James Setouchi
2025.11.7
11月の視角
11月3日 文化の日 明治天皇誕生日 日本国憲法公布の日
戦前には天皇誕生日を「天長節(てんちょうせつ)」と言った。なお皇后陛下の誕生日は「地久節(ちきゅうせつ)」と言った。「天長地久」は『老子』にある言葉。白楽天(はくらくてん)の長詩「長恨歌(ちょうごんか)」にもある。
『老子』「天は長く地は久し。天地の能(よ)く長く且(か)つ久しき所以(ゆえん)の者は、其(そ)の自(みずか)ら生ぜざるを以(もっ)てなり。故に能(よ)く長く生きる。是(ここ)を以て聖人は、其の身を後にして身(み)先(さき)んじ、其の身を外にして身(み)存(そん)す。其の私(わたくし)無きを以てに非(あら)ずや。故に能く其の私を成す。」(『老子』7章)
白楽天「長恨歌」ラスト「天は長く地は久しきも時有りてか尽(つ)く、此の恨(うらみ)は綿(めん)々として絶ゆる期なし」・・唐の玄宗(げんそう)皇帝と楊貴妃(ようきひ)の悲恋の恨みは天地よりも長い、と強調したもの。(石川忠久の解説による。)
昔の人がいつの時代になぜ「天長節」「地久節」と命名したのかは知らない。『老子』や白楽天の悲恋の長詩から言葉をとってきたのはなぜか?
戦後はその呼称は廃止され、「天皇誕生日」「皇后誕生日」と言うようになった。明治天皇の誕生日(11月3日)は大正時代には「明治節」と呼び、戦後は「文化の日」と呼ぶようになった。なぜ「文化の日」と命名したのか? 昭和21年(1946年)11月3日に日本国憲法を公布したことにちなむそうだ。日本国憲法は自由と平和と文化を重視する憲法だからだ。
Wikipediaで恐縮だが、それによれば、山本勇造(山本有三)(作家。参院文化委員長)は次のように述べたと言う。
(1)1948年(昭和23年)6月18日の参議院文化委員会において
「憲法において、如何(いか)なる國もまだやつたことのない戰爭放棄ということを宣言した重大な日でありまして、日本としては、この日は忘れ難い日なので、是非(ぜひ)ともこの日は残したい。そうして戰爭放棄をしたということは、全く軍國主義でなくなり、又本当に平和を愛する建前から、あの宣言をしておるのでありますから、この日をそういう意味で、『自由と平和を愛し、文化をすすめる。』、そういう『文化の日』ということに我々は決めたわけなのです」
(2)同年7月4日の参議院本会議において
「十一月の三日を文化の日といたしましたのは、これは明治天皇がお生まれになった日であり、明治節の祝われた日でございますが、立法の精神から申しますと、この日は御承知のように、新憲法が公布された日でございます。そうしてこの新憲法において、世界の如何(いか)なる國も、未(いま)だ曾(かつ)て言われなかつたところの戰争放棄という重大な宣言をいたしております。これは日本國民にとつて忘れ難い日でありますと共に、國際的にも文化的意義を持つ重要な日でございます。そこで平和を図り、文化を進める意味で、この日を文化の日と名ずけたのでございます。平和の日といたしましてもよいのでありますが、それは別に講和締結(こうわていけつ)の日を予定しておるのでございますので、それを避けたのでございます」
この日を「平和の日」と名づける、また講和締結の9月3日を「平和の日」と名づけるアイデアもあったということがわかる。11月3日は市の文化センターで歌や踊りを披露してもいいが、それができるのも平和のお蔭だと改めて思いを致しながら文化センターに出かけてはどうだろうか。「明治の日」としたらまた軍国化して戦争に駆り出されるような気がして怖いですな。明治のよかった面しか見ない方はご用心。
11月11日 ポッキーの日
昭和のあるとき、三浦友和と山口百恵が恋人同士でポッキーでフェンシングをして遊んでいるCMがありましたな・・・羨(うらや)ましいことです。
