James Setouchi

2025.11.1

原武史『<出雲>という思想 近代日本の抹殺された神々』講談社学術文庫 2001年

 

1        原武史1962~

 東京の西郊の東久留米の団地で育つ。東大大学院に学び社会科学研究所助手、山梨学院大助教授、明治学院大教授を経て放送大学教授など。専攻は日本政治思想史。著書『直訴と主権』『「民都」大阪対「帝都」東京』『可視化された帝国』『皇居前広場』『皇后考』など。鉄道や宗教にも詳しい。

 

2        原武史『<出雲>という思想 近代日本の抹殺された神々』

                       講談社学術文庫 2001年

 もとは1996年に出た本。加筆修正して文庫化した。

第一部        復古神道における<出雲>」は本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)、平田派没後門人らの国学者・神道思想家ほかを紹介し、明治以降国家神道とそれらがどうかかわり、やがて異端として排除されていくか、を描く。

第二部        埼玉の謎」では、埼玉・東京に多い氷川(ひかわ)神社が出雲系列の神社であること、どうして大宮が埼玉県庁にならなかったのか、などを記す。

 いずれもおもしろいが、第一部は江戸後期から明治近代の思想史の知識があった方が読みやすい。第二部は誰でも読める。特に埼玉・東京在住の方なら、生活の実感を持って読めるはず。

 

(1)「まえがき

 ここで<出雲>とは、島根県東部の旧国名というよりも、出雲大社、スサノヲノミコト、オホクニヌシを中心とする場所であり、<伊勢>の対概念でもある、と筆者は述べる(3頁)。<出雲>というトポスは、明治維新をどう見るかという問題と関わる。「国体」という言葉は水戸学(みとがく)の会沢正志斎(あいざわせいしさい)『新論』に由来するが復古神道にも関わる。また「万世一系の天皇」という思想も、水戸学とともに復古神道の影響を受けている。(4~5頁)

 

 復古神道は、江戸後期の国学を母体とするが、記紀などにはアマテラスやその子孫だけでなくスサノヲ、オホクニヌシなど<出雲>の神々も登場する。彼らは決して脇役ではなく、何種類もの日本古来の道=神道が出てくる可能性があった。「国家神道」はあくまでその一つから発しているに過ぎず、教育勅語(ちょくご)や帝国憲法に現われた解釈も、当時の公式的な解釈でしかなかった。(5~6頁)

 

 原点には平田篤胤(あつたね)がいる。篤胤はそれまでの国学を復古神道として宗教化しオホクニヌシを中心とする独自の神学を作り出した。それは大きな流れとなり、明治政府の神道(アマテラスや造化三神中心の神道)とは異なる解釈を堂々と主張するようになる。(6頁)

 

 出雲大社には出雲国造(こくぞう)と呼ばれる世襲の神主がいる。その祖先はアメノホヒノミコトという神とされている。明治には千家尊福(たかとみ)氏がそれであり、篤胤以来のオホクニシを中心とする神学を受け入れた。(8頁)出雲国造を中心とする運動は全国に広がり、明治政府のアマテラス中心の神道解釈と衝突、<出雲>は「国体」に反する思想とみなされ、勅裁(ちょくさい)(天皇による採決)により退けられる。神道の宗教性を否定した国家神道が成立してくる。(8頁)

 

・・(JS)造化三神とは、『古事記』冒頭に出てくるアメノミナカヌシノカミ、タカムスヒノカミ、タカミムスヒノカミ。だが、名前だけの抽象的な神であり、書物の冒頭に出てくることから、中国の歴史書・思想書(その際、三、五、七、というめでたい奇数を使っている)の影響を受けて「加上」されて後世に書き加えられた神々だろう、と言われている。また「ムスヒ」か「ムスビ」かについても詳細な議論がある。「ヒ」と「ビ」では意味が違ってくる。ここでは略。『日本書紀』冒頭の神はこれとは異なる。(後述→補足1へ)

