James Setouchi
2025.11・15用 読書会資料
ジョン・スタインベック『怒りの葡萄(ぶどう)』
John Steinbeck〝The Grapes of Wrath〟
1 スタインベック 1902~1966
ノーベル賞作家。アメリカのカリフォルニア州モンテレーに生まれる。スタンフォード大学に学ぶが作家を志しニューヨークへ。1937年『二十日鼠と人間』が成功を収める。1939年『怒りの葡萄』出版、大論争が巻き起こり大いに荒れる。1942年『月落ちぬ』、1952年『エデンの東』、1961年『我らが不満の冬』。1962年ノーベル文学賞受賞。1966年南ベトナム戦線を視察。1968年死去。(集英社世界文学事典などによる。)
2 『怒りの葡萄』(野崎孝訳)
1939年、作者37歳の時の出版。当時アメリカは大恐慌後の経済立て直しのためにフランクリン・ルーズベルト大統領がニューディール政策をとるが、その後経済政策の失敗などもあり深刻な不況に陥っていた。中部オクラホマ州などでは砂嵐が猛威をふるい深刻な危機が訪れた。機械化と生産の効率化を進める大資本はトラクターで農民を追い立てる。追い立てられた農民は、カリフォルニアに行けば働いて生活できると聞き、車を並べて西へ西へと大移動する。
トム・ジョードの一家も、無学だが善良で、大地にしがみついて懸命に生きていた。だが、上記の社会背景の中ですべてを失い、一台のポンコツトラックに家財道具を積み込み、カルフォルニアへ向けて移動する。同行するのは、じいさま、ばあさま、おやじ、おっかあ、長兄ノア、トム、弟アル、妊娠している妹ローズ・オブ・シャロン、その夫コニー、幼いルーシーとウィンフィールド、ジョン伯父、そしてもと説教師のケイシーである。
多大の犠牲を払い、大変な苦難を乗り越え乗り越えしてやっとたどり着いた≪約束の地≫カリフォルニアは、しかし、決して楽園ではなかった。一見美しく整備された農地だが、そこは巨大な農業資本が徹底的に管理しており、ジョードたち同様仕事を求めて流入してきた多数の流れ者がいて常に失業し難民化し差別されていた。今まで以上の苦難が一家を襲う。そしてどうなるのか? 以下は読んでのお楽しみとする。
この小説は当時のアメリカの貧しい農民の現実を描いており、そのあまりの過酷さに賛否両論が巻き起こった。出版の翌年ピューリツァー賞受賞。またヘンリー・フォード主演で映画化。さらに、この本は、2004年4月「東大教師が新入生にすすめる本」の1冊にも挙げられている。アメリカ政治外交史の久保文明教授が「1930年代のアメリカ南部の貧農の様子もよくわかります。」と言っている。
3 感想
アメリカは20世紀において世界一豊かな国とされ今も世界中から狙われているが、1930年代にはこういう厳しい貧富の差があった。いや、今もある。社会経済的事実としてこのことを忘れてはならない。が、この作品にはもっと大切なことがある。
ジョード一家は12人プラス1人で、キリストと12人の弟子の数と同じ。≪約束の地≫を求め苦難の旅をするのは、アブラハムやモーゼの率いるイスラエルの民と同じ。本文中には聖書がしばしば引用され、もと説教師ケイシーやおっかあやトム・ジョードの口を通して、現代の過酷な状況の中で人間にとって救いとは何か? が繰り返し問われ語られる。思えば人間の生活は、人類が始まって以来、つねに苦難との戦いであり希望への旅であったのだ。この小説は1930年代の貧農の悲惨さをリアルに描き、左翼的な思想を語る小説とみなされ激しい攻撃にさらされたこともあるが、そうではなく、過酷な現実の中でそれでもなお生き続け、誇りを持って何かを求め続け、隣人へも愛を与える、アメリカの大地に生きる民の不屈の生命を描いた傑作だ、その姿は時代社会を超える、現代においても我々はこの作品から慰めと励ましを受けることができる、と私は感じた。
4 登場人物
トム・ジョード:若者。かつて喧嘩で友人を殺し刑務所にいた。仮出所で故郷に帰り一家の担い手になる。
父ちゃん:トムの父。
母ちゃん:トムの母。一家を支える柱。
祖父ちゃん:トムの祖父。かつてはインディアンを殺して土地を手に入れたと自慢する。
祖母ちゃん:トムの祖母。「神の栄光をたたえよ!」が口癖。
ジョン伯父:父ちゃんの兄。かつて妻を病死させたことがあり罪の意識におののいている。
ノア:トムの兄。変わり者で一人で過ごしたがる。
アル:トムの弟。兄が自慢。自動車修理が得意。女の子とデートしたい。
ローズ・オブ・シャロン:トムの妹。コニーと結婚し妊娠している。その名は旧約聖書雅歌第2章「わたしはシャロンのばら、谷のゆりです」(聖書協会訳)から取っている。バルザックの『谷間の百合』とも関係があるのか?