でもポッキーの日は平成11年11月11日からだそうです。
11月15日 七五三
三、五、七、九(奇数)は中国の陰陽(いんよう)で陽の数でめでたいとされる。
日本では三才で髪を伸ばし始める。(それまでは剃(そ)っていた。)髪置きの儀と言う。
五才で袴着(はかまぎ)の儀をする。袴(はかま)をはき始める。江戸からは男児のみになったそうだ。
七才で女児が紐(ひも)つきの子ども着ではなく大人と同じように帯をしめ着物を着るようになる。帯解けの儀と言う。
このへんは各種サイトに書いてあるので私が言うことはない。私は次のことを言いたい。芝田圭一郎氏は「外国人から見た日本人の子育て」(『大阪城南女子短期大学研究紀要』第58巻(2023))の中で次のように紹介する。
・「ポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス・フロイス(Luís Fróis)は1563年に念願だった、日本の長崎に上陸する。そして「日本覚書(にほんおぼえがき)」という記録書を、1585年に島原半島の加津佐(現長崎県南島原市)において記している。この記録書は日本人と西洋人との比較を中心に展開されている。その中で、子どもに対して体罰・虐待を行わないこと、子ども達は寺で学習すること、日本の教育はまず書くことから学んで読みを学ぶこと、日本の子どもは10歳でも50歳と同じくらいの判断力と賢明さ、さらには思慮分別を備えているとを賞賛している。(E・ヨリッセン,1968)」
・「オランダ商館に勤めていたフィッセル(Fisscher, Johan Frederik van Overmeer)も「私は子供と親の愛こそは、日本人の特質の中に輝く二つの基本的な徳目であるといつも考えている。このことは、日本人が、生まれてからずっと、両親がすべてを子供たちに任せてしまう年齢にいたるまで、子供のために捧げ思いやりの程を見るとはっきりとわかるのである。そのような場合、すべてがちょうど返礼であるかのように、子供たちは報いるのである。(中略)日本人の性格として、子供たちの無邪気な行為に対しては寛大すぎるほど寛大であり、手で打つことなどとてもできることではないくらいである。」(フィッセル,1978)と親の子どもに対する心情に関して、感銘(かんめい)を受けている。」
・「1878年に来日し、東京から北海道まで旅行し、旅行記を記したイザベラ・バード(Isabella L.Bird,)は日光に滞在しているくだりで、「私はこれほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。(中略)子どもがいないとつまらなそうである。他人の子どもに対しても、適度に愛情をもって世話をしてやる。(中略)いくつかの理由から、彼らは男の子の方を好むが、それと同じほど女の子もかわいがり愛していることはたしかである。」(イザベラ・L・バード,2000)と日本人の子どもに対する愛情に大変、驚いている。そして「子どもたちは、私たち(欧人)の考えからすればあまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振る舞いは、人に大きな好感をいだかせる。彼らはとてもおとなしくて従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子どもに親切である。(中略)彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたりするのを見たことがない。」(同)と子どもの様子を記している。このバードが記した「日本奥地紀行」は実際に見たものをそのまま記しているので信憑性(しんぴょうせい)は高い。子どもに関する描写はこれだけではなく、秋田県白沢、青森県碇ヶ関での滞在でも同様に子どもが生き生きと遊ぶ様子、そしてそれを喜んで眺める親の様子を記している。