 なお、『古事記』によれば、造化三神のあとに二柱の神、さらに十柱七代の神(イザナギとイザナミを含む)が出現。アマテラスとツクヨミとスサノヲは、イザナギが目や鼻を洗ったときに出現した。オホクニヌシはスサノヲを初代として7代目の子孫(これを六世と言うそうだが?)であると同時にスサノヲの娘スセリビメの夫。

 『日本書紀』本文によればオホクニヌシ(『日本書紀』本文ではオホアナムチ)はスサノヲの子。「ナ」はアルタイ語系の土地を表わす言葉(岩波文庫『日本書紀』第1巻補注97。360頁)。『日本書紀』一書の第一ではオホクニヌシはスサノヲの五世の孫と書いてある。一書の第二ではオホアナムチはスサノヲの六世の孫になっている。

 

(2)「第二部 埼玉の謎」から少し紹介すると・・

 大宮に氷川(ひかわ)神社という大きな神社がある。その神様はオホクニヌシなどで出雲の杵築(きづき)大社からもってきた。近くは「見沼(みぬま)たんぼ」という新田地帯で、もとは沼だった。氷川神社の「御沼」であり出雲以来の伝統を守って神事を行った場所とされている。なお、氷川は出雲の氷(ひ)ノ川。

 埼玉・東京に氷川神社という名前の神社が沢山ある。

 伊勢・大和の勢力が入る前に出雲族が来て住んでいたのだろう。 

 明治2年に大宮県という県がおかれたが半年で廃止され県庁は浦和に移った。どうして大宮は避けられたのか?

 出雲の国造・千家尊福(たかとみ)氏は埼玉県知事などもされた。

などなど。埼玉・東京に在住の方には身近な話だ。

・・・(JS)そうか、それで「翔んで埼玉」という映画が・・・? ああ、これは違った。埼玉と島根が近しいだなんて、「県民ショー」で紹介してもいいかな?

 

(3)「第一部 復古神道における<出雲>」を少し紹介すると(実際には手に取ってお読み下さい)

 

はじめに」:水林彪(たけし)、神野志隆光両氏の解釈を紹介しつつ、両者とも『日本書紀』の「一書」を考察の対象から外している、と指摘。津田左右吉(つだそうきち=有名な歴史学者)は「一書」に注目すべきとした。オホクニヌシとスクナビコナが国作りをして国土を領有していたことと、日の神がこの国の統治者であることとが、矛盾している、と津田は指摘。

 『日本書紀』一書(JS:本文に併記されている、別の伝承)の第六(JS:岩波文庫『日本書紀』第1巻なら102頁)には「大己貴命(オホアナムチノミコト)と少彦名命(スクナビコナノミコト)と、力を戮(あは)せ心を一にして、天下を経営(つく)る。・・」として、民の生活に即した国作りの具体的な描写が展開される。『古事記』のような国家的な理念による抽象化を免(まぬかれ)れている。(27頁)(JS:大己貴命はオホクニヌシの別名。)

 一書第二の「国譲り」では天(あま)つ神の名代が国譲りの要求に来たとき、オホクニヌシはいったん拒否する。オホクニヌシの国作りの業績ゆえに天つ神の名代はいったん引いた。(29頁)その後再度要求は行われ、交換条件が提示された。「顕露(あらは)の事」は天孫が行う、「神事(かみのこと)」「幽事(かくれたること)はオホクニヌシが治める、ということになった。(30頁)(JS:岩波文庫『日本書紀』第1巻では138頁)

 その後も、一書第二では、オホクニヌシは、正統的な支配権を失っていない。一貫して「しらす」という言葉を使っている。但し、支配する領域が問題だ。津田左右吉は、「一書第二はイヅモ人が附加したしたもの」と解釈した。

 

・・(JS:だが、津田は正しいだろうか? 一書第二の方が本来形ではないか? 歴史書はしばしば征服者が自分たちに都合の良いように改ざんするからだ。イセ勢力にとっては、一書第二は、都合が悪いから、本文にせず、一書に回した、と考えるのが妥当かもしれない。もちろん、出雲の中でも勢力争いがあり一書第二自体がつくられたものと考えてみることは出来るが、それは本書の考察の任ではない。)

