James Setouchi
2025.12.13
大江健三郎『キルプの軍団』1987~88大江健三郎全小説11 講談社2019年
(岩波『へるめす』に1987~88に連載したものに追加して完結。単行本は1988年。)
1 大江健三郎 1935(昭和10)~2023(令和5)ノーベル文学賞作家。
愛媛県喜多郡大瀬村(現内子町)に生まれる。内子高校から松山東高校に転校、伊丹十三と出会う。東大仏文科で渡辺一夫に学ぶ。在学中『死者の奢り』で東大五月祭賞。23歳で『飼育』で芥川賞。『個人的な体験』『ヒロシマ・ノート』(ルポ)『万延元年のフット・ボール』『沖縄ノート』(ルポ)『新しい人よ眼ざめよ』『静かな生活』『燃え上がる緑の木』『あいまいな日本の私』(講演集)『取り替え子』『憂い顔の童子』『水死』『晩年様式集』など。1994(平成6)年ノーベル文学賞受賞。反核・護憲運動でも知られる。
2 『キルプの軍団』1987~88
(ややネタバレ)
現代小説。語り手はオーちゃんという、作家のOの次男で、東京の私立高校の2年生。オーちゃんは叔父、叔父の知り合いの百恵さん、その周囲の人物と出会い、ある事件に巻き込まれていく。
ディケンズの『骨董屋』、ドストエフスキーの『虐げられし人びと』、旧約聖書のアブラハムとイサクの物語も援用している。「キルプ」とはディケンズの『骨董屋』に出てくる悪党の名前。ドストエスフキーはディケンズを尊敬して『虐げられし人びと』を書いた。旧約聖書では神の命令によってアブラハムは罪なき我が子イサクをはんさい(いけにえ)に捧げようとする。
オーちゃんは現代の純情な高校2年だが、彼がこの夏に出会った大人たちは、かつての革命党派の生き残りの人びとだった。そこで或る過酷な事件が起き、オーちゃんは苦しむ。オーちゃんの傷ついた心はどのようにして恢復するのか?
作家・大江健三郎はしばしば家族をモデルにして虚構を書くが、本作(もちろん虚構だろうが)では、長江古義人やアカリや吾郎といった変名ではなく、父は作家のO、長兄は光、父の妻の親は映画監督のI.M(伊丹万作のことだろう)、父の親友の音楽家はT(武満徹のことだろう)、学者はY(山口昌男のことだろう)など、ほぼ実名またはそのイニシャルで出てくる。
作品を時代順に並べると、1958年『芽むしり仔撃ち』、1967年『万延元年のフットボール』、1979年『同時代ゲーム』、1988年『キルプの軍団』出版、1990年『静かな生活』(語り手は次女)、1993~94年『燃え上がる緑の木』となる。
本作の舞台設定は恐らく1980年代。山口百恵(1970年代のアイドル)に対してオーちゃんの同級生が「レトロだ」と発言する場面がある。1960年代の左翼運動・大学紛争から10~20年経ち、時代はバブル期で、市場経済が謳歌されている。今日(2025年)から見ても、豊かな時代の印象がある。同じ大江健三郎の1960年の安保闘争当時の『セヴンティーン』も17才の高校生の語りだが、1980年代後半の『キルプの軍団』の17才の語りとは全く違う。時代の変化を作家はうまく書き込んでいる。
(登場人物)(かなりネタバレ)
僕:語り手。オーちゃん。作家のOの次男。東京の私立高校2年で、オリエンテーリング部の部長。
父:作家のO。大変な勉強家で、同時に酒飲み。「僕」にとっていささかうるさいが、優しい父でもある。
母:映画監督のI.Mの子として知られている。
長兄:光。養護学校に学んだが音楽家でもある。時々する発言が面白く、かつ正鵠を得ている。
姉:賢く、長兄の世話をよくする。
忠叔父さん:父の弟。四国の松山で暴力犯係の刑事をしている。体が大きい。ディケンズを独学で読み込んでいる。「僕」にマン・ツー・マンでディケンズを教えてくれる。
百恵さん:忠叔父さんの知り合い。サーカスの自転車乗り。アイドル歌手の百恵さんにどこか似ている。幼少時からサーカスにいて、十分な学校教育を受けていない。つまり戦後の日本の経済的繁栄とは別の所にいた人物。
タロウ:百恵さんの子ども。
原さん:百恵さんのパートナー。映画を作ろうとしている。かつてある革命党派のリーダー的存在だった。
鳩山さん:原さんの映画制作のパートナー。原さんの大学時代の友人。原さんの属していた党派と対立する党派に属していた。
石井さん:大阪の資産家。ある文化財団の人で、原さんの映画に資金を出してくれる。
森君、サッチャン:かつて原さんの属していた革命党派の人間だったとラスト近くで分かる。
高1女子:「僕」が予備校で出会う、数学のよく出来る女子。「僕」は受験勉強について考えざるを得ない。
(コメント)