子どもを愛し、子どもの遊ぶ姿を見ることに喜びを感じる親が、明治時代初期の日本に存在していたことになる。バードは、日本の母親が子ども達に対して非常に愛情深く、家族全体が協力して生活する姿勢に感銘を受けており、日本の家族構造に関心を寄せ、特に親子や兄弟姉妹の絆(きずな)が強いことに注目し、日本の家庭が温かく、家族が互いに支え合い、愛情をもって接している様子を描写している。他にも日本の母親が子ども達に対して非常に愛情深く、子ども達が礼儀正しく、親に尊敬の念をもって接することに感心している。また親が子ども達に道徳や社会規範を教え込む様子も触れている。そして当時の日本において女性の役割や家庭内での重要な位置にも着目し、女性たちが家庭を管理し、子ども達に教育を施す一方で、農業や手工業にも従事している様子を記録している。さらに子ども達の遊びにも言及があり、彼女は日本の子ども達が祭りや伝統的な行事に参加し、自然と調和した遊びを楽しんでいる様子も驚きとともに記録している。これらの記述からは、バードが当時の日本の子育て環境に対して好意的で、親子の絆や教育への姿勢に感心していたと考察する。(同)」
・「1877年に来日している、大森貝塚を発掘したことで有名なアメリカの博物学者、エドワード・モース(Edward Sylvester Morse)は著書の中で子ども達の生活に触れ、「人々が手をつなぎながら、一緒に歩いているのは見て気持ちがよい。大きくなった娘と、彼女のお母さんなりお祖母さんなりは、十中九まで手をつないで行く。お父さんは必ず子供と手をつなぎ、何か面白いことがあると、それが見えるように、肩の上に高くさし上げる。」(E・S・モース,1970)と親子の様子に感銘を受けている。そして、祭礼に参加している親子の様子を見て「日本はたしかに子供の天国である。そして、うれしいことには、この種の集まりのどれでも、また如何なる時にでも、大人が一緒に遊ぶ。」(同)と日本の親子の姿に対する感想を綴っている。」
・・・どうですか。これらは、当時の欧米人が必ずしも子どもを大事にしていたわけではなかったこととの比較において書いているし、他の諸点(日本でちょっとつらいこと)も書いているのだが、しかし、上記の記述は、日本人は、覚えていてもいいのではないか? 幕末くらいまでは日本の子供たちは幸せだった。(では、明治でダメになったのか? そうかもしれない。富国強兵の使い捨てコマ(いわゆる「人材」・・「人間」を「材料」にするとは・・!)にされたからな、国民は。)
もし今(令和)の親や教師が子どもに対して体罰や虐待を行っているとすれば、それはなぜなのだろうか。子どもを虐待したい親などいない。何かに追い詰められて余裕がなくなっているのではなかろうか。では親たちを追い詰める何かの正体とは何か? カネか、仕事か、ワンオペ育児か、助け手の不在か? ではどう解決すればいいのだろうか? それは本人たちの自覚や道徳だけの問題ではなく、社会政策的な方法が必要なのではないだろうか? 教師は親とは違うが、それに準じて考えることが出来るかも知れない。「勝つために」暴力(過酷なトレーニングや過度のプレッシャーも含む)を振るう部活動教師が、何かに追い詰められているのだとすれば、では、その何かとは何か? 勝ち数へのこだわりか、成果主義か、保護者や部員の欲望か、世間の目か? (2025年11月、宮城県の強豪高校サッカーチーム、しかも1位と2位の高校で、大量いじめや飲酒喫煙があったと報道された。自称強豪校は、一体何をやっておるのか? 夏には広島県の高校の甲子園大会中の辞退もあった。勝つためにやっているからそうなるのだ。仏典や新約聖書でも読まれてはいかがですか。)
せめて子どもが(大人もだが)ニコニコと幸せに暮らせる世の中に!