 『出雲国風土記』も原武史は参照する。そこではスサノヲやオホクニヌシら出雲系の神々が活躍する。(34~35頁)

 

一 「顕」と「幽」

 『日本書紀』について、忌部(いんべの)正通(14世紀)と一条兼良(かねよし)(15世紀)では解釈が違う。一条兼良によれば、「幽」とは「幽冥」であり「鬼神」が人の目に見えない悪事を罰し善事を賞することだ。神による賞罰という表現があることは、国譲り後のオホクニヌシが宗教的支配者となる可能性が開かれていることを示す。

 

二 本居宣長と<出雲>

 宣長は賀茂真淵(かものまぶち)を批判し、オホクニヌシは国譲りの後日隅の宮に隠れたというのは正確ではない、御魂は日隅の宮にとどまるが身体は遠い黄泉の国に隠れた、「幽事」も「ひすみのこと」・単なる祭祀(さいし)ではない。「幽事(かみごと)」をオホクニシの御魂が支配する、とする。

 

三 平田篤胤と<出雲>

 篤胤は宣長を批判的に継承した。『本教外伝』では「幽冥界」という概念が提示されている。そこでオホクニヌシが人間の霊魂を裁くのだ。『霊(たま)の真柱(みはしら)』では「幽冥界」「冥府」は黄泉(よみ)(地下)や高天原(天上)にあるのではなくこの地上にあるとする。人間の霊魂は死後もこの地上にある幽冥界に帰属する。(柳田国男がこれを継承した。)冥府を治めるのはオホクニヌシだ。『日本書紀』一書第六を読むと、スサノヲは国生みの祖神から「青海原潮の八百重(やほへ)」=この国土全て、つまり「天下」を治めるように正式に委託を受けた正統的な支配者だ、という革新的な解釈を篤胤は行った。(71頁)篤胤は『大三輪神三社鎮座次第』『伊予国風土記』『伊豆国風土記』などなどの史料も援用していく。イザナキとイザナミの「国生み」後の「地」はまだ「水母(くらげ)なす」状態だったが、ここにオホクニヌシとスクナビコナが「国作り」の基礎を築いた。オホクニヌシは卓越した指導力を発揮していたのだ。天孫降臨(てんそんこうりん)以前のことだった、となる。(82~83頁)篤胤は、スサノヲとオホクニヌシの系統を重視する「地」「幽」<出雲>中心の神学を確立した。

 後期水戸学(藤田幽谷、東湖ら)から見ればこれは異端だった。篤胤は権力によって著述差し止めを命ぜられ故郷の秋田に強制送還されるなどの憂き目にあった。だが、没後門人が多数輩出し、幕末~明治初期には篤胤の神学は大いに流行する。

 

四 篤胤神学の分裂と「幽冥」の継承

 ここは簡単に記す。

佐藤信淵・鈴木雅之はアメノミナカヌシ・造化三神中心の神学体系に作り直した。②大国隆正・本多応之助はアマテラス中心の神学大系に作り直した。大国隆正は太陽、月、地球なども考察の範囲に入れている。天皇は「国の御中主(くにのみなかぬし)」とされる。大国隆正は水戸学者とは良好な関係だった。(115頁)本多応之助は黒住教に近い。(118頁)

六人部(むとべ)是香(よしか)・矢野玄道(はるみち)は、オホクニヌシ中心の神学を継承した。六人部は出雲系の神社の神官の家柄。矢野は伊予の大洲で、出雲系の神々の社が多い。矢野は平田銕胤(かねたね、篤胤の養子、伊予の大洲(おおず)の出身)の信任が篤かった。矢野は天皇による祭祀がオホクニヌシの主催する「幽冥界」からの「御恩顧」に対する感謝の意味を持つと考えた。矢野の思想は、後期水戸学のものとは全く異なる。後期水戸学の会沢正志斎(あいざわせいしさい)『新論』では天皇が行う祭祀の対象は専ら「天祖」=アマテラス。(143~144頁)

