James Setouchi
2025.11.4
NHKテキスト『3か月でマスターする古代文明』2025年 10、11.12月号
「古代文明と言えば四大文明」とかつては学校で学習したが、今は研究の第一線はそうではなくなっているようだ。また、「狩猟採集時代から農耕・牧畜の誕生を経て富が蓄積(貧富差が拡大)し権力・国家・都市・階級・戦争が生まれた、それは歴史の必然で進歩(?)だ」とかつては多くの人が信じていたが、この「常識」もくつがえされてきている。そのへんの事情を伝える、とても面白い番組で、テキストは1冊1500円くらいと少しお高いが、絵や写真が多く入っていて、素人にもわかりやすいので、買って損はないかな。
1 トルコのギョベックリ・テペ
「世界の古代文明と言えば大河流域の四大文明で農耕や牧畜に支えられて発生した」というのが「常識」だったが、違った。
トルコのギョベックリ・テペは、何と1万1千年前(紀元前9千年)で、狩猟採集時代(農耕以前、あるいは移行期)。そこに巨大な遺跡がある。石柱は高いもので5.5メートル。明確な権力構造を示すものは見つかっていない。人びとはほぼ平等な関係の中で自発的に動いていたのでは。
・・(JS)農耕が始まってから巨大な建造物ができるのかと思ったら、違った。また、中央集権的な国家ができたわけではない。だが、考えてみれば、三内丸山遺跡(青森県)(約5900~4200年前)は縄文時代(農耕文化以前)の巨大集落だ。北米のミシシッピ川近くにはポヴァティ・ポイント(ルイジアナ州)(紀元前1600年頃で、狩猟採集民のもの)の巨大遺跡(総面積は仁徳天皇陵の5倍以上)もある。(小茄子川歩・関雄二編著『考古学の黎明(れいめい)』光文社新書2025年、270頁。瀬川卓郎氏(考古学、アイヌ史)が紹介している。)農耕以前に巨大なモニュメントは存在する。そこには巨大な権力や王も多分いなかったろう。
2 北メソポタミアと南メソポタミア
南メソポタミア(イラク南部)のウルクこそ古代の都市国家の代表と言われてきたが、その前に北メソポタミアにテル・ブラクという都市があった。ウルクよりも数百年前。雨水で農耕しムギを栽培しヒツジなどを飼った。もとは平等な社会だったが私有財産と貧富の差が芽生えた。都市は、争いや不安から逃れるための防衛的な集合(安全、経済、精神の保障)だったかもしれない。神殿の跡はあるが神官に強大な権力が集まっていた痕跡(こんせき)はない。権力者はいたようだ。
南メソポタミアは水と泥と太陽以外何もない湿地帯で、灌漑(かんがい)農業でムギを生産した。余剰(よじょう)生産が都市を生んだ。周辺と交易(こうえき)した。ウルクは紀元前5千年頃には人が住み始め、紀元前3千5百年頃から最盛期。文字もあった。支配者と社会階級が存在した。人間は「自然とともに生きる存在」から「人工空間に生きる存在」になった。
・・(JS)王の支配を受け入れる代わりに安全・経済・精神の保障を受ける。でもその国家に所属しているお蔭で戦争に兵として駆り出されるとすれば? また階級格差が大きくなりすぎると社会不安が増大する。今は?
(JS2)なぜ農耕が始まったか? については諸説あって、分かっていないそうだ。面白い説として、ムギでビールを造り宴会で飲んだら興奮状態になれて嬉しかったのでムギ栽培を始めた、というのがあるらしい。(小茄子川歩・関雄二編著『考古学の黎明』光文社新書242ページに有村誠氏(西アジア先史考古学)が紹介している。)私はビールは(サケもウィスキーもウオッカも、要はアルコールは)飲まないし殷(いん)王朝が酒の飲み過ぎで滅んだ(と言われている)ことを教訓としている一人なのだが・・・
3 ヒッタイト
ヒッタイトと言えば「鉄器を使った軍事強国」のイメージだったが、違った。鉄剣は宇宙から来た隕鉄でできていた。当時はまだ青銅器が主流だった。「鉄器=強さ」というイメージは発掘したヨーロッパ人が作ったが、今では欧米ではヒッタイトが鉄の帝国として語られることは少ない。日本の方がそのイメージに囚われている。ヒッタイトは実はヒッタイト人、ハッティ人、フリ人、ルウィ人などの他民族・多言語・多文化・多宗教の国で、交易も盛んだった。
(JS)TVでは、ヒッタイトは今のアメリカみたいな国だ、と言っておられた。なるほど・・
4 エジプト
ピラミッドを形作る過程で中央集権的な国家体制が形成されていった。王はヌビア(現在のアスワンからスーダンに当たる一帯)から取れる金を独占し権威・権力の基盤とした。
のち金の貯蔵が底をつくと、国家ぐるみで王墓や神殿の金を盗掘して再利用した。
・・(JS)エジプトの王は直轄(ちょっかつ)地の小麦や黄金を使ったと言うが、直轄地で働いている人たちは一体誰なのだろう? また、王を神格化してピラミッドを巨大化していったが、日本で前方後円墳を巨大化したのと同様だろうか? あの神社ももとは前方後円墳で、私たちは古墳時代の権力者(の墓)を秋祭りで拝んでいるのだろうか? 現代の独裁者が巨大なモニュメント(宮殿やなんとかタワーや銅像や墓!?)を作りたがるのもエジプトのピラミッドと同じであろうか?
