へ逃げて助かった◎◎の社長夫妻と漁労長の3人。
時は深夜1時半。
下半身丸出しで急に現れた俺に仰天した彼らだが、
すぐリンゴをむいてくれた。
むさぼるようにかきこむ。
出された水も喉を鳴らして一気に飲み干した。
震えが止まらずぼたぼたとこぼす。
着替えと毛布をくれた。
裸の大将のようなへそより高いでかパンツ。
ラクダのももひき。
おばぁちゃんの赤い毛糸のとっくりセーター。
凍えきった体で眠ることもできなかったが、
止まらない手足の震えは、いま生きていることをありありと実感した。
朝9時からトレーニングを始めて約16時間。
それから俺は飲まず食わずぶっ通しで動き続け、
誰ひとり助けのない孤独な闘いに打ち勝った。
俺は生きて帰った。
生きて帰ったのだ。
これが3/11(金)深夜1時半、生還劇の全貌である。



【帰還後】
翌日は社長夫妻や漁労長を自衛隊のヘリに乗せ、
俺は心身共にズタボロのまま消防団の救援活動に参加。
瓦礫の中からまず息がある人を優先して捜索。
ヘリから降り立った赤十字の医療団は、
職務上しかたないとはいえ助かる者とそうでない者をわずか数秒で判断し、
容赦なく切り捨てていく。
初めて見るトリアージに戦慄とむなしさを覚えながらも、
俺は俺のできることだけを精一杯やった。
そして数日ぶりに町中へ。
赤十字の医師によれば俺は全身89ケ所の擦過傷と刺傷。合計28針を縫った。
少し休めと1人用テントをあてがわれたが、
なぜか眠る気がしない。
風呂も入れず、歯も磨けず、限界を通り越してにおいもかゆみも麻痺している。
旅での風呂なしは最長5日。
今回はその倍以上でいくら旅なれた俺でも正直キツイ。
まして普通の人なら拷問に近いだろう。
特に避難所にいる赤ちゃんを連れたママたちは辛い。
ミルクもオムツもなく悲惨の一語に尽きる。
亘理は報道も少なく、
すべてにおいて後回しだ。
被災した夜はのどの渇きに絶えきれず、
俺は自分の尿を飲んだ。
何ら恥じることはない。
生きるのが先決だ。
自分で言うのもなんだが、
俺には一生物としての尋常ならぬ生命力があった。
それに日本一周や北中南米の旅で得た死ぬ一歩手前、限界ギリギリの過酷な体験。
日頃からの異常な運動量のトレーニング。
スポーツ・インストラクター20年選手としての経験と知識。
フツーの人がフツーに生活していたら、
まず出くわさないであろう数々の修羅場、
命のやり取り。
そうした場数を踏んできた経験が冷静さを保ち、
どう転んでも助かる見込みのない、
希望を見出だせる要素など1ミリもない状況でもパニックに陥らず済んだのだろう。
そして何より、
「死んでたまるか!!」という怨念にも似た執念。
そんなこんなをひっくるめたすべてが一つに集約し、俺の命を紡いだのだろう。
フツーの人は電柱に3時間つかまるのもムリかも知れない。
だが子どもの頃から遊んだ荒浜の海は、
原爆を投下したような焼け野原へと変わり果てた。
もはや見る影もない。
ニュースステーションや朝日新聞などマスコミ各社の取材は断った。
助けられなかった人の方が圧倒的に多いからだ。
中学の同級生たちもかなり死んだ。
津波がくる直前までともに救助活動をしていた警官や消防団の青年たちもみんな死んだ。
いとこや親戚のほとんどは一週間が過ぎた今も安否が分からない。
ヘドロをかき分けながら町へ向かう時、
木の枝からぶら下がる中年女性の遺体を見た。
深みに背中を見せて浮かぶ子ども。
瓦礫の隙間から飛び出している無数の白い手足。
あぶくま大橋では若いママがチャイルドシートに幼児を乗せたまま車ごと波に飲まれた。
戦争でもないのに数え切れないほどの遺体を見た。
俺だけがこうしてのうのうと生き残ってしまった…
他の地域がより酷いせいか亘理の遺体回収は後回しにされている。
帰還後、
奈良県から派遣されてきた自衛隊テントで初めてテレビを見た。
上手いこと遺体だけ外して映している。
車のドアをバールでこじ開け、金品を強奪する人々。
給水車を前にわずか一列の違いを巡り、
唾を飛ばして激昂する醜い大人たち。
そんな親の姿を見て途方に暮れる子ども。
俺とは仲が良かったが、
役場ではいつもは役立たずと陰口を叩かれていた××××課の★★班長は、
自分の家族を投げ打って、部下や住民のため汗をふりちぎって奔走していた。
女子職員から絶大な人気の☆☆次長は、
さっさと自分だけ山梨県へ避難してしまった。
自分のことは後回しにし、一心不乱に救助活動をする一般人の青年を見た。
両親の安否も分からぬまま不眠不休で介護する女性がいた。
生まれて初めて間近に見る地獄絵図に原発の恐怖心が拍車をかけ、
みな集団心理特有のパニック状態に陥っている。
異常に雄弁となるか一言も語らず一点を見つめている極端な違い。
報道はされてないが相馬、山元、亘理は未曾有のパニック状態だ。
他人のことなどかえりみず人を蹴落として生き抜こうとする人々。
そのおぞましき姿はもはや人間ではない。
まさか自分の町がこんなになるとは…
こうした生きるか死ぬかの修羅場にこそ、
それぞれが内包する真実の【人間】が露わとなる。
おてんとさまは見ている。
俺には御大層な宗教心などないが、
善も悪もおのれの胸にあることを知った。
自衛隊から出た豚汁と握り飯は死ぬほど美味かったが心の底から喜ぶことはできなかった。
しかし俺は天の声をハッキリと聞いたのだ。
「お前はまだ生きろ」
「おまえにはまだやるべきことがある」
と…
不思議なことに、
その声は間違いないくこの俺自身の声だった。
俺のやるべきことは何か…
今の俺には分からない。
ただ一つだけ分かっていることは、
それを探しながら生きていこうということだ。
おめおめと生き残ってしまった俺は、
彼らの分まで生きなければならない。
明日はくる。
必ずくる。
そう信じて歩いていこう。


