James Setouchi

2025.8.13

 

映画(実写)『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(再掲)

 

 『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』という映画をTVで見た。福原遥の女子高生が戦時中にタイムスリップし特攻隊の水上恒司に恋をするという物語だ。特攻隊ものというと戦争を美化しがちなので警戒して見たが、必ずしもそうではなかった。

 

「戦争は何の意味があるのか?」「お国のために特攻で死ぬ」よりも「愛する人と生きたい」という問いが入っていた

 

 板倉という特攻隊員は逃亡し戦後を生き延びる。こんなことが実際にできたかどうかはわからないが、そういう要素を入れていた。「国家のために死ねば愛する家族を守ることができる」わけでは必ずしもない。むしろ正反対かも知れない。「悪しき独裁政権が倒れてくれた方が愛する家族を守れる」かもしれないのだ。

 

 実際、戦場で父親や夫や息子が死んだために、遺族は貧しく大変な苦労をしたが、戦後の平和国家・福祉国家のお蔭で何とか生きて教育も受けられたのだ。

 

 吉本隆明が「共同幻想と対(つい)幻想は逆立する」と言ったのは有名だ。(『共同幻想論』。)国家は家族など人々の生活のリアルな現実を必ず守るとは限らない。

 

 「国家のために死ぬ」ことと「家族を守る」こととは違う。むしろ、

 「愛する人のために生きる」ことの方が「家族を守る」ことになる

 

 「国家を守る」ことと「家族を守る」ことも実は違う。悪しき独裁国家の場合を考えてみれば明らかだ。

 

松元雅和『平和主義とは何か』中公新書2013年・・是非お読み下さい。

 

 今(2025年)あの独裁国家でもその独裁国家でも、外から見ていると国民を死なせるばかりで、国民のためになっていない。(また、隣国や周辺の住民を死なせるばかりで、隣国や周辺の住民のためにも、言うまでもなく、なっていない。)よその国のことなら見えやすい。だが、かつてのわが大日本帝国もそうだった。いくら大東亜解放戦争のつもりだったと強弁してもダメである。国民を兵士として使い捨て特攻で殺し、隣国や周辺の住民をも多く死なせ、指導者達は他の人のせいにしてのうのうと生き延びた。あんな戦争はそもそもしてはならなかった。

 

 どんな戦争もしてはならない。その過程で弱い者が踏みにじられるからだ。戦時性暴力はその最たる例だ。経済的徴兵制(貧しい人をお金で釣って兵隊にする)もそうだ。空襲で人々の家が焼かれるからだ。工員が軍需産業で過労死するからだ。民需が圧迫され物資が窮乏し食べるものがなくなるからだ。思想と言論を統制し弾圧し自由がなくなるからだ。国策に忠実な人とそうでない人を分けて差別を拡大するからだ。皆が狂信的になって不寛容になるからだ。互いが互いをスパイではないかと疑い始め社会の信頼関係が崩壊するからだ。「ウチの子は戦死したのにあんたのところの子はのうのうと生きておる」と悪口を言い憎悪だらけの世の中になるからだ。

 

 「国家のために戦争をして死ぬのが正義」といった偏った思想を蔓延(まんえん)させてはならない。今も無責任にそういう思想をばらまく人がいる。実にけしからぬことだ。問題は「アメリカに押しつけられた歴史観」でも何でもない。一般の日本国民に対して当時の国家がつまらないひどい国家だった、というだけのことだ。そういうつまらないひどい国家は他にもあり、現在もある。それを改めて国民のための国家にしていくべきなのに、改めることをせず、アレは正しかったとばかり声高に言うのは、よろしくない、間違っている。皆を不幸にする思想だ。

 

・福原遥の女子高校生は、敗戦が近いことと戦後の平和と豊かさを知っているので、それを特攻兵たちに順を追って教え、終戦工作・平和運動、百歩譲って全員の脱走に尽力してもよかった。が、それは一介の女子高生には無理というものか・・? だが、戦時中でも兵役を拒否した人、特攻を拒否した人、戦争に反対した人は、少数だが、存在した。灯台社の明石順三、新興仏教青年同盟の妹尾義郎、日本共産党のあの人やこの人、内村鑑三を継承するグループ(矢内原忠雄ら)もそうだ。

 

 丸谷才一『笹まくら』は徴兵忌避者を主人公とする小説。丸谷には『徴兵忌避者としての夏目漱石』という論考もある。これは日清戦争の場合だが。漱石は鴎外とは違う。漱石は日清戦争時戸籍を北海道に移して徴兵逃れをした。鴎外は陸軍の軍医で日清戦争・日露戦争に参加した。国家・軍隊に対するスタンスが違う。

 

鴻上尚史『不死身の特攻兵』は必読。特攻命令を受けても死なずに生き延びた。

 

市川ひろみ『市民的不服従の理念と展開』(明石書店、2007年)は未読。求めれば他にも多数の研究がすでにある。

 

・いろんな感想を見ていると、予想通り特攻を讃美しているのかなと取れるコメントもないわけではなく、映画を正しく見ていないか、全体に勉強不足か、知っているが意図があってわざとそう言っているのか、表現が未熟なだけか、と感じてしまった。特攻は志願と言いながら実際は同調圧力を含む事実上の強制であって、背後には若者がそこへと追い詰められた社会状況(思想統制や教育など)があるわけで、この点を勉強しておかないといけない。「お国のために死なれた」とイージーに言うべきではなく、「純粋な若者が、悪しき軍国主義のせいで犠牲にさせられた。他方で悪徳業者や悪徳政治家や悪徳高級軍人は戦争で稼ごうとした。多くの国民がクレイジーな選択に誘導され戦争に熱狂した」と言うべきであろう。明治以降の軍産官学政・報道の複合体制ができてしまったのは、いつだったのか? では現在はどうか? そこを勉強すべきだ。

 

・特攻は「志願者」で構成される建前だったが、飛行学校の仲間は肺病になろうと部屋の隅の埃をわざと吸った。別の隊員は出撃時に機体を違う方向に走らせて事故を起こして生き延びた。「福岡市には、出撃に失敗した特攻隊員を収容する施設があったと多くの証言が語る。」「逃げたら福岡送り」が脅し文句として使われていた。選択肢はなかった。」これは、2025年8月15日(金)朝日新聞東京本社25面「戦後80年 特攻の大義 薄らぐ「影」」という記事に特攻に送り出す役目をやらされたある方(現在100才)の証言として書いてある。

 

・貧しくてひがんで将来に夢を持てないでいる悲観している女子高生が、戦時中にタイムスリップし、愛する人の死を経験し、現代に戻ってきて、今与えられている平和を実感し、感謝しつつ自分の人生を生きようと立ち上がる物語でもある。一人一人が自覚を持って立ち上がることは大切だ。が、すべてを一人一人の自己責任として押しつけてはいけない。一人一人が立ち上がれるようにケアしサポートするのは、為政者の責任だ。学費減免、生活費補助、医療費減免などは為政者のまずなすべきことだ。映画では福原遥の母親役の中嶋朋子の貧乏と過労でやつれた姿が残酷だった。明日は倒れるかも知れない。そうすれば入院費がかさみ、福原遥の大学進学の可能性はやはり消える。「戦時中でないからいい世の中になった」では済まされない。今現に困っている人がいるのだ。

 

 国家(為政者)の為すべきことは、国民を兵士にして殺すことではなく、国民の生活を保障し、国民に教育を授け、国民が愛する人とともに安心して夢を持って生きていけるようにすることだ。選挙の自由があるうちにそういう為政者を選んでおくことだ。ヒトラーのようなのが出てきたら大変なことになる。