James Setouchi

2025.8.15

 

島崎藤村『春』 新潮文庫にある。      

 

1        島崎藤村

 1871(明治5)年長野県木曽郡馬籠(まごめ)に生まれる。14才で東京に遊学(銀座の泰明小学校で北村透谷の後輩)、高輪台町教会で受洗、明治女学校の英語教師となるが、明治26年教え子との恋愛事件で学校を退く。教会も退会。関西旅行。『文学会』創刊に参加。明治29年東北学院の作文教師として仙台へ。明治30年帰京。詩集『若菜集』。日本近代詩を確立した画期的な詩集と言われている。明治32年信濃の小諸(こもろ)義塾の教師になる。秦フユと結婚。明治34年詩集『落梅集』。明治38年上京。明治39年小説『破戒』(自費出版)(日本の自然主義文学運動のスタートとなった)。明治41年『春』(青春時代を題材にした自伝的作品)を朝日新聞に連載開始。明治43年『家』(これも自伝的作品)連載開始。妻フユ死亡。明治44年『千曲川のスケッチ』発表。大正2年姪との不倫事件でフランスへ。大正5年ロンドン経由で帰国。大正7年『新生』(姪との関係を題材に描く)。大正8年『桜の実の熟する時』(『春』の姉妹編)刊行(大正2年から書いていたが中断していた。)。昭和3年加藤秀子と結婚。昭和4年~5年『夜明け前』(父をモデルとし、日本の近代を問い直す)を発表。昭和18年『東方の門』執筆中に脳溢血で倒れて死去。(東京書籍の国語便覧、明治書院の『日本現代文学大事典』などをベースにして作成した。)

 

2 『春』明治41年東京朝日新聞に連載。

 

 面白い。若い頃は彼らのやっていることが痛ましくて読むのに難渋(なんじゅう)したが、今再読すると色々な意味で面白く読めた。

 

 島崎藤村ら『文学界』派(明治浪曼派)の若者達の、日清戦争(明治37~38年=1894~1895年)ころの青春を描く。文学を通して新しい精神革命を起こそうという気概と、ままならぬ苦しみと、若さ故の恋愛問題、生活苦の問題などが折り重なって描かれる。明治以降西洋の文学も入ってくるが、他方元禄の大家(西鶴のこと)が復活した時代でもある(4)。尾崎紅葉の流行(露伴の流行と共に紅露時代)を指しているのだろう。

 

 モデルを記しておくと、

青木=北村透谷。青木操=北村美奈=透谷の妻。実はその父は自由民権の大家・石坂昌孝で、八王子エリアの出身だが本郷の竜岡町辺りに邸宅があり、民権浪士が出入りしていた。透谷もその一人と言える。なお、美奈は、透谷没後に渡米しのち帰国、教師となったが、これは後の話。青木鶴子=北村英子(ふさこ)=透谷の娘。門井慶喜に『夫を亡くして』という小説(2025年朝日新聞連載)があり、帰国後の美奈が主人公で、大きくなった英子が少しだが出てくる。岸本捨吉=島崎藤村。市川=平田禿木(とくぼく)。菅=戸川秋骨。岡見兄弟=星野天知と星野夕影。足立=馬場孤蝶。陶山=山路愛山(やまじあいざん)=透谷の論争相手。安井勝子=佐藤輔子=婚約者・島討豊太郎と結婚するがまもなく病没。菅千春(男)=戸川残花(戸川秋骨とは別人)。森下兄=植村正久=有名なキリスト教伝道者。福富=上田敏=『海潮音』で有名。堤さん=樋口一葉(ひぐちいちよう)=若手女流作家。(新潮文庫末尾の三好行雄による。)

 