【お願い】
今春から職場になる予定だった海辺の町は過疎地域。
銀行が一軒もない。
そのため被災当日は郵貯へ一点集中しようと、
3ケ所の銀行から現金を全ておろし、車に積んでいた。
キャッシュカードもVISAもETCも、
免許証も保険証も通帳も、
その日に限ってなぜかありとあらゆる貴重品を車内に入れていた。
そして積年の想い出が詰まった我が愛車は遥か外洋へ消え去った。
つまりほぼ全財産を失ってしまったことになる。
もうその町もない。
亘理よりはるかにひどい、壊滅状態だ。
そこでお願い。
いつか宅急便などの物流が一般人にも再開したら、
日持ちのする食品や衣類を送ってくれると嬉しい。
(カロリーメイト、水、ジャージetc~)
そして少し言いにくいが、
ほんの気持ち程度でいい。
一円でも送金してくれると生きのびる希望が持てる。
決して無理はしないで。
あくまでも出来る範囲でのお願い。
今回の被災で唯一の光は、
長らく疎遠だった人からの連絡だった。
何もかも失ってしまったが俺にはまだ命がある。
そして俺の安否を気遣ってくれた友人知人がいる。
それだけで俺は生きている価値がある。
素直にそう思えた。
この一連のメールは9日ぶりに復活した携帯で打ってる。
ガラスが散乱した自宅の部屋から発見した、
02年当時に使ってた激古の携帯を0円で再契約。
文字が、
言葉が、
津波のように沸き上がってとまらない。
洪水のように次から次へと文章が押し寄せる。
連絡が遅れてすみません。
俺は今、生きています。
2011.3.21(月)
○○○○(Kの本名)
追伸.
今は電気、ガス、水道、ライフラインすべて遮断されてる。
亘理町は復旧の目処が立ちそうもない。
車もなければ電車もない。
臨時のバスすら通れない。
だから送金されてもしばらく引き落としはできない。
今回のお願いはいつの日か復旧する日まで、
事前に送金してもらえるとありがたいという話。
頭の隅にでもとどめてもらえると助かります。
よろしくお願いいたしますm(__)m



