James Setouchi

2025.8.12掲示

読書会資料 2026.2.11(水)(祝)に実施予定

 

ジャック・ロンドン『野性の呼び声』大石真・訳 新潮文庫

 

[1]ジャック・ロンドンJack London1876~1916

 新潮文庫解説(大石真)によれば、1876年サンフランシスコに生まれた。父は旅回りの星占師、生まれる前に母が離婚し私生児として育てられた。母親はジョン・ロンドンと再婚。ジョンはカリフォルニアの農場を渡り歩く移住労働者。やがてオークランドに住む。ジャックは小学校時代から新聞を街頭で売り、小学校を出ると直ぐ働く一方、図書館に通い多くの書物を読んだ。十代後半で失業者の群れに加わりアメリカ・カナダを放浪。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』を読み影響を受けた。オークランドに戻り高等学校や大学に学ぶがすぐ退学し洗濯屋で働きながら作品を出版社に送り込むも採用されなかった。ゴールド・ラッシュで極地に旅立つが壊血病になり帰郷。『野性の呼び声』は6番目の著作で、非常に人気となった。他に『狼の子』『雪の娘たち』『どん底の人びと』『海の狼』『白い牙』『鉄の踵(かかと)』『マーティン・イーデン』などがある。1916年に狂気の恐怖に駆られて自死した。

 集英社世界文学事典の折島正司によれば、「彼の中には、アメリカ的個人主義や社会進化論的弱肉強食思想などが、社会主義思想と同居している。」

 

[2]『野性の呼び声』The Call of the Wild

  1903年出版。作者27歳の時の作品。傑作で、発売直後1万部を売り尽くし、さらに大ベストセラーになった。日本ではいくつかの翻訳が出ている。入手しやすいのは新潮文庫(大石真訳『野性の呼び声』)、岩波文庫(海保眞夫訳『荒野の呼び声』)、光文社文庫(深町眞理子訳『野性の呼び声』)など。アオゾラ文庫にもある(山本政喜訳『荒野の呼び声』・・ここで紹介されているジャック・ロンドンの伝記は面白い。)。訳によっては表現が難しいが、もしかしたらジャック・ロンドンの文体自体が難しいのかもしれない。

 主人公は犬のバック。人間よりも犬が多く出てくる。

 

(登場人物及び犬)(かなりネタバレ)

バック:父はセントバーナード、母シェパード。140ポンド(1ポンドは450㎏強なので140ポンドは63㎏強。賢く、強い。カリフォルニアの富裕な家庭でぬくぬくと暮らしていたが騙されて売られカナダ・アラスカで犬ぞりを引くなど過酷な生活をするうち野性が目覚め狼の群れに投じる。

