James Setouchi

2025.8.9

『カラマーゾフの兄弟』追論4 第10~12編とエピローグ(光文社文庫の亀山訳を用いた。)

 

(1)    登場人物

フョードル・カラマーゾフ:カラマーゾフ家の父親。何者かに殺害される。

ドミートリー(ミーチャ):長男。情熱的な男。父親を殺し金を奪った嫌疑で裁判にかけられる。カテリーナの婚約者だがグルーシェニカを愛している。

イワン:次男。知性的な男。西欧渡来の懐疑的な知性を持ち、信仰と不信の間に揺れている。幻覚を見、悪魔対話する。兄を逃がそうとする。

アレクセイ(アリョ-シャ):三男。敬虔な信仰心を持つ。修道院を出て俗界で生活している。多くの人に好かれている。

スメルジャコフ:カラマーゾフ家の下男で料理人。フョードルの子とも言われている。西欧に憧れおしゃれをする。愚鈍な男と見られているが・・? ロシア正教の分離派のうち去勢派の信者かもしれない。

グリーゴリー老人:カラマーゾフ家の下男。ドミートリーに殴られ大けがをする。ドミートリーを見たとき扉が開いていたと証言する。その妻がマルファ。

マリア・コンドラーチエヴナ:スメルジャコフの恋人? 母親とスメルジャコフと住んでいる。

カテリーナ・ヴェルホフツェワ(カーチャ):貴族で金持ちの若い女。昔ドミートリーに助けられ、ドミートリーの婚約者となった。が、今はイワンを愛している。

グルーシェニカ(アグラフェーナ・スヴェトロワ):淫乱な女と見られている女。フョードルとドミートリーの双方を手玉にとったと見られているが、今はドミートリーを愛している。過去にポーランド人ムシャロヴィチを愛したこともある。商人サムソーノフが後見人。

ラキーチン:出世志向の神学生。西欧の思想に触れ、将来は言論人として有名になりたいと思っている。実はカテリーナのいとこ。カテリーナに金をせびる。

ホフラコーワ夫人:噂好きで軽薄な上流夫人。最近はピョートル・ペルホーチン青年(若い役人)に夢中。

リーズ:ホフラコーワ夫人の娘。足が悪い。アリョーシャを愛していたが、今はイワンを愛していると言う。まだ少女。

ミウーソフ:ドミートリーの母方のいとこ。西欧風の教養を持つ。幼いドミートリーを育てた。

カルガーノフ:アリョーシャの友人。ドミートリーの遠縁。

トリフォーン:旅籠(はたご)の主人。ドミートリーが三千ルーブルの大金をばらまいたと証言する。

マクシーモフ老人:全巻で脇役として少しずつ出てくるが、ラスト近くでは宿無しの無力な老人としてグルーシェニカの家に世話になっている。

イッポリート:検事補。心理学に詳しく、ドミートリーを裁判で追い詰める。肺病を病んでいる。

フェチュコーヴィチ:有名な弁護士。ドミートリーの弁護のためにカテリーナがモスクワから招いた。

ゲルツェンシトゥーペ博士:医師。親切で博愛心に富み、貧しい人はただで診療する。

ワルヴィンスキー医師:若い医師。

モスクワから来た著名な医学博士:カテリーナが呼び寄せた医師。

スネリギョフ二等大尉:貧しい大尉。息子のイッポリートを病で亡くす。その妻「かあさん」は精神を病んでいる。

イッポリート(イリューシャ):病気の少年。昔いじめられたが今は友人に囲まれている。

ニーノチカ、ワルワーラ:スネリギョフ二等大尉の娘。

ジューチカ:イッポリートがいじめた犬。イッポリートはかわいそうなことをしたと苦しんでいる。

コーリャ・クラソートキン:少年。活動的で知的。背伸びして大人の振りをする。自称社会主義者。アリョーシャを慕っている。将来(書かれざる第二部で)何事かをなしそうな印象がある。

ペレズヴォン:コーリャが飼っている犬。

カルタショフ少年:少年仲間の一人。コーリャを相対化できる知性を持つ。

スムーロフ少年:少年仲間の一人。コーリャの子分のような存在。

アンナ・クラソートキン:コーリャの母親。未亡人。夫は役人だった。

アガーフィア:クラソートキン夫人の女中。四十歳前後。

ダルダネロフ:教師。コーリャの母親を恋している。

コルバスニコフ:古典語の先生。

 

 

