James Setouchi
2025.8.3
『カラマーゾフの兄弟』追論2 第4~6編(光文社文庫の亀山訳を用いた。)
(1)「大審問官」のところを取り上げる。第5編「プロとコントラ」の5「大審問官」である。非常に有名なところ。
イワンはローマ・カトリック、少なくともイエズス会はダメだ、と明言して批判をしているわけだが、だがロシア正教が正しいと言っているわけでもない。第2編の5「アーメン、アーメン」を見れば分かるように、イワンは地上の教会全てをターゲットにして論じている。第2編と第5編を合わせて考えれば、ローマの教会もロシアの教会も、欺瞞だ、欺瞞だが必要だ、という議論を、大審問官の口を借りてイワンは語っていると言える。これは応用すれば、イスラム教や仏教などすべての宗教制度について言えることだろう。
キリストに対する悪魔の試みは三つある。①石をパンに変えれば人々がついてくる、②誰にひざまづくべきか?(私にひざまづけ)、③飛び降りてみよ、奇跡を示せ、そうすれば信仰を示すことができる。これは、聖書(マタイ、マルコ、ルカにある)と同様だ。三つの要求はイワンの(大審問官の)語りの中で互いに深く関わっていて不可分だ。(言うまでなく、大審問官はイワンの傀儡。その背後には悪魔がいる、と作家は作っている。)
これに対するイエスの答えは、①石をパンに変えろと言うが、人はパンだけで生きるのではない。(では何によって生きるのか? 神の言葉によって生きるのだ、と塚本虎二は言っている。)②悪魔にひざまずけ、に対しては、主なる神のみを礼拝せよ(偶像崇拝するな)、とモーゼの律法の第1にあるのが聖書にあるイエスの答えだ。③飛び降りてみよと言うが、それは神を試すことになり、その段階で神への信仰をまるごと失うことになるのだ。イワンの大審問官はこれに付け加え、イエスが十字架から降りる奇跡を敢えて見せなかったのも同じ理由だ、とする。
「大審問官」では、イワンの大審問官は、イエスを批判していく。
① パンか(精神の)自由か、については、最も長く言葉を費やしている。私は、パンも自由も必要だ。「あれか、これか」ではない。「あれも、これも」要る。では、ギリギリ極限状態ではどちらをとるか? について、キリストは当然地上のパンではなく天上のパンを優先するだろう。孔子は、政治の要諦として、「食」と「民の信頼(為政者への信頼か、民相互の信頼か、等の議論がある)のうち、「食」を去って「民の信頼」を優先する。孟子は「恒産なくして恒心なし」として、為政者が民を収奪せず民の生活を豊かにすることを求める。『管子』(管仲)(後世の偽書か)も「倉廩(そうりん)実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱(えいじょく)を知る」とある。イワンの大審問官は、まずは食料だ、そうすれば人々はついてくる、そもそも自由などというものに人間は耐えきれない、と言う。これは直近では農奴解放でわずかの金をもらって自由な身分になったが結局貧しくなっただけで、かえって農奴時代の方が安定的な生活ができていたことを想起しているかもしれない(ドストエフスキーが農奴制支持者だったというわけではない)。がここでは人間の本性の問題として議論されている。人間は結局自由に耐えきれない。それよりも食料の方がいいのだ。天上のパンとも言える完全な自由に耐えられる者は少人数。一部族で1万2千人。全人類中でごくわずかこの強い人々が存在する(注)が、多くの人は弱く、食料がいるのであって、精神の自由などは後回しだし、自由に耐えられない。結局教会が(悪魔と取引した大審問官たちが)多くの民衆を管理し統制し善導してやるしかない、とする。(注)エホバの証人は、12部族あるので、12カケル12で14万4千人が天の王国に挙げられる、と言っている。但しエホバの証人は、他の多くの人も改造された地上の楽園を受け継ぐ、と言っている。
このことは、ローマ・カトリックだけではなく、すべてのキリスト教会について、またすべても巨大体制宗教について、言えることだろう。ナチス・ドイツや社会主義ソ連についても言えるし、AIマザー・コンピューターが支配する全体主義国家においても同じだろう。ドストエフスキーは、ここで、食料を与え民を食わせるが民の価値化や精神の自由をコントロールし、民を家畜化する支配体制について、ブラックな予言をしてしまっている。ハックスレーの『すばらしき新世界』やオーウェルの『1984』を想起してもよい。現代の(ほぼ)ラノベではあさのあつこの『No.6』がそれだ。ドストエフスキーの問いは、根源的・普遍的な思想の問いであり、時代社会を越えて私たちの現代や近未来をも照らし出す。