 このように、明治半ばの『文学界』派を中心に若者達が大勢出てくる。もちろん、モデルに還元して読みさえすれば作品が読めたことにはならない。むしろテキストのみを読むべきであって、モデル論は排除すべきだという言説もある。但し藤村自身は明らかにモデルを意識して書いている。読者に、モデルを想起しながら読んで下さいね、という仕掛けの小説になっているのは明かだ。但し、史実そのものではなく、あるかたちで虚構になっている。藤村が自己弁護のために隠蔽したこともあろうし、文芸上の効果を考えて誇張・粉飾している箇所もあろう。それらのすべてを逐一チェックすることはここではしない。本来はすべきかも知れない。(例:森鴎外は実在のエリスや鴎外自身に対して作品『舞姫』のエリスや太田豊太郎をどう虚構にしたか、は大事な視点だ。)

 

(登場人物)

岸本捨吉=主人公。若い仲間と共に新しい文学・文芸運動をしようとしている。女学校の教え子(婚約者がある)に恋をして苦悩、出奔して各地を放浪。実家(兄が背負っている)の破産にも遭遇。では、これからどう生きるか? という小説。

青木=捨吉の兄貴分のような存在。かつては侠客・壮士と交わり政治運動もしたか。今は結婚し幼い女児もある。激越な調子で現代社会を批判するが、文筆が思うように進まず、苦悩、遂に自死に至る。出身は小田原、親の家が数寄屋橋にあり、芝公園にも住んだ。

青木操=青木の妻。青木の情熱にほだされて結婚したが、生活は苦しい。小田原の国府津(こうず)の寺に住んだり東京の芝公園に住んだりする。

青木の母=数寄屋橋で商店を営む。強い女性。

安井勝子=盛岡の出身。「盛岡」の符丁(ふちょう)で呼ばれる。父は政治家。東京の麹町の女学校に学ぶ。婚約者もあるが、捨吉と恋愛関係に陥り悩む。婚約者と結婚するが・・

豊子=勝子の妹。

麻生=勝子の婚約者。植物学者。

=友人。木挽町に家がある。善良な人物。箱根の女性に恋をして苦しむことに。

市川=友人。一高生。岡見の妹の涼子と恋愛しそうになるが・・?

岡見兄弟=家は大伝馬町の鰹節問屋。兄は有名な伝道師。弟は清之助で、これが主人。

涼子=岡見の妹。伝馬町に住む。病気。市川を慕っているが・・

峰子=西京にいる女性。「西京」の符丁で呼ばれる。捨吉より3才上。何かと捨吉の世話をしたが、捨吉はそこを去った。捨吉に懐剣を贈る。

磯子=青森の女性。符丁は「青森」。岡見を慕っている。優秀で気性のまさった女性。岡見と結婚する。

陶山=青木の論争相手。文筆で成功している。青木に仕事を紹介する。

日本橋石町(こくちょう)の糸問屋の大将=捨吉の実家が懇意にしている人。

捨吉の叔父=大川端に住む。

民助=捨吉の兄。父亡き後一家を背負ってきた。人がよく、欺かれて破産し刑務所に入る。

お秋=民助の妻。

弟=二番目の兄。北清に軍隊関係で行っている。

母=田舎(山中の旧家)から出て来て同居。

父=幕末維新時に志を持ち、病み、縛られ、没。

幸平=捨吉の三番目の兄。無為徒食(むいとしょく)の人で、捨吉たちに寄食している。

堤さん=若手女流作家。貧しい中で一家を支えて頑張っている。

 

(コメント)まだ考えがうまくまとまらないところから書き始めている。

 大枠から言うと、明治40年前後に青春小説の競作が為された。藤村『春』、漱石『三四郎』、鴎外『青年』、田山花袋(かたい)『田舎(いなか)教師』などはいずれも当時の若者の煩悶(はんもん)を描く。地方から東京に男女の学生が出てきて、「青春」時代を過ごす若者たちが多く出現したので、彼らが登場人物でもあり、また読み手でもある小説が多く書かれたのだろう。そこでは、新時代の思潮・倫理観、立身出世願望や恋愛も含めて、いかに生きるか、が問われた。(平岡敏夫に研究がある。)但し藤村の『春』が描くのは明治40年ではなく、それより十年ほど前の、日清戦争頃の青春を、振り返って描く。明治27年頃に「青春」の当事者であった藤村が、過去を振り返って、明治41年頃に書いた、というわけだ。*念のために申し添えるが、『三四郎』や『青年』は東京帝大周辺のエリートの(卵の)青春だが、明治の若者は全員がエリートだったわけではない。上京したがうまくいかず落魄(らくはく)し困窮(こんきゅう)して暮らした者も多い。

