James Setouchi

2025.8.23  甲子園について私も一言  8.29一部追記しました。

 

 私はスポーツ論はすでにさんざんやったので、もうやらなくてもいいかなと思っているのだが、K陵高校事件、甲子園の大会途中で出場辞退、という史上初の事件があったので、一言申し述べておこう。なお今年度(2025年)の大会は沖縄尚学(沖縄)が日大三高(西東京)を3対1で破って優勝した。

 

 この文章は、甲子園に熱狂して騒ぎたい人にとっては、うれしくない(耳の痛い)内容が含まれています。ですが、そういう方にこそお読みいただかねばならないと思っています。

 

 

1 不祥事があれば直ちにチーム全体が出場停止、としている時代もあった。なぜか。高校野球は学生野球憲章にのっとり、青少年の健全育成のために行うものだからだ。

 

2 だが、それは厳しすぎる、という意見があり、一人の不祥事でチーム全体が出場停止という事態は避けよう、となった。不祥事を起こしたその一人を学校が特別指導などをすればいいことで、高野連はその子のみを出場停止にすればよろしい、など。

 

3 だが、どのレベルまでなら一部の子の不祥事で、どのレベル以上ならチーム全体の問題なのか? は難しい。K陵高校で取り沙汰されているように(真偽は知らない)、もし監督やコーチ・学校全体も含めて、隠蔽・暴言・暴力の体質を持っていたとすると、数人の子の特別指導や出場停止ではすまず、チーム全体・学校全体の問題として取り組み、改革・改善しなければならないだろう。改革・改善できなければ、廃部もやむなし、ということもありうる。なぜなら、ことは暴力事案であり、刑事事件になる可能性もあるからだ。PL学園は野球部を廃部にした。さすがPLで、学校の考え方に敬意を表する。

 

4 ところで、多くの子はまじめに野球をやっていて、一人の子が例えば煙草を吸った、した場合、その一人の子を特別指導し出場停止にしさえすればいいのだろうか? だが、多くの上手な子・1軍選手の野球の技術指導にコストをかけたあまり、有力選手ではない「補欠」「その他大勢」にカウントされているその一人の子が、野球部の中で参加し生きがいを持って高校生活を送れているかどうか、については、野球部としても学校としても、目が行き届いていなかったのではなかろうか?

 (昔、愛知県の中学でいじめ自殺事件があった。剣道部の道場他がいじめの舞台だった。顧問教師は東海四県剣道大会の事務局で忙しく、また強豪校で「レギュラーにしか目がいかなかったと思われる。校長のプレッシャーもあったとか。あの学校は研究で賞を取り部活動も盛んで「いい学校」」と言われていたとか。その剣道部の補欠のところでいじめ自殺が起こった。しかも1年くらいにわたって100万円という金を脅し取っては豪遊していた。中学生が、だよ。「いじめ」と言うより「暴行・傷害・金品強要・脅迫・恐喝」であり、まず刑事事件事案と言えるほどだ。加害者たちが少年だから将来の立ち直りを信じて少年法で扱っただけで、被害者にしてみればまさに「生き地獄」の日々だったろう。社会背景も含めた詳細なルポがあり、私は衝撃を受けた。剣道は人間を育てるものだと言われてきたが、その剣道部の先生が本当は立派な人でも、ほかに立派な生徒が育っていても、いかに有力選手が大会で戦績を挙げても、結局社会・学校・部活動のひずみの中にあって、目の行き届かないところで取り返しのつかない悲劇的な事件が長い年月にわたって起きていたのだ。自死したその子は、直接存じ上げないが、いろいろ読んでみると、感性豊かで心優しい、とてもいい子だったと私は思う。悔しく、残念でならない。絶対にあってはいけないことだ。)

 皆さんは、どう考えますか?

