James Setouchi
2025.9.10
島崎藤村『夜明け前』 に対する 批判的感想文
第一部(上下)第二部(上下) 新潮文庫にある。
1 島崎藤村
1871(明治5)年長野県木曽郡馬籠(まごめ)に生まれる。14才で東京に遊学(銀座の泰明小学校で北村透谷の後輩)、高輪台町教会で受洗、明治女学校の英語教師となるが、明治26年教え子との恋愛事件で学校を退く。教会も退会。関西旅行。『文学会』創刊に参加。明治29年東北学院の作文教師として仙台へ。明治30年帰京。詩集『若菜集』。日本近代詩を確立した画期的な詩集と言われている。明治32年信濃の小諸(こもろ)義塾の教師になる。秦フユと結婚。明治34年詩集『落梅集』。明治38年上京。明治39年小説『破戒』(自費出版)(日本の自然主義文学運動のスタートとなった)。明治41年『春』(青春時代を題材にした自伝的作品)を朝日新聞に連載開始。明治43年『家』(これも自伝的作品)連載開始。妻フユ死亡。明治44年『千曲川のスケッチ』発表。大正2年姪との不倫事件でフランスへ。大正5年ロンドン経由で帰国。大正2~6年『桜の実の熟する時』(明治半ばの青春時代を描く。『春』の姉妹編)連載。大正7~8年『新生』(姪との関係を題材に描く)連載。昭和3年加藤静子と結婚。昭和4年~5年『夜明け前』(父をモデルとし、日本の近代を問い直す)を発表。昭和18年『東方の門』執筆中に脳溢血で倒れて死去。(東京書籍の国語便覧、明治書院の『日本現代文学大事典』などをベースにして作成した。)
2 『夜明け前』第一部は昭和7年、第二部は昭和11年に新潮社から刊行。以下、批判的感想文を記す。
・面白い。幕末から明治初期の中山道の木曽馬籠(まごめ)を舞台に、青山半蔵の生涯を描く。青山半蔵のモデルは島崎藤村の父親であり、藤村自身をモデルとする子どもも出てくる。歴史小説でもあり、自伝的小説群の前史の部分をなすとも言える。
・幕末から維新・明治初期の社会変動・精神史も描いてある。島崎藤村なりの、明治以降の近代化・西洋化とは何だったか、の総括の作品と言える。
・青山半蔵は幕末の平田派国学を奉(ほう)じていた。神道と仏教と儒教の比較、外国文化・文明の流入と人間の(日本人の?)生き方などについても考察がある。
・幕末維新の歴史、平田派国学などについての予備知識があった方が読みやすいだろう。予備知識がない場合は用語集や年表を傍らに置いて読むとよい。
・あくまでも小説である。虚構化されている。どこからどこまでが史実か虚構かについては、私はよく知らない。
・たとえば木曽山林事件。作品によれば、木曽の山林は幕府にとって重要な場所だったが、部分的には住民が立ち入って利用することが認められていた。明治以降官有林になってしまうと、住民の使用は一切禁止となった。青山半蔵は住民の生活を守るために官庁に訴え出るが、却下される。西川善介「島崎藤村『夜明け前』における木曽山林事件の虚実」(専修大学社会科学年報第40号、2006年)は参考になるかも知れないが、その研究の当否も私にはわからない。なお、山林保護を江戸時代は大いに行った。材木資源として利用する、下流の氾濫に備えるなどの記述があり(第8章。新潮文庫第二部下34頁)、今日的課題でもある。
・また、青山半蔵のモデルは藤村の父・島崎正樹で、島崎正樹には『ありのまま』という自伝がある。岡英里奈「『夜明け前』の歴史叙述と〈近代〉 : 島崎正樹「ありのまゝ」との比較から」(JunCture : 超域的日本文化研究 6 118-129, 2015-03-27、名古屋大学大学院文学研究科附属「アジアの中の日本文化」研究センター)という論文もある。
・島崎藤村は本作を昭和のはじめに書いた。神道や天皇に関する記述は、幕末維新の時代のそれのそのままではなく、昭和はじめの時代思潮の影響や政府の規制を受けているかも知れない。
・平田派国学が熱心に運動し明治維新で本居宣長や平田篤胤が考えた理想の古の世に戻るかと思われたが、そうはならなかった、神道国学運動の挫折を描いたものだとも言える。島崎藤村自身は英語・英文学を学びキリスト教にも接しフランス留学もするなど西洋文化の影響を強く受けている。藤村の中に神道国学的な要素がどれほどあったか、は詳細な研究が必要だろう。
・昭和初めにあらためて幕末維新の神道国学運動を記述するということは、「昭和維新」に呼応しており、もしかしたら「昭和維新」の精神をある形で後押しすることになったかも知れない。あるいは反対に、「昭和維新」への警告になっただろうか? あえて大きく言えば、青山半蔵が神道国学に熱中のあまり寺に放火したことは、明治近代以降の国家神道の連中が日本列島全体を焼け野原にしてしまったことを、図らずも予言してしまっている、とは言えないだろうか?