コニー・リヴァーズ:ローズの夫。トム一家と行動を共にするが・・
ルーシー:トムの妹。12歳。まだ子ども。
ウィンフィールド:トムの弟。10歳。幼い。
ケイシー:もと説教師。トム一家と行動を共にするが・・
ジョー・デイヴィスの息子:トラクターの運転手。大資本に雇われて、村の農地や家をならす仕事をしている。
ミューリー:オクラホマの農夫。妻子と別れ故郷を離れられず無人の村に住み着いている。
プリティ・ボーイ・フロイド:母ちゃんがいつも口にする男。警官に憎まれ殺された。
アイヴィー・ウイルソンとセアリー:国道66号線沿いで出会った夫婦。トム一家と助け合う。
エホバの証人の女:カリフォルニアに入ってすぐの所にいた女。祖母ちゃんが死にかけているのでお祈りをしてあげると言いに来る。
フロイド・ノウルズ:カリフォルニアのフーヴァーヴィル(注1)で知り合った若い男。
ティモシー・ウオレスとウィルキー:政府のテント村で知り合った父子。
トマス:小農場主。良心的。
ジム・ローリー:政府のテント村の所長。善良で親切な人。
リズベス・サンドリー:テント村にいる狂信的な女。人びとを悪魔呼ばわりし嫌われている。
ジェシー・リトルフィールド:テント村の夫人委員会の委員長。
エズラ・ヒューストン:テント村の中央委員長。
ウィリー・イートン:テント村の娯楽委員長。
ジュール・ヴィテラ:テント村の半分チェロキーの男。
カリフォルニアの保安官補たち:金持ちの味方。流れ者を追い詰めてひどい目に遭わせる。
フーバー農場の商店の小男:フーパー農場に雇われている。
ウェインライト一家:有蓋貨車の隣人。アギーはそこの娘。トム一家と助け合う。
納屋にいた父子:川の氾濫で避難した納屋にいた父子。父は餓死寸前。
5 詳細な議論
前回は野崎孝訳で読んだが、今回あらためて黒原敏行訳(ハヤカワepi文庫、2014年)で読んだ。訳は読みやすかった。「訳者あとがき」によると、
「怒りの葡萄(The Grapes of Wrath)」という言葉は、南北戦争時の北軍の行進曲「共和国賛歌(The Battle Hymn of the Republic)」から取っている。Wikiで見ると、「私の眼は主の降臨の栄光を見た 主は、怒りの葡萄が貯蔵されている葡萄酒醸造所を踏み潰す(Mine eyes have seen the glory of the coming of the Lord:He is trampling out the vintage where the grapes of wrath are stored;)となっている。
さらにこれは、新約聖書ヨハネ黙示録14章19~20節に由来する、と「訳者あとがき」は言う。手元の新改訳(英語は国際ギデオン協会のもの)で見てみると、まずヨハネ福音書14章9節以下に「また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、その者自身も、神の怒りの杯に混ぜるものなしに注がれた、神の怒りのぶどう(the wine of the wrath of God)を飲むことになり、また、聖なる天使たちと子羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。・・」とある。14章19~20節では「そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどう(the vine of the earth)を取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶(the great wine-press of the wrath of God)に投げ入れた。搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百ステディオンにわたってひろがった。」とある。これは、言うまでもなく恐るべき終末の風景である。(救済される者にとっては待望の風景。)
北軍の共和国賛歌の作詞者とスタインベックがどのような聖書(例えばギリシア語からなど)を読んでこの題名にしたのか知らないが、共和国賛歌はキリスト教のイメージと自分たちの軍隊のイメージを重ねて正義の戦争を語るものだ。(これで世界各地を攻撃されてはたまらないね。私はアメリカ文学を読むことからあわかりだろうが結構親米的なのだが、南北戦争はいざ知らず、昨今の侵略戦争を聖戦・正戦と自称するのはどうかと思いますよ。)スタインベックは、本作を読んでみると、共和国賛歌とヨハネ黙示録のイメージを重ねつつ、ぶどうを収穫する農夫たちが巨大資本に理不尽に搾取されている、大地(農地)が化学工業的農法によって破壊されている、このような搾取と支配には近いうちに神の鉄槌が下る(恐るべき終末は近い)、ばく進する共和国(アメリカ)はこのままでいいのか、という問いなどなどを本作の題名に込めたではなかろうか?
