James Setouchi
2025.7.25
4 小林秀雄『ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演』
新潮文庫『ドストエフスキイの生活』(昭和39年)に所収。
ドストエフスキー没(1881)から75年は1956年(昭和31年)であるので、この時の講演を文庫に入れたと思われる。同じ文庫所収の『「罪と罰」について』『カラマアゾフの兄弟』はドストエフスキーに即しているというよりもドストエフスキー作品を使って小林独自の感性、思索を述べたという印象があるが、『ドストエフスキイの生活』ではロシア正教分離派(ラスコーリニク)への言及などで小林の知識量が増えている。またプーシキン以降のロシア文学史を概観し、現代(当時)のソビエトにおける文学の予測などを述べている。
(大意)(不正確な大意まとめ)
ソビエト連邦では戦後ドストエフスキーが禁止になっていた。1956年から解禁された。人々は沈黙の中で読んでいたに違いない。ロシアでは西欧のルネサンスも宗教改革もなかった。19世紀半ばに革新的な思想がロシアに流入した。政府の監視下でインテリ達は文学、文学批評に熱中した。彼らは「人間いかに生くべきか」を問うた。ロシアの近代文学はプーシキンから始まった。続くレールモントフはコーカサスに追放された。ツルゲーネフもロシア社会からみずからを追放した。ゴーゴリは断食と祈りのうちに死んだ。ドストエフスキーもトルストイも無政府主義的インテリだったと言える。
『悪霊』はソビエトでは評判が悪い。革命運動の扱いが反動的・否定的であると見做された。『悪霊』はネチャーエフ事件に材を取るが、この事件の背後にはバクーニンがいる。この二人がピョートル・ベルホヴィンスキーとニコライ・スタヴローギンだとの見立てもある。彼らはマルクスとは違う。ラスコーリニコフはニーチェとは違う。17世紀のニコンの教会改革でロシア正教から破門された分離派(ラスコール)は民衆の中で生きていた。ラスコールから見るとニコンもピョートル大帝も反キリストだ。デカブリストは実はフリー・メーソンだった。その失敗でインテリはリアリスト・ニヒリストになった。
ベリンスキーはソシアリズムによって「ロシアは社会ではない」と発見した。チェルヌイシェフスキーは影響力があったためシベリアに二十年間流された。ドブロリューボフは「思索するリアリスト」であり二十代で死んだ。彼を「飢えたる教義」と評したネクラーソフも追い詰められた民衆詩人だった。ナロードニキたちは学業を廃し農村に入ったが、かえって農民たちに密告される有様だった。青年達はツアー暗殺をするよりほかなくなった。チェーホフ時代は憂鬱だった。レーニンの兄も19歳で処刑された。レーニンはボルシェヴィキ(多数党)を名乗ったがこれは実は国民指導党・職業的革命家の結社だった。彼らは皆革命の予感の下にあった。ソビエト共産党は厳格な方針の下に文学指導の組織を作った。そこにもしドストエフスキーの「地下室の男」のような変わり者が出てきたらどうなるか? 「飢えたる教義」はロシアのインテリの伝統だ。革命による社会制度の一変も、人間を一変することはできない。レーニンもスターリンも、マルクスやエンゲルスには似てはいない。むしろ19世紀のロシアの大作家達が表現したロシア人のタイプのどれかによほど似ているだろう。社会的イデオロギーに飽き、「飢えたる教義」の時期を脱したソビエトの文学は、伝統、個性、人間の問題に向かうことになるだろう。
(補足)
プーシキン:1799~1837。『オネーギン』
ゴーゴリ:1809~1952。『鼻』『外套』『死せる魂』
ベリンスキー:1811~1848。ロシアの文芸評論家。
レールモントフ:1814~1841。作家、詩人。
バクーニン:1814~1876。思想家、哲学者、無政府主義者。
ドストエフスキー:1821~1881。『貧しき人々』『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』など。
ネクラーソフ:1821~1878。ロシアの詩人、雑誌編集者。
チェルヌイシェフスキー:1828~1889。ナロードニキ運動の創設者の一人。
トルストイ:1828~1910。『戦争と平和』『アンナ・カレーリナ』『復活』など。
