James Setouchi

2025.12.3

 

マリオ・バルガス=リョサ『緑の家』木村榮一訳 岩波文庫(上・下)  

(再読・再掲)

Mario Vargas Llosa “La casa verde”

 

1 作者 マリオ・バルガス=リョサ(1936~2025.3) ペルーのノーベル文学賞作家。

(1)ペルーのアレキパ生まれ。1958年、国立サン・マルコス大学卒業。1959年、短編集『ボスたち』でデビュー。63年、長編小説『都会と犬ども』で一躍脚光を浴びる。66年、大作『緑の家』により、ラテンアメリカ文学を代表するもっとも優れた作家の一人として内外より賛辞を受ける。1976年、40歳にして、国際ペン会長(~79年)。『ラ・カテドラルでの対話』(69年)、『パンタレオン大尉と女たち』(73年)、『世界終末戦争』(81年)などの小説のほか、エッセイ集、フローベール論、ガルシア=マルケス論などもある。(岩波文庫カバーの作者紹介から)

(2)バルガス=リョサは9歳の時ペルーのピウラの町に住んだ。そこに緑色のペンキを塗った奇妙な建物と、貧しいマンガチェリーア地区とがあった。これがこの小説の舞台の一つとなっている。またバルガス=リョサは、大学の助手時代に密林地方の調査隊に加わる。インディオの集落、サンタマリーア・デ・ニエバの町を見、伝道所の尼僧や白人のゴム商人、アグアルナ族の少女やウラクサのフムと出会う。また第二次大戦中に日本人がインディオを集めて略奪行為をしたりハーレムを作ったりしていたという話を聞く。これらがこの小説の題材となっていく。(岩波文庫、訳者・木村榮一の解説から)

 

2 『緑の家』

* ロシアのドストエフスキーを何冊か続けて読んでいたが、冬になり寒くなったので、熱帯の小説を読みたいと思い、ペルーのバルガス=リョサを思い出して、取り出して再読。面白くはあった。熱い小説。

 ドストエフスキーの世界は、神の存在や神の義をめぐり、また19世紀世界とロシアの使命をめぐり、延々と議論が繰り返され、それが面白いのだが、バルガス=リョサの本作には、それらの思弁はほとんどない。代わりに、アマゾンの密林、キリスト教伝道所、都市ピウラという異世界の対照が鮮やかで、圧倒的な自然と社会の圧力のなかを行き来しながら生きる人びとの姿が描かれる。

 

*読後感(ネタバレ含む)

 舞台はペルー奥地、アマゾン源流の密林(サンタ・マリーア・デ・ニエバには中世さながらの尼僧院がある。ほかはアマゾン川と密林とインディオの集落、また強盗団のアジトの島)と、ペルーの太平洋側の砂漠に隣接した都市・ピウラ小説の構成は複雑で、同時進行する複数のストーリーが、しかも時間の順序をバラバラにして、組み合わされて語られる。登場人物も多く、全体の構造は読みにくいが、一つ一つの話は迫力があって読ませるし、読み進むうち過去や人物相互の関係が次第に明らかになっていく。密林アマゾンの世界とピウラの町の世界とが重なって印象に残る。アマゾンのジャングルを旅して都会に帰還してきたような読後感と言うべきか。

 

 例えば、夜と言えば日本では静かなもの(最近の新宿などでは違うようだが)だが、アマゾンでは、鳥や獣たちが活発に動き騒がしい音を立てる。雨期には水があふれる。密林から都市に出てきたアンセルモやボニファシアは都市に出てもどこかで密林を引きずっている。だが今は都市が彼らの生きる現場だ。

 

 なぜ『緑の家』という題なのか。流れ者のハープ弾きドン・アンセルモはピウラの町のはずれに全体を緑で塗った娼館「緑の家」を作る。それは火事で焼けるが、残された娘ラ・チュンガは自分の「緑の家」を作る。ドン・アンセルモの持つハープの色も緑だった。魅力的な娘ボニファシアの瞳はきらりと緑色に輝く。ドン・アンセルモも、ボニファシアも、密林の出身だ。緑は、密林の色だったのだ。鮮やかな緑の印象が残る。

 

 時間をかけて人物のメモを取りながら読むことを薦める。

 

 ここで、いくつかの名辞について辞書的な説明を加えておこう。但し2025年現在のデータであり、作品当時のものではない。主に外務省のサイトによる。

 