11月23日 勤労感謝の日
もとは宮中の新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)の日。新穀の収穫に対する感謝の日。天皇が代替わりした年は「大嘗祭(だいじょうさい)」と言う。今の日本は農家も少ないが、穀物が出来て感謝する気持ちは多くの人が持っているのではないか? 大都市に住んでいるとその実感が湧(わ)かないかもしれないが、田舎にいると、田んぼの稲が青々と茂り、やがて黄色く実り頭を垂れ、あるとき農家がバッサリと稲刈りをする(最近は機械でやる)。稲木に稲わらをかけて干す。稲刈りの終わった田んぼでは子どもが遊べる場所になる。(最近は子供がいないが)。これらの風景を日々見ることができる。コメ不足で大騒動だが、こうして米を(米に限らないが)作ってくれている農家の方々(農業生産者、と言うのですかね?)には目に見えないご苦労も沢山あるわけで、本当に感謝の思いだ。「カネを出して買っているんだから等価交換でウィンウィンだ」という理屈を言う前に、私などは「ありがとうございます」と思ってしまう。二宮尊徳(にのみやそんとく)の報徳(ほうとく)思想のような感性が私(ら)にはどこかでしこまれているのかもしれない。「ありがとさんの歌」(スピッツの歌とは違う)というのも教えて貰ったな・・・
今では農業ではない仕事で勤労している人の方がこの日本列島では多い。また収入や所得にならない仕事をしている人も多い。その全ての「勤労」に「感謝」する日、と考えてみることが出来る。高齢者を大勢養って世話するためには、野菜を刻み風呂や廊下を磨き食器を洗い蒲団を干し洗濯をし病院に連れて行き薬の数を数え・・・ということを日々やっている。昔は「長男」と「長男の嫁」がやったが、今は少子化・一人っ子で、「長男」「長女」で高齢者4人の世話をする。これがリアルな現実。もちろん収入・所得はゼロ。家の壊れたところの補修や家電の買い換えなども含め、お金は出るばかり。町内会の世話もある。近隣の水路や水門や街灯の世話も。今年(2025年)はクマ対策ですか・・
「勤労」「仕事」とは何か? エデンの園を追放され「額に汗して働け」と命ぜられてから、労働は神の罰でもあり恩寵(おんちょう)でもあったろう。古代ギリシアでは哲学者は高尚(こうしょう)な議論をするのがエライのであって、生産労働は奴隷の仕事だった。もちろん「奴隷が貴族を養っていた」。仕事についてヘシオドスはどう言っているか? キリスト教世界では神に祈ることが大事で、生産労働は二の次だ。新約聖書のマリアとマルタの記事がそれを伝える。近代になってどう変化したか? 産業革命以降は? ベンジャミン・フランクリンやマルクスはどう考えたか? 現代では? 公民の教科書にどう書いてあるか? 『葉隠』が金儲け出世主義の武士を嫌ったのをどう考えるか? 二宮尊徳(金次郎)が1日2時間睡眠で働き続けた(と言われる)ことをどう考えるか? 日蓮聖人が法華経の行者として極めて勤勉に全生涯を仏道に捧げたことをどう考えるか? 日本の職人が長時間働くことを生きがいそのものにしていて、家庭を顧(かえり)みないことをどう考えるか? 日本でも子どもの低賃金長時間労働があったことをどう考えるか?(『ああ野麦峠』や佐多稲子『キャラメル工場から』をみよ。)(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』のジョヴァンニは子どもなのに印刷所で働いている。その救いは空の星を放心したように眺めることだ。) タカイチさんが「働いて働いて」と言ったことをどう考えるか? 『プロジェクトX』はカッコイイが彼らのご家庭はどうなっているのか? 親が家にいて子どもと一緒にご飯を食べてくれないと、子どもは淋しいのではないか? フグ田マスオさんはどうして毎日帰宅できるのか? なぜ父親は(母親も)海外に単身赴任(たんしんふにん)しているのか? 旅行会社の添乗員や海外航路の船員さんはいつも家を空けているが、結婚するな家庭を持つなと言うのか? 早番と遅番の交代制の職場は多いが、生活・睡眠が不規則になって身心に悪いのではないか? シンガポールはひとりあたりの生産力が高いが、競争ばかりしていて独身ばかり(隣の席の人はライバル)(非婚率が高く、超少子高齢化→介護も要るようになるけどね)であることをどう考えるか? 道徳的自覚の問題で解決することではなく、社会政策の手当が要るのではないか? ・・・などなど。 →当ブログ テーマ「経済・社会系」の「総裁選のさなか」(R6.9.14ほか)に労働・仕事に関するコメントを書いてあります。よろしければご参照下さい。
仕事を通じて他者(チーム)と信頼関係を築き社会に参加でき充実感を味わいお金も貰えて結構だ、という世界は、確かにある。だが、GDP至上主義になると、働く人の幸福感はしばしば後回しになる。(昔は「労働疎外(ろうどうそがい)」だとしきりに言ったものだが。)また、オーストラリアのアボリジニは1日2~3時間働いてあとは瞑想(めいそう)しているとか。『銀河鉄道の夜』のジョヴァンニもいやおうなく印刷所で働いているが、ジョヴァンニはしばしば空の星を眺め幻想に浸る(多幸感を味わっているに違いない)。永平寺の修行僧は一日何時間も壁に向かってひたすら坐禅している。人間の本当の幸せはどこにあるのか?