何か今日の朝日新聞夕刊の全国版に俺の記事がチョロッと載るみたい。
手記はいずれ朝刊に載るそうだ。
友人.知人へ送ったメールが思った以上に反響が大きく、
友人の先生経由で板橋区の小学校では全校集会で読まれたそうだ。
自分だけが助かった負い目から、
最初は記事になるのもどうかと思ってたけど、
あの日、
俺がどこで何をしていたか
様々な人に知ってもらうのは亡くなった方々の供養になるかもしれないと思い直した。
でも被災者には厳しすぎる現実かも…



以下は相馬在住の先生からきたメール。

△△です。
家も家族も大丈夫です。
学校が避難所になり毎日夜8時過ぎまで働いています。
なんと夜勤もあります。
それが今日です。
多数の死者がでたことを知りました。
しかし映像には人がまったくうつってません。
(写っても困るでしょうが)
相馬の小学6年生。
40%が避難して相馬にいません。
原発のせいです。
教職員は職務上逃げ出すわけにもいきません。
しかし原発の職員も私たち教師も生身の人間です。
職務を全うし学校や児童を守るか、
自分の家族を守るか。
難しいところです。
津波直後の原発はさらに絶望的だったと思います。
津波で非常発電システムが壊れ冷却装置が全く動かなくなったからです。
つまり温度が上昇し続ける原子炉をみてるしかなかったのですから。
これをいち早く知った原発関係者、医療従事者はすぐ50�圏外へ逃げました。
これこそ亘理・山元・相馬が報道されない理由の最たる要因です。
避難所、病院を捨てて、
南相馬・浪江・富岡辺りは行方不明者の捜索は一切やってません。
1200人以上いるそうです。
すべて野ざらしです。
避難・屋内退避だからです。
ヒドイもんです。
南相馬や新地の火発はオイル漏れの修理途中で退避しました。
とにかく今回の津波は巨大すぎました。
今日初めて相馬の浜を見てきました。
避難所でのお世話で行けなかったのです。
とにかくむちゃくちゃでした。
酷かったです。
息子も連れて行きました。
K先生よく生きて戻れましたね。
K先生でなければ生きていなかったですね。
本当に凄まじい経験をされましたね。
驚きです。
ほんとは死んでんじゃないの?
生きてるつもりでいるけど・・・。
100回ぐらい死んでてもおかしくない。
うん。
こうしよう。
実際に顔をみるまで死んでることにします!
△△△△
追伸.
本日、
ともに救助活動をした若い警官の遺体が上がった。
去年の夏も一緒に盗撮犯を捕まえた□□くん。
まだ28才。
新婚で赤ちゃんが一人。
俺はのうのうとメールを打っている…
本音を言えば原発の恐怖もあるし、
友人宅へ一時避難させてもらって、
風呂に入ったり歯を磨いたり温かい料理とかを食べたいけど、
同級生や親戚の安否がワカランままでは亘理を離れるわけにいかない。
いつもソフトクリームを大盛りにしてもらってた鳥の海荘のおばちゃん。
遺体が上がった。
先週も冗談を言い合ってたばかりなのに。
これは現実なんだろうか…
荒浜に行けばおばちゃんがいて、
またソフトクリームを売っている気がしてならない。
明日を信じて歩いていこう

今更だけど大人の千羽鶴の紹介

簡単にできる大人の千羽鶴

手数料もかかりません。

大人の千羽鶴

コンビニ で気軽に募金「Famiポート」


今日、3羽飛ばしました。


知って欲しい女性。そして、やるべき事。

mixiの自分の日記から転載


東日本大震災の発生から3日目の13日、明らかになりつつある被害状況は拡大の一途をたどり、死者が1万人単位に及ぶとの見方も出てきた。難航する救出作業、あふれる避難所、行き届かない食料や物資。福島第1原発1号機の爆発事故で、新たに約8万人の住民が避難を余儀なくされ、想像を絶する巨大地震に襲われた被災地は、大きな不安や疲労に包まれた夜を迎えた。


 「早く逃げてください」--。街全体が津波にのみ込まれ約1万7000人の人口のうち、約1万人の安否が分からなくなっている宮城県南三陸町は、町役場が跡形もなくなるなど壊滅した。多くの町職員や警察官、消防職員が行方不明となったが、その中に津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけた女性職員がいた。