 

五 明治初期の神学論争

 矢野玄道らの主張する「祭政一致」は新政府に受け入れられなかった。神祇事務局の主要ポストを占めていたのは大国隆正らの「津和野派」で、アマテラスを中心に考えていた。彼らは長州閥に近かった。薩摩出身の「薩摩派」は造化三伸を中心に考えていた。島崎藤村『夜明け前』に出てくる青山半蔵のモデルは島崎正樹(藤村の父)で、平田派。彼は悲劇的な最後を迎えた。だが千家尊福(出雲国造)(1845~1918)が平田篤胤由来の<出雲>神学を継承し(158頁)、「生き神」として西日本を広く巡教し(161頁)、「出雲派」を形成した。「薩摩派」と「津和野派」がドッキングして「伊勢派」が神道事務局の運営の中心となった。「伊勢派」と「出雲派」は論争するが、「出雲派」が優勢だった。別派独立の動きさえあった。「伊勢派」は権力を動かして「信教の自由」を無効にする非常手段を発動した。1881年(明治14年)の勅裁公表で、<伊勢>は<出雲>を抹殺した。(181頁)こうして<祭祀>と<宗教>を分離し「国家神道」が成立してくる。(182頁)

 

・・(JS:<祭祀>は<宗教>であるかないかについては、論争があったが、年中行事・儀礼としての「オマツリ」に宗教的信仰心が全く関与していない、とは言えない

 「「オマツリ」は年中行事・儀礼であって宗教的信仰心とは無関係であるから、国家や地方自治体(行政)が予算化して実施してよい、国民はすべからく参加せよ、他の民間宗教はどうかするとカルト化するからこわいよね」という発想は、戦前の大日本帝国時代の国家神道の思想だ。江戸まではそうではなかった。今もお祭りは素朴な信仰心、信心で行うもの。正月も盆も彼岸も年中行事には宗教信仰が入っている。地鎮祭も同様。神を畏れ敬い我が身をつつしみ神の加護を祈る気持ちがあるからやっているはず。音楽ライブイベントなどとは全く違う。宗教信仰と無関係な行事だ、とは言えない。

 明治初めの神仏分離・廃仏毀釈から国家神道の成立で日本人の豊かな精神性が歪められた。戦前は町内会でオマツリの下請けをしていた。今も熱心なところはそうしている。町内会がマツリをするべきなのか? 自由参加であって、強制は出来ないはず。「あれは行事であって宗教信仰ではない」と言うのは理屈が通らない。各自の信教の自由はどこへ? 戦後政教分離で国家神道を明確に否定したはず。(首相は各種神社や寺やキリスト教会や道教の道観(どうかん)やイスラム寺院などに公式参拝してはいけないし、公費で玉串料(たまぐしりょう)等を納めてはいけない。私人として参拝しポケットマネーでお賽銭(さいせん)を投げるのは可。信教の自由があるから。)

 (「年中行事は低レベルのものであって、先進国の宗教信仰に比べれば底が浅い、真の宗教の名に値しない」と言いたい人がいたかもしれないが、年中行事のお祭り(祭祀・儀礼)を宗教ではないと定義したところから、「お祭り行事・儀礼は国家・行政が行い、大本教など宗教はカルトの邪教(じゃきょう)だから弾圧します、信教の自由も奪います、お前は坊さんである前に天皇陛下の赤子(せきし)として特攻で死ね」とばかりに、国家神道とマツリ行事・儀礼は、国民の自由な精神を抑圧し軍国主義へと駆り立てていったのだから、ここは上記のような言い方は警戒した方がいい。)

 

 本文によれば、その後千家尊福は明治政府に忠誠を誓い、国会議員や知事を歴任した。ラフカディオ・ハーンは1904年『神国日本』(死去直前の書)で「大国主神の『幽冥の世界』」という言い方をしていて、最後の出雲派だった、と言える。(188頁)