 

5 まして、勝つために多くの人が血眼になり、プレーの下手な部員を「使えない」「どんくさい」「何をしているんだ」「お前は要らない」「帰れ」などと暴言を吐き続ける(監督やコーチや上級生が)としたら? 暴言が暴力にエスカレートしたとすれば? 暴言や暴力を受けた挙げ句に、自分はチームには要らない子なんだと思い込み、そっぽを向いて煙草を吸っていたとしたら? あるいは、上級生にやられたことの意趣返しで下級生に暴言や暴力を加えていたとしたら? つまり青少年の健全育成ではないところ(勝利や売名)にそのチームの価値観があったことの結果ではないか? 下手でもミスをしても負けても「よくやった」「立派だった」「よく挑戦した」「ファイトがよかった」と言えばいいのでは? いい指導者やいいチームは地方予選で早めに負けるチームにこそ存在する、と言ってもいいくらいだ。

 

6 監督やコーチ(大人。責任がある。イザとなったら失職)が指導するのはよいが上級生・先輩(若い。経験不足で浅慮で暴走しがち)が指導するのはやめよう、という解決策もある。

 だが、そもそも全寮制で、大人が寝た後に後輩を呼び出して殴ったりするのを、どうやって止めるのか?

 

7 上級生・先輩が暴言や暴力を加えていいはずはないが、監督やコーチが暴言や暴力を加えていいはずも、もちろんない。

 

8 実はK陵高校の野球部員は160人くらいいる。これで部員全員に目が行き届くはずがない。沖縄尚学や日大三や横浜や岐阜商業は70人位だった。地方からの出場校では40人くらいのところもある。40人でも多い。こんなに部員が多くてはケアが行き届かないだろう。

 1~3年の部員数が40人の部でも、先発ナインは9人だから、あとの31人は補欠またはその他となる。投手や4番だけでなく1、3塁の走塁コーチやベンチで記録をつけている部員も大事だと私は思うが、マスコミでコーチャーや記録員に注目して報道している回数は、投手や4番に較べて、圧倒的に少ない。「全員野球」と言う割に矛盾している。3年生でもベンチ入りしないで球場の外でファウルボールを拾っている子もいるぞ。そういう子も大事にすればいいじゃないか。どうなんだ?

・・一応紹介しておくが、3年生だけで1軍をつくるという考え方もある。3年は下手でも全員が1軍。負けてもいいから3年だけで出る。そうすれば部員数40人なら、「いずれ3年になったらボクも」と思えるかも知れない。負けてもいい、3年生が出場して後輩の応援を受けて頑張る経験を積む、それが人生経験になり生きる力になる、という考え方だ。

・・・え? 「そんなことにはなるものか」? 「うまい投手がいたら2年でも出すのは当たり前じゃないか」? 「3年になっても技量が低いから投手や4番でなく走塁コーチに回っているのだから、注目されなくても当然じゃないか」? ・・当たり前・当然ですか、本当に? 

 「うまい2年生投手がいれば勝つためにその子を出すのが当たり前」だと思い込んでいるのであって、それは偏った一つの思想です。その裏側にある「3年間球拾いとグランド整備をしてきた子は下手だから、出したら負けてしまうので、出なくて当然」という思想は(それは思想です)、実は3年間の下積みの努力のプロセスの尊さを否定し、能力のある子を出して活躍させチームも勝って監督と学校の名前を売りだそうとする、成果主義・結果主義(それを私は勝利至上主義と呼ぶ)に毒された思想なのですよ。それは「当たり前・当然」では決してなく、偏った思想です。例えば人権・福祉・共生の思想と考え合わせてご覧なさい。野球に限りません。部活動は人間が育つためにやっているはずなのに、勝つためにやる、と本末転倒が起きています。目的と手段が逆転しているのです。(だから私は、勝利至上主義の競技スポーツのみなさんこそ、社会福祉施設に行って奉仕活動をしてみればいいんじゃないか、と思うわけなのです。(後述)

 

9 160人も部員がいたら、全員に活躍させるためには、1軍だけでなく、例えば4軍くらいまでつくって、グランドも四つくらい持って、練習試合などを多くできるようにしないといけません。(それでもまだ足りませんが。)監督やコーチも4倍必要です。そこまで学校が覚悟を決めてコストを投入する学校があるとすれば、その学校は、野球を中心にした学校であり、学力(勉強)や進路補償(進学や就職)や学校行事や他の部活動へのコストの投入が当然手薄になります。学校の持つ資源は無限ではないからです。