ミラー判事補:カリフォルニアでのバックの飼い主。

マニエル:ミラー家の園丁の一人で、金に困りバックを売りとばす。

赤いセーターの男:犬のブローカー。バックを棍棒でたたきのめし「棍棒と牙の掟」をたたき込む。

ペローとフランソワ:バックを買った男たち。カナダ政府の文書郵送係。犬ぞりで極地を走る。フランソワはフランス系カナダ人と北米先住民の混血。

カーリイ:ニューファンドランドの犬。バックの仲間になるが極地でエスキモー犬に襲われ殺される。

スピッツ:犬ぞりを引くリーダーの犬。バックと対立する。

デーブ:気難しい犬。

ビリー:人のいいエスキモー犬。

ジョー:気難しいエスキモー犬。

ソルクレス:年取ったエスキモー犬。そりを引くことに誇りを感じている。

パイク:仮病遣いの犬。

ダブ:へまな犬。

ドリー:発狂して殺される犬。

ティーク:リンク・ラピッドで合流したエスキモー犬。

クーナ:同上。

スコットランド系の混血児:バックたちを買い取った人間。単調で困難な郵便運びの仕事を犬たちに課する。

チャールズ:色の黒い中年男。バックたちを買い取る。極地の生活が分かっていない都会人。犬を虐待する。

マーシーディズ:その妻。

ハル:マーシーディズの弟。19歳。

外国犬6匹:チャールズたちが買い取った犬。過酷な労働でたちまち死んでいく。

ジョン・ソートン:金鉱探しの男。死にかかっていたバックを助け大事にする。

スチート:ジョン・ソートンの犬。バックを医者のように介護する。

ニッグ:ジョン・ソートンの犬。

ハンスとピート:ジョン・ソートンの仲間。

色黒のバートン:ならず者。ジョン・ソートンを殴り、バックに報復される。

マシューソン:エルドラド酒場の客。金鉱探しの一人。バックが重い荷を引けるか金を賭ける。

イーハット族:北米先住民。ジョン・ソートンの小屋を襲い、バックによって殲滅させられる。

ある狼:バックのそばに来て友人になる。

 

3-1感想

・犬の話で、犬好きにはたまらないはず。(私も犬派である。)私は中2で読んで面白く、今回が3回目。改めて面白い(考えるところが沢山ある)。

・犬にも個性がある。まるで人間の世界のようだ。特にソルクレスは孤高の職人で、カッコイイ。だが、動物と人間をあまり重ねて呼んでいいものかどうか・・?(後述)

・バックという犬の冒険譚である。過酷な環境の変化に耐え適応して生き延びていく。旅立ち、冒険、助け手、仲間、帰還(この場合は本来属していたであろう野性のオオカミの世界への帰還、と読める)などの道具立ての揃った英雄譚と言える。

・同時に、極地の話で、暖かい地方に住む読者には、極地の自然や金鉱堀りたちの世界が異世界であり興味深い。

・アウトドア感満載。カナダ・アラスカの雪と氷の中でキャンプをし、犬ぞりを走らせる。アウトドアの好きな人にはたまらないだろう。(私はインドア派だが、それでも面白かった。)

・闘争シーンが多く出てくる。『少年ジャンプ』の格闘ものの好きな人には嬉しいだろう。私には、いつも争って勝ちに行こうとしているあの人やその人(ほら、皆さんご存じのあの方などはその代表です)の姿がちらついて、どうして勝ちに行くのか? 平和共存しないのか? いつも勝った勝ったと言い張っている、人間はそんなものじゃないぞ、という疑問が、読みながらいつも出てきてしまった。実際この小説にはイエスもブッダも出てこない。

 

3-2疑問に思った点

赤いセーターの男は、バックを飼い慣らすために棍棒で殴りつける。(1章)このやりかたでいいのだろうか? 極地でそりを引く犬を服従させるために今もそうしているのだろうか? 完全な動物虐待だと思うが・・知らない。

カーリイ(ニューファウンドランド犬)は極地でいきなりエスキモー犬の大群に襲われ殺害される。(2章)犬が犬を襲って殺すなどということがあるのだろうか? 疑問だ。

・「棍棒と牙の掟」を始め、力の強い者・狡猾な者が勝ち、そうでない者は死ぬしかない、という図式が繰返し強調される。弱者への情けは無用、と作者は書く。だが、本当にそうだろうか? 動物の世界でも、ボノボはもちろん、ゾウやイルカ、イヌやオオカミ、ライオンなどが群れを作って助け合うことは知られている。(本作では、大シカの群れは一度は団結するが最後はリーダーを見棄てた、と作者は書く。どうなのか?(7章))