・神仏分離・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動、神道と仏教の関係などについては、今日的知見から、本作の記述を批判することができる。「神道が本来、仏教は外来」という図式は、江戸時代後半以降の神道国学運動・神仏分離廃仏毀釈運動が作った図式であって、歴史的には正しくない。外来の高度な文化である仏教の伝来に刺激を受け、仏教の大寺院をまねた神道の大神宮、仏僧の官職制度をまねた神職の官職制度、仏教の菩薩(ぼさつ)などの固有名詞(人格化された)をまねた神社神道の神々の固有名詞(人格化された)が登場したと考えられる。つまり、大陸の仏教の影響で神社神道は成立した。仏教とともに神社神道はあった。仏教を引き剥がせば「日本古来の固有の神社神道」なるものが出てくるわけではない。・・仏教伝来はいつか? 公伝は6世紀(500年代)と言われるが、仏教「公伝」とはそもそも何か? では仏教「私伝」はあるのか? 「私伝」は6世紀よりも数世紀も前に北九州に伝わっていただろう。その仏教の影響で神道なるものが形を取ってくるということはありうるだろう。いわゆる古墳時代(3~7世紀)には大陸から多くの人びとが日本列島にやってきたことが、今日DNA研究からも実証されている。仏教、儒教、道教、その他多くの宗教(それらはすでに純粋形ではなく混交している)が人々と共に大陸からやってきただろう。では、それ以前は? 卑弥呼(3世紀)は「鬼道」をよくしたと言われる。これは東アジア(だけでなく全世界)にある死者の霊魂と連絡するシャーマニズムの一つだろう。それを神社神道以前の「自然神道」とでも呼ぶならば、これは東アジア(だけでなく世界中)にあるものであって、「日本固有」とは言えない。巨岩や雷電や大風に神威を感じる、またその向こうに大いなる神の力を感じる、これはわかる。それはバビロンにもある感性・宗教信仰であって、「日本固有」とは言えない。明白なことだ。以上は先学の研究によって勉強した、現段階での私見である。
(参考:神社の鳥居はいつからか? ウィキは8世紀からと記し、また、長江流域から南下したビルマのアカ族に似たものがあるとも書いている。また、「たまふり」はいつからか? 675年に天武天皇のために招魂(みたまふり)をした、とあるのが初見だ。そこで何をしたかはわかっていないがウキフネという箱を伏せてその底を女官が10回突く、それによって病気の天皇の生命力の回復を祈る、というものかもしれない。今日では柏手(かしわで)も御幣(ごへい)を振ることも鈴を鳴らすこともお賽銭(さいせん)をチャリンと音を立てて入れることも「たまふり」と言われるが、神の乗った神輿(みこし)を荒々しく上下に揺らすことは神を高貴な客人のごとく接待する「まつり」からは逸脱(いつだつ)しており、かなり最近になって始まったことである、と高内寿夫は述べている(高内寿夫ホームページ「たまふり(1)」)。「昔からこうしてみこしを揺らしてきた、これが日本古来の祭りだ」と言うのは誤りだ、ということだ。7世紀の天武天皇の病気平癒(へいゆ)祈願の招魂(みたまふり)の儀式は、もしかしたら中国大陸の道教の秘術ではないか?(私見) これらは、何が「日本固有」か、軽々に断定すべきではない例だ。)
これらのことは、島崎藤村は書いていない。そういう知見がなかったのだろう。
なお、キリスト教と儒教の比較については、三浦綾子『塩狩峠』の中に議論がある。一部の人の予想とは違い、キリスト教にも親孝行の教えがある(モーゼの十戒にある)。
・中山道の様子がよく分かる。江戸時代の中山道は思った以上に交通の盛んなところだった。青山半蔵の家は中山道の木曽の宿場町・馬籠(まごめ)の本陣。馬籠から西に行くと中津川があり、その当たりから西は美濃国で濃尾平野への展望も開けている。馬籠から東に行くと山の中で、塩尻(しおじり)から右折して、諏訪(すわ)から日光道中に行くか、甲州道中に行くか。今は新宿から中央高速でどんどん行けるが、当時の徒歩の旅は大変だ。