ペルー:面積は129万平方キロ。日本の3.4倍。人口は3435万人(2023年)。民族は、、メスティソ(混血)が60%、先住民(ケチュア、アイマラ、アマゾンなど)が25%、白人系が6%、アフリカ系3.6%、その他(アジア系など)4.5%。首都はリマ。言語はスペイン語。他にケチュア語、アイマラ語など。宗教はカトリックが76%、プロテスタントが14%、その他5%、無宗教5%。1821年にスペインから独立した。ペルーは、太平洋に面し、しかしアンデス山脈が直ちにそびえ、それを東に越えるとふもとにはアマゾンの密林が広がる。国土のほぼ60%はアマゾンの密林。(なお、1960年のペルー全土の人口は1000万人弱←外務省国際協力のページ)。

 

首都リマ:人口1千万人(wiki)。アンデス山脈の西側、ペルー中部、海岸沿いにある。海岸砂漠地帯に接している。小説では話に出てくるだけで、舞台にはなっていない。

 

ピウラ:人口48万人、ピウラ県全体で人口185万人(wiki)。ペルー北方、エクアドルに近いところにある。アンデス山脈の西。砂漠に隣接。この砂漠は本作でも背景として描かれる。小説ではピウラは主要な場面の一つ。作品当時の人口規模はわからない。

 

イキートス:人口47万人(wiki)。アマゾン川上流のマラニョン川に面する。船か飛行機でしか行けない。当時の人口は不明。

 

サンタ・マリア・デ・ニエバ:アマゾナス県にある。アマゾン川沿いの奥地の村。人口2510人(2017年、データコモンによる)。小説ではカトリックの伝道所があり、現地人の教化につとめている。主要な場面の一つ。当時の人口は不明。印象では非常に小さな集落だ。

 

アグアルナ族:アマゾン奥地にいる部族。

 

ウラクサのフム:アグアルナ族の男。実在した。ウラクサは密林の中のどこかの地名だろう。バルガス=リョサはフムと出会いいろいろな情報を聞き出した、と訳者解説にある。

 

ウアンビサ族(ワンビサ族、ワンビシャ族):コトバンクによると、広く言ってヒバロ族の部族で、かつては首刈りと乾首をしたと言う。本作では戦闘的な部族であるように描かれているが、事実としてそうであるかどうかは知らない。

 

日系人フシーア:トゥシーアという日系人が実在した。第2次大戦中にブラジルからやってきて、現地のインディオを手なずけ、略奪を行ったと言われる、と訳者あとがきにある。本作のフシーアは最重要人物の一人。

 

*複数のストーリー(岩波文庫解説を参考にした)(大々的にネタバレだが、読むときの参考になる)

 

(1)日系人フシーアの物語:フシーアは有力者ドン・フリオ・レアテギと組んでゴムの密輸をしている。当時は大戦中だった。だが発覚し罪をかぶり密林の奥地の島に逃げ込む。現地のウアンビサ族を手なづけ強盗団を組織する。フム(アグアルナ族人で白人の搾取に反対しリンチを受けた)やパンターチャやニエベス(船頭)も仲間だ。だが恋人ラリータとニエベスが逃亡。足を悪くしたフシーアは老アキリーノとアマゾンを逃避行し療養所のある町へ。(以上はアマゾン川にて回想として語られる。)

 

(2)美しい娘ボニファシアの物語:ボニファシアはインディオだが、アマゾン流域のサンタ・マリーア・デ・ニエバの尼僧院で育てられ働く。尼僧院は現地インディオの娘を強制連行してキリスト教化しようとしている。ボニファシアはインディオの少女たちを逃がし、ニエベスとラリータの下に身を寄せる。そこで軍曹リトゥーマと結婚し密林を出てピウラの町へ。リトゥーマが犯罪で他所に行っているうちに娼館「緑の家」(ラ・チュンガの店)で働くようになる。

 

(3)ハープ弾きドン・アンセルモの物語:アンセルモは密林の出身だとあとでわかる。ピウラの町に来て、独力で娼館「緑の家」を建てるが、ガルシーア神父に憎まれる。不幸な娘アントニア(親が強盗団に殺され自身も盲目かつものが言えない)を愛し娘ラ・チュンガを生むが、神父の扇動した暴動により「緑の家」は破壊される。傷つき無力なハープ弾きとなったアンセルモ。娘ラ・チュンガが成長し新しい娼館「緑の家」を作るとアンセルモは仲間と楽団を作り演奏する。