5 インダス
インダス川のほとりのインダス文明は、豊かな平原に恵まれ、大規模な灌漑(かんがい)や集住を必要とせず、各地に小さな集落が分散していた。強大な王権や神殿を抱える都市国家を築かなかった。武器や軍隊・戦争の痕跡(こんせき)も見つかっていない。モヘンジョダロやハラッパーはインダス平原内の交易センターだった。西アジアなどの外部世界と接触するためのものではなく、むしろメソポタミアからの影響を持ち込まないためのバッファ=緩衝(かんしょう)地帯としてモヘンジョダロやハラッパーは機能した。文字らしきものもあるが、体系的な文字システムとは言えない。気候変動ほかで人びとは都市を手放した。TV(10月29日水曜放送)では、メソポタミアとインダスとの間に他のバッファができたので、モヘンジョダロなどのバッファは要らなくなり、インダスの人びとはもとの村落の暮らしに戻った、と言っていた。インドに強力な国家と軍隊が出来たのはそれから1500年後のマガダ国(アケメネス朝ペルシアと同時代)だとも。
・・(JS)①誰かが富を蓄積してもすぐに洪水で押し流してしまうから、富が蓄積しにくかった、というのがなるほど思った。
②王も中央集権国家も、税を取り立て戦争をするだけのものだったら、要らないと言えば要らない。孟子も民の暮らしを大切にせよと言っている。
③また、モヘンジョダロをバッファとして、昔ながらの村の暮らしを守った、という書き方だが、江戸時代に長崎がバッファになったようなものか? だが、昔ながらの村の暮らしは、窮屈ではなかったのか? 村長や村の慣習(因習)の支配が絶対的ではなかったか? 例えば、もしかりに、夫が死ねば妻も死ぬのが当然、といった慣習(因習)があったとしたら?
④また、田舎で自足的に暮らせるのは、土地が豊かで食料が沢山取れたからだろう。現代の日本の田舎では? IT代を払おうとすればもうダメだよね・・経済・法律などなどのネットワークに現代人はいやおうなくからめとられて暮らしている。これからはインターネットも上下水道も全部タダにすべきかも?
⑤今の世界のシステム(統治機構)のあり方が唯一絶対無二ではなくオルタナティヴもありうるとは言える。古来信じられてきた「農耕の開始→都市国家、中央集権化、官僚機構、国家の出現、これが進歩」といった図式が、実は普遍的なものではなかった、私たちは別の選択もしてきたし、これからも別の選択を創造しうる、と考えることは、有益だろう。
6 中国
中国と言えば黄河文明だよね、ではなかった。黄河・長江流域などに多くの多元的な文化があった。
二里頭文化は紀元前1800年頃~1500頃にかけて河南省に広がった。殷王朝に先んじる最初期の王朝的存在。
良渚文化は紀元前3300年頃~2600年頃長江下流域にあった。王権を示す威信財が出土している。
後石河文化は紀元前2100年~1900年頃の長江中流域で、良渚文化とは違った「王権と結びついた神話」を示す玉器が出土している。
他にも多くの地方文化があった。
二里頭文化は、それ以前にあった様々な地方文明の人・モノ・情報などが混じり合い交雑することで新たな文明として生まれた。殷王朝以前の高度な都市文明であり、その影響はベトナムにまで及んでいた。
・・(JS)中華帝国は秦(しん)の始皇帝から二千年続いている、というのは誤りで、分裂時代も実は長い。異民族との交渉の歴史も長い。異民族が支配していた時代も実は長い。ましてや、秦以前だと、広大な地域に多様で多元的な文化が並立していた、という言い方が、妥当だろうね・・儒教では華(か)・殷(いん)・周(しゅう)三代を理想化して語りがちだが・・
付記:TV放送(11月5日)では、黄河流域の二里頭文化(3800~3500年前)が夏王朝の都だったかも知れない、と言っていた。それに先立つ1000年以上昔、長江下流域に良渚文化(5500年前)があり、王の権威を示す権力者の墓、玉器などが発見されている、祭祀王は食糧を集め、農具を分配しダムなどインフラを整備した、良渚文化が二里頭文化に影響を与えている、と言っていた。また4200年前に大きな気候変動(乾燥化と寒冷化)が数百年続いた、農作物の多様性(長江のコメ、黄河のキビ・アワ、西から来たコムギ)でこの環境変化に対応しようとした、多様性がレジリエンスを生む、ということだった。