(1)    コーリャ・クラソートキン少年

 コーリャは頭のいい子だが、その知識は受け売りで、本当には本も読んでおらず、実人生の体験ももちろんない。そのことをアリョーシャに見抜かれてしまう。アリョ-シャを尊敬しついていこうとするが、どこかでアリョーシャから逸脱し何かをはじめそうな雰囲気を持っている。彼は命知らずで、少年仲間で抜きん出た力を持ち、少年達を動かす。彼はプライドが高く、大人と古典語を馬鹿にし、数学と自然科学を重視している。彼は『悪霊』のニコライ・スラヴローギンのような力を持っている。アリョ-シャはコーリャについて「きみは将来、とても不幸な人になります」と不意に口走ってしまう(第10編-6、光文社文庫第4巻133頁)。書かれざる第二部(後半)で悲劇的な何かを為す可能性がある。「エピローグ」ではコーリャは言う「ぼくもいつかは、自分の命を真実のために捧げることができたらって願っている」(エピローグ-3、光文社文庫第5巻42頁)。

 

 ところで、どうしてコーリャは「トロイを建設した人は誰か?」を問題化したのだろうか?(世界史の他の知識でもいいはずだが。)(ダルダネロフ教師も知らないことを、コーリャは父親の書架の本で見つけて読みかじっていた。カルタショフ少年もそれを覗き見し、コーリャの知識が本の受け売りだと見抜く。)トロイはギリシア的でありつつギリシア(アテネの同盟軍)と対決した都市で、黒海の入口にある=ロシアやウクライナの西洋・地中海世界との近接点の一つと言える。ロシアのそもそもの成り立ちと歪みを問い直す視点を読者に想起させるために、作家はコーリャに「トロイの建設者は誰か」を問わせたのだろうか? それはすなわち、現在の帝政の支配の正統性を根本から問い直すことにつながるはずだ。書かれざる第二部(後半)では、ロシアの現体制を根本から問い直す作業が為されるかもしれない。

 

*トロイはギリシア連合軍と戦い、敗れた。ホメロスの長編叙事詩「イーリアス」に語られている。岩波少年文庫『イーリアス』は少年向けなので読める。岩波文庫『イーリアス』は難しい。

 

 

(2)    イワン・カラマーゾフ

 イワンは、「大審問官」のところでは不信心者としてキリスト教に対して大いなる疑問を提出したが、第11編「兄イワン」では、スメルジャコフとの対決で、「神さまは、知っているんだよ」と神信仰を口にする。一人になると部屋の中に謎の紳士(悪魔?)(イワン自身の分身?)を見て、これと対話する。謎の紳士は、神観念は破壊される、「人間は神のような、巨人のような誇りの精神によって称えられ、人神が出現する。」「新しい人間は人神になることが許される。・・昔の奴隷人のこれまでのどんな道徳的障碍(しょうがい)も、楽な気分で軽々と飛び越えていくことができる。・・」と言う(第11編―9、光文社文庫第4巻394~395頁)。(人神思想と『罪と罰』のラスコーリニコフの「踏み越え」思想との類縁性にも注目。)これは若きイワンが自分で考えたことだが、今謎の紳士=悪魔=イワンの分身が改めて口にすると、聞いているイワンは苦しくなり、耳を塞(ふさ)ぎ、机上のコップを相手に投げつける。イワンは神信仰と不信との間で大きく揺れているのだ。

 

 ・・この謎の紳士=悪魔=イワンの分身の思想は、ニーチェ(ドストエフスキーの少し後輩)の思想に近く、その先駆と言えると思う。西のローマ・カトリックに限らず、東のギリシア正教・ロシア正教でも、長くキリスト教優位の時代が続いたが、ここでは西欧近代の合理主義の思想によって、長年続いたキリスト教信仰の土台が揺らいでいる。揺らいでいるが、では西欧近代の合理主義の思想に立ちさえすれば問題が解決するかというと、そうでもない。

 

 アリョーシャはイワンに対して「父を殺したのは、あなたじゃない」と言う。(第11編-5,光文社文庫第4巻258頁)アリョーシャはすべてを見抜きつつ救済を準備しようとしているのだろうか。

 

 イワンの錯乱を多くの人は狂気に陥った、病気だ、で済ませる。アリョーシャは「何て深い良心の呵責だろう」「神が勝つ」と一方では思い、他方では「兄は、真実の光の中に立ち上がれるのか、それとも、・・恨みを、自分とすべての人にぶつけ、憎しみのなかでほろびるのか」と疑い、」兄イワンのために祈る。(第11編末尾、同上411頁)

 