 

 漱石『三四郎』と比較できる。

 藤村『春』は日清戦争頃の青春、舞台は東京、箱根、小田原など。彼らは西洋の知識に強く、女学校の教師など仕事を持つ社会人。キリスト教会の周辺にいる。生活苦が表に出てくる。新しい文芸運動をしようとしているが必ずしもうまくいかない。上の世代のキーパーソンは出てこない。隅田川近辺の風情や漢詩・和歌などに、江戸以来の名残がまだ濃厚だ。日清戦争に狂奔する世相への批判はある。

 対して漱石『三四郎』は日露戦争戦勝後の青春、舞台は東京、しかも本郷の東京帝大。彼らは帝大生でエリートの卵。つまりまだモラトリアム。田舎の実家は豊かで、生活苦は表に出てこない。広田先生という上の世代がキーパーソンとして出てくる。地方出身の若者から見た東京の新風俗が次々と描かれる。江戸情緒はほとんどなく(寄席くらい)、むしろ西洋渡来の香水ヘリオトロープや西洋絵画、新しいものが多く出てくる。日露戦勝で酔う日本人への「亡びるね」という決定的な批判がある。(注1)

 

 先にも書いたが、本作の隅田川近辺には、江戸以来の下町の町人たちの生活がある。この東京は、超高層ビルの東京や電脳都市TOKIOとは随分違う。季節の鳥や花も息づいている。だが、そこはやはり首都であり、文化の最先端であり、若者が夢を持って集まる場所だ。女学生も東京にいる。地方出身の有力者の娘や妹だが、キリスト教系の女学校で学び、しかるべき相手と結婚するために上京しているのだ。(フェミニズム的にいいか悪いかは別として。)上野の池之端(いけのはた)、湯島(ゆしま)、麹町(こうじまち)辺りが頻出(ひんしゅつ)。東京小説ではある近代にあって長く続いた「東京一極集中」の初期の姿が描かれている。貧富の差も書いてある。捨吉の兄は欺かれて破産し刑務所に入れられる。そこには生活苦に苦しむ人たちがたくさんいる。地方も没落する。古い士族や大名の参勤交代(さんきんこうたい)相手の旅籠(はたご)は立ちゆかず、しかたなく東京に出てくる。

 

 青木が苦しんで自死するところは読んでいて大変辛い。青木は今で言えば鬱病になっていたのだろう。適切な治療が必要だった。当時の医学が未熟だったとは言える。だが本人の病の問題とのみ処理すべきではない。時代思潮・社会システムの問題かもしれない。(今の私たちだから分かることだが、日清日露戦争を通じて軍産複合体ができあがっていった。それにともない自由の精神は失われ、時代の精神が体制化し閉塞していくことを、感受していたかもしれない。透谷はそうだったろう。)もしかしたらそれをどう受け止めるかの思想(思考回路)の問題かも知れない。原稿料・活躍の場の問題かも知れない。(例えば漱石は教師として新聞社員として定収と活躍の場があった。)透谷を生かし得ない社会にこそ大きな問題があったと私は思う。山路愛山や徳富蘇峰は当時の売れっ子ライターだが、果たしてそれでいいのか? と今日からは問える。

 

 青木と捨吉は似ている、とある。青木は倒れたけれども捨吉は青木が種をまいたところに立って、その事業を継続したいと思う(112)。青木と捨吉の違いはここでは不明確だ。青木には体力が無く、捨吉には体力があると繰り返し書いている。「自分のようなものでも、どうかして生きたい」(132、ラストシーン)と捨吉は言う。思想も論理も不明確でも、体力・生命力だけはあって生き延びてきた面はある。思索することをやめて(思考停止して)時代の波に乗って生きる人もある。例えば、戦前は右、戦後は左、世の中に右の人が増えたらまた右、と動く人たちだ。それが正しい人間のありかたとも言えない。みんなが戦争に夢中だから自分も時代の波に乗って戦争を肯定し戦争に参加しよう、として何が起きたかを思い出せば明白だ。だが捨吉は、思考停止だけはするまいとしている。思想も論理もまだ不明確だ、ともかくも生きてはいる、しかし思考停止だけはするまい。こういうところに捨吉はいるような気がする。(藤村自身は『春』以降も個人的に問題を起こしつつ、自己と社会を捉え返す作業を、彼なりに続けていく。)(注2)