前半は忠叔父さんと「僕」がディケンズの『骨董屋』の勉強をするところが長い。これは大江健三郎のスタイルで、大江はその時期勉強している作家の作品(ブレイクなど)を使いながら小説を書いていく。本作でもディケンズを使いながら小説を書いているが、読者には読みにくい。この、ディケンズの世界と「僕」の経験する世界との二重写しは必要なのか? 思うに、「僕」はディケンズの物語で学んだ世界観(人間観、人物の対立軸など)を使って、自分の経験を予測したり理解したりしようとしているということか。だが最後は、読んできた物語の世界の想定を越えた出来事が起り、「僕」は倒れて熱にうなされることになる。・・・そこから「僕」が恢復したのは、温かい家族の見守りと、長兄・光の音楽(厳密にはその音楽に作詩する作業)だった。
後半三分の一は加速して面白い。見ると、後半三分の一は書き下ろしだった。
ラスト、「僕」は考える。①原さんはもしかしたら、かつて犯した殺人の罪を引き受けて死んでいったのではないか? ②同じように自分も死んでいくのか? と。だが、①は違う、と父は筋道立てて言ってくれた。(でも②の問いは残っている。)その後、「僕」は兄の音楽に作詩する作業に夢中になり、その作業の中で「僕」は恢復していく。何かを創造・創作する作業によって救われ癒されるということは、あるだろう。この『キルプの軍団』自体が、「僕」が一連の事態を振り返って物語るものであり、「僕」にとって恢復と新生のための作業であったに違いない。将来に迷っていた「僕」だが、理系の大学に進学することを決意した。(庄司薫『赤ずきんちゃん気をつけて』では主人公は1969年の日比谷高校生で、大学進学すべきかどうか迷っていたが、『ライ麦畑』のキーバーさながら「大きくて深くてやさしい海のような男になろう」と決意、彼は恐らく改めて、自己利益のためではなく世間の風潮に合わせてでもなく、東大法学部に進学することを選ぶのではないか?)
アブラハムは罪なきイサクをはんさいに捧げたのか? 信仰や研究の立場からはいろいろに解説することができる。曰く、神はアブラハムの信仰をためした、神自身が一人子イエスを捧げることの予兆、復活の予兆、人身御供の禁止、などなど。だが、無神論の立場からは、これほどひどい話はない。では、それらをたくらんでいる神こそがキルプ(悪党)なのか、という本作に出てくる問いも出てくることになろう。
神なき時代に無神論の立場からいかなる贖罪と和解、また救いが成り立ちうるか? ディケンズの『骨董屋』では罪なき少女ネルの死によって「罪のゆるし」がもたらされる。本作では、もしかしたらタロウが死ぬのかも知れない、と思わせるが、実際には原さんが死ぬ。「僕」は大変なダメージを受ける。上記①の問いと答は明示されていないが、結論として原さんは自分が死ぬことを引き受けて、対立セクトから死者を出すことを防いだ。・・その向こうに贖罪と和解、また救いはあるのか? 殺害犯たちは逃亡しその後については描かれていない。彼らが「キルプ(悪党)の軍団なのか?彼らが仲間を殺したことを知り贖罪し和解の道へと進むのか?(誰も死なずに許し合う方がいいのだが・・少なくともそう思わせる効果は、この作品にはある。大江健三郎作品にはしばしば暴力が出てくるが、読んでいて読者がうんざりする描き方であって、読者は作品によって刺激され暴力を行うということにはならない。大江健三郎は暴力が嫌いなのだ。)
ラスト近くには、もしメンバーの作る映画で、罪なき百恵さんが死ぬことが新旧の活動家諸君の「罪のゆるし」・和解をもたらすとすると、大変酷たらしいのではないか? もし現実にそうなっていたら「僕」もまたあの事件の夜、キルプ(悪党)の軍団の一人のように自分を感じたことだろう、などと問われている。作家は、当初罪なき百恵さんの死を構想していたが、途中で変更したのかも知れない。
原さんの死について、未熟な「僕」が忠叔父さんに要らぬことを言ったから警察の動きが遅れた。その意味では「僕」は原さんの死に無関係ではない。誰しも大なり小なりこの世の悪事に意図的か否かは別として関わっている、自分もまた「キルプ(悪党)の軍団」の一人なのか? (例えば原発はダメだとわかっているがエアコンは使っている、核兵器はダメだがいわゆる米軍の核の傘の下で暮らしている、資本主義は問題だらけだがいやおうなく市場経済に加担して暮らしている、我々は一人残らず「キルプ(悪党)の軍団」の一員なのか、など・・?)今までは無自覚だった自分の罪悪(加害者性)に自覚的になることが、大人への第一歩なのかもしれない。では、何も出来ないから所詮は居直って悪に加担して生きていくしかないのか? そうではない。父は「僕」の悲観に対し、「君は百恵さんを守った」と言って「僕」を励ます。
「僕」は素直に受け取る。状況は悲観的であっても、できることはないわけではない、その人間的努力を少しでもしていくほかはない、君は良くやった、それでいい、という励ましを作家は書き込んでいると私は思う。
都会を離れた「谷間の村」でコミュニティを作る(本作では神奈川県小田原郊外あたりの山中だが)、革命党派で受けたトラウマを引きずっている人物が出てくるなど、『万延元年のフットボール』ほかの所作品に似た構図がある。『燃え上がる緑の木』につながる構図だ。