James Setouchi

2025.8.9

 

8月の視角・・8月も考えることが沢山ある。

 

8月7日ころ(年によって違う)立秋

 まだ暑いけど立秋。でも気付いてみれば、涼しい風が吹き、暑さが少し和らいでいる。藤原敏行「秋来(き)ぬと 目には さやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」(古今秋上169)それで今日から「残暑見舞い」

 

8月6日 ヒロシマに原爆が落ちた。

8月9日 ナガサキに原爆が落ちた。

 何をか言わんや。世界に二つしかない都市。三つ目が絶対にあってはならない。慰霊の日には世界中の核兵器保有国を招待しその相手国の言語で核兵器の恐ろしさを伝えるとよい。ヒロシマ、ナガサキの原爆資料館にも案内し、英語はもちろん、ロシア語、中国語、朝鮮語、フランス語、イスラエルの言語、パキスタンの言語、アラビア語、スペイン語、ペルシア語、などなどで伝えるとよい。NHKの原爆関係のいい番組を各国言語で世界に配信すればいい。SNSで発信すれば世界の若者に届く。

 アメリカでも若い世代は「あの原爆投下は間違っていた」と考える人が増えてきていると聞く。ピュー・リサーチ・センターによれば「年齢別に言えば、高齢者の方が「正当化できる」と答えた回答が圧倒的に多い。60歳以上では48%が「正当化できる」と答えている。「正当化できない」は、わずか20%であった。だが18歳から29歳では、回答が逆転している。44%が「正当化できない」と答え、「正当化できる」と答えたのは20%であった。30歳から49歳でも、34%が「正当化できない」、29%が「正当化できる」と答えており、この年齢層でも「正当化できない」と答えた比率は高い。」(中岡望「アメリカ人はヒロシマへの原爆投下をどう考えているのか。世論調査でみるアメリカ人の意識の変化」2025.8.6(水)ヤフーニュースの記事から。)

 

 世界中で即時に核兵器だけでなくすべての兵器がなくなるのがよいが、そうではない現状で、どうしても「相手国の核兵器があるから米軍の核の傘は必要だ」という見方をするのなら、「相手国」が平和国家、人権を大事にする国家、武器に頼らず国民を幸せにする国家になるように持っていく工夫をすればよい。あの国でもその国でも国民が腹一杯食べているとは言えない。貧富の格差があり、貧しい人が兵隊に行って死んだりしている。高級官僚・富裕層は太っている。そもそもR国がU国に攻め込んだのでU国の小麦畑がやられて世界中で小麦が不足して、近隣のスーパーのパンまでが値上がりしている。(円安のせいだけではない。)まずは国民の人権を保障し貧しい人々のケアをし国民に腹一杯食わせてはいかがですか。軍事費を削って食糧増産したらあなたの国民もあなたに感謝するようになりますよ。(軍事大国・覇道の国家はいずれ滅ぶ。孟子も言っている。

原民喜『夏の花』

井伏鱒二『黒い雨』

永井隆『長崎の鐘』

大江健三郎『ヒロシマ・ノート』

*峠三吉『原爆詩集』

*星新一『午後の恐竜』・・原子力潜水艦の艦長がご乱心のうえ突如として核ミサイルを発射してしまう。世界中からミサイルが発射され、地球上の全生命が死滅する、その直前の様子を描く。近未来ブラック・ショートショート。

 

8月8日 昭和20年(1945年)、ソ連が日ソ中立条約を破った日。8日の夜11時に対日宣戦布告し、満州に3方向から攻め込んだのは8月9日の午前1時から

 日本の敗戦の意志決定は、二発の原爆もあるがこのソ連の対日参戦が大きかったという説を聞いたことがある。ソ連は北方領土を占拠。日本は、関東軍はさっさと逃げ、取り残された民(満蒙開拓団など)が大変ひどい目に遭ったと言われる。村ぐるみ集団自決した例も。朝鮮半島を徒歩で南へ南へと逃げ辛酸をなめた人も。大陸にいた日本陸軍兵士はシベリアに抑留され強制労働に従事。60万人弱のうち6万人弱が死亡。