 

 藤村は自伝的にこれを書いている。教え子との道ならぬ恋に煩悶して出奔(しゅっぽん)するとは。田山花袋『蒲団(ふとん)』と同じく自分の内面を「告白」することに意味があると考えたのだろうか。自然主義文学の嚆矢(こうし)となった。以上は文学史の教科書に書いてある。以下は文学史の教科書には書いていないが、無頼派(ぶらいは)の元祖のような面もあるなと感じた。太宰、あるいは西村賢太のような、自己破壊的な何かかがあり、それを実行しては書いていく。もちろんそれがすべてではない。

 

 三十歳前の人、社会に対する自己の生のスタンスが確立していない若者の、自分探し、仕事探しの物語でもある。捨吉は女学校で英語教師をし、教会の仕事をし、文筆をこととしている。思うところあって教会を辞め、女学校を辞め、筆一本で立とうとかけ声をかけても、ままならない。実家は破産した。いっそ陶器の絵付けをしようかと入門するが、1日でついえた。蔵書を売って金に換える。友人に金を無心する。高尚な理想とは裏腹に生活苦が押し寄せてくる。何事もうまくいかず涙を流した。ある知己を訪問すると、思いがけず仙台に仕事があるという。捨吉は思いきってそこへ行こうとする。就職が決まるときはそういうものかもしれない。(なお藤村本人は仙台の学校で仕事をするが、1年でやめ帰京。それは後の話。当時は終身雇用ではなく、職場を変わる人は多かった。漱石『野分』の白井道也先生=内村鑑三がモデル)もしばしは職場を変えている。

 

 物語の縦糸は、捨吉と勝子の関係。勝子は有力政治家の娘で、盛岡出身、東京のキリスト教系女学校で捨吉の生徒だった。許婚(いいなずけ)があるのに、捨吉は勝子に恋心を抱き、手紙を渡す。(これは教師はやってはいけないことの筈(はず)だが・・?)捨吉は悩み迷って出奔し関西を旅行(その過程で西京の峰子のお世話になるが、そこをも逃げ出す)。関東に戻り友人の配慮で勝子に会って問題は解決せず東北に旅行(20)。青森(八戸)には磯子がいるが1週間で帰京(24)。帰京して自死の誘惑に誘われ、頭を坊主にしてみたり乞食のようにふらふら歩き国府津(こうず)の青木を訪ねてみたりする(42)。この時確かに捨吉は恋心ゆえに死んでしまうかも知れなかった。捨吉は複数の女性に恋心を抱きふらついているように見える。許婚のある勝子への恋情が一番にあるが、それが不可能と分かっていながら思い切ることもできないままで、他の女性に目を向けたりしている。結婚生活は物質的な裏打ちも必要というのは青木の例でわかっているはずだが、捨吉は物質的な裏打ちもないままふらふらしている。いきなりで悪いが、所詮は渇愛(タンハー)の為せるわざだ。若い頃は真剣に悩むだろうが、大人から見れば煩悩でしかない。

 

 捨吉の悩みは恋の悩みだけではない。青木が自死し、実家が破産する。これらは捨吉にとって大変大きな痛手となる。捨吉は自分自身を見つめ、自分の中に虚飾がある、掏摸(すり)のような面もある。自分の「真面目」「正直」すらも信じられなくなる。(124~125)

 