本作は、社会主義的なメッセージを含む、という見方もあるが、私には、それよりも、キリスト教的なメッセージに満ち満ちているように感じられた。もちろん狂信的なクリスチャンへの違和感も書き込んでいる。が、題名やケイシーの造形を始めとして、キリスト教的なイメージが随所に散りばめられ、読者はその連想の中で作品を読んでいくように意図的に作品は作られている、と私は感じた。トムの一家が大移動して約束の地カリフォルニアを目指すのは明らかにアブラハム一行やモーゼの率いる一行が約束の地カナン(パレスチナ地方)を目指すのと同じだ。
或る人のブログを読んでいると、スタインベックの祖父は19世紀に一家と共にドイツからパレスチナ(オスマン帝国統治下、またイスラエルは建国していないとき)に移住した。なぜパレスチナに移住したか? キリスト教徒として終末・再臨の日に備えるためだった、その後悲劇的な事件が起き、アメリカに移住。最初はフロリダだったが、西へ移動してカリフォルニアに移住した、とブログ氏は言う。(岡江門という人の「深読みLIFE OF PIE&読みたいことを、書けばいい」というブログの99話。)どこまで本当か私は知らないが、興味深い指摘だ。すると、『怒りの葡萄』で、一家が約束の地を求めて移動する、行った先は必ずしも素晴らしい土地ではなかった、神の導きはどこにあるのか、また一家の中に終末思想が流れている、などは、スタインベック一家の中に実際にあったことだ、ということになる。
1930年代、トム一家はオクラホマ(注2)のサリソー(オクラホマシティより東にある)の近くの出身で、干ばつ、砂塵、銀行への借金などで土地を奪われ、家財道具を二束三文でたたき売って、夢の国(と信じられた)カリフォルニア(注3)へと、おんぼろの車を国号66号線(注4)を走らせる。途中の出来事も面白い。巨大な産地があり、コロラド川があり、砂漠がある。アメリカ大陸のどでかい風景が浮かんでくる。ついに到着したカリフォルニアの果樹園は美しく整備されている。
しかしそこは決して楽園ではなかった。あふれる労働者・失業者。労賃は安く買いたたかれ、不服を申し立てる者は直ちに「アカ」と呼ばれ追放される。警察も資本の味方だ。弾圧してくる雇われ警備員やならず者たち。国内難民と化した貧しい農民たちは、住居にも困り、食費にも移動のためのガソリンにも困る。これは本当に悲惨だ。悪いのは銀行であり資本主義のシステムだ(とは明示していないがそういうことだ)。零細農民が土地を奪われ、大資本がトレーラーですべてをならしていく。労働者の連帯は弾圧される。おお、これはまさに現代に起こっていることではないか? だがそれも、みな「食ってかなきゃいけない」からしていることなのだ。
祖父ちゃんは死ぬ。祖母ちゃんも死ぬ。ノアはコロラド川で暮らすと言って去った。(ノアは「いわば〝独りだけの箱舟〟で家族から離れていく」「人と人の関係から逃れて生きたいという希求もさりげなく描き込む。」と黒原敏行は「訳者あとがき」で書いている。)コニーもローズを捨ててどこかへ行った。ケイシーは無残な殺され方をする。トムは結局再び人を殺してしまい逃亡するしかない。ジョン伯父さんは自分の悩みに付き合うばかりで頼りにならない(彼は「自分は罪深い人間だ」と繰り返すだけの人間だ。彼はキリスト教徒の一面を代表している。)ローズの赤ちゃんも死産だった。葬式も十分に出してやれない。彼らの苦難の旅は続く。
だが、彼らが出会う人びとにも少しずつの親切がある。ハンバーガー・ショップの女は子供たちのためにお菓子を負けてくれた。廃車工場の男はボスのずるいやり方を批判しながらトムに親切にする。フーパー農場の商店の男は会社に叱られるから無理だ、といいながら母ちゃんの言い分に負けてわずかな融通を利かせる。母ちゃんは「親身になって助けてくれるのは貧乏な人―貧乏な人だけなんだ」(26章)と言う。彼らには周囲の人の親切を引き出す力がある。同じ境遇のウィルソン夫妻やウェインライト夫妻とは助け合う。政府のテント村の人びととは力を合わせて共同生活ができた。人間は助け合うことが出来る。(大災害の時オキシトシンが出て「助けに行かなきゃ」といても立ってもいられない気持ちになることが今日では知られている。人間は本来助け合う存在として危機を乗り越え生き延びてきた。)