 野球部員自身、毎日長時間野球しかしていないので、クラシック音楽も聴いたことがなければ歌舞伎鑑賞に行ったこともない、図書館や博物館や美術館に行ったこともない、社会福祉施設で奉仕活動をしたこともない、だから高齢者や身心に不調を抱える人の人の苦しみがワカラナイ、英語力(毎日2時間くらいは英語をやらないとある程度のものにならない)はもちろん低い、現行憲法と明治帝国憲法の違いも分からない、今の選挙で何が問われているかもわからない、新聞の社説を読み比べて批判するだけの学力もない(18才選挙権なのに)、SNSで垂れ流されているニセ情報をニセと見抜く力もない、学びが希薄で空洞化している、そういう子が沢山いる危険性があります。(それでプロに入って違法カジノなどやらかしてくれるのだから困ります。みんな知っている通り、野球だけじゃないよ。「勝負の世界に生きる者だからカジノとは親和性がある」などとまるで肯定するかのようなまことしやかな言説を述べた愚かな評論家もあるのでさらに大いに困ります。)

 1軍の子は大学やプロに行けるかもしれないが2軍、3軍、4軍のボクはそれは無理だったなと3年の夏に気づいても、もはや学力は取り戻せず、したがって大学は通らず、公務員試験なども合格せず、ああ、どうしようということになりませんか? 野球で大学に行ってそこで挫折した子はさらに悲惨です。あまりめげている子を作らないでほしい。それらの子も本当は純情善良な子なのです。どの子もどの子も幸せになるべきなのに・・「その子の幸せ」「その子が望むから」と称してその子を使い捨て、悲惨な方向に誘導してませんか?

 K陵高校の場合全校生徒が1600人くらい(マンモス校ですな)でそのうち野球部員が160人いるので10人に1人、1割の生徒が野球部員という計算になります。校長の目は野球部に行き届かず野球部が独自の王国を作っている可能性がありますが、加えて、野球部(監督など)の発言力は学校の中で大きいと予想できます。野球部の都合で行事ごとをはじめコスト配分も野球部優先でいろんなことが決まり、野球部ではない一般生徒の学びもしわよせでおろそかになる可能性があります。上記に挙げた野球部員の学びの希薄さ・空洞化が、他の一般生徒にも影響する(クラスの授業レベル・学力レベルがダウンするなど)危険性があります。

 そうして偏った学校をつくって、教育基本法や学校教育法、文科省指導要領に即した学びができるのか? というと、大いに(?)がつきます。これはたまたまK陵高校が有名になったから一例で挙げているだけで、K陵高校は実はそんなことはないかもしれません(ないなら幸いです)。全国の他の有名スポーツ高校は、同じ病気にかかっている可能性があります。よくよく冷静になってお考えになってみると、思い当たる節がおありでしょう。え? 「どこの学校でもやっているから当たり前」? 「他はもっと派手にやっている」? それが間違いなのです。ヨソがやっているから正しいわけでもありませんしね。みんなが病気になっているから自分も病気になっていい、とはなりません。お互い、子供を商品・使い捨てにしていますね。

・・教育基本法の1条に何と書いていましたかな。

 

10 しかも、県外・遠隔地から有力選手をとり、(しかも特待生だったり?)寄宿舎生活をさせ(おお、軍隊や修道院ですな)、親元から引き剥がして部の監督の下でカルト的に身心を支配していく。それを求める生徒個人も家の人も、どうかしてる、と考えたことはありませんか? カルト宗教の見分け方は、親元から引き剥がして集団生活をさせていればカルトかも知れないと疑ってみた方がいい、と或るカルト対策のプロが言っていましたよ。・・それどころか、関東一円の例えば北関東辺りの県で、有力選手が自分の学校に来ずライバル校に行きそうだったら、県外の有名な高校(例えば某有名な名門私立強豪校、関東一円から生徒を取る)に行くように仕向けることもある(そうすれば自分の県では自分の学校が唯一強くなり、甲子園に行ける)とか。これは十年くらい前か? どこかの週刊誌に載っていた。つまらんことですな。大人の欺瞞(ぎまん)に気づかず夢を見て(見させられて)マンモス野球部の中で埋もれていく子が不憫(ふびん)とはお思いになりませんか? 野球だけではありませんよ。サッカーのセルジオ越後という人は、こどもが夢を見てブラジルにサッカー留学したいと言っても、「ブラジルのレベルは甘いものじゃない、子供も保護者もシビアな現実に気づくべきだ」、と昔言っていましたが、無責任でない、良心的な発言だと思いました。

 

11 そこで、結局は最初(原点)に戻ります。果たして、青少年の健全育成の方を向いた野球をしているのか?(そういう健全な野球部もあります。そういう指導者もあります。)それとも、勝って有名になるためにやっているのか? 勝って、名を売って、それで進学や就職も手に入るつもりなんだろう。