人間の倫理については作者はどう考えているだろうか? ここで描かれた動物の世界の「棍棒と牙の掟」を、直ちに人間の世界の現実のメタファーだと取っていいのだろうか? だが、作者は、「そりの旅」については「はげしい労働に、苦しみ耐えながら、やさしい言葉をかけることを忘れず、親切な心を失わない人たちの中に生まれる、あの驚くべきそりの旅の忍耐」(5章)と書いており、過酷な条件下では人間は助け合う能力が発動するという見通しを作者が持っていることがわかる。他方、極地では金採掘人たちが賭けに熱中したり先住民のグループがいきなり金採掘人の小屋を襲って皆殺しにしたりする、という描写もある。本当にそんなことがあったのか? 図式化しすぎた偏見では? と問いたくもなる。私の乏しい知見ではアラスカのイヌイットは互いに助け合って暮らし、来客を手厚くもてなす、ということだった。(新田次郎『アラスカ物語』に書いてある。)バックの最初の飼い主であるカリフォルニアの判事補は、言わばシステムに守られた(システムを守っているのかも知れないが)存在である。政府の文書郵送係のペローとフランソワはシステム内の人間。判事補の家からバックを盗んでたたき売る園丁マニエルは賭博が好きで金に困った人間、言わばシステムからの脱落者だ。システム内の搾取の構造を人間社会について暴き立ててはいない。本当はシステム内の「負け組」が致し方なく主人の犬を盗み転売し極地に金鉱を掘りに行っているのではないか? そこを暴かないで、どうして社会主義小説と言えるのだろうか? 金鉱を掘りに行く連中はシステムからの脱落者が一攫千金を夢見ているのだろう。だが、そこが完全な無法地帯というわけでもない。色黒のバートンはジョン・ソートンを殴り金鉱掘りの人びとから有罪とされる。ある形で社会のルールが形成される。ジョン・ソートンの小屋を襲う先住民たちは、書いていないが、システム及びシステム外の金鉱掘りたちによって攻撃されたので報復したとも想像できる。つまりシステム外の人間。作者は、システム外の極地では「棍棒と牙の掟」に近い闘争状態になりつつも、ある形で社会のルールが再構築される、根底には人間の助け合う力がある、と(よく読めば)書いているように私は思う。よく読まなければ? よく読まなければ、野生動物の弱肉強食をそのまま人間社会の現実でもある、と読者は読み取ってしまいそうだあるいはそう読まれることが作者の狙い? 人間社会の搾取の構造を表立っては描けないので、犬の世界の弱肉強食を描いて、人間社会の弱肉強食の寓話として読み取らせようとしたのであろうか? ・・念のため、動物を主人公とした物語は(『シートン動物記』や戸川幸夫の動物小説もそうだが、)人間の倫理を動物に持ち込んで擬人化して語る、あるいは動物の世界を人間に投影して読ませてしまう、それゆえ物語としては面白いのだが、人間及び動物の冷静な観察に基づく知見ではなく多くの誤りを含む、ということに注意したい。

・バックは極地を駆け抜けながら、太古の、毛むくじゃらの人間とともに暮らした日々を幻視する。それは小説の表現方法の一つだから構わない。だが、その毛むくじゃらの人間はサルのように木の枝を伝って移動する、と書いている(7章)。そもそも、オオカミからイヌが分かれてヒトと共生し始めた頃、ヒトはサルのように木の枝を伝って移動していただろうか? ここは生物学的にあやしいのでは? ジャック・ロンドンは当時の生物学的知見にしたがって書いたのだろう。(バックが間違った夢を見た、と作者があえて書いたとすれば、読み方は全く違ってくる。)(私の乏しい知見では、犬は1万2000年か3万5000年昔から人間と共生していたそうだ。そのころ既にホモ・サピエンスの時代なので、毛むくじゃらだったか、また上手に枝から枝に飛び移れたか、疑問だ。)

バックは古代のオオカミだった頃の血が騒ぎ「野性の呼び声」を聞き取る。脳の古い部分にそれは眠っているかも知れない。だが、古代の先祖の記憶がバックの中に蘇る、というのはどうなのか? フロイト(1856~1939)やユング(1875~1961)の図式を使っているのかもしれないが、先祖の後天的な体験や記憶が、後世の人びとに蘇るなどということがあるのだろうか? 日本人で言えば、日本列島に移住した先祖の記憶が蘇ったりするのだろうか? ちょっと疑問だ。