 「娘は最後まで声を振り絞ったと思う」。同町の遠藤美恵子さん(53)は、避難先の県志津川高校で涙を浮かべた。娘の未希(みき)さん(25)は町危機管理課職員。地震後も役場別館の防災対策庁舎(3階建て)に残り、無線放送を続けた。


 難を逃れた町職員(33)によると、地震から約30分後、高さ10メートル以上の津波が町役場を襲った。助かったのは10人。庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。その中に未希さんはいなかった。


 遠藤さんは「(生き残った職員から)『未希さんが流されるのを見た』という話を聞いた。もうダメだと思う」とつぶやいた。


 地震直後、遠藤さんの知人、芳賀タエ子さん(61)は「6メートル強の波があります。早く逃げてください」という未希さんの放送の声を聞きながら、携帯電話だけを持ち、着の身着のままで車で避難所の志津川高校のある高台を目指した。停電で信号が動いておらず、周辺道路は渋滞していた。高台への道路を上がる時、振り向くと渋滞の列からクラクションが鳴り響き、その背後から津波が家屋などをなぎ倒しながら追いかけてくるのが見えた。


 芳賀さんは懸命にアクセルを踏み、数十メートルの高さの高台に逃れた。車を降りて避難所の階段を上がった。遠藤さんもたまたま避難していた。


 芳賀さんは遠藤さんの手を握って言った。「娘さんの声がずっと聞こえたよ」


http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1533900&media_id=2



日本人として、人間として多くの人を救う為に津波の被害に遭われた遠藤未希さんを始めとする職員の方、消防、警察の方々を忘れたらいけない。

そして、今まさに命を懸けて原発の復旧作業にあたってる職員や自衛隊員を始め、沢山の人達の事も忘れたらいけない。


そして、被災者ではない僕らが出来る事

阪神大震災を経験した市議のブログを読んでください。

少し長いけど、とても参考になりました。

http://xdl.jp/diary/
以下引用

2011-03-13 ■ あの恐怖と屈辱は、記憶よりさらに奥に刻みつけられてしまっている。

16年前に私は被災し、実家を全焼して失いました。
それいらい、私はよほど小さな地震でも、気分が悪くなるほど怖いです。
記憶よりさらに奥のところに、あの恐怖が刻みつけられている気がします。

今回の地震は、一瞬眩暈がしたかと思いました。
でも、周りで揺れているものがあったので、それは地震だとわかりました。
吐き気を抑えなければいけないほど気持ち悪かったです。
でも、まさか、これほどのことになっているとは思いませんでした。

いらい、日々仕事に集中していても、
何か腹の底に溜まっているような気持ち悪い感覚があります。
不安なことや面倒なことを抱えているときのような。
よくよく考えたら、それは東北の地震のことだ、とわかりました。

悔しくて、悔しすぎて、記憶から消していたことが、いろいろ蘇ってきて辛いです。

ひとつは、観光気分で来た自分探しボランティアの連中のこと。

彼らは、人から感謝されることを楽しみにやってきただけでした。
だから、汚れ仕事やしんどい仕事は何かと言い訳しながらやりませんでした。
彼らで集まって楽しそうに親睦を深め合っていました。
そんな彼らに「惨めな被災者」と扱われる屈辱。
何日か経ったとき、避難所のリーダーが耐えきれずに怒鳴り散らして
彼らを追い返してくれました。
彼らがいなくなっても、彼らに受けた屈辱は消えませんでした。

ひとつは、「家が焼けただけでしょ?」と私に言った大学教授のこと。

震災後しばらく経って、避難所を少しはあけても手が足りるかなと思ったころに、
大学に試験を受けられないと説明にいくために、京都まで出向いて教授を順番に廻りました。
ある教授はこういいました。
「ペンと本があれば勉強できるわけだし、もう電車も復旧しているから、
 試験も受けに来れるはずでしょ?家が焼けたからと言って、ねぇ。。」
研究室でものを投げ散らかして軽く暴れたあと、彼に
「おまえの家が焼けてもペンと本があれば授業をするんだな?」と言って帰りました。
部屋を出たあと、暴れたのは、目の前の豚を殺したかったからではなく、
被災者以外が被災者のことを理解してくれるのではないかと期待した自分の愚かさに、
腹が立ったからだとわかりました。