もと説教師のケイシーは、「みんなには助けが必要なんだ」(6章)とトム一家と行動を共にし、他の男の罪を平然とかぶる。最後は酷い殺され方をする。ケイシーはキリスト教の説教師であることをやめた。キリストの教えへの違和感を繰返し語る。しかし彼の実践したことは、言わばイエス・キリストと同じ。罪亡くして殺され、強烈な印象を人びとに残す。他に狂信的なキリスト教徒が出てきて、トム一家が迷惑を感じる描写もあるので、キリスト教を直ちに全肯定している作品ではない。だが、反キリスト教(非キリスト教)の隠れ蓑をかぶった、しかし実際にはキリスト教的な(利他的な、愛の)精神を持った作品だと私は感じる。
トムはケイシーの影響を受ける。旧約聖書『伝道の書』4章9節以下の「二人は一人にまさる。・・」を口にし、言う、「おれはよくあのテント村のことを考えるんだ・・あれを国中でやればいいじゃないかと思うんだ」「おれはみんなで怒鳴ってやったらどうだろうと思ってるんだ」「ケイシーが言ったとおり、人間てのは自分だけの魂を持っているんじゃなくて、大きなひとつの魂のひとかけらかもしれない」(28章)これらを何となく読むと、本作は、貧しい労働者が団結して社会主義か共産主義の社会を作ればよいと言っているかに見える。資本の暴走への批判はある。今のままでは人びとが収まらない、会社のこんなやり方はいずれ行き詰まる、という予言めいた言葉が本作のあちこちに描き込まれている。だが、直ちに無神論的な社会主義や共産主義と言えるかどうかは分からない。協同組合主義あるいは原始キリスト教共同体的な何かかも知れない。エマソンの「大霊魂主義」に近いという意見もある。(上優二「『怒りのぶどう』にみる「生と死の循環」─「私自身の歌」との比較考察」(創価大学英文学会『英語英文学研究』巻 37, 号 1, p. 1-16, 発行日 2012-09-30)に論考がある。)トムは洞窟に隠れ(イエスも同じ←先述のブログ氏岡江門氏にも指摘がある)、ラストでいなくなるので、続巻があればその新しい共同体運動のリーダーとして復活・再登場するのかも知れない。そう、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャが続編で革命家になって再登場するかも知れないのと同様に。
エホバの証人(注5)が18章に出てくる。ここに注目してみる。エホバの証人の女がトムたち一家に祖母ちゃんのためにお祈りをしにくる。母ちゃんはエホバの証人の女に対して「いい人たち」だが「何か我慢できない」と言う。それに続く部分でもと説教師ケイシーのことを「あたしが集会を断ったのも、あの人のせいかもしれない。あの人は人間のやることこそ正しいんだって考えるようになってるからね」と母ちゃんは言う。ここでエホバの証人の神信仰との対照がなされ、母ちゃんの価値観の置き所がキリスト教的な神信仰から人間重視へとスライドしていることが示唆されている。本作序盤では祖母ちゃんの「神の栄光をたたえよ」という口癖をはじめ素朴な南部の田舎のキリスト教徒らしいあり方が描き込まれる(浸礼をするのでバプテストか? 異言を語るのは、ペンテコステ派? ぴょんぴょん跳びはねるのはどこ? おわかりの方、ご教示下さい)が、中盤から終盤ではそれは消え、母ちゃんたちの心の置き所が大きく変化しているとも言える。
22章では、政府テント村にいた狂信的なリズベス・サンドリーは、貧困の社会・経済的現実を直視できず、テント村所長を悪魔呼ばわりする。所長は忍耐強く彼女に付き合う。ここからは、既成のキリスト教会の狂信が社会・経済的現実に対して現実的な処方箋にならないばかりか却って弊害になるというスタインベックの視座が読み取れる。言うまでもなく、当時の保守的なキリスト教会の人びとはこれを読んで反発を感じただろう。だが、果たしてどうか。(注6)