・これらの、動物の世界・極地の世界の描写を手がかりに、読者は、人間の社会とは何か、人間とは何かについて、考えていくことが出来る

・「私たちは文明社会のシステムに守られて生きているが、本能の奥底に、自然の中で荒々しく生きたい! 闘争し、獲物を引き裂いて食べたい! という強い衝迫があるのだ、だから我々はラグビーをしたり格闘技をしたりして擬似的・安定的な形でそのエネルギーを発散しているのだ」式の感想を持つ人がいるかもしれない。ジャック・ロンドンはそう考えていただろうか? 知らない。だが、そう考えていたとしたならば、ジャック・ロンドンの人間観は間違っている。または一面的だ。牛や馬や豚をわざわざ殺して血の滴る肉を食べたいですか? できれは酷いことをせず草食で暮らしたい。他の生き物を殺さず、光合成と呼吸だけで生きていければいいのに! そう感じる人がいたっておかしくないし、実際いる。(宮沢賢治『よだかの星』はどうですか。)混雑した場所で人を突き飛ばすのも突き飛ばされるのもいやである。(サッカーもバスケも(やっている人が嫌いというわけではないが)方で人を突き飛ばすのでいやである。野球も球場に乗り込んだときに相手を睨み付けて気合いで圧倒するのでいやである。笑顔で仲良く出来ないのですか・・・?) 本作にイエスもブッダも出てこないのはなぜか? ジャック・ロンドンの生育歴においてイエスやブッダとの出会いはなかったのか? サリンジャーは第2次大戦の悲惨を見て東洋思想(ブッダの教えも含むか?)に傾倒した。西洋の弱肉強食・優勝劣敗の思想に出会った明治日本人(のある者たち)は、そうではない東洋の大調和の思想で対抗しようとした。

 

4 補足

・ジャック・ロンドンは1893年17歳の時アザラシ漁船で日本近海に来た。小笠原諸島や横浜に上陸。1904年には日露戦争の取材で来日、横浜、神戸、長崎、門司、小倉に行った。森晴孝『ジャック・ロンドンと鹿児島 : その相互の影響関係』(高城書房, 2014.12)に論考がある。

片山潜がジャック・ロンドンを社会主義者として紹介した。『野性の呼び声』を社会主義者・堺利彦が訳し(1919)、有島武郎も関心を持った。動物作家・戸川幸夫はジャック・ロンドンに影響を受けた。新田次郎も影響を受けユーコン川(アラスカ)を見に行った。堀口大学も影響を受けた。(上記森晴孝による。)

・ジャック・ロンドンは晩年に精神主義に傾斜したと言われる。芳川敏博「ジャック・ロンドンの精神の永続性と幻想 -『星を駆ける者』と「水の子」を中心に」(立命館大学経済学会『立命館経済学 』58 (3), 71-96, 2009-09)に論考がある。

 

(まだ途中。追記していくかもしれない。)

 

 以下、参考に。

 

[3]『白い牙』 White Fang

1906年出版。作者30歳の時の作品。『荒野の呼び声(野性の呼び声)』に続く有名な傑作。『荒野の呼び声』はカリフォルニアで人間に飼われていたイヌが野性の本能に覚醒し北方の原野のオオカミの群れに投じるものだが、この『白い牙』はその反対で、北方の原野のオオカミの血4分の3、イヌの血4分の1という「白い牙」が、やがて人間に飼われてカリフォルニアで過ごすようになる、という物語だ。主人公は「白い牙(White Fang)」

 

(登場人物及び犬、オオカミ)(かなりネタバレ)