半藤一利『ソ連が満洲に侵攻した夏』

藤原てい『流れる星は生きている』・・朝鮮半島を逃げて逃げて南下する

宇佐美まこと『羊はやすらかに草を食(は)み』・・小説

高杉一郎『極光のかげに』・・シベリア抑留体験記

 

8月11日 山の日

 WIKIによれば山岳関係者が動いて制定したそうだ。登山やワンダーフォーゲルやハイキングはかつて流行したが、落ち着いて考えれば、誰にでもできることではない。京大山岳部出身の面々が世界で素晴らしい研究業績を為していることなどは驚嘆すべきものがあるが、では私やあなたにもそれができるか? というと、そう簡単ではない。

 登山は一歩間違えると命を落とす。一般人、大学生、高校生などで、すでに事故が結構ある。誰にでもお勧めはしない。消防、警察、自衛隊などでどうしても山に入らなければならない場合は、予算を投入して特別に訓練するのがよい。インバウンドで富士山に気軽に登ろうとする外国人が増えて困っていると言う。吹雪、雪崩、落石、落雷、空気が薄い(高山病)、遭難などなどの危険をいつも考えておくべきだ。登山小説では、井上靖『氷壁』新田次郎『強力(ごうりき)伝』などは面白いが、小説にとどめておきたい。

 なお、登山は西洋近代が発明したスポーツで、それまでに修験者や猟師や薬草取りの山歩きはあったが、ただ登山して「風景」を楽しむなどというのは、西洋近代で「風景」なるものが「発見」されて以降のものだ。(ペトラルカの登山が有名。)日本には明治以降に西洋人が持ってきて、さまざまな登山ルートが開発されていった。但し単位時間以内に何点取ったかなど、近代の産業革命以降の工場のありかたと全く同じもの(バスケやサッカーなどはこれ)というわけではない。

 

8月12日 御巣鷹山(おすたかやま)での日航機事故

 1985年(昭和60年)ボーイング747(ジャンボ機)が群馬県上野村の山中に墜落し520人の方がなくなられた。山崎豊子『沈まぬ太陽』にも扱われている。なお事故原因については様々な陰謀説・誤射説も取り沙汰されている。あの森永卓郎氏もまじめに論及しておられる。私には判定できない。諸説の中で最も驚いたのが「トロン」というすごい技術を開発する研究者集団が乗っていて、彼らを葬るために打ち落としたというもの。スパイ映画の世界そのものだ。もう一つ、自衛隊機の誤射によるもの、という説。そうだとすると、中曽根内閣(当時)が吹っ飛ぶレベルの話ではある。私はこれらの真偽を追究するだけの実力がないので、「くわばら、くわばら」と言うばかりだ。

 

8月15日 終戦(敗戦)記念日。戦没者慰霊の日

 昭和20年、玉音放送があった。アメリカとミズーリ号上で降伏文書に調印したのは9月2日なので、アメリカから見れば戦争終結は9月2日。中国においては9月3日。韓国の人々にとっては8月15日が光復節(独立を回復した日)。朝鮮民主主義人民共和国においては8月15日が解放記念日。ソ連にとっては9月3日が対日戦勝記念日。

 日本では8月15日に千鳥ケ淵で戦没者慰霊式典を行う。お盆とも重なるので何とも言えず厳粛で敬虔な気持ちになる。靖国(恣意的=しいてき=な祀り方しかしていない。もう一回やろうぜの意思表示になってしまう)に首相が公式に行って政教分離原則を破るのは不可(憲法違反)。(私的に自由時間に私用車や公共交通機関で行きポケットマネーでお賽銭を出すのは可。信教の自由があるからだ。)また対外的にもわざわざもめごとをふやすべきでもない。敵味方の区別なくすべての戦没者の鎮魂・慰霊をし(一遍上人の時宗の敵味方供養塔を見よ)、「二度と戦争はしない」と不戦・非戦・平和の誓いを新たにする日にすればよい(すでにしている)。これも世界各国語で発信する。お蔭で何とか80年間は戦争をしないですんだ。二度と戦争はしない。世界中から戦争がなくなりますように。