記憶の中の彼らは、単なる匂いのない記号として封印されていたのですが、
他人の絶望をエンタメにすることしか考えていない無神経なテレビを見ていると、
記憶の中で彼らは解凍され、また腐臭を放つようになってしまいました。

自分が育った家がなくなったこと、
小さなころの写真が一枚もないこと、
家族がぎくしゃくして不愉快なことばかりだったこと、
大好きだった街が廃墟になってしまったこと、
そんなことは、もうなんとも思っていないのに。

   ■   ■   ■   ■

私はこの地震で何も失っていない部外者です。
そして、この地震に対して何もできない無力な素人です。
ただの「被災していない人」です。
被災していない人間に被災者の気持ちが分かるわけがないのです。
分かるわけがない相手に分かったようなことを言われたりされたりすることこそが、
相手に「被災者の気持ちなんて結局誰もわからない」を痛感させます。
とにかく、自分にできることなど何もないことを受け容れることが必要です。
「何かしよう」という気持ちが、本当に自己満足ではないのか、よくよく考えるべきです。

政府の大規模な財政出動に理解を示すこと、増税を受け容れること、
節電など、政府の呼びかけに応じて、不便を受け容れること、
被災者の苛立ちや要望をただ受け容れること、
プロが呼びかけるボランティアや募金に参加すること。
これくらいが関の山なのです。

「被災経験のあるあなたに訊きたいが、被災地に対して何かできることはないか」
と友人に訊かれたので、こう答えました。

まずは、呼ばれでもしないかぎり、絶対に被災地に行かないことです。
被災地から出ようとする人、入ろうとする支援部隊や家族で
アクセスはただでさえ大混乱ですから非常に邪魔です。
統制もとられておらず装備もなく訓練も受けていない「ボランティア」は
ただの野次馬観光客です。何の役にも立ちません。
自衛隊は、食糧から水から燃料から寝具から、全て自前で用意して出動します。
しかし、手ぶらのボランティアは、
被災者が食うべきものを食い、被災者が飲むべき水を飲み、
被災者が寝るべきところで寝るのです。
完全に現場指揮に従うのであれば、
しかも生き地獄での救援活動に耐えうる技術と精神力を備えているのであれば、
行ってこればいいと思います。

次に、要請されないかぎり何も送らないことです。
何が不足しているかもわからずに送られてくるものは、千羽鶴と同じゴミです。
「着るものがないだろう」とボロを送られても馬鹿にされたと思うだけです。
水もガスもないところにカップ麺を送られても意味ありません。
現場に何が必要かを理解しているのは現場のプロだけです。
「○が不足しているのでどこに送って欲しい」という呼びかけに応えるのであれば、
ぜひ送ればいいともいます。

そして、ぜったいにこちらから安否確認の通信をしないことです。

安否確認したいのは被災していない側です。
被災していない側が安心したいだけです。
安否確認などされても被災者には何の益もありません。
安否確認で電話することは、
通信が復旧しきっていない情況で、
被災者でない側が安心したいがために通信を使用する行為です。

要はプロに任せることです。
16年前、遠くのまちの名前が書かれた消防車やパトカー、
そしてなにより規律正しい自衛隊が来てくれたときには、
ほんとうに嬉しかったです。
彼らは、これまでに見たどんな人間より気高かったです。
彼らはプロとしての技術を持っていましたし、
彼らは私たちに感謝されることなど求めていませんでした。
被災地に必要なのは、プロだけです。

私のところで学生のころ活動をし、
そのあと陸自の士官になった女の子が、きょうから災害派遣で被災地に行きました。
彼女は、明確に被災地に必要とされている人間です。
16年前の私に、人生を日本のために使うと決意させてくれた災害派遣の自衛官として、
彼女が岩手に行くことがとても誇らしいと同時に、
無力な自分の被災地に対する気持ちは、彼女に託すことにします。

被災地の復興と、自衛隊の活躍、そして、大切な友人である自衛官の無事の帰還を、
心から祈ることだけが、無力な私にできることです。



2011-03-14 ■ それでもなにかできることを。~昨日の続編

きのう、自分のブログに書きました。

> 私はこの地震で何も失っていない部外者です。
> そして、この地震に対して何もできない無力な素人です。
> とにかく、自分にできることなど何もないことを受け容れることが必要です。
> 「何かしよう」という気持ちが、本当に自己満足ではないのか、
> よくよく考えるべきです。