 だが、その程度の(学力が足りず様々な経験も足りないというだけでなく、文科省のルールをねじ曲げ誤魔化してやった挙げ句に暴言・暴力がエスカレートし、さらにそれを隠蔽するなどということをチームぐるみでやっているチームの生んだ)人間を、まともな大学や会社が受け入れるはずはない。受け入れるとすれば、大学・会社の不名誉だし、その大学・会社は「終わっている」「つまらない大学・会社だ」と言わざるを得ない。大学は学問・教育をおろそかにして競技スポーツで売名行為、会社はブラック企業でパワハラだらけ(昔の軍隊と昭和の体育会系)、それ以上に「ばれなければいい」「指摘されなければいい」「社会で問題にならなければいい」「文科省の基本方針からずれていてもうまく誤魔化せばいい」「嘘を突き通した方の勝ち」「人間は裏表があっていい」「監督さんや有力者にへいこらして他では弱い者いじめ・悪事をして暮らしてもいい」「勝てば官軍」「勝つために何でもする」式の人間が育ってしまうことが、問題なのであります。

 新渡戸稲造は野球は隠し球などをするので卑怯であって、「武士道」に反する、と批判しました。野球だけではありません。トリックプレーをするスポーツはすべてこれにあたります。「所詮ゲームじゃないか」と言うなかれ。そこで学んだ「卑怯な」「トリックプレー」を実社会で応用している人がいるじゃありませんか? 

 ちなみに私の周りにいる野球好きの人は日常においてそんなずるいことはしません。お互いが幸せになることをいつも考えています。勝つためにやっていないみなで仲良くなるためにやっている野球だからできるのです。その方がいいではありませんか? いかがですか?

 ほかの種目も同様です。サッカーは肩で人を突き飛ばし、バスケは人の持っているボールをはたき落として奪います。そういうメンタルの子に育ってしまいませんか? 私の周囲にいるサッカー人やバスケ人で善良な人もいますよ、もちろん。でも試合の時だけは鬼になる? いやいや鬼のメンタルが日常生活でも出ませんか? と言っているのです。世の中には穏やかで高齢者や障がい者に対して優しい笑顔で接していつもお世話をする人もいます。そういう場で人を突き飛ばす「鬼のメンタル」など役に立ちません。もっとひどいのはプロレスで、有名なヒーローのレスラー(あえて名を伏せます。知っている人は知っています。)は、審判の見えないところで相手の指を折ったり眼球に指を入れたりしました。やられた人が証言しています。そういうヒーローをマスコミが宣伝し大衆が騒いでいたのです。くわばらくわばら。

 私はよく分からないのですが、人間は生まれつき(本来)他の人間のものを奪ったり他の人間を突き飛ばしたり他の人と争って勝ちたいと思ったりするものなのでしょうか? ちょっと疑問なのです。「奪え、突き飛ばせ、争って勝て、このラインに沿って真っ直ぐ走れ、他の子よりも早く!」と教えられ(教育され)、そういう存在に育ってしまっているのではないでしょうか? 大人しい、他の人に迷惑をかけたくない、こころやさしい、できれば他の人と分け合って微笑みあって幸せに過ごしたいという存在なのではないでしょうか? 少なくともそういう人はいますよね。そういう穏やかな子を、無理やり「争え、奪え、たたきのめせ」という戦士のような存在に育てていくのは、ある時代の間違った(偏った)思想軍国主義や社会進化論や市場経済や新自由主義などの)によるものではありませんか? キリストは言っています「柔和な人は幸いだ、彼らは地を受け継ぐであろう」と。どうですか?

 

 「人間は本来他と争い合う存在であって、戦争で殺し合う代わりにその代替物としてスポーツをしているのだ、スポーツはいいものだ」と思い込んでいる人へ。更科功(分子古生物学)は『絶滅の人類史』(NHK出版新書、2018年)で、コンラート・ローレンツらの、人間は殺戮を行う存在だ、とする見方を否定して言っている。「人類の歴史をいわゆる『血塗られた歴史』とする考え方は、現在では誤りとされている。」(240頁)「多くの人が力を合わせられることが、人類の特徴だ」「私たちには、闘うための牙がない。逃げるために速く走れる足もない。・・それでも何とか生き延びてこられたのは、みんなで力を合わせたからだ」(247頁)・・そうです。人間は本来助け合い生かし合う存在なのです。人間同士が殺戮をし相手を奴隷にするなどの愚かなことを始めたのは、バビロン文明から数えてもたかだか数千年前という短期間にすぎません。ホモ・サピエンス誕生以来30万年、人類誕生以来700万年と言われますが、バビロン文明以降などと言うものはそれに較べれば、ついさっきのことにすぎません。もっとふかいところ、心や魂や精神の、別の言い方をすればDNAの一番深いところには、争わず助け合って生き延びる、という本性が、人間には組み込まれ、存在しているのだと私は思います。だから「人間は本来争うものであって・・」「だから競争力をつけるためにスポーツをさせよう」という言い方は、そもそも間違っているのです。

