James Setouchi

2025.7.24

 

小林秀雄『ドストエフスキイの生活』(新潮文庫)昭和39年から

 

小林秀雄『カラマアゾフの兄弟』

 新潮文庫『ドストエフスキイの生活』(昭和39年=1964年)所収。小林がいつ書いたか、新潮文庫には載っていなかった。小林全集などで調べたらすぐわかりそうだが、手元に手段がないのでワカラナイとしておく。

 

 第二部(続編)を想定する動きに対しては、続編が考えられないくらい完璧な作品だ、と切って捨てる。神、キリストの問題が彼の(本作の)中心課題だ、とする。「大審問官」についてはかなりページを割いている。「大審問官の疑いはイヴァンの疑いであり」、イワンの背後にはドストエフスキーがいて、「デモクラット」「ソシアリスト」「当代の「ソシアリスト」達、わかわかしい「人道の戦士」達」は「悪魔の疑いを華々しい理論の下に圧(お)し隠しているのではないか」とドストエフスキーは問うている、と小林は書く。(242ページ)ルナンのキリスト解釈(人間キリスト)に対してはあっさりと退ける。ドストエフスキーはパスカルと同様「疑い」から始めて「疑い」そのものが結論となった、とする。ホルバインの描く残酷なキリストの絵にも注目、ドストエフスキーは「キリストを思うごとに、キリストというパラドックスが、彼の精神のうちで、あたかも傷の様に痛むのを感じた。」(249頁)とする。ドミートリイの恋愛についても小林は多くページを割いている。彼は「単純」「無邪気」な人間で、「あり余る生活力の天真で無秩序な濫費」があると。小林の評は突然終わる。中途でやめた印象がある。

 

 こうしてみると、やはりアリョーシャへの言及が少ない。ゾシマ長老への言及もない。スメルジャコフへの言及は全くない。イワンがスメルジャコフを使嗾(しそう)したことにも触れていない。これでいいのだろうか? 『カラマーゾフの兄弟』の持っている重要な何かを落としているように感じる。それはロシア正教の正統か異端か、例えば分離派をどう考えるか、皇帝の正教が実は歪んでいるのではないか、ローマ教会のイエズス会をどう考えるか、ロシア的なるものと西欧的なものとを貫くより高次の普遍的なキリスト教とは何か、自分の目的のために他者を使嗾し使役してよいか、などなどの問いが、小林においては語られない。これらの問いを追究すれば、書かれざる第二部(後編)はやはり必要で、アリョーシャが隠遁者「神の人アレクセイ」のように生きて人間と神の真実を語るのか、アリョーシャの周囲の若者たちが皇帝暗殺を企てるのか、などの構想を予想することは、飛躍ではなく、整合的だ。小林には恐らくこうした知見がなかった。(私たちは江川卓、亀山郁夫ら先学の著作によってそれらを得ることができる。)

 

 小林はこの評をもしかしたら戦前に書いているのかも知れない。大日本帝国及び国家神道の正統性を根本から疑う視点は、持っていなかったか、持っていても書けなかった、ということあろうか?

 

 「大審問官」については、何を言おうか。人間には精神の自由が必要だ。同時にパン(食料)も必要だ。二択ではない。両方満たされるべきだ。パンのためには社会の改革もあっていい。実際、社会改革を重ねてきた。もちろん社会制度の改革だけで人間の精神が満たされるわけではない。だが、制度改革を全否定してしまうのはどうかな。ドストエフスキー解釈で言えば、ツアー帝政下だから黙っていたのであって、もしかしたらフーリエ流の社会改革への期待は持っていたかも知れない。(よく知らない。)皇帝暗殺未遂事件が多発していたことは彼は知っていた。第二部の構想に取り入れることは十分ありそうだ。

 

 キリスト教については、内村鑑三の『ヨブ記講演』を読んでみましょう。

 

参考

江川卓『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』新潮選書1991

亀山郁夫『ドストエフスキー 父殺しの文学』(上)(下)NHKブックス2004