半藤一利『日本のいちばん長い日』

堀田善衛『「方丈記」私記』には、敗戦後焼け野原になった東京の下町に昭和天皇がやってきた時の情景が描かれている。

今日出海(こんひでみ)『山中放浪』・・フィリピンの山中で九死に一生を得て台湾、そして日本へ。

竹山道雄『ビルマの竪琴』・・ビルマで捕虜になって・・

大岡昇平『俘虜記(ふりょき)』・・フィリピンのミンドロ島で米兵に捉えられる。その後俘虜となって・・

大佛(おさらぎ)次郎『帰郷』・・小説。東南アジア戦線から帰国して・・

*「ジェームズ瀬戸内の文学散歩」の、テーマ「戦争関連◎」を御覧下さい。

 

8月10日(旧暦7月10日)四万六千日(しまんろくせんにち)の法要

 観音菩薩の縁日。この日に参詣すれば4万6千日参詣したのと等しい功徳があるとされる。根拠になる経典はなく、江戸中期から始まった風習。それ以前から千日参りがあったが、その功徳に匹敵するものとして広まった。浅草寺、清水寺、四天王寺など観音を祀る寺院で縁日がもたれるようになった。(岩波仏教辞典による。)なお私の近隣のお寺では8月9日の晩に集まって法要をする。

 

8月15日(旧暦7月15日)盂蘭盆(うらぼん)

 いわゆるお盆。盂蘭盆経にある。サンスクリット語ウランバナ(逆さづりの苦痛)またはイランの言語ウルヴァン(霊魂)が語源かとされる。祖霊を死後の苦しみから救済するものとして中国から日本に伝来した。中国の中元と孝の思想も融合している。中国では538年、日本では606年(推古天皇)に行われた記録がある。日本では正月に対応する祖霊来訪の時期とした民間信仰との関連も言われている。盂蘭盆会(うらぼんえ)にはお施餓鬼(おせがき)も行う。餓鬼道(がきどう)で苦しむ一切の衆生(しゅじょう)に食物を施して供養(くよう)する。餓鬼はもとは供養する者のいない無縁仏などをイメージした。御霊(ごりょう)信仰とも通ずる。中世には飢饉や戦乱で河原に数万の群衆を集めてたびたび営まれた。近世には大火の犠牲者の追善として大寺院で行われた。(岩波仏教辞典から)

 なお私の近隣では8月18日夜に大施餓鬼法要を行い、流灯を海に流す。灯篭(とうろう)が海に流れて消えていく姿は切なく、悲しい。人々が懐かしい人を思い頭を流灯を見守る。その情景自体が切なく、懐かしい。さだまさしの「精霊(しょうろう)流し」は長崎が舞台で、爆竹を鳴らすなど、中国風だと聞いている。灯篭流し精霊流しは少し違うが、どちらも死者の霊を慰めるものではある。広島では8月6日に灯篭流しを行う。長崎では8月9日に万灯流しを行う。原爆で亡くなった方の慰霊のためだ。

 

 実は盂蘭盆会は本来インドにはない風習。インドでは4月16日から3か月間雨季に夏安吾(げあんご)といって外出せず屋内で修業した。(雨季に外出すると昆虫などを殺傷することが多いから。)(安居については日本では683年の記録がある。)その最後の7月15日を解夏(げげ)と言って、参加者全員が反省会をする。これが盂蘭盆の起源だ。インドでは先祖崇拝とは関係がない。インドのお釈迦様の教えは、生きている者にとっての教えだ。死者の供養や先祖崇拝は、西域あるいは中国渡来の何かだと言える。7月は秋なので秋の行事。(岩波仏教辞典から)

 

8月19日 俳句の日

 俳句甲子園をやっている。俳句とは何ぞや? 言い出すと長いので省略。他のところで書き散らしているので御覧下さい。一つ言えることは、私のごちゃごちゃした悩みや苦しみは、575の17音には、入らない。ドストエフスキーくらい長くないと、入らない。なお正岡子規の命日(へちま忌)は9月19日。

 