母ちゃんは言う、「あたしらは死に絶えるってことがない。みんなの命はずっと続いていくー少しずつ変わるけど、続いていくんだよ」(28章)ここには、人間の生きる力への信頼が歌われている。確かに人生は困難だ、しかし生きていくし、生きていける。ここで「神様は見守って下さる」と母ちゃんが言ってもいい場面だが、そうは言っていない。冒頭第3章にカメが出てくる。カメは不屈の生命力、精神力を持って前進する。このカメはなぜ出てくるのだろうか。母ちゃんたち人間も、このカメと同じように不屈の生命力、精神力を持って前進していくことの比喩であろう。
だが、ラストはどうか。母ちゃんの生命力をローズが継承する。ラストシーンは強烈だ。ここが本作最大のヤマ場だろう。このラストを書くため本作は書かれたのかもしれない。(ネタバレだが)ローズの赤ん坊は死産だった。(赤ん坊は箱に入れられ洪水の中を流されていく。幼いモーセがナイル川に流されたように?)しかし、ローズは、母ちゃんとの目くばせで黙契のうちにわかり合い、自分の張った乳を見知らぬ飢えた男に与える。(ルーベンスの画「ローマの慈愛」に同様のテーマがある。←これも先述のブログ氏岡江門氏の指摘から。)ローズの唇には「神秘的な微笑みが浮かんだ。」(野崎訳では「謎のような微笑を形づくった。」)それは「神秘的」で「謎のような」営みだ。人間はこうして人間の力を越えることがある。人間はこのようにして自分の生命を人に与え人を生かして共に生き延びていく。これは人間の生命力、助けあいの力への信頼であると同時に、人間中心主義の姿を借りたキリストの教えそのものではないか? と私は感じた。既成教団の教義はともかく、底流に流れる根本のキリストの教えそのものにはスタインベックは共感するものがあるに違いない。今の資本家の搾取の体制が近いうちに崩壊すると各所で匂わせている(終末論)のも同様だ。だが、解決策は、暴力革命ではなく、母ちゃんの共に生きる姿勢とローズの与える愛にある、と読むべきだろう。(続編でトムが再登場したらわからないが。)
子どものルーシーとウィンフィールドの動きがかわいい。実によく書けている。トムとアルも頼りになる若者に育った。ローズもコニーがいなくなってめそめそしていた女から、生きる覚悟を決めた女に変貌する。ルーシーとウィンフィールドもいつか頼りになる若者に成長する。
家族はこうして次の世代へとつないでいく。だが、子どものいない家族はどうなる? ウィンフィールドも危うく死にかかった。だが本作ではトムの一家の物語として描きつつも、貧しい農民・労働者全般が群れとして生き延びる、という面も強調している。「怖ろしい事態から逃げてくる人たちー彼らの身には不思議なことが起こる。その中にはひどく残酷なできごともあるが、人間への信念(野崎訳では「信頼」)を永遠に燃え続けさせるくらいに美しいものもあるのだ。」(12章)
本作はトム一家の物語と、当時の貧しい農民・移民たち全般の物語を、交互の章で描いていく。ラストのローズの奇跡は、トム一家の個別特殊のできごとではなく、人類普遍のできごととなる。これは、トム一家の物語ではなく、人類普遍の物語だったのだ。
補注
注1 フーヴァーヴィル:大恐慌後フーヴァー大統領(共和党)の失政で多くの貧民が生まれたとして、貧民
の集まる村をフーヴァーヴィルの名で民主党サイドが揶揄したもの。各地にあった。
注2 オクラホマ:アメリカ南中部にある。先住民(インディアン)の土地を取り上げ白人が住み着いた。このことは本作では少し出てくる。黒人も多いが本作には出てこない。1930年代には本作に描かれたとおり干ばつと砂塵で農家は壊滅、国内難民となって西部へと大挙移住、オクラホマの人口は激減した。移住先のカリフォルニアでは「オーキー」と呼ばれて差別された。
注3 カリフォルニア:1850年にアメリカの31番目の州となった。1930年代には工場などの労働組合もあったが、農業労働者は組織されず労働は過酷で報酬は少なかった。一部に農業ストライキがあったが弾圧された(wikiによる)。
注4 66号線:シカゴからカリフォルニアのサンタモニカを結ぶ国道。アメリカ大陸を東西に大横断する。TVドラマなどにもよく出てくる。