ドブロリューボフ:1836~1861。ロシアの文芸評論家、社会批評家。
ミハイロフスキー:1842~1904。ロシアの文学評論家、社会思想家。ナロードニキ運動理論家。
ネチャーエフ:1847~1882。ニヒリスト。オルガナイザー。ネチャーエフ事件を起こした。
プレハーノフ:1856~1918。ロシアの社会主義者、革命家。「ロシア・マルクス主義の父」。
チェーホフ:1860~1904。ロシアの劇作家、小説家。
ゴーリキー:1868~1936。ロシアの作家、詩人、社会活動家。詩『海燕の歌』、戯曲『どん底』、小説『母』。
レーニン:1870~1924。革命家。ボルシェヴィキのリーダー。
(不十分なコメント)
ショーロホフ(1905~1984)やソルジェニーツイン(1918~2008)への言及は、当然だが、ない。ソビエト崩壊後ロシア連邦になり、ドストエフスキーが読まれることは当然あるだろう。村上春樹が読まれ、オウム信者もいたという。
一部何を言っているのかわかりにくいところがあった。
社会工学で全てがうまく解決する、というのがウソだというのは当たり前だ。人間には精神の自由も必要だ。但し社会システムの改善・改良はあっていい。男女平等のルールを作り、少しずつでも社会は変わってきた。社会保障等に関しても同様。ノーマライゼーションやユニバーサル・デザインの思想をいれて皆が住みやすくなってきた。社会が全面的に進歩するものかどうかはわからないが、何かをすれば困っている人が困らなくなるなどのことはいくらでもある。それらの努力を全否定することはできない。
文学が「人間いかに生くべきか」を担うことはある。単なる文芸の技巧ではない、倫理学をはらんだ文学の営みがある。日本でもそうだ。大学の職業的哲学者が訓詁注釈をすることも大事だし、哲学者達が対話を重視して哲学カフェを実践している場合もある。だが外国の哲学者・思想家のテキストを翻訳して喋るだけだと、読者にとって今を生きて考える材料になりにくい。概念が精緻に過ぎて一般の人には通じないとうこともある。いかにも象牙の塔に立て籠もった印象になる。対して、文学の方が「人間いかに生くべきか」を担ってきた、ということはありうる。日本では漱石文学が代表例。賢治も太宰も安吾も倫理的だ。
ロシア的なるものが根強く(根深く)存在し、人々はそこから動くことができない、同様に日本的なるものが存在しそれは変わらないものだ、という見立てが小林にはありそうだ。だが小林はフランス文学から何を学んだのだろうか? 民族のアイデンティティを強く自覚し主張するのは、近代国民国家の特徴で、それ以前には違うし(フランスでさえあの領域にまとまったのはここ数百年だ。フランク王国時代や中世を考えてみよ)、特に戦争を経ると対ドイツでフランスの国民意識か盛り上がった。同様に「ロシア」というアイデンティティーの自覚が盛り上がるのは、西欧やゲルマン主義に対抗したとき、という特別な歴史的状況の中でそうなるのであって、それが人間にとって普遍的なあり方、というわけでは必ずしもない。小林はナショナルな意識に引きずられている。パウロは「私の国籍は天にある」と言った。親鸞もインド・中国・日本を視野に収めていた。人間は家郷や国土においてのみ生きるのではない。家郷や国土が偏狭で、人間を縛り抑圧する場合も多々ある。では、そこから離れたくなるのは当たり前だろう。
社会は「進歩」するのか? 「民衆」と共に歩むと言っても「民衆」なるものの実体は一体何か? などはそう簡単ではない。インテリも「民衆」もそれぞれに自分の好みの(利害関心や価値観や経済力など)で近い同士で群れを作って暮らしているのが現状かもしれないが、それらのグループ(コミュニティ)が分断したまま散在・共存していればそれでいいのではなく、コミュニティを越えて対話し普遍的なものを目指す努力は怠るべきではあるまい。
なお、トーマス・マンの『魔の山』に、セテムブリーニ(啓蒙家。理性と道徳を信じる。フリーメイソン)とナフタ(イエズス会士で非合理主義者)の論争がある。それと較べてみると面白いかも知れない。
参考
江川卓『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』新潮選書1991
亀山郁夫『ドストエフスキー 父殺しの文学』(上)(下)NHKブックス2004