11月第4木曜 アメリカの感謝祭(サンクス・ギヴィング・デイ)
中学高校の英語の教科書か参考書に載っていたかと思う。英語の時間に英語学習だけでなくアメリカの文化についても学べるのはよかった。(皇国史観で固められた偏狭なナショナリストにならずにすんだ。視野が世界に広がる第一歩だった。アメリカはじめ英米語圏ではない諸外国にも視野を広げるとよい。)1620年にピルグリム・ファーザーズがアメリカに到達し過酷な環境で冬に多数の死者が出たが、翌年先住民に助けられたと言う。1621年は収穫が多く、入植者は先住民と共に祝ったという。史実が厳密に正しいかどうかは知らない。入植者と先住民が助け合って共に生きようとした、ということは、あり得たと私は思う。その時感謝を捧げた対象は、キリスト教の神か、先住民の神々か、自然か、あるいは?
世界各国・各地域で秋の感謝祭・収穫祭的なものはある。そのルーツは当然キリスト教以前の(たとえばローマやゲルマン由来の)何かだろう。北米の感謝祭にしても、①ピルグリム・ファーザーズたちは英国からオランダを経由して北米に移動した、オランダでヨーロッパの土俗の慣習にふれたかもしれない、という意見もある、②ピルグリム・ファーザーズ以外に北米に移動した人びとはそれぞれに感謝祭を行っていただろう、と考えることもできる。
ピューリタンたちは聖書に基づかないローマやゲルマン以来の祭りを廃止する姿勢を持っていた(清教徒革命の時のクロムウェルが代表)と考えると、北米のピューリタンたちにとって、感謝祭は、本来非キリスト教的な行事、ということになるのだろうか? Aそのアメリカ型の感謝祭がアメリカ人の移動に伴い世界に輸出されたものと、Bピューリタン・キリスト教以前のその土地土地の秋の収穫祭・感謝祭に由来するものとは、由来が違う、ということになるのだろうか。でもAにもBが混入している、ということだろう。
でも、起源や由来がどうであれ、収穫に(自然に、あるいは神に、神々に)感謝する気持ちが出てくるならそれでいいではないか、と神(神々は?)は微笑みたまうような気もするが・・実際にはただの祝日で、七面鳥を食べてアメリカン・フットボールイベントを観戦する日になっているとの報告も・・・?
なお「謝肉祭」(カーニバル)というのもある。春のイースター前の四旬節(キリストの荒野の40日間の試練を記念)では断食や節制をし、肉や卵を食べないとか。その前に騒ぐのがカーニバル。「カーニバル」とは「肉よさらば」という意味だそうだ。カーニバルも当然キリスト教以前のローマやゲルマンの風習(ディオニソスの行列でボートの形をした乗り物を使うなど)を取り入れているだろう。日本でも畜産業で「畜魂祭」、水産業で「魚魂祭」を行う地域も多い。(日本人だけが肉や魚に感謝しているという断定は誤り。)
11月25日 三島由紀夫の忌日
1970(昭和45)年。市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自決。その解釈については色々に言われているが・・・
彼の語る「日本の伝統」なるものが果たして真に日本の伝統であるかどうか? は大いに疑問。光源氏は軍服を着て隊を率いてどこかに乱入して演説をしたりしなかった。「日本」という国号を使い始めて(7世紀後半? 聖徳太子が隋に書簡を出した時は使っていない)からあとも、サツマやハヤトやエゾは日本ではなかったかもしれず、その後「日本」の領域は拡大したり縮小したりしている。「日本」という国号以前もこの日本列島には多くの人が住んで暮らしていた。長年にわたり東西南北からやってきた人たちだ。多元的・多層的に文化を築いていったと考えるのが妥当だろう。気付いてみれば当たり前だが、「天皇」も「神道」も漢字で音読みだ。『日本書紀』『古事記』も中国の書物の影響で成立している。そう言えばイズモのオホクニヌシたちが民のためにせっせと国土を作った後にイセのグループがあとから外来人としてやってきたのだから、どうなりますか?