 青木は恋愛至上主義的な言説を掲げ実人生に敗れて自死した。ここから単純に教訓を学べば、恋愛至上主義は間違っている、恋愛の情熱だけでは生活していけない、恋愛などしなくて良い、まずは生活が成り立つように政略結婚でも何でもするがよかろう、ということになってしまう。その結論を書いた作品であろうか? だが、捨吉は悩むことをやめない。情熱(煩悩)を捨て去り思考停止に陥り世の大勢に流され政略結婚に従うのが正解だとは書いていない。そこが理想主義者=浪漫派であるゆえんかもしれない。但しポジティブな印象はない。破れかぶれの印象が強い。(やはり無頼派だ。)

 

 勝子は、迷う。但しこれは捨吉サイドの視点で書いているので、勝子自身がどれほど捨吉に思いがあったかは読者にも不明だ。勝子は結局親の定めた規定ルートの通り許婚の勝子と結婚する。が、新婚まもなく亡くなってしまう。これも捨吉にダメージとなる。勝子の死因はつわりと心臓病と神経過敏と書いてある(104)。「神経過敏」の四文字に捨吉との関係とそれにともなう家庭内のトラブルを匂わせたのかも知れないが、そう明記しているわけでもない。が、ここは、恋愛の情熱を否定し親(政治家、有力者)の決めた(政略)結婚をしても幸せになるとは限らない、と書いているとも読める。人生は1回しかない、どう生きても1回だ、どうせ死ぬなら好きな人と結婚したいかも知れない? どうだろうか? 

 

 青木の妻・操は、女友達が出世を誇る姿を見て、嬉しくない思いをする。「貴方のところの旦那さんは今、幾何(いくら)お取りなさるの」と女友達は考えている。(22)青木は理想は高いが現実には貧しい。操は「耐(おさ)え難い口惜(くや)しさと、虚栄を厭(いと)う心と、執拗(かたいじ)な反抗心」とを感じる(22)。ここで見る女友達は結局年収の高い方が好きだ。ここは、夫のもたらす財産と地位と名誉が好きという意味だ。青木はそうではない道を選んだ。操の選択はそれでよかったのだろうか? 操も悩む。だが、人生はどうせ1回しかないなら、好きな人と結婚して苦労するのも一方かもしれない。青木が自死してからのことは本作には書いていない。モデルの北村透谷が自死した後、北村美奈は渡米して十年以上を過ごし、帰国後は職業婦人として過ごした。「自立した女性」の先駆者となったとも言える。その深い内面の苦悩については、知らない。夫が亡くなると、次の夫と再婚する、妾になる、などの女性も当時は多くあっただろうが、美奈はそうではない道に飛び込んだ。(社会福祉的な観点から言えば、財産も地位も名誉もないごく普通の人が幸せに生きられる社会をつくればいいのでは? 今はそれが少し実現しかかっている。当時はそうではなかった。明治の社会は格差の大きい社会だった。)

 

 捨吉の仲間達は、それぞれに自分の為すべきことを見つけて進んでいる。捨吉だけがいつまでも為すべき方向が見えないで焦っている。窮迫(きゅうはく)した捨吉が本作の末尾辺りで見つけたのが、東北(仙台)の職だ。これで収入を得られるし、「旅も出来る」(127)=東京からも脱出できる。

 

 少し気になることがある。「脱出」「出発」へのこだわりが捨吉にはある。それは「逃避」でもあるが今の捨吉にそれを突きつけるのは酷(こく)かも知れない。浪曼派は「今・ここ」ではない世界を希求する。それはよくわかる。藤村の場合姪(めい)に手を出してフランスに「脱出」「出発」(「逃避」)した。藤村にはこれがつきまとう。ここから逆算すると捨吉も仙台に「脱出」するわけだが、そこに行きさえすれば万事問題が解決するわけでもあるまい。ただし、逃げ出さず地元に踏みとどまって(「大地」に足を踏まえて)じっくり腰を据(す)えて対応すべきだ、と口で言うのは簡単だ。が、地元に踏みとどまりさえすればいいのでもない。問題はどこにいても(地元にいてもどこかに行っても)存在し続ける。現実があり理想への希求があり、人間がその中で或いは引き裂かれながら苦闘して生きることに変わりはない。そういう意味では、「生き延びるために」いじめの激しい学校やパワハラのある部活動に見切りをつけてどこかに行っても一向に構わないのだ。「置かれた場所で咲きなさい」と悟ったような顔で言うなかれ。あなたはひどいいじめを受けたことのない方だ。殺される前に逃げよ、と今は言う。