だがあらためて、「パンか自由か」ではない。「パンも自由も」だ。農奴解放は問題が多かったが、自由になったことはよかった。そのあとは生活の保障ができるように政策を打てばいいだけのことだ。黒人奴隷解放も同じ。現実生活においては、抽象的で現実から遊離した形而上学の問いに迷い込み、「パンか自由か」の二者択一だと思い込まない方がいい。
② 誰にひざまずくのか? これは、誰もが一緒にひざまずける条件として、人々の良心を支配し、人々のパンを携えている者でなければならない、とイワンの大審問官は言う。
人間は全世界的な統合を求めるが、「人々の良心を支配し、その手に人々のパンを携えている」(亀山訳第2巻282頁)自分たちこそが全ての人間に安らぎを与えうる、とイワンの大審問官は言う。そして、「我々」(大審問官たち)はすでに8世紀にわたって(7世紀以降、という計算になる)「あれ」(悪魔)とともにいる、と大審問官は言う。これも現代に置き換えることができる。地上の栄華、物質的な繁栄、大帝国と壮麗な宮殿、それらに群がる人々は、「あれ」にひざまづいているわけだ。・・・これは怖ろしいことだが、そういうことだ。第6編のゾシマ長老の語りと対比すれば明かだ。世界一高い高層タワーや世界一のGDPや巨大な軍隊、高度な軍事技術。虚飾の都市文明。その中で子供たちが泣き叫んでいる。・・・「あれ」に取り憑かれた人が多い、ということだ・・・
③ あなたの主なる神を試してはならない、とイエスは言う。イワンの大審問官はこれをさらに奇跡の問題に広げる。イエスは十字架から降りてみせればよかったのだと。イエスは奇跡を退けたが、民衆には奇跡が必要だとイワンの大審問官は言う。
・・ゾシマ長老の、民衆に根付いたロシアの伝統的なキリスト教でも、各種の伝承を否定していない。これをどう考えるか。ローマ・カトリックは教会の聖伝として、奇跡を否定しない。(むやみなものは否定される。)新教は聖書のみによる信仰を説くので、教会の聖伝を退けるが、聖書の中にもキリストが起こした奇跡がいくつか書き記されている。(水をワインに変えた、病気を治した、悪霊を追い出した、死者を蘇らせた、水上を歩いて渡った、嵐を静めた、食料を大勢に行き渡らせたなどなど。)イエスはアスクレピオスと同様行脚しながら病気治癒をする神だった、という宗教学の論考(山形孝夫『治癒神イエスの誕生』1986年)がある。が信仰の立場からはどうなるか。キリストは実はいくつかしか奇跡を示していない。奇跡に頼りすぎるのはダメで、奇跡によらなくとも神信仰に立脚すべきだとイエスは考えた、とするイワンの大審問官の指摘は恐らく正しい。キリストがこの世で行って見せた奇跡は、来たるべき未来で(あるいは天の王国で)起こるべき奇跡を予め人々に見せたのであって、それによって人々が信じるきっかけになるとよいかもしれない、でも奇跡に頼りすぎるのはいけない、と誰か(キリスト教徒)が言っていた。ゾシマ長老は民衆の素朴な心が持ち伝えてきた、『殉教者列伝』の神の人アレクセイやエジプトのマリア(注)の記事を読んで民衆に読み聞かせよ、と言っている。ゾシマの場合は民衆の素朴な信仰心に立脚せよ(これは神から来ている)と言うが、イワン(大審問官)の場合は、民衆の奇跡を見たがる心を人為的な統治のために利用せよ(イワンにも大審問官にも神への信仰はすでにない)と言うのは、決定的な違いだ。
(注)
神の人アレクセイ:巡礼歌に出てくる人物。4世紀ローマに生まれた聖者。巡礼。バリエーションが多い。リムスキー・コルサコフ(1844~1908)が曲にしたとも。名前からしてアリョーシャとの類縁性が予想できる。また、ドストエフスキーは幼い子にアレクセイと名づけたが3歳を待たず亡くなった。江川卓『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』(新潮選書、1991年)参照。
エジプトのマリア:5~6世紀か? パレスチナのゾシマ(ゾジム)がヨルダン川の近くの荒野で出会ったとされる女性。アレクサンドリアにいたが、淫蕩を悔いヨルダン川の近くで修行をして暮らした。レスピーギ(1879~1936)にオペラがある。
(2)イワンの「大審問官」に対する長大な反論とも言える箇所が第6編「ロシアの修道僧」である。ここにゾシマ長老の伝記や言葉をアリョ-シャがまとめた、という形で、キリスト教(ロシア正教)を擁護し修道僧の使命を語る内容が出てくる。