ヘンリー、ベン:極地の運送屋。オオカミの群れに襲われる。酷寒の大自然の中では人間は無力だ。

ホワイト・ファング(白い牙):4分の3オオカミ、4分の1イヌ。灰色で獰猛。カナダ北西部の極地に育ち、種々の冒険を経て、最後はカルフォルニアで人間に飼われる。

キチー:白い牙の母親。2分の1オオカミ、2分の1イヌ。

片目:白い牙の父親。オオカミのリーダー。

オオヤマネコ:片目を殺す。キチーたちにとって恐るべき敵。

グレー・ビーヴァ:北米先住民(インディアン)。白い牙を飼い犬ぞりを引かせる。

ミト・サア:グレー・ビーヴァの子。

リプ・リプ;グレー・ビーヴァのイヌ。白い牙をいじめるが・・

ウリー・イーグル:キチーを連れて歩く人間。

ビューティー・スミス:白人。ユーコン市場にいる。白い牙を闘犬にして金を稼ぐ。

ティム・キーナン:白人。闘犬のブルドッグ「チェロキー」の飼い主。

チェロキー:ブルドッグ。はじめて白い牙を倒す。

ウィードン・スコット:白人。白い牙を救う。

マット:ウィードン・スコットのそりの馭者。

スコット判事:ウィードンの父親。カリフォルニア在住。

スコットの家族:ウィードンには妻、娘たち、妹たち、召使いたちがいる。

ディック:スコット家のディーア・ハウンド犬。オス。

コリー:スコット家の牧羊犬。メス。

ジム・ホール:脱獄囚。もと冤罪だったが、脱獄後凶悪犯となり、スコット判事を狙う。

 

 

(感想や疑問)

1 本文中の記述で、(私の無知もあって)動物学的に正しいのか? 素朴な疑問のあったことがら

オオカミのオスはメスを襲うことはないとあるが、本当か? 人間の男は女をひどいめにあわせる、オオカミでもしないことだ、と『ザ・ロード』にもある。なおカマキリはメスがオスを捕食するので有名だ。

オオカミの父親が仔のために餌を取ってくる記述があるが、本当か? ペアで子育てをするのか?・・原則としてオオカミは群れで過ごし、その群れは夫婦と子供たちというのが基本形。親や兄姉は子に餌を運ぶ。(「アニラボ」というサイトから。)ここは本作の記述は正しかった。

オオカミとイヌは殺し合うまで戦い、相手を食べてしまう記述があるが、本当か?・・同属で殺し合う、食べ合う例は動物界の普遍的なあり方ではないが、いくつか存在する。人間は人間同士で戦争をする。オオカミとイヌについては知らない。

イタチは血を吸うとあるが、本当か?・・イタチが血を吸っているように見えるのでイタチは血を吸うと言われたこともあるが、実際にはイタチは血を吸わない。吸血動物ではない。(「イノホイ」という業者さんのサイトによる。)ここは本作が間違った記述をしている。イタチの野性の怖さを強調するためだろう。

オオカミ(イヌ)は人間に応えて笑うのか?・・イヌは笑う(ように見える)ことがある。(「みんなのブリーダー」というサイトから。)「犬やオオカミの喜びの表現は全身的であって、顔面の筋肉だけをとって観察すれば「笑い」とは断定しがたいものである」という見解を「ChildResarchNet 子どもは未来である」は紹介している。(林 隆博 (西焼津こどもクリニック 院長)2009年1月 9日掲載)イヌは人間と目線を交わすがオオカミはそれはしない、という見解を聞いたこともある。本作の場合「白い牙」はイヌの血が混じっているので人間と目線を交わして微笑んだことにしているのだろう。

オオカミ(イヌ)の父は、仔を甘えさせるのか?・・知らない。今のところ分からなかった。

 

2 内容から

大変面白い。だが、気になる点がいくつもある。

・アメリカ先住民、極地の白人、カリフォルニアの白人とレベル差(後の方ほど上等)がついている。アメリカ社会の現実をリアルに描いて批判しようとしているのか、それともジャック・ロンドンの中に偏見があるのか? 気になるところだ。

・動物界は強い者が上位、弱い者は敗れて食われるしかない、同じイヌ同士でも上下関係があり強い者が上、イヌより強いのは人間、という弱肉強食・力の支配の論理が随所に書き込まれている。

実は動物界は必ずしもそうではない。ボノボ、ゾウ、ウマ、イルカ、イヌなどは高度な知性と感情を持ち、弱い者をいたわり守ろうとする。ゲラダヒヒはオス同士の争いでも戦いを避け地位を守るために逃走(闘争ではない)を行う。逃げ切れば地位を守れるのだ。ゴリラも戦いを避けるためにドラミングを行う。これらの知見をジャック・ロンドンは知らなかったか、意図的に伏せたかどちらかだろう。