・・(JS)ハーン(1850~1904)が出雲の松江にいたのは1890(明治22)~91(明治23)年のわずか1年程度だが、この間に出雲大社にも行っている。ハーンは松江中学の生徒がお国のために死ぬ思想に染められるのを悲しんでいた。またハーンは熊本の五高の教師になった。五高で帝国建設のための「人材」をせっせと訓練している様を、どんな思いで眺めただろうか? 五高(現熊本大学)グラウンドを望む丘の上には静かにお地蔵様がたたずんでいる。ハーンはそのお地蔵様を気に入っていたという。NHK朝ドラ「ばけばけ」(2025年)でハーンをモデルにしているが、これらの点もできれば想起してみてください。

 

おわりにー<出雲>を継ぐもの

 出口なおと王仁三郎(おにさぶろう)の大本(おおもと)教が<出雲>の思想を継承している。第1次弾圧事件のあと大正10(1921)年から出口王仁三郎は『霊界物語』を口述していく。『霊界物語』の舞台はアジア全域にわたる。ニニギよりも先にスサノヲがこの国を統治した、霊界(高天原、中有界、根底の国を含めた)全体がスサノヲの支配下にある、霊界が主で現界が従(「霊主体従」)、などを唱えた。(207頁)神道関係者の友清歓真、岸一太らは反発した。昭和10(1935)年には第2次弾圧(徹底的な破壊)がなされた。(209頁)

 折口信夫は平田篤胤を評価した。折口の墓は石川県の気多神社(オホクニヌシが祭神)の近くにある。

 伊勢神宮を「本宗」として崇(あが)める神社本庁のある教科書では、王仁三郎の説は無視、折口の説は篤胤の説とともに「異端」扱いになっている。(213頁)

 

・・JS:日本人の伝統、などと安直に言うが、大日本帝国下で政治的目的から捏造(ねつぞう)されたものも多い。記紀という書物が律令政権下で政治的目的でもって捏造されたのと同じだ。日本人が長年に渡って経験してきたものは、多様で多元的で、それが重層的に積み重なって、今日の我々日本人(日本列島に暮らす者)の精神性を形作っている。(加藤周一『日本文化の雑種性』ほかを参照。)帝国権力が統治のために作為的に作り上げたものを「日本人」の伝統などと安直に言うなかれ。日本人の精神・思想のバリエーションは案外豊かで、仏教もあれば平田派もあれば大本(おおもと)教もある。儒教もいろいろだ。後期水戸学はもっとも偏狭なもののひとつだ。権力による平田派や<出雲>系思想の弾圧も偏狭さの現れだ。「明治は自由だったが昭和の軍国主義で偏狭になった」といった単純な問題ではない。明治に偏狭さの種は仕込まれていた。では、これから今日(2025年)の私たちは、いかなる精神・思想を継承し後世に伝えていくべきであろうか? 

 

 この本は面白く、刺激的だ。但し神道や国学の基礎知識のない人にはやや入りにくいかも知れない。ある程度予備知識があれば読める。第二部の埼玉のところだけは読みやすいから、そこから読むことをお勧めする。第一部については、平田派神学が<出雲>の思想であり、国家神道(<伊勢>の思想)を相対化する、という点が明確化されていて面白かった。神道・国学と言っても一枚岩ではない。その中に多様な要素・流派がある。政治権力を使って無理矢理国家神道に一元化・純粋化したのは、神道・国学の豊かな可能性・創造性を抑圧することになったかも知れない、いや、なった。明治に思想が自由になった面もあるが、他方思想弾圧・統制をした面もある。この本はそれを明らかにしている。結局全体主義・軍国主義に覆(おお)われ、帝国は滅んだ。戦後国家神道を解体したのは、よかった。思想信条・信教・学問・表現・言論の自由くらいは保障されるべきだ。さもないとまたどこかの全体主義国家のように・・・!?