ゾシマは、若くして死んだ兄マルケル(信仰心が篤かった)とアリョーシャが似ている、と言う。マルケルのお蔭でゾシマは信仰の道に入った。マルケルは「ぼくらはみんな、すべての人に対してすべての点で罪があるんだよ」と言った。ゾシマは、将校だったとき、従卒を殴りつけたことがあった。それでも従卒は自分に仕える。一体、自分にどんな価値があって、神の似姿である人間が自分に仕えているのだろうか? 人間はすべての人に対して罪がある、それを知ったら、すぐにも天国が現われるに違いない、と若いゾシマは気付いた。貴族の名誉をかけた決闘などもつまらないと気付いた。また、ある殺人者がゾシマを訪れ自分の殺人の罪を打ち明けた。彼は改悛し秘密を公表することで罪から自由になり、救われた。19世紀においては「孤立」が流行している。自分を目立たせ、穴に閉じこもり、他人から遠ざかり、こっそり富を蓄え、人間と人類を信じず、自分の金と権利を守ることだけを考えている。欲求の増大とすみやかな充足を求めても、うらやみや欲望、虚栄に生きるに過ぎない。そうした人間は自由とは言えない。魂を、孤立から、兄弟愛による一体化へと導くのは、修道僧の使命だ。聖書や『殉教者列伝』を子供たちに、民衆に読んで聞かせてやりなさい。堕落した修道僧もあるが、孤独な祈りを求める穏やかな修道僧もある。その中から、もう一度ロシアの大地の救済者がでてくるかもしれない。星は東方から輝き始める。修道僧にこそ真実の自由への道が開かれている。主人と召使いも互いに兄弟となれる。剣を抜いた者は件によって亡びる。祈り、子供たちを愛しなさい。人は誰の裁き手にもなりえない。仮にもし私自身が正しい人間であったなら、目の前の罪人はそもそも存在しなかったかも知れない。大地に口づけをし、すべての人を、すべてのものを、愛しなさい。私は自死者のためにも祈ってきた。・・・ゾシマの伝記と言葉をアリョーシャがまとめた手記は、だいたいこのような内容だ。明らかに、イワンの大審問官と真逆の主張をゾシマは語っており、昨夏が意図的に配列したとわかる。
ロシアの修道僧の中から、西欧近代の無神論とエゴイズムに汚染された世界を、改革する偉大な人物が出てくるかも知れない、とゾシマは言っている。アリョーシャがこの言葉の通り世界の変革者として立ち上がる可能性を読者は感じる。アリョーシャは無神論の革命家になるのではなく、神信仰に基づいた人々の精神の改革者になるのだろう、と読者は期待する。(作家がその読者の期待をさらに裏切る可能性はあるが。)
ゾシマの批判者であるフェラポント神父は、小食・節欲の修行をこととし、わきめもふらず祈り、悪魔が見えると称している。ゾシマはそんなことは言わない。ゾシマは穏健で敬虔なキリスト者だ。ゾシマは人生経験が豊富で、相談に乗ってきた人の数が多いので、人間に対する観察眼が優れているから、予言が当たるように見えるのだ。
他方ゾシマがここで否定しているのは、ローマ・カトリック、新教だけでなく、無神論・唯物論、科学、資本主義(拝金主義)、孤立主義(個人主義)などなど、西欧近代思想を全体として批判している。対して、ロシアの民衆に脈々と継承されてきた、いい意味でのロシア正教の信仰の伝統、ことに修道僧たちのあり方に、未来を開く可能性を見出している。これは、ニコンの改革以降の改革されたロシア正教そのものであるかどうかはわからない。長老制度自体は実は最近のもので、民衆は熱狂しているが、ゾシマが起こしたとされる奇跡の類いを、本当に奇跡なのか、民衆が熱狂しているだけではないのか、という冷めた目で語り手は書いている。ゾシマは、自分が救世主・改革者だとは言わなかった。アリョーシャをはじめ次の世代に期待を残した。そのためにアリョーシャを修道院から一度外に出し俗界を見てくるように指示する。
ゾシマが死んだ後その死体は腐臭をたてる(第7編の1)。ゾシマは、人々の期待とは異なり、芳香に包まれて天に挙げられる奇跡を示したりしなかった。
もちろん現代の私(たち)は、人間を土地に縛り付け(土着主義)、教育・知識・教養・学問を与えず(愚民化主義)、身分に縛り付けて生涯使役する(農奴制)などを、容認することはできない。ロシアの「伝統」を無条件に讃美することはできない。他方、拝金主義・競争主義が暴走し人間が孤立し分断され心に平安がない状況(万人が万人に対して狐であったり狼であったりする状況。「狼」としたのはホッブズ。)もよしとすることはできない。あなたも私も狐男や狼女ではない。では、どうするのか? 現代にアリョーシャが蘇ったらどのような生き方をするのか? 本作の読みと私(たち)の生き方が問われている。