人間はどうか? 人間の歴史は弱肉強食・優勝劣敗だと思い込んでいる人があるが、本当は人間の歴史はそうではない。人間は様々な場面で助け合っていなければ生き延びていない。ハッザの民もヤノマミの民も食事を平等に分ける。(自分だけが「総取り」しようとするにはあの人やあの人たちだけだ。)仮に世界史の授業で「勝利者が征服する」歴史観を学んだとしても、「にもかかわらず人間はそうではない、平和共存の理想を掲げて共に生き延びる努力をすることができる」と言い続けることが大切だ。事実と価値は違う。存在と当為は違う。法則と信念は違う。今まで戦乱が続いたとしても、これからは戦乱をやめて平和を築くことができる。ましてや、今までの歴史は、戦乱の歴史ではなく、平和獲得の歴史と見るべきかも知れないのだから、なおさらだ。どうですか?

・動物文学(シートンや戸川幸夫)は、面白いのだが、①動物の生態に対する誤解(不正確な知識)、②動物の擬人化(人間の感情や論理を持ち込んで動物を描く)、③読者が、描かれた動物界の論理を人間界に安易に適用させてしまう、などの危険がある。

白い牙を飼う様々な人間の物語でもある。まず、冒頭のヘンリーとベンは、(白い牙はまだ生まれていないが)極北の大自然の中で白い牙の母親(キチー)たちオオカミの群れに襲われ、全く無力だ。次に、北米先住民のグレー・ビーヴァは、自分たちの村で、白い牙を棍棒で躾けて支配し、愛情は与えない。次の白人ビューティ・スミスは、金の動くユーコン市場で闘犬をさせる。白い牙を嘲笑し怒りのパワーを引き出そうとする。白い牙は市場(金儲けの欲望)の道具にされ、ついに死にかける。最後のウィードン・スコットは、白い牙に愛情を注ぐ。白い牙ははじめて愛を知る。彼はカリフォルニアの大きな屋敷に白い牙を連れて帰り、他のイヌよりも優遇する。スコット判事は白い牙に命を助けられたことで白い牙を認める。一家は白い牙を「オオカミ大明神」(原語は何かしら?)と呼ぶようになった。

(日本ならイヌガミ様、オオカミ様として祭るに至るところかも知れない。西洋にも人狼伝説の類いは沢山ある。そもそもローマを創ったロムルスとレムスはオオカミに育てられたことになっている。が本作ではそんなことは一切書いていない。)

 

・イヌとネコとはどちらが強いか? は子どもには興味のあるところだ。単体ならネコの方が強そうだ。ネコはパンチを繰り出し、木にも登る。本作でもオオヤマネコの圧倒的な強さの前にオオカミたちは苦戦する。イヌやオオカミは群れで狩りをする、長距離を歩けるなどが強みだ。

・多くのケモノは黒目しかなく、アイコンタクトを取らない。どこを見ているか分からないようにし、相手を油断させて捕食する。だが、オオカミ、イヌ、人間には白目と黒目がある。オオカミ同士はアイコンタクトを取る。イヌ同士もアイコンタクトを取る。人間同士もアイコンタクトを取る。そして、人間とイヌもアイコンタクトを取る。オオカミの中で、人間と共に暮らし、人間とアイコンタクトを取ることができるよういなったのがイヌだ、と誰かが言っていた。白い牙はオオカミの血とイヌの血を引いていて、人間とアイコンタクトが取れる

 

 

[4]『ザ・ロード アメリカ放浪記』The Road1907

1907年出版。作者31歳の時の作品。作家として有名になった作者が、若い頃の放浪体験を解雇して語る、という体裁を取っている。どこまで虚構か事実かわからない。「語り手の父親は警官」という設定になっているので、基本的には虚構だろう。但し若い頃に貧しく放浪した体験はあるので、それを多く取り込んでいると思われる。各地の風物を描く紀行文ではなく、鉄道にただで乗り込み、乗務員に追いかけられ、いかに逃げたか、警官に追われい、かに逃げたか、などの冒険話が多い。