注5 エホバの証人:19世紀後半にチャールズ・ラッセルが創始したが1917年からジョセフ・ラザフォードがリーダーになった。いくつかの教義の変更と信者の交代があった。1931年に「エホバの証人Jehovah's Witnesses」という名称を採択。輸血禁止で有名だが、国歌斉唱や国旗への敬礼・礼拝を偶像崇拝として禁止、三位一体を否定、終末論を強調する。アメリカでは長らく差別の対象だったが他方一定数の信者がある。本部は現在NYのブルックリン。エホバの証人が注目する「14万4千人」が天の王国に挙げられて救われるという記述は、ヨハネ黙示録(エホバの証人は「啓示」と約する)の14章3節にある。「怒りの葡萄」の由来となった文言は同じ14章の9節以下および19~20節にあり、3節と近いところにある。終末論を強調するのは他の団体にもあり、本作では18章でトムたち一家に祖母ちゃんのためにお祈りをしにくるのはエホバの証人でなく他の団体でもいいはずだが、スタインベックがわざわざエホバの証人という名前を出したのは何か理由があるのだろうか? なお、あとで出てくる狂信的な女リズベス・サンドリーの所属団体は書いていない。
注6 補足・整理すると、ジョン伯父もキリスト教徒だが罪の意識を言うばかりで現実に対応できない。祖母ちゃんは「神の栄光をたたえよ」が口癖だったが死んでしまった。ケイシーは従来型のキリスト教に疑問を感じ説教師をやめる。エホバの証人の女は「いい人たち」だが母ちゃんは違和感を感じる。狂信的な女リズベス・サンドリーは迷惑な存在だ。このように、既存のキリスト教会やキリスト教徒のあり方に疑問を呈し距離を置きつつも、しかしケイシーやトム、また母ちゃんやローズのありかたは、イエス・キリストのそれでありキリスト教徒のそれである、特に終末論的な期待がこめられ、神は今の社会の不正を許さず鉄槌を下すだろう、とスタインベックは書いている、と私は読んだ。
参照したブログ・論文
深読み探偵 岡江門という人の「深読みLIFE OF PIE&読みたいことを、書けばいい」というブログの99話(2020年2月11日)。←他ブログで恐縮だが、有益だった。アップして頂いてよかった。ためになった。少し疑問のところもあるが今回は措く。
上優二「『怒りのぶどう』にみる「生と死の循環」─「私自身の歌」との比較考察」(創価大学英文学会『英語英文学研究』巻 37, 号 1, p. 1-16, 発行日 2012-09-30
上優二「スタインベックの「ノーベル文学賞受賞演説」 ─文学と人間」(創価大学英文学会『英語英文学研究』34 (2), 1-10, 2010-03-01)
黒原敏行のハヤカワepi文庫の「訳者あとがき」も有益だった。
参考
『ハツカネズミと人間』(大浦暁生 訳) 新潮文庫
1937年、作者35歳の時の作。『怒りの葡萄』の2年前だ。訳者あとがきによると、スタインベックの世界と言えば「カリフォルニア、とりわけサリーナス近辺の自然や歴史と密接に結びついている」。本作もサリーナス(サンフランシスコの東南)の25マイルほど上流のソルダードが舞台。
木曜日の夕方から日曜日の夕方までの4日間の出来事。貧しい渡り(雇われ)農民のジョージとレニーの物語だ。衝撃の悲劇である。
(登場人物)(なるべくネタバレを避けて)
ジョージ:渡り農民。小男で知恵が回る。レニーを掘っておけず一緒にいる。
レニー:渡り農民。大男で怪力。頭の回転がゆっくり。善良だがいつもトラブルに巻き込まれる。小動物をかわいがる。
クララおばさん:ジョージとレニーの世話をしてくれたおばさん。故人。
キャンディ老人:農場の老掃除夫。片手をケガしている。自分が役立たずでお払い箱になることを恐れている。
親方:農場の親方。小柄な男。
ホワイティ:農場の鍛冶屋。
クルックス:農場の馬屋係。唯一の黒人。孤独に暮らしている。
スリム:農場の男。ラバ使い。大男。人望がある。
カーリー:親方の子。小さいがボクシングの腕があり、大きな男を見るとケンカを売る性癖がある。派手な女房が男たちのところに行くので嫉妬してイライラしている。