8月23日 白虎隊自刃(じじん)の日

 NHK『八重の桜』でやっていたが、会津落城は悲惨だった。その後会津藩の人々は下北半島に移され苦しみを舐(な)めた。福島県のインフラ整備も会津を後回しにされたと聞いている。白虎隊の少年たちは、戦中に、すでにお城が落ちたと思い込み、集団自決する。なんでそうなるのか? 直接には、大政奉還がすでにあったにも関わらず、薩長を中心とする維新軍が話し合いで解決せず内戦を行ったからいけないのだが、他方、純粋な少年たちを自刃させる会津藩日新館の教育は、それでよかったのか? も問うべきだ。これは戦中の特攻隊や集団自決にも通じる問いだ。私の会津の友人は実にまじめな立派な人で、その一人ですべてを推し測ってはいけないが、会津の人はみんないい人だと私は勝手に思っている。(漱石の『坊っちゃん』の山嵐も会津だ。)そのまじめな人たちを追い詰めて死なせたものは何か? しっかり考えた方がいい。なお山川健次郎は白虎隊の生き残りで、生き延びて渡米し物理学の博士になって帰国、東京帝大、京都帝大、九州帝大の総長を歴任した。非常に尊敬されていた人だ。

田宮虎彦『落城』・・小説

中村彰彦『会津武士道』PHP文庫 

映画『侍タイムスリッパー』:山口馬木也が会津の武士を好演。他の役者さんもみな素晴らしい。実に面白い。ぜひ御覧下さい。

 

 

 

『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』という映画をTVで見た。福原遥の女子高生が戦時中にタイムスリップし特攻隊の水上恒司に恋をするという物語だ。特攻隊ものというと戦争を美化しがちなので警戒して見たが、必ずしもそうではなかった。

 

「戦争は何の意味があるのか?」「お国のために特攻で死ぬ」よりも「愛する人と生きたい」という問いが入っていた。

 板倉という特攻隊員は逃亡し戦後を生き延びる。こんなことが実際にできたかどうかはわからないが、そういう要素を入れていた。「国家のために死ねば愛する家族を守ることができる」わけでは必ずしもない。むしろ正反対かも知れない。「悪しき独裁政権が倒れてくれた方が愛する家族を守れる」かもしれないのだ。

 実際、戦場で父親や夫や息子が死んだために、遺族は貧しく大変な苦労をしたが、戦後の平和国家・福祉国家のお蔭で何とか生きて教育も受けられたのだ。

 吉本隆明が「共同幻想と対(つい)幻想は逆立する」と言ったのは有名だ。(『共同幻想論』。)国家は家族など人々の生活のリアルな現実を必ず守るとは限らない

 

 「国家のために死ぬ」ことと「家族を守る」こととは違う。むしろ、

 「愛する人のために生きる」ことの方が「家族を守る」ことになる。

 「国家を守る」ことと「家族を守る」ことも実は違う。悪しき独裁国家の場合を考えてみれば明らかだ。

*松元雅和『平和主義とは何か』中公新書2013年・・是非お読み下さい。

 

 今(2025年)あの独裁国家でもその独裁国家でも、外から見ていると国民を死なせるばかりで、国民のためになっていない。(また、隣国や周辺の住民を死なせるばかりで、隣国や周辺の住民のためにも、言うまでもなく、なっていない。)よその国のことなら見えやすい。だが、かつてのわが大日本帝国もそうだった。いくら大東亜解放戦争のつもりだったと強弁してもダメである。国民を兵士として使い捨て特攻で殺し、隣国や周辺の住民をも多く死なせ、指導者達は他の人のせいにしてのうのうと生き延びた。あんな戦争はそもそもしてはならなかった。

 どんな戦争もしてはならない。その過程で弱い者が踏みにじられるからだ。戦時性暴力はその最たる例だ。経済的徴兵制(貧しい人をお金で釣って兵隊にする)もそうだ。空襲で人々の家が焼かれるからだ。工員が軍需産業で過労死するからだ。民需が圧迫され物資が窮乏し食べるものがなくなるからだ。思想と言論を統制し弾圧し自由がなくなるからだ。国策に忠実な人とそうでない人を分けて差別を拡大するからだ。皆が狂信的になって不寛容になるからだ。互いが互いをスパイではないかと疑い始め社会の信頼関係が崩壊するからだ。「ウチの子は戦死したのにあんたのところの子はのうのうと生きておる」と悪口を言い憎悪だらけの世の中になるからだ。