・青山家は、馬籠で先祖代々本陣を務め、大名や日光への使いなど最高級の客を泊めて世話をしてきた。公武合体のための皇室からの和宮(かずのみや)様が江戸に下るときなど、大人数の行列に対しては人足も馬も足りず、近郷からたすけを仰ぎながら世話をしてきた。多少の報酬も出るが、逆に賄賂(わいろ)を要求されることも。青山家は当地では最も古い家柄で、地元の世話役も兼ね、声望がある。だが明治維新で交通の要路は東海道に移り、木曽川沿いの中央本線も馬籠は通らない。今は街道も宿場町も随分さびれるわけだ。しかし自然は美しい。季節の花や果実、恵那山(2191m)の展望などの描写が美しい。山の静かな暮らしもいいものだと思わせる。(私はシティー・ボーイなので山の不便な暮らしはお断りだが。)(それにしても、この美しい山中の地下深くにトンネルを掘ってリニアモーターカーを走らせる必要があるのだろうか? そもそもそんなトンネルを掘って大地震や地盤沈下は大丈夫なのだろうか? あの山中の地下にはウランがあるという指摘を読んだこともあるが・・?)
・時代の変化に取り残された男の悲劇、でもある。思うに、中世スコラ神学を学んでも今は多くの人は理解しない。江戸期に盛んだった朱子学を学んでも明治以降は相手にされない。マルクス主義は一時隆盛だったがソ連崩壊後は人気がない(斎藤幸平が新しい解釈を提示していて期待できるが)。ある時代に隆盛で正統と思われた学問や思想を熱心に学んでも、その後流行が終わるということはあるのだ。平田派国学もそういう憂(う)き目に遭った、ということか。平田派国学を本書では「学問」と呼んでいるが、今日から見れば、それは文献学的研究だけでなく、宗教・社会・政治に関するイデオロギーと言うべきものだ。青山半蔵は平田派国学の人脈を大事にするが、一種の党派を大事にしたと言うことも出来る。だが、平田派国学の理想とした世の中は来ず、同門の仲間も或いは亡くなりあるいは没した。「復古の道は絶えて、平田一門すでに破滅した。」(第二部13章。新潮文庫なら第二部の下巻260頁)との感慨を青山半蔵は抱く。追い詰められていく半蔵の姿が痛ましい。
・青山半蔵は、また一方で、馬籠の本陣の継承者として、馬籠に定位し、地元の世話を懸命にする。人民の新しい時代が来ると信じて。だが、官庁からも地元民からのみ理解されず、かえって奇人・狂人扱いされてしまう。ここは悲劇的だ。彼の「奇行」を人びとは「学問」のせいにする。(本当は飲酒癖のせいかもしれない。)人びとは「学問」の価値を理解しない。青山半蔵がいかに「教えて倦(う)まざる」人であっても。
・これはまた、イエやムラを守るために、自由な個人を圧殺する物語でもある。半蔵は狂人とみなされ家郷の人・家人によって座敷牢に入れられる。大きく言えば、江戸時代もカタチを守るために個人を封殺(ふうさつ)した。明治帝国もまたカタチを守るために個人を封殺した。(森鴎外『舞姫』では高級官僚・相沢謙吉は、エリスを発狂に追い込み、太田豊太郎を帝国のカタチの中に封殺して帰国させようとする。)このことへの異議申し立ての信条が、明治浪曼派(めいじろうまんは)の島崎藤村にはあったに違いない。・・半蔵は座敷牢に入れられた。今の高齢者は「高齢者福祉施設」に入れられる。どう同じでどう違うか? どうですか?(大熊由紀子『寝たきり老人のいる国いない国』参照。1980年代の本。今の福祉は相当に改善しているが。)
・柳田国男(民俗学者)が、学者は芸者・医者・易者(えきしゃ)と同様「者(しゃ)の字の付く者」であって、常民(柳田の概念)とは違う存在だ、と言っている。(念のため、柳田は平田篤胤を継承し「新国学」を提唱していた。)