カールソン:農場の男。たくましい大男。
ウィリアム・ラナー:3ヶ月ほど前にこの農場で働いていた男。
ホイット:農場の若い男。
スージーかあちゃん:売春宿のおかみ。
アンディ・クッシュマン:ジョージやレニーの初頭中学校の友人。悪い女のために刑務所に入った。
カーリーの女房:派手好きな女。女優志望だったがこの農場に嫁入りし、不満を募らせている。口実をみつけては男たちの所を訪れ、トラブルのもとをつくる。
(あらすじ)(ネタバレします)
渡りの農民、ジョージとレニーは二人で仕事をしている。レニーは善良だが気がつかずいつもトラブルを起こしては仕事をクビになる。ここの農場でもトラブルを起こさないようにジョージは十分クギを刺しているのだが・・二人は、働いて金を稼ぎ、いつか自分たちの農場を持とうという夢がある。その夢にキャンディ老人も参加する。レニーは自分の農場で兎を飼いたい。レニーは小動物が好きなのだ。だが、怪力を不用意に用いるので、ハツカネズミや仔犬を思わず殺してしまう。・・農場の親方の子ども、カーリーが因縁をつけて不用意にレニーに殴りかかり、レニーは怪力でカーリーの拳を潰してしまう。カーリーはレニーを憎む。カーリーの女房はレニーに関心を持ち言い寄るが・・(ここから完全ネタバレ)レニーはパニックに陥り思わずカーリーの女房の首を折ってしまう。カーリーはレニーを殺そうと躍起になる。男たちがレニーを探す。・・ジョージはレニーが男たちにリンチされる前に自分の手でレニーを射殺した。その痛みをスリムは気付いていた。
(コメント)
無用な、役に立たない存在を射殺するシーンがある。まず、キャンディ老人の老犬。これを射殺し、新しい犬を飼うよう、男たちは言う。キャンディ老人は、老犬と長年一緒に暮らしてきたのだから、とためらうが、男たちに言われ渋々承諾する。カールソンが射殺する。キャンディ老人をスリムが慰める。キャンディ老人は、自分の手で老犬を殺してやるのだった、と呟く。この話が伏線になり、後半ではレニーが射殺される。レニーは悪意はないのだがカーリーの女房を殺してしまい、男たちに狩られることになってしまった。男たちに殺される前に、親友のジョージがレニーを射殺する。残酷な目に遭う前にひと思いにというわけだ。この話は残酷だ。犬については、「役に立たない」存在でも生きていていいはずだし、射殺するのは残酷で非情だと私は感じたが、これが西部のアメリカ人の家畜を飼う人々の感覚なのかと思った。いや、ここは文化論で捉えるべきではなく、レニー殺害の伏線と読むべきだろう。共同体にとって「役に立たない」ものは排除される。この論理でいいのか? という作家の異議申し立てがひりひりと伝わってくる気がする。飼い主のキャンディ老人自身が農場で「役に立たない」存在であり、いずれはお払い箱にされる暗い予感を持っている。人間はさすがに射殺はされないだろうが。レニーについては、図らずも殺人を犯してしまった。その上カーリーの個人的な恨みの感情もあって、レニーは捕らえられればひどい目に遭わされることが明白に予想できる。相棒のジョージはレニーを言わば安楽死させてしまう。これはおかしいのであって、二人して逃亡する道は切り開けなかったのか? と思う。だが追っ手は迫り、ジョージはついにことに及ぶ。スリムは真相に気付いて「気にするな」「ときには、やらなきゃならんこともある」と言い、ジョージを誘って飲みに行く。
カーリーの女房を過失致死で殺害してしまったレニーは、日本であれば警察が逮捕し、裁判となり、刑に服することになるはずだが、本作では農場の男たちの興奮によりリンチされることが当然のように描かれている。西部劇さながらだ。これはいつの時代の話なのか? 1930年代のカリフォルニアでまだこんなことをしていたのか?男たちの「良識ある」判断に裁決を委ねることは、果たしていいことなのか? 裁判員や陪審員の裁判で果たして正しい判断をできるのか? という問いにつなげることもできる。