 

(4)ピウラの青年リトゥーマの物語:リトゥーマはピウラのマンガチェリーア地区出身の不良(番長)だ。軍曹として密林に入りニエベスとラリータのもとでボニファシアと知り合い結婚する。だがロシアン・ルーレットで人を殺してしまいリマで収監。ピウラに戻ると妻は娼館で働いていた。ハープ弾きの老アンセルモの死の際に面倒を見る。

 

(5)ドン・フリオ・レアテギの物語:地方のボスで黒幕。レアテギは最初サンタ・マリーア・デ・ニエバの行政官だった。現地人から搾取、またゴム密輸で稼ぎ悪事はフシーアにおしつける。軍や警察を使ってフシーア一味を捉えようとする。

 

*何人かの人物に注目する。

 

 白人の女ラリータは、イキートスの出身。最初有力者ドン・フリオ・レアテギのもとで働いていたが、フシーアと一緒に逃亡、密林の中で生活する。が病気のフシーアとの関係に悩み、子どもアキリーノを連れて船頭ニエベスと逃亡。サンタ・マリア・デ・ニエバの暮らしていたが、ニエベスが逮捕され、兵士だったウアンバチャーノ(《デブ》と呼ばれた兵士)と結婚し子だくさんとなる。息子アキリーノも成長し妻を迎えるまでになった。(その後のニエベスは釈放されたがブラジルへ行ったらしい。)・・白人の女が少数の密林の中で苦労しながら生き延び最後は逞しく幸福を得ているが、関わった男性フシーアもニエベスも不幸になった、とは言える。

 

 現地人出身の女ボニファシアは、密林からさらわれ伝道所で育ち働いていたが、あるとき同じ境遇の女の子たちを逃がしてしまい伝道所を追われる。隣人ニエベスとラリータのもとで軍曹リトゥーマと結婚しピウラの町へ。しかしリトゥーマが殺人の罪で収監され、二代目娼館「緑の家」の娼婦ラ・セルバティカとなって生活。その間にホセフィノに求愛されるが、リトゥーマが帰ってきてホセフィノを追放、リトゥーマとボニファシアは夫婦に戻った。・・美しい緑の目を持つボニファシアは、密林から出てきて都市に移り住んだ女その過程でキリスト教に接し教会で式を挙げるが都会でも裸足で歩く習慣が抜けないなど、密林から出て都市に住む、密林の文化と都市の文化の双方を生きる存在だ。最初はおどおどしていたが今は夫を尻に敷いて逞しく生きている但し彼女は裁縫くらいはできるが、ピウラでは結局娼婦の仕事をする。非常に辛そうには書いていないが、本当は病気をもらうなど大変な仕事であるはずだ

 

 番長リトゥーマは、ピウラ郊外の貧民街マンガチェリーア地区出身の不良(「番長」)だったが警備隊の軍曹となりアマゾンの密林に勤務した。中尉殿を「本物の男」だと尊敬している。そこで美しいボニファシアと出会い結婚。彼女をピウラに連れてくる。飲み屋で農場主のセミナリオといさかいになりロシアン・ルーレットで相手を死なせてしまう。首都リマで収監されのちピウラに帰還したところボニファシアは娼館「緑の家」の娼婦になっていた。だがリトゥーマは故郷のマンガチェリーア、妻や仲間を愛している。・・このリトゥーマは、アマゾンと関わる白人(?)の男の一つの生き方を示している。ピウラの農場主のセミナリオイキートスの有力者のドン・フリオ・レアテギ、また警備隊の兵士たち(現地人女性を襲おうとする)が、密林の原住民への差別意識を持っているのに対し、リトゥーマは差別意識から比較的自由だ。それでも大都会ピウラでは妻に裸足で歩くことを許さない(都会のマナーを守る)など、異文化を越えて生きることの難しい点が書き込んであるとも言える

 