(3)    誤審

 裁判自体が主役と言ってもいいほどの内容だ。検事補イッポリートは各種の証拠を挙げてドミートリーを追い詰める。弁護士フェチュコーヴィチはそれらすべてに反論しドミートリー無罪説へと聴衆を動かしていく。互いにすごい迫力だ。読者は予め真相を知っている。陪審員たちの判断は、読者および聴衆の期待を裏切って、「有罪、シベリア送りで懲役20年」という厳しいものだった。これは完全に誤審だ。

 

・・作家は誤審だと読者にはっきりわかるように事態を描写していく。ここに、神の法廷とは違う人間の法廷の限界が明確に描き込まれている。さらに、西欧渡来の心理学や陪審員制度に対する疑問も。

 

 さらに、カテリーナの裁判での証言も際立っていた。最初はドミートリーを擁護するかに見え、最後は壇上で叫ぶ、「ドミートリーが犯人だ」と。これは、イワンが殺人の主犯だとの方向性が出てきたときに、「イワンではなくドミートリーだ」と思わず言ってしまっているのであって、カテリーナの心がドミートリーではなくイワンにすでに傾いていることを示す。カテリーナはイワンを愛するようになっていたのだ。

 

 弁護士フェチュコーヴィチは、弁論において、ロシアの社会の批判をも行う。ドミートリーは父親フョードルに果たして父親らしく接して貰っただろうか? ある使徒は言った「父たる者よ、汝の子らを、悲しませるな」(注1)と。マタイ伝にある、「あなたがたの量るそのはかりで、自分も量られるだろう」(注2)と。フェチュコーヴィチはこれらの言葉を聴衆へ(全ロシアへ)と語りかけ、ドミートリーの情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)を訴えたのだろう。性欲のままに女性に子を産ませ放置する男や新生児を捨てる若い母親は真に父親・母親とは呼べない、「理知的な、自覚的な、厳密な意味で人道的な基盤の上にのっとった正常な家庭」を築くべきだ、父がその務めを果たしていないとき、子は父親を他人・敵と見做(みな)す自由と権利がある、(12編-13,同上652~653頁)と語りかける。聴衆は大拍手を与える。

 

・・弁護士フェチュコーヴィチは神秘的偏見を否定し「理知的」「人道的」といった言葉を冠してこれを語る。ロシアの伝統思想と、西欧渡来の理性主義との、中間の、どの辺りに彼の思想が位置するのか、私にはわからない。が、頑迷固陋(がんめいころう)な百姓の陪審員達は、弁護士フェチュコーヴィチに演説に動かされず、「意地を通して」(第12編末尾、同上674頁)ドミートリーに情状酌量を与えず酷刑(こくけい)に処してしまった。作家自身は幼少期父親が暴君であることに苦しんできた、その父親は農奴たちに殺害された。その色濃い経験がこれらの弁護士フェチュコーヴィチの弁論と陪審員達の反応の中に反映されているだろうが、その詳細をここで論じきることはできない。

①キリスト教道徳が、「父、父たらずとも、子は子たるべき(汝の父母を敬え)」と教える(帝舜の父はDV父だったが帝舜が孝を尽くしたように)ならば、作家自身は「あのひどい親父に親孝行をせよというのか?」と苦しむことになる。この意味で作家自身は「暴君の父から子は自由になってよい」と言いたかったかも知れない。(皇帝が暴君なら民はそこから自由になってよい、の含意とも取れる。)

②が、他方作家は、西欧渡来の個人主義や無神論、革命思想に振り切ることもしない。本作では西欧的教養を持つミウーソフやラキーチンはいわば道化であり、作家は、敬虔なアリョーシャ、ロシアの大地に根付いた民の素朴な信仰心に立ち戻ろうとする。すると、弁護士フェチュコーヴィチが「理知」「人類愛」を語りどこか西欧風な印象がある点が気になる。(ここ厳密ではない。まだよくわかっていない。)その弁舌を裏切るかのように頑迷固陋な百姓たちはドミートリーに過酷な刑を課す。

 作家の「二枚舌」(亀山郁夫)をここでも見るべきであろうか? 

 百姓の頑迷固陋がここには出てくるが、本作では百姓の頑迷固陋が攻撃するのは父殺しの子である。作家自身は、一方では弁護士フェチュコーヴィチの思想に従えば自分は救われると考えつつ、他方自分の内なる頑迷固陋の倫理観によって、父を憎んだ自身を「罪あり」として自己批判しているのだろうか?(父を殺した百姓たちを憎んでもいいはずだ。「しょせん百姓は愚民に過ぎない」と抑圧する側に回ってもいいはずだ。だが時代の思潮がそれを許さなかったのだろうか? それもあるかもしれないが、もっと内面的に、作家自身は、暴虐の父とはいえ父を憎んだ自分自身を、罪深い存在として問い詰めたのではなかろうか?)