あっさりと不慮の死を遂げる存在が多く出てくる。レニーがかわいがろうとしたハツカネズミ。犬の子。カーリーの女房。最後はレニー自身。ネズミやイヌと人間を同列視してはいけないのだろうが、本作では同列に扱っている。残酷な現実を生きている点では動物も人間も同じだ、と作者は考えているのだろうか。題名『ハツカネズミと人間』の含意は何か。「動物も人間も同じだ」と言いたいのか。「同じでいいのか? ダメじゃないか」と言いたいのか。
渡りの貧しい農民たちの夢がはかなく消える。ジョージとレニーにキャンディ老人も加わって、自分の農場を持つ夢を見た。が、あっさりついえた。ここを追求すれば、貧しい労働者たちの厳しい現実をどう変えるか、という社会政策的な問いになる。
カーリーは歪んだ心の持ち主だが、彼なりのコンプレックスの結果であるに違いない。カーリーの女房は愚か者だが、農場の退屈な生活とつまらない夫に我慢できないという事情もある。
大男が何人か出てくるが、キャラクターが違う。怪力のレニーは善良だが頭の回転がゆっくりだ。カールソンは普通の農夫と言うべきか。ものごとの真相を見抜くことなく動いている。スリムは別格だ。ゆっくり話し、人々に信頼されている。物事の真相を見抜き、キャンディ老人やジョージをそれとなく慰める。ここにアメリカ西部の理想的なタフガイがいる・・と設定しているのか、それとも、結局スリムもレニーを救う道を編み出せていないので、限界がある、と作家は設定しているのか。
唯一の黒人クルックスは白人たちから相手にされず孤独に暮らしている。「人間には仲間が必要だ」「あまりさびしくなると、病気になっちまうんだよ」と泣く(114頁)。だがレニーは何の差別心もなくクルックスの部屋に入る。そこにキャンディ老人も来る。カーリーの女房は他の男たちから取り残された彼らを「弱い者」(120頁)「黒んぼに、うすバカに、きたない老いぼれ」「こんなのしか残っていない」(123頁)と差別表現で侮蔑的に語るが、実はクルックスとレニーとキャンディ老人がともに同じ場所に過ごすこのシーンには、差別を打破して平等に共に在る世界を切り開くことができている可能性を作家が託しているとも言える。その世界は直ちに崩壊するのだが。
黒人クルックスはいつ吊されるか分からない立場を思い知らされ「はい、お嬢様」と言わされる。レニーは殺害される。キャンディ老人は最後のはかない望みをも奪われいずれ無用の存在としてお払い箱にされる。ジョージもまた大切な相棒を失い未来を失う。
こうして、自分の農場を持つ夢、仲間と共に過ごす幸福、人間として幸せに過ごす夢は崩壊し、レニーは死に、孤独な人々と苦い思いが残った。悲劇に終わる作品だが、この悲劇を通して、人間は本当は共に生きる仲間が欲しい、貧しい労働者でも夢を持ちたい、他人に命令されるのではなく自分で自分の行動を決定したい、自分の生活を豊かで安定したものにしたい、などなどの切ない悲願を表出していると私は考えた。
訳者によれば、日本では「キリスト教文学の世界」シリーズ(主婦の友社)(1977年)の一冊だったそうだ。神もキリストも出てこない本作の、どこがキリスト教文学なのだろうか? まさに神もキリストも出てこないその救いのなさ、人の痛みを分からない強者どもが暴虐を行うその絶望的状況こそが、神とキリストの偉大さをまっすぐに指し示している、と読むべきか。あるいは、レニーを見棄てず世話をし続けたジョージ(最後は殺してしまうがそれは除くとして)の姿に、またクルックスとレニーとキャンディ老人(そこに愚かなカーリーの女房もカウントしてよい)が図らずも交わった場に、神の交わりの実現、人間の浅知恵を越えた神の深謀遠慮の実現を読むべきか。それは人間の愚かさによって直ちに踏みにじられるのではあるが・・・
(アメリカ文学)ポー、エマソン、ソロー、ストウ、ホーソン、メルヴィル、ホイットマン、M・トゥエイン、オー・ヘンリー、ジャック・ロンドン、T・S・エリオット、パール・バック、フィッツジェラルド、フォークナー、ヘミングウェイ、マーガレット・ミッチェル、スタインベック、カポーティ、ミラー、サリンジャー、メイラー、アップダイク、オブライエン、カーヴァーなどなどがある。