・・思うに、生涯をかけて一事に懸命に励んでも、報われるとは限らない。むしろ誤解され冷笑されて終わることも多い。青山半蔵もその一人かも知れない。それくらいなら「学問」などに目覚めず、田舎で百姓と商売だけしていればよかったのか? という問いに誘われる。同じことが、野球、ダンス、ピアノなどなどについても言えそうだ。子どものときからピアノの練習を毎日8時間もやってきたが、結局ピアノのプロにはなれなかった。あなたは、どう考えますか?・・・私は、それはそれでよかったのですよ、ショパンコンクールで1位になってもその後ピアノを弾いて生活できるわけではない、ピアノという素晴らしい楽器でショパンやラフマニノフをずっと弾いてこられたあなたの人生は、極めて芸術的で、貴いものですよね、と言ってみたい。
・青山半蔵は「人民」「革命」という言葉を繰返し使う。「革命」は孟子にある言葉だが、本居宣長や平田篤胤に「人民」「革命」という語彙(ごい)がどれだけあるのか知らない。あまり言わないのでは? 島崎藤村は昭和初期のプロレタリア文学運動・マルクス主義の影響を受けて「人民」「革命」と言っているのかも知れない。明治維新の「革命」は本当に「人民」のためになったか? ならなかった。では昭和維新は? 昭和初期に本作を書いている島崎藤村はこの辺を考えているかも知れない・・(思いつきです。国文の方、いかがですか。)本作にも幕末維新時の暴力革命グループが出てくる。水戸浪士・水戸天狗党や薩長維新軍の先鋒(せんぽう)となった赤報隊(維新の正規軍からは排除された)についてはかなり頁を割いている。昭和初期にも過激なグループがいた。井上日召の血盟団(昭和7年)事件や二・二六事件(昭和11年)のグループ。他方左翼革命のグループも大正以来いた(昭和の初めには弾圧されていた)。半蔵は「ひどい血を流さずに復古を迎えられた」「そこがわれわれの国柄」(第一部12章。新潮文庫第一部下371頁)と言う。言うまでもないが、幕末維新には井伊大老暗殺から始まって西南戦争まで(と仮に言おう)、大量の流血があった。この点半蔵の発言は間違っている。だが、「人民」「革命」の問題については、丁寧な論考が必要だろう。
・攘夷について。幕末に、青山半蔵の妻の兄である寿平次は「攘夷は・・『漢(から)ごころ』」だ、「唐土から教わったこと」だ、「ああああ、変な流行だなあ」と指摘する。平蔵は、開国によって小判が流出し物価が高くなりみんなの生活が苦しくなってきたことを挙げ、「排外熱の起ってくるのは無理もない」と言う(第一部5章。新潮文庫第一部の上巻270頁)。攘夷攘夷と騒ぐ時代にあって、それは「漢ごころ」である、と攘夷運動の矛盾を指摘する視点を藤村は書き込んでいる。
・・ここで「漢(から)ごころ」とは本居宣長の概念で、儒学や仏教など中国大陸から来た思想で、日本古来にはないものだ、という意味。寿平次の発言の意味は、神道国学者たちが中国渡来の思想を排撃しつつも中国渡来の「攘夷」を語るとは自己矛盾だ、ということ。
・・なお、「尊王攘夷」という言葉(四字熟語)は実は中国にはない(尾藤正英=東大の大先生)。後期水戸学の言葉だ。孔子には「尊王」はある。孔子に「攘夷」があるかどうかについては、私は疑問に思っている。以下を参照。
以下、かつてアップしたが、
『論語』14憲問篇18に「管仲が桓公をたすけて諸侯に覇(は)たらしめ、天下を一匡(いっきょう)した。…もし管仲がいなかったら、私は髪を結ばず左前に着物を合わせていただろう。」と孔子が言っている。「髪を結ばず左前に着物を合わせる」のは異民族の風俗と一般的には解釈されている。すると『論語』の中にも「攘夷」への方向があった、と解釈することもできる。が、「攘夷」ではなく、尊い中華文明を保持できてよかった、というほどの意味とも取れる。別の個所で「九夷(きゅうい)に居らんと欲す」(『論語』9子罕)「桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん」(『論語』5公冶長)などとあるので、積極的「攘夷」の姿勢を孔子が持っていたとは私には感じにくい。(「髪を結ばず左前に着物を合わせる」のは異民族の風習、とは限らず、別の解釈もありうるか。「ちくはぐで礼にかなわない身だしなみをする」位の意味かもしれない。)孔子には漢民族の文化への強い誇りはあるが、「攘夷」はないのでは?