大きな反響をいただいてびっくりしております。
そして、「それでも自分にできることはほんとうにないのか」
というご連絡を、遠くに住む方からいただきました。

「できること」を改めて考えました。
考えて出た結論は、
落ち着いたという雰囲気になってきたときに行動を起こすことでした。

テレビに「復興した」というニュースが散見されだしたときこそ、
動き出すべきときです。
テレビは感情に訴えかけるエンタメなので、
感動的なドラマを放送するために、「復興」を放送します。
しかし、ほんとうの復興など、そんなにすぐできるわけがないのです。
そういう報道が為されだすくらいから、
必要な物資や、必要な人的支援や、必要な資金などが明確になってくるいっぽうで、
反比例的に「助けを求めている!」という報道は減少します。
さっきまで国じゅう挙げて「力を合わせて」といっていたのに、
さらっと忘れるのです。
そういったときにこそ、小さな情報を拾って、
みんなに呼びかけてあげてください。そして応えてあげてください。

いまみたいに、テレビが連日特番をやっている情況では、
みんな「なにかしたい」と思っています。
献血に長蛇の列ができたりするのです。
それはそれで、たいへん価値のある行動だと思います。
しかし、血液もいつまでも保つわけではないので、
献血の行列がなくなりかけたときこそ献血をするべきです。

いま、自衛隊、全国の自治体の救援部隊、さらには外国からの援軍も
被災地に投入されていっています。
彼らがまずは現地入りして、救援の統制系統の下地を整えた状態であれば、
ボランティアは活きてくる可能性もあります。
ただし、彼らの指揮下に入ることが最低条件です。
テレビで「ボランティアのやる気を削がず自由に活動させるべき」
などと、”有識者”が言っていましたが、とんでもない意見です。
指揮命令系統のない大人数など、現場の復旧活動の邪魔になるだけ。
やりがいや自己満足を求めて現場入りするのは最大の迷惑です。
自分のためではなく、部隊の指揮下で日本のために自分を犠牲にできる人だけが、
「ボランティア=義勇兵」として現地入りすべきです。

では、「たったいま、ここで」できることは。

いま、私たちができることは、「呼びかけに応えること」です。
「呼びかけたい」のであれば、「呼びかけに応えよう」と呼びかけるべきです。
政府、各自治体、身元のしっかりした組織や企業の呼びかけに、積極的に応えるべきです。
YAHOO!
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日本赤十字社

なにより、いまできることは、募金を「すること」です。
(独自に街頭に立ってよびかけることではなく・詐欺が横行します)
呼びかけるとすれば、身元のしっかりしたところへの募金を呼びかけるべきです。
それくらいしかないのです。
でも、いまはそれがいちばんありがたいのです。
私たちは復興に必要な技術を持っていません。
私たちは復興に必要な訓練を受けていません。
でも、それぞれの財布から出る色のついていないお金は、
絶対に復興の邪魔になりません。

   ■   ■   ■   ■

また、この災害は、明確に国難です。
株価も下落し、甚大な経済的損失も待っています。
そして、それは国民が働いて埋めていくしかないのです。

だからこそ、被災していない人たちは、
それぞれのところで、一所懸命規律正しく働いて、税金を納めることこそ、
ほんとうに被災していないみんながやるべきことです。

日本はこれくらいでは沈まないのです。
なぜなら、私たちはまだ生きていて、きょうも規律正しく一所懸命働けるからです。
「大災害にもかかわらず暴動が起こらない・秩序が乱れない」と、
外国人たちは、日本人に対する敬意を新たにしています。
だから、首都を空襲されても、原子爆弾を投下されても、日本人は強く生きているのです。
そんな記憶はない私も、阪神大震災で被災して生きているのです。

だから。
日本人としての誇りを失わずにそれぞれの場所で強く生きることこそが、大切なのです。


以上が今村岳司市議の日記から引用です。

読んでくれた皆さんがいろいろ考えてくれたら幸いです。



最後に本当に心の底から遠藤未希さんの無事を祈ってます。


転載はご自由にどうぞ。

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