 

 漱石は『道草』末尾で「世の中に片付くなんてものはほとんどありゃしない」と健三に言わせている。健三は「遠いところから帰ってきた」男だ。漱石はロンドンから(書物の世界から)東京に(現実の人間関係の世界に)帰ってきた時の様子を『道草』に自伝的に描いた。

 

(注1)余談だが『坊っちゃん』の時代設定はいつか? 日清戦争頃か、日露戦争頃か? 漱石の松山中学赴任は日清戦争頃で、作品執筆は日露戦争頃だ。 

 「天麩羅(てんぷら)事件を日露戦争のように触れちらかすんだろう。」(三)とあり、「クロパトキン」の名もある(十)ので、日露戦争当時に設定しているとされる。「街鉄の技手」にラストでなった。月給25円、家賃6円とある(十一)。「街鉄」が東京市街鉄道株式会社だとすると明治36年以降の会社で、日清戦争直後ではあり得ない。漱石ロンドン留学中在宅の妻子の休職月給は25円だったという。理科の学校を出た専門家で明治38年頃の「街鉄の技手」の月給が25円というのは、どうなのだろうか、知らない。

 だが、山嵐が「日清談判」の歌をしきりに歌う(九)から舞台設定は日清戦争当時だが、「おれ」の語り(回想)が日露戦争頃に行われたのだ(「クロパトキン」も先の「日露戦争のように」も日露戦争を知っている「おれ」の語り、と頑張って解釈することもできる。「街鉄の技手」も、「当時は馬車鉄道、今で言えば街鉄」と解釈すればできなくもない。明治28年に馬車鉄道の「技手」の月給がいくらだったか、知らない。これら物価から明治28年か38年かがわかるかもしれないが、詳細な研究が必要だろう。私にはわからない。

 赤シャツが読んでいる『帝国文学』は、明治28年1月創刊で明治38年にもあった。漱石の松山赴任は明治28年4月。清が死ぬのは「今年の2月」。これらは作品の時代設定を推定する根拠にはならない。

 もしかしたら漱石は時代設定をあいまいにしたまま書いている(短期間で書き上げた)のであって、時代設定を確定する試み自体が無駄なのかもしれない。

 

(注2)脱線するが、ある人が聞いた、「作家はどうしてみんな自死するのですか? 透谷も有島も芥川も太宰も三島も川端も自死していますよね?」と。

 これに対してどう答えるか? 

 作家がみな自死するわけではない。透谷は死んだが明治浪曼派の藤村は長生きした。有島は死んだが白樺派の志賀直哉と武者小路は長生きした。芥川は死んだが同時代の佐藤春夫も谷崎潤一郎も長生きした。太宰は死んだがその先生の井伏鱒二は長生きした。同年代の大岡昇平も長生きだ。三島は死んだが同世代の安部公房や遠藤周作は長生きした。川端は死んだ(実は長命で72歳で自死)がもう一人のノーベル賞作家・大江健三郎は長生きした。その他その他その他。長命の作家は沢山いる。

 確かに作家は他の人より鋭敏で傷つきやすかったりするかもしれない。悪い時代の雰囲気が作家を痛めつけているかもしれない。作品が売れず苦しむこともあるかもしれない。しかし、作家が片端から多く自死しているわけでは必ずしもない。長生きしている作家も結構いる。文学をやれば原理的に死ぬことになる、というわけでもない。思考停止して売文業をすれば儲かって長生きできる。(国策翼賛作家になって人を死なせるが。)売文業にならなくてもしっかり思索してよい作品を残して長生きした人もいる。(とりあえず漱石と鴎外と大岡昇平と安岡章太郎とわれらがオーケンと池澤夏樹を挙げておこう。(漱石は50歳で亡くなったが今ならもっと長生きしているだろう。)透谷は売文業で流行作家になり成功することを嫌った。藤村はどうだろうか。