 

 アマゾンの感想を見ると、「地元の祭りの実態の取材があまりなく、思想家の文献を中心に扱っている」という批判があった。そうかもしれないが、地元の祭りが盛んな所は観光化・商業化していて、本来形からかなり逸脱している。盛んでないところはすたれている。そこの昔ながらの由緒(ゆいしょ)を聞いてもそれがいつ作られたのか、史実としてどこまで遡(さかのぼ)れるのか、根拠はあるのか。神輿(みこし)も山車(だし)も実は江戸くらいからかも知れない。というわけで、地元の祭りのありかたを絶対化しさえすればいいのでもない。また、原武史を左翼と簡単に片付けている人がいたが、ことはそう簡単ではない。左翼と言うよりは、日本の伝統精神と歴史を知ろうとしている人、という印象だった。伝統と歴史を知る人が左翼なら、伝統と歴史を知らない人を右翼と呼ぶおつもりなのだろうか? 疑問だ。国家神道という強大なものにあえてカウンターをぶつけるのは、「強きをくじき弱きを助ける」、昔の任侠(にんきょう)の人のようでもある。アンチ巨人の阪神ファンのような人、と言ってもいい。(東京のご出身だそうだが。)

 

 日本の伝統精神ということで言えば、上述の如く、日本人の精神文化は、多様で多元的で、それが重層的に積み重なって、今日の我々日本人(日本列島に暮らす者)の精神性を形作っているのであって、すなわち寛容である。(「保守とは寛容だ」と石破首相(当時。2024年秋)が言ったのは、相当に本を読み自分でも考え人と対話してきた人の発言だと私は感じている。) 

 一時的には「キリシタン」と「アカ」を排除したなどの例外があるが、これらもすべて政治的意図からなされたのであって、本来の日本人の文化はそうではない、と言いたい。縄文から弥生、弥生から古墳時代への移行期も、大虐殺の痕跡(大量の人骨など)は出土していない。雄略天皇がライバルを殺害したとか中大兄(なかのおおえの)皇子が蘇我氏を謀略で暗殺したとかいうのも、信長・家康の一向一揆虐殺、島原の乱での虐殺なども、政治的意図から(結局は利権の独占のため)だ。彼ら(虐殺者)が本来の日本人の姿から逸脱(いつだつ)したのだ、とあえて言ってみたい。ここを論ずるとまだまだ長くなるので本日は割愛するが、戦乱も虐殺もイヤだと感じて武器を捨て平和に暮らすことを私たちは選択した、大陸から海を渡って各種の文化を持って来る人たちに対してもウエルカムだった、とだけ言っておこう。 

          

(補足1)『古事記』(712年)(新潮古典集成)冒頭は「天地初めて発(おこ)りし時に、高天の原に成りませる神の名は、天之御中主(あめのみなかぬし)の神。次に、高御産巣日(たかみむすひ)の神。次に、神御産巣日(かみむすひ)の神。この三柱(みはしら)の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまひき。・・・」

日本書紀』(720年)(岩波文庫)本文冒頭は「古に天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰陽(めを)分れざりしとき、渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如(ごと)くして、・・・」となっている。最初に出てきた神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、次は国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、次に豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)。・・・」最初に出てきた神は、一書の一と四と五では国常立尊。一書の二と三では可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)。一書の六では天常立尊(あまのとこたちのみこと)。

 

(補足2)大本教について辞書的な知識しかない。宗教弾圧で破壊されたが、戦後多くの新興宗教の母体となった。高橋和巳(たかはしかずみ)『邪宗門』は大本教をヒントにして書いたと言われるが、そこで描かれた「ひのもと救霊会」がただちに大本教と同じというわけではない。小説はあくまで虚構だ。

 

(補足3)原武史は放送大学の教授だ。放送大学(文科省・総務省所管の正規の大学です)というのは安い授業料でかなりのレベルの勉強ができ、教養学士の学位を取ることが出来る。お勧めできる。学位授与機構経由で学士(看護)というのも取れるそうだが?