孟子は、『春秋』を孔子の著とした。「周公が夷狄(いてき)を兼(か)ね」と孟子は言う。(『孟子』6滕文公下9)。ここは、あの朱子でさえ、「兼」を「これをあわすなり。」と注した。貝塚茂樹は「兼(か)ね」と読む。異民族をも糾合(きゅうごう)して理想の社会システム(王道)の中で幸せにした、という解釈だろう。(岩波文庫の小林勝人が朱子の解釈を否定して「兼」を「しりぞけ」と訓読しているのは、後期水戸学の悪影響を受けた誤読に違いない。)まだ「尊王攘夷」という言葉ではない。かつ、孟子は尊王ゆえ覇道(はどう)をしりぞける。「春秋には正義の戦争はない」と言う。(14尽心下224、尽心下2)
漢代の『春秋公羊(くよう)伝』は、尊王攘夷の主張により、国内の諸侯王への抑圧や対匈奴戦争を正当化した。(僖公4に「桓公…攘夷狄」とある。これも四字熟語ではない。)だが、『穀梁(こくりょう)伝』『左氏伝』は趣が違う。(駒澤大学・石井仁の紹介する早大中国史・渡邉義浩の書評による。)
前漢の司馬遷の『史記』の秦始皇紀に、「天下已に定まり、外は外夷を攘す」とある。
宋代の孫復『春秋尊王発微』(11世紀)は尊王攘夷を唱えた。(東京大学中国哲学・戸川芳郎による。)「斉威夷狄を攘し、中国を救ふの功、…春秋天子を尊び、中国を貴ぶ。中国を貴び以(もっ)て夷狄を賤(いや)しむ所以(ゆえん)は、天子を尊び諸信を黜(しりぞ)くる所以なり、…」しかし、「尊王攘夷」の四字熟語ではない。
南宋の朱子は、3(『論語』憲問篇)について、『論語集注』で「周室を尊び夷狄を攘す」と注を付けた。漢文だと「尊周室攘夷狄」となり、「尊王攘夷」という四字熟語の原形が見える。だが、四字熟語ではない。
朱子学は朝鮮・日本にも入り、「尊王攘夷」は水戸学の徳川斉昭『弘道館記』にもある。(東大日本思想史・尾藤正英による。)幕末には「尊皇攘夷」として隆盛。
以上から、「尊王攘夷」は、四字熟語としては最近のもの。その思想の淵源は、「尊王」は周王朝そのものにあり、「攘夷」については孔子は言わず、孟子も中華思想ではあるが後世ほどファナティック(狂信的)ではないという印象だ。漢代に対匈奴戦の気運の中で「攘夷」的思想が語られ、宋代には異民族の圧迫の中で「尊王攘夷」的思想が強く語られた。朱子の尊王攘夷的な思想が水戸学・幕末に流れ込んだ。
「尊王」と「攘夷」は違う。「尊王」は「斥覇(せきは)」でもある。真の「王者」は「覇者」と違い仁徳の力で多くの人を心服せしめる。外国勢力もその徳のある王者を慕い、進んで服属してくる。「攘夷」をする必要はない。mutual respectに基づくグローバルな民の交流の結果世界は平和になり民はますます幸せになる。暴力で攘夷(や討幕)をしようとしたのは、儒学の本来の思想から逸脱(いつだつ)したことではなかったか? と私は言ってみたい。これは現代の課題でもある。
なお本作にもあるが、本居宣長以下国学派は、水戸の朱子学(儒学)の尊王攘夷派とは異なり、外国文化の移入をそもそも排除するわけではない。(ここまで「尊王攘夷」について)