 本書では放浪者を「ホーボー」と呼んでいる。注釈によると、働きながら移動するホーボー(渡りの労働者のことだろう)、社会からドロップアウトして移動するトランプ、移動も労働もしないバムなどのタイプがあり、ジャック・ロンドンの場合は、トランプに属する。

 少しだけ紹介すると、

「1       貨車のすきまに」では、ネバダ州などで適当なウソを語っては物乞いをする。

「2       食卓の幸運」では、カナダ太平洋鉄道で列車にただ乗りしては乗務員と攻防する。

「3       鞭打ちの光景」では、ボルチモアでいわゆるジプシー(ロマ人)の激しい鞭打ちを見る。女性や子どもへの虐待はアメリカの市民社会にもある、と社会批判をする。

「4       刑務所の生活」では、ナイアガラ近くバッファロー辺りで放浪罪で捉えられ刑務所へ。そこはまともな市民的権利の保障されないところだった。

「5       作業所の囚人たち」では、刑務所内のインチキと搾取が描かれる。それは文明社会の不正と同じだ、と語り手は言う。

「6       最高の放浪者」では、「スカイスルー・ジャック」と呼ばれた凄腕の放浪者ほか様々なホーボーを紹介。ロッキー山脈辺りが出てくる。

「7       ロードキッドの社会学」では、少年時代にどのようにして放浪者の一員になったかを語る。路上で暮らす悪い子供たちの仲間だった。強盗もやった。

「8       二千人の放浪者の行進」では、「ケリーの軍隊」という労働者の大行進に参加した。汽車に乗り、アイオワ州の町で止まり、船を仕立ててミシシッピ川を下る。そこでずるをして食料を余分にせしめる。

「9       デカの追跡」では、ニューハンプシャー州(東部)やワイオミング州(西北部)で何かと警察と遭遇しては逃げる。

 ユーモアもあっておもしろい。但し子供たちが集団で酔っ払いから強盗する話などは、これは犯罪であって、楽しく読むことはできなかった。刑務所の中の人間関係は、刑務所の外のアメリカの文明社会の縮図であって、強い者が弱い者から搾取する構図だ、とアメリカ社会を批判している。力がすべてだ、強い方に服従し弱い方から搾り取るのだ、といった表現は、『荒野の呼び声』『白い牙』で展開された野性の世界と同じだ。ジャック・ロンドンが世界をどう見ていたのか、本当のところは知らないが、彼の作品には、弱肉強食が世界の実相だという認識がよく現われる。弱肉強食が社会の実相だと認識するとしても、だからこそそれを改めるべく改革しようとするのか、だからこそ強者の側に立って自分だけが生き延びようとするのか、は人によって分かれる。ジャック・ロンドンはどうだったか? それは次の課題だろう。子どもや貧しい人が犯罪に走るのは、彼らを救済する社会システムが脆弱だからで、為すべきはまずは教育や福祉であるはずだが、ジャック・ロンドンはどこまで考えていたか? 当時のアメリカ社会にどれほどの議論があったか? では、現代ではどうか?

 訳者の川本三郎は、『ハックルベリイ・フィンの冒険』につながる、アメリカ社会の「セルフヘルプ」(自助)の精神を継承していると書いている。これはそうかもしれない。また、「セルフヘルプ」では限界もある、と私は言い添えておこう。

また川本三郎は、「荒々しい征服欲」はなく「流れるような漂泊の旅」だと書いている。松尾芭蕉の漂泊の旅とどう違うだろうか? 芭蕉は本当は弟子の資金を頼る旅だったが、ロンドンは貧しい路上生活者・国内難民の旅だ。芭蕉は故人も旅した歌枕を旅し美的表現を行うが、ロンドンにはそれは一切ない。芭蕉には社会批判はないが、ロンドンには社会批判がある。