 「国家のために戦争をして死ぬのが正義」といった偏った思想を蔓延(まんえん)させてはならない。今も無責任にそういう思想をばらまく人がいる。実にけしからぬことだ。問題は「アメリカに押しつけられた歴史観」でも何でもない。一般の日本国民に対して当時の国家がつまらないひどい国家だった、というだけのことだ。そういうつまらないひどい国家は他にもあり、現在もある。それを改めて国民のための国家にしていくべきなのに、改めることをせず、アレは正しかったとばかり声高に言うのは、よろしくない、間違っている。

 

・福原遥の女子高校生は、敗戦が近いことと戦後の平和と豊かさを知っているので、それを特攻兵たちに順を追って教え、終戦工作・平和運動、百歩譲って全員の脱走に尽力してもよかった。が、それは一介の女子高生には無理というものか・・? だが、戦時中でも兵役を拒否した人、特攻を拒否した人、戦争に反対した人は、少数だが、存在した。灯台社の明石順三、新興仏教青年同盟の妹尾義郎、日本共産党のあの人やこの人、内村鑑三を継承するグループ(矢内原忠雄ら)もそうだ。

丸谷才一『笹まくら』は徴兵忌避者を主人公とする小説。丸谷には『徴兵忌避者としての夏目漱石』という論考もある。これは日清戦争の場合だが。漱石は鴎外とは違う。漱石は日清戦争時戸籍を北海道に移して徴兵逃れをした。鴎外は陸軍の軍医で日清戦争・日露戦争に参加した。国家・軍隊に対するスタンスが違う。

*鴻上尚史『不死身の特攻兵』は必読。特攻命令を受けても死なずに生き延びた。

*市川ひろみ『市民的不服従の理念と展開』(明石書店、2007年)は未読。求めれば他にも多数の研究がすでにある。

 

・いろんな感想を見ていると、予想通り特攻を讃美しているのかなと取れるコメントもないわけではなく、映画を正しく見ていないか、勉強不足か、わざとそう言っているのか、表現が未熟なだけか、と感じてしまった。特攻は志願と言いながら実際は同調圧力を含む事実上の強制であって、背後には若者がそこへと追い詰められた社会状況(思想統制や教育など)があるわけで、この点を勉強しておかないといけない。「お国のために死なれた」とイージーに言うべきではなく、「純粋な若者が、悪しき軍国主義のせいで犠牲にさせられた。他方で悪徳業者や悪徳政治家や悪徳高級軍人は戦争で稼ごうとした。多くの国民がクレイジーな選択に誘導され戦争に熱狂した」と言うべきであろう。

 

・特攻は「志願者」で構成される建前だったが、飛行学校の仲間は肺病になろうと部屋の隅の埃をわざと吸った。別の隊員は出撃時に機体を違う方向に走らせて事故を起こして生き延びた。「福岡市には、出撃に失敗した特攻隊員を収容する施設があったと多くの証言が語る。」「逃げたら福岡送り」が脅し文句として使われていた。選択肢はなかった。」これは、2025年8月15日(金)朝日新聞東京本社25面「戦後80年 特攻の大義 薄らぐ「影」」という記事に特攻に送り出す役目をやらされたある方(現在100才)の証言として書いてある。

 

・貧しくてひがんで将来に夢を持てないでいる女子高生が、戦時中にタイムスリップし、愛する人の死を経験し、現代に戻ってきて、今与えられている平和を実感し、感謝しつつ自分の人生を生きようと立ち上がる物語でもある。

 一人一人が自覚を持って立ち上がることは大切だ。が、すべてを一人一人の自己責任として押しつけてはいけない。一人一人が立ち上がれるようにケアしサポートするのは、為政者の責任だ。学費減免、生活費補助、医療費減免などは為政者のまずなすべきことだ。

 映画では福原遥の母親役の中嶋朋子の貧乏と過労でやつれた姿が残酷だった。明日は倒れるかも知れない。そうすれば入院費がかさみ、福原遥の大学進学の可能性はやはり消える。

 国家(為政者)の為すべきことは、国民を兵士にして殺すことではなく、国民の生活を保障し、国民に教育を授け、国民が愛する人とともに安心して夢を持って生きていけるようにすることだ。選挙の自由があるうちにそういう為政者を選んでおくことだ。ヒトラーのようなのが出てきたら大変なことになる。