・木曽馬籠の維新前後の変化だけでなく、江戸と木曽馬籠の落差、江戸と東京の落差についても筆を割(さ)いている。詳細は略するが、江戸時代にすでに江戸という大都市と木曽馬籠などの地方とは違っていた。明治以降になると東京と地方の落差は更に大きくなる。島崎藤村は幼くして東京に出て数寄屋橋(すきやばし)の泰明(たいめい)小学校に学んだ。東京と地方の落差を身をもって体験しただろう。冒頭の「木曽路はすべて山の中である。」という言葉には万感の思いが込められているだろう。
・父と子の話でもある。半蔵の父親・吉左衛門と半蔵の違い。半蔵の息子・宗太と半蔵の葛藤(かっとう)。時代社会の急激な変化もあって三世代の生き方は随分異なる。(略)
・社会全体の歴史と青山家の歴史、青山半蔵の内面のドラマを総合的に叙述(じょじゅつ)する、一種の全体小説を目指すもので、読み甲斐(がい)がある。が、歴史の説明が長く、青山半蔵の内面のドラマの要素が薄くなっているかも知れない。この点現代の若い人には読みにくいかも。トルストイ『戦争と平和』やバルガス=リョサ『ラ・カテドラルでの対話』と較べて、どうであるか。歴史の叙述で今日の知見からは疑問に思える点がいくつかあるのは、上述した。
・本筋と関係ないことだが、格助詞「が」の使い方が気になって読みにくい。一例だが「金兵衛が先代の遺物と見えて」(1章。新潮文庫第一部上31頁)の「が」は主格ではなく連体修飾語を作る「が」で、「の」と書いた方がわかりやすい。この類(たぐ)いの用法が沢山あり、読みにくい。
(国学運動の注釈)2025.9.11追記
賀茂真淵(かものまぶち):本居宣長の師。
本居宣長(もとおりのりなが):三重松阪の人。屋号は鈴屋。国学者。「漢(から)ごころ」を排し「神ながらの道」に戻るべきことを提唱。『古事記伝』『源氏物語玉の小櫛(おぐし)』『鈴屋答聞録』『うひやまぶみ』『玉勝間』など。本居大平、本居春庭ほか多くの弟子を育てた。
平田篤胤(ひらたあつたね):秋田出身。本居宣長を継承発展させた人。神道国学運動にとって本居宣長以上にイデオロギーの中心となった人。幕府からは睨(にら)まれた。
平田鉄胤(ひらたかねたね):愛媛出身。平田篤胤の聟養子となった。入門してくる門人を自分の門人と言わず、「先師没後の門人」すなわち平田篤胤の門人だとして扱った。平田派は幕末維新時に圧倒的な人気を持った。
平田延胤(ひらたのぶたね):平田鉄胤の子。篤胤の孫。明治5年に44才で早世した。
大国隆正(おおくにたかまさ):島根の津和野の出身。(つまり森鴎外と同郷。)平田篤胤に学んだ。神道・国学者。島根にオオクニヌシの古跡を発見し復興させた。いわゆる津和野派。原武史(放送大学)「〈出雲〉という思想 ~抹殺された出雲の神々~ 」(島根県古代文化センター主催 島根の歴史文化講座+オンライン 第1講/令和2(2020)年11月1日)は、出雲派対伊勢派、靖国派の図式を用いており、示唆的である。島崎藤村にはそのような言及はない。
なお本作には木曽・美濃エリアに多くの国学者が出てくる。新潮文庫の注釈が詳しい。
(主たる登場人物)
青山半蔵:幕末、木曽馬籠の本陣の子として生まれる。平田派国学を学び、地元民のために尽くそうとするが、最後は狂人と見做(みな)されて座敷牢で死ぬ。島崎藤村の父・島崎正樹がモデル。