 

注1:新改訳(1970)には「エフェソスの人への手紙」6―4に「 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」とある。「悲しませてはなりません」の出典は不明。

注2:マタイ7-2にある。

 

(4)    エピローグと後半の予想

 エピローグ1~2、ドミートリーの脱走計画がまず描かれる。次にドミートリーが、自分は脱走しても、「おれが自分を裁くことになるのさ」と言う(エピローグ2,光文社文庫第5巻29頁)。彼は海外に逃亡してもやがてはロシアに帰ってきてロシアの大地で死にたいという。カテリーナはアリョ-シャに心の真実を告げ、次にドミートリーにあって許しを乞う。

・・人間の法廷の裁きとは別の次元の裁きと許しがここでは語られている。ドミートリーは脱走するとしよう。人間の法廷の裁きには服しないわけだ。だが、罪の意識は自らに課する。父を実際に殺害したわけではない、だが、グリゴリーにケガをさせた、それだけではない、父を憎んだ、殺しかねなかった、これは罪だ。またもしかしたら、日頃から自身の不品行な行いを節制し得なかった。これがすべての原因で、これも罪だ。これらの罪=人間の法廷では裁かれない罪が、高潔なドミートリーにはありありと見える。彼は「自分を裁く」。そういうことだろうか?

 

 エピローグ3、イリューシャは死に、少年たちが葬る。少年は12人ほど集まった。アリョーシャと12少年の数は、キリストと12弟子の数と照応する。アリョーシャは少年たちと再会を約する。コーリャ達は「カラマーゾフ万歳!」と叫ぶ。これらは序文によれば13年前の出来事であり、これから13年後にアリョーシャと少年達、もしかしたらアメリカから帰ってきたドミートリー、また前半で名前だけ出てまだ活躍していない人々が再会し、何事かを始めてしまう、それが後半の内容となる、という予感を読者に抱かせる。その内容は様々に推測されているが、コーリャが暴走して皇帝を暗殺する、アリョーシャはそれをとどめ真の敬虔な信仰に生きることを勧める、もしかしたらアリョーシャ自身が皇帝の身代わりとしてコーリャに暗殺されるかもしれない・・といった想像を喚起する。アリョーシャは言う、「きっとぼくらはよみがえりますよ。」(同62頁)と。よみがえりとは何か? ここで別れた13人が再会しこの社会で強い力を持ったサークルとなることを言うのか、死んでなお不死の魂があり来世においてよみがえる、と言っているのか? 

 

 全体として、やはり面白い小説だった。まだ分かっていないところもあるだろう。

 

 参考図書として入手しやすいのは

江川卓『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』新潮選書

亀山郁夫『カラマーゾフの兄弟』光文社文庫全5巻の付録の解説

亀山郁夫『ドストエフスキー 父殺しの文学』NHKブックス

加賀乙彦『小説家が読むドストエフスキー』集英社新書

 

 なお、今回は亀山郁夫の本を使ったが、木下豊房という方は亀山郁夫訳について誤訳があるなどの批判を繰り広げている。私には判定はできないがここに紹介しておく。私自身はもともとは新潮文庫の原卓也訳で読んで「はまった」。

 

 ドストエフスキーに影響を受けた作家は世界中にある。日本では例えば、

芥川龍之介:『歯車』に『罪と罰』が出てくる

小林秀雄:『ドストエフスキイの生活』ほかを書いた

椎名麟三(しいなりんぞう):『悪霊』の影響を受けたとか。・・実は私は椎名麟三が好きで、かつて何冊か夢中で読んだ。椎名麟三はマルクス→ニーチェ→ドストエフスキー・キリスト教と深めていったと言われる。

埴谷雄高(はにやゆたか):『死霊(しれい)』には『悪霊』のリンチ殺人事件に似た場面が出てくる

加賀乙彦:上記の本もある

大江健三郎:『万延元年のフットボール』は『悪霊』を受けて書いている?

平野啓一郎、金原ひとみ:「平野啓一郎と金原ひとみが影響を受けた3冊を語る!お互いに被った小説家は誰?(前編)」(大人の読書タイム vol.18)で、平野氏は『悪霊』、金原氏は『カラマーゾフの兄弟』を挙げている。ネットで読める。

などなど。