 日系人フシーアは最初ドン・フリオ・レアテギのもとでゴム密輸をしていたが、切り捨てられ、密林に隠れる。そこでウアンビサ族を手なずけ強盗団を結成する。仲間は白人の女ラリータ、船頭ニエベス、白人の男パンターチャ(薬物依存)、ウアンビサ族の人びとが仲間だ。アグアルナ族のウラクサのフム、年老いた船頭アキリーノも出入りする。シャプラ族の女を手元に置いたことも。だが病を得て、ラリータをニエベスに取られ、失意のうちに密林の根拠地をあとにする。船頭アキリーノのいかだでアマゾンを下り、町の療養所へ。・・ここでは、実在の日系人トゥシーアに材を取りつつ想像力でフシーアを造型している。白人でも現地人インディオでもない東洋系の人間が、白人の悪どい支配や現地人インディオの間で非常に能動的・攻撃的に生きようとし、しかし悲劇的に最後を迎えていくさまを描いている。なおモデルのトゥシーアは密林の基地に戻りなくなったということだ。対して本作のフシーアは船頭アキリーノの厚意で療養所に入れられる。

 

 ウラクサのフム:アグアルナ族のリーダー。(もしかしたらボニファシアの父親かも知れないと思わせる。)白人とゴム取引を行っていたが、白人の不正に気付き、異議申し立てに行く。拷問を受け、木から吊され半死半生になるが気概で負けなかった。日系人フシーアたちと行動を共にする。行政官のもとへ奪ったゴムを返すよう何度も何度も訴えに行く。その後フムはどうなったのか? 読み落としているかもしれない。・・フムが拷問され木に吊されているシーンは繰り返し描かれる。伝聞した作家にとって印象的だったのだろうが、作品においても重要な意味を持つと解釈すべきだろう。現地人を白人の権力者(ドン・フリオ・レアテギが背後の黒幕)たちが収奪し搾取し暴力的に抑圧していることの象徴的な例として示していると思われる

 

 ハープ弾きアンセルモは、密林の出身。ピウラの町に流れ着き、独力で郊外の砂漠の中に娼館「緑の家」を建設、賑わう。不幸な少女アントニオを略奪結婚し大切に愛するが、アントニアは子を産んで死亡。ガルシーア神父や女たちに糾弾され「緑の家」は放火で焼失。アンセルモは貧民街マンガチェリーアの住民となる。生まれた子ラ・チュンガを洗濯女フアナ・バウラが育てる。アンセルモはハープを弾いて暮らすうち、仲間と楽団を作り人気者となる。娘ラ・チュンガが成長しピウラの町はずれのスラム街に新しい「緑の家」を建て、アンセルモを引き取る。アンセルモはやがて老衰で死んでいくが、かつての敵ガルシーア神父を臨終の場に招く。・・ガルシーア神父は売春を憎み初代「緑の家」を焼き討ちし、その後もアンセルモにこだわりを持つが、アンセルモはどうやらガルシーア神父を憎んではいない、もしくは憎しみを乗り越え許したようだ。神父もまたアンセルモの態度に打たれ葬儀の司祭を務めることを承諾する。これが本作のラストに出てくる。長年の対立・わだかまりを越えた和解を作者はここに書き込んだのかもしれない。(姦淫した女を石撃つ民衆に対して、キリストが、「汝らのうち罪なき者、この女を石撃て」と言った聖書の記事を思い出す。)

 

 有力者ドン・フリオ・レアテギは、当初サンタ・マリア・デ・ニエバで行政官をしていた。その後任のドン・ファビオ・クエスタをも操る。ゴムの密輸をし、現地から搾取、悪事をフシーアにおしつけ、官憲を使ってフシーアたちを追い詰める。現地人を暴力的に虐待する。周囲の人間はその人格や道理ではなく権力と富の前にペコペコする。・・ペルーの悪徳政治家・実業家の典型として造型されているのだろう。どこに国にも(我が国にも)いそうだ。世俗権力を相対化するはずの尼僧院長やシスターたちも彼には挨拶を通す。(それでもシスターは彼に説教をし彼を怒らせる。)

 

 パンターチャは、クスコ(インカ帝国の首都)生まれ。ウカヤリ(ペルー東部)で二十年過ごす。かつてアンドレスという仲間と川で魚をとっていたが、アンドレスが水死。ユーゴスラヴィア人コーピックと杉の伐採の仕事をしていたが、ペテン師コーピックが殺人をしたのでパンターチャはコーピックを山刀で殴り殺した。麻薬中毒で、フシーアの仲間になるが恋人がいないとぼやいている。皆が逃亡したあと一人残されて官憲に捕らえられ拷問を受ける。・・パンターチャは貧しい民衆(と言うべきか?)の典型だ。彼はいやおうなく不運で悲惨な人生を生きる。このような貧しい民が多くいると思わせる。誰しもそのようになる危険性がある。