青山吉左衛門:半蔵の父。馬籠の本陣をきちんと経営した。功績があって一代限り苗字帯刀を許される。息子の学問に敬意を持っている。
おまん:吉左衛門の後妻。半蔵の継母。(実母・お袖は早世。)
おふき婆さん:半蔵の乳母。
お民:半蔵の妻。隣の宿場の妻籠(つまご)の本陣の出身。
青山寿平次:妻籠の本陣の主人。お民の兄。半蔵とは義兄弟。その妻がお里。
お粂(くめ)、宗太、正己、森夫、和助:半蔵とお民の子。宗太は若くして家を継承し、父親を座敷牢に入れることに。正己は寿平次の養子に。和助が島崎藤村にあたる。幼くして東京に出て学ぶ。
佐吉:青山家の下男。
お喜佐:半蔵の異母妹。近所の上の伏見屋(伏見屋の分家)の清十郎の妻になる。
小竹金兵衛:青山吉左衛門の隣人。伏見屋。造り酒屋もしている。
伊之助:金兵衛の養子。小竹の家を継承。半蔵の理解者。
二代目伊之助:小竹の家を継承。
松雲:万福寺の住職。禅宗。
牛行事の利三郎:牛飼い。半蔵にとって幕末に覚醒すべき民の一人。
宮川寛斎:医者。半蔵にとって国学の師。開国で通商に携わり攘夷派から批判される。
蜂谷香蔵、浅見景蔵:宮川寛斎の弟子。半蔵の国学の仲間。二人は美濃(みの)の中津川の出身。木曽と違い自由に運動が出来た。
勝重:半蔵の国学の弟子。
植松菖助:木曽福島の関所の武士。幕末維新の動乱で悲劇的な最後を遂げる。
本山盛徳:筑摩県の木曽福島の支庁の役人。山林を官有地にし、違反する住民を次々と捕らえた。
多吉、お隅:江戸(東京)の本所(ほんじょ)相生町の人。半蔵を世話する。
以下2025.9.12追記
和宮:仁孝天皇の皇女。公武合体のシンボルとして第14代将軍・家茂(いえもち)に降嫁。その大行列は中山道を東へと通った。
武田耕雲斎:水戸藩。水戸天狗党を結成し軍団を率いて東から西へ移動する過程で木曽馬籠を通った。最後は加賀藩に降伏し敦賀で斬られた。
相良惣三:モデルは相楽総三。相楽総三は、征東軍の先駆とも言える赤報隊を結成し東山道(新潮文庫の注による。厳密には中山道と東山道は違うがここでは説明は略)を東へ進軍するが、偽官軍として捕らえられ斬首された。本作では名前を変えて虚構にしてある。実在の相楽は馬籠から東へ行き伊那路に出たが本作の相良は北上し木曽福島を通る(新潮文庫の注による)。
東征軍の東山道軍:討幕の正規軍の一つで、東山道(同上)を東へ移動、馬籠を通過。総督は岩倉少将(岩倉具視の子)。「王政復古はもう来ているのに、今更、勤王や佐幕でもないじゃないか」と半蔵の友人は言う。半蔵は、新しい世が来ると期待するが、人びとは思いのほか無関心だ。「もっと皆が喜ぶかと思った」と半蔵は溜息をつく。「彼を殺せ(徳川慶喜を殺せ)」という声が東征軍の中からは聞こえてくる。半蔵は、これが私闘であってはならない、蒼生万人(そうせいばんにん)のためであるべきなのに、と疑問を感じる。(第二部3~4章。新潮文庫第二部上157~170頁)
・・この東征・内戦は岩倉や薩長による無用の私闘であったかも知れないとの問いは大切だ。
(参考)原田伊織・森田健司『徹底討論 明治維新 司馬史観という過ち』(悟空出版、2017年)は有益。
(とりあえずここまで。さらに追記するかもしれない。)