 

12 もちろん、無責任にヒーロー(や悪役)を作り出して騒ぐマスコミや一般大衆も大いに間違っています。多分気付いていないと思いますけど。ここで気づきましょう。(マラソンの円谷(つぶらや)幸吉青年(あのまじめな若者)を追い詰めて死なせたのは誰ですか? 剛速球の伊良部投手を追い詰めて死なせたのは誰ですか?)(戦争のときは戦争をマスコミが煽りましたが、そのマスコミに煽られまたマスコミを煽ったのは、一般大衆でしたね。積年の愚民化政策の結果でもあります。ああ、ローマは民衆に「パンとサーカス」を提供し愚民化しました。腐敗した支配者たちが利権を独占し、結局ローマは滅びました。)

*国民に人気があって国民の大多数が支持しているから正しいとすれば、国民が熱狂する戦争も正しいのですか? とサンデルが問いかけていました。この問いかけに、世界のマスコミ人が沈黙していましたね。国民が熱狂する五輪や甲子園なども同様です。

 

13 というわけで、あやまちの根本は成果主義、勝利至上主義にある勝ちにこだわる本末転倒にある。無責任に勝利至上主義(や悪役たたき)でさわぐ大衆社会とそれを出現させた愚民化政策にある。全部のチームが(野球だけでなく多くの種目で)思い当たることがあるはずです。

 皆が頭に血をのぼせることなく、落ち着いて事態を見つめ、賢明に考え、勝ちや成果にこだわらず、自分を生かし人を生かすいい野球を(スポーツを)やっていきたいものです。よい世の中を支えているのは、大多数の、そういうまじめな、健全な判断の出来る、良識ある、普通の人たちなのです。そう思いませんか? 中学や高校で球児だったが甲子園にも行かずプロにもならずしかし近所の草野球のチームで人を幸せにしている人が偉いのです。土日や休日にスポーツ中継をしていたずらにヒーローを作り出してあおり消費する(結局は使い捨てますが)するのはやめましょう。今のままでは、スポーツ・ヒーローを煽り立て、選手たちも犠牲になりますが、一般大衆も愚民化してしまいます。それより時事問題の深掘りを(Nスペやクロ現のような)してはどうですか? 「東京五輪は、やるべきではなかった」という問いはまだ解決していませんよ。私はそう考えます。どうですか? いつの日かオータニサンをみんなでたたき始める日がくるのですか? 怖ろしいことです・・

 

14 ユニフォームを揃え、競技場を整備し、大会を構え、スポーツ協会理事・役員が威張り、マスコミとタイアップして、勝った勝ったと騒ぐから、堕落するのです。

 ・・神戸の震災後の廃墟の中で絶望しかかっていた子供たちが、サッカーボール一つで遊び元気を取り戻したと言います。南アフリカの路上でサッカーをする子供たちもいます。スポーツの本義は「気晴らし」です。そこにユニフォームも競技場も大会も協会理事もマスコミの宣伝も要りません。人を幸せにするスポーツとは? 人間を生かすスポツとは何か? そもそも学校教育の意義とは? 教育基本法に何と書いてあるか? 根本に戻って考えてみましょう。

 

(必読書)

元永知宏『殴られて野球はうまくなる!?』講談社+α文庫 2017年

永井洋一『スポーツは「良い子」を育てるか』NHK生活人新書 2004年

橋本克彦『オリンピックに奪われた命』小学館文庫、1999年

中村敏雄『オフサイドはなぜ反則か』三省堂選書、1985年(平凡社ライブラリー

                            で読める)

 

(参考書)

織田淳太郎『巨人軍に葬られた男たち』新潮文庫、2003年(もと1997年単行本)