7 中央アジア
カザフスタン南東部のベガシュ遺跡(紀元前2500年~1500年)では、西アジア原産のムギと中国起源の雑穀(ざっこく)が同時に出土した。文化は「西から東へ」だけでなく「東から西へ」も含む双方向のものだった。標高の高い山岳地帯に暮らす人びと(完全な農耕民でも牧畜民でもない)が媒介(ばいかい)者となった。ペガシュ遺跡からはヤギ・ヒツジ・ウシ。フタコブラクダなどの家畜の跡がみられる。シルクロードの「オアシス路」とは違う「内陸アジア山岳回廊(かいろう)」(IAMC)が言わば「原シルクロード」として注目されている。
アラル海の南、シル川近くのオクサス文明(紀元前2300年~1300年)は中央アジアの交易の中継拠点だった。その中のマルギアナ遺跡群のゴヌール・テペには宮殿・神殿があったが、文字資料がないから実態はわからない。オクサス文明には、ゾロアスター教に似た宗教が存在したかも知れない。
紀元前2500~1700年頃の遺稿からは王墓にあたるものが見つかっていない。起源前1000年紀から騎馬遊牧民が軍事力や交易力を備えた「国家」となり墓も作るが、彼らは固定された「国境」という概念を持たず、状況に応じて自在に勢力圏を変えた。
・・(JS)①ヒトにとって農耕が最適解、とは限らない。農耕は定住と直結している。移動する方が好きな人もある。特定の土地にしがみつくと、そこが災害などでやられたときには、大いに困る。現代の日本人の多くは農耕(土地)を離れ、言わば流動的な移動民となっている。
②国家と言えば領土領海がある、と言いがちだが、領土領海があらかじめ決まったものとしてあるわけではない。日本も「日本」という国号を使い始めた8世紀以降(?)でも、その領土(領域)は拡大したり縮小したりしている。「倭人」はいつから、どこにいた?・・「日本人」とは、日本語(外来語を含む)を使い平和を愛する民である、と再定義して、その理念を保持する人は誰でもウエルカムにする、というアイデアは、どうですか?
8 ギリシア
ミノア文明は紀元前2000年頃~1450年頃。クレタ島で栄えた。その宮殿は単なる権力の象徴ではなく、開放的な中央広場と農産物を貯蔵するスペースを持ち、農産物を再分配するシステムの拠点だった。線文字Aを持っていた。[城壁も王墓もない。]
ミケーネ文明は紀元前1650年頃~1200年頃。線文字Bを使った。イオルコス、テーベ、アテネ、ミケーネ、ティリンスなど独立した小王国が競い合いながら文化を築いていった。[エジプトのような強大な王はいなかった。]
その後「暗黒時代」という停滞期を迎え文字も再分配システムも失われた。
紀元前8世紀頃には各地でポリス(都市国家)が成立。彼らは植民活動を行いシラクサ(シチリア島)やビザンティオン(のちのコンスタンチノープル、今のイスタンブールのもと)を築いた。ギリシア人はフェニキア文字を改良してアルファベットを作った。それは行政文書や交易の必要からではなく、叙事詩(じょじし)(ホメロスなどの)を保存するために生まれた。
古代ギリシアの社会では絶対的な王権が存在しなかった。山と島々に分かれていたので大規模な農業を基盤とする巨大な官僚機構など中央集権的なシステムを確立できなかった。民主政が花開いたのも偶然ではない。
・・(JS)それより後の持代については、橋場弦(ゆずる)『古代ギリシアの民主政』『民主主義の源流』を参照されたし。また、ボルヘス(アルゼンチン)の短篇小説『アステリオーンの家』は、考古学・歴史学とは無関係だが、ミノタウロスが出てきて、面白い。
TV(11月19日)では、多くの都市は問題があれば植民市を作る形で解決しようとしたが、アテネだけは植民市を作らず問題を話し合いで解決することにした。ピラミッド型の上からの統治ではない、ネットワーク型の形を示しているのは、現代の我々にとっても大事だ、とのことだった。
(以上が10月号と11月号。12月号は未入手。入手したら加筆します。R7.11.4
11.29一部加筆)
*小茄子川歩・関雄二編著『考古学の黎明 最新研究で解き明かす人類史』(光文社新書、2025年9月)も非常に有益である。こっちはやや高度。