 

 ピウラの洗濯女フアナ・バウラは不幸な娘アントニアを世話し、さらにその娘ラ・チュンガを世話する。貧民街マンガチェリーア出身のアンヘリカ・メルセーデスはアンセルモの初代「緑の家」に住み込み料理をし、その後は自分の店(チチャ酒の居酒屋)を持つ。アンセルモの楽団と契約し演奏させる。アンセルモが死ぬときには自分の店で葬儀を出してやる。・・彼らは貧しい庶民の女だが、身寄りのない弱い者・困っている者への同情心を持ち助ける。このような同情心のある人びとがそこには確かに生活していると思わせる。

 

 本作はペルー社会を背景としてこれらの人物が動き回る群像劇だと言えよう。

 

 男たちの女たちへの暴力が繰り返し出てくる。兵士たちは現地人を襲い、夫は妻を殴り、権力者は無力な女を意のままにする。

 

 女たちは、それをしたたかにしのいで力強く生き延びる例もあるラリータ、ボニファシア、ラ・チュンガなどはそうだ。ラリータは子だくさんの母親、ボニファシアは最後はリトゥーマを尻に敷いている、ラ・チュンガは不幸な出生だが、成長し新「緑の家」の経営者として腕を振るう。弱い者を助ける女もある。洗濯女フアナ・バウラは不幸な少女アントニアを育て、さらにその子ラ・チュンガを育てる。料理女アンヘリカ・メルセーデスは自分の店を持つ。他方悲劇的に死んでいく女もある。不幸な少女アントニアがその代表かもしれない。両親が強盗団に殺され、目が見えず口もきけない。周囲は同情して助けてくれたが、「緑の家」のアンセルモに愛される(歪な少女愛?)が、妊娠し、出産の時に死亡してしまう。

 

 白人の現地人への差別と搾取が描かれる。現地人インディオ同士の暴力的な対立白人同士の対立も。都市と密林の違い、民族・人種による違い、出身階層による違い。言語も違う。文化が違う。しかしそれらの違いを越えていく契機が書かれていないわけではない。ボニファシア(密林の出身。現地人)とリトゥータ(都市の出身。白人と思われる)の結婚、ガルシーア神父とアンセルモの和解など。同時に、ペルー社会の課題は山積みであるだろうと思わせる。作品中の現在(1960年代か?)道路が出来古い町並みが壊されタクシーが普通に走る近代的な都市ピウラになったが、人びとは密林での生々しい記憶(懐かしくもあるが、多くは傷ついた記憶)を背負って生きている。そして、密林で過去にあったことは、現在もなお進行中であるとすれば・・・?

 

 有力者・権力者の腐敗が描かれる。ドン・フリオ・レアテギは、地位を利用してゴムを密輸し利益を得る。悪事は他の人におしつけ自分は政治経済界の有力者としてとどまる。官憲を使って人を追い詰める。周囲の人間が彼の金と権力に一目置いて頭を下げる。現地人に対して拷問・抑圧を行う黒幕だが、自分は上流階級の紳士然として過ごしている。こういう悪党はペルーだけでなく世界中にいる。今の日本にも・・?

 悪徳権力者や社会構造に対する批判、糾弾は、1960年代に盛んではあったが、その問題は現代においてすでに解決したから無効になった、とは言えない。その問いは生きている。ほら、あそこでもここでも・・・

 

 

(付言)

 誰かが言っていたが、ジグソーパズルのような小説だ。読解にはばらばらのピースを整理してつなぎ合わせる作業が必要だ。そのつなぎ合わせる作業を楽しいと考えるべきか? (私はジグソーパズルは面倒だから好きではないが、本作の場合分かったときは面白かった。だがまだ分かっていないところがある。)苦労してつなぎ合わせた果てに深い思索の世界が広がっているのか? いっそ、あらすじ紹介(例えば本ブログ)を見て予習してから読んだ方が面白く味わえるのではないか? 

 いや、あえてジグソーパズルにしたのは、作家に何か意図があったとすれば、それは何か? 人間の現在の意識と生活の中には、過去に経験してきた意識と生活が、しかし必ずしも鮮明ではなく断片的に、折り重なって蓄積している、私たちはそれを体内に蓄積し想起しながら生きている、この人生のリアルを作家は読者にイメージとして伝えたかった、ということか? わからない。