James Setouchi

2025.7.24

 

小林秀雄『ドストエフスキイの生活』『「罪と罰」について』(新潮文庫)昭和39年

 

 

 小林秀雄『ドストエフスキイの生活』昭和10年代(新潮文庫で読んだ)

 

(ドストエフスキーの家族、恋人)(本文及び巻末の神西清の年譜による。今日の研究水準から見て正誤は知らない。)

ミハイル・アンドレイヴィッチ・ドストエフスキー:父親。ウクライナ出身でモスクワの軍医。ブルジョワ知識人階級。名目上貴族。ダローヴォエ村とチェルマーシャ村から成る小農園を買い別荘に。(作家はここで初めて田園の空気を吸った。)アルコール濫用。チェルマーシニャの領地で農奴に惨殺された(1839年、作家18歳の時。)

マリア・フォードロヴナ・ニェチャーエヴァ:母。モスクワの商人の娘。1837年没。(作家16歳の時。)(この年、プーシキンが決闘で死んだ。)

ミハイル・アンドレヴィッチ・ドストエフスキー:兄。雑誌『ヴレーミャ』出版などで作家を支えたが1864年没。妻子あり、作家がその生活の面倒を見る。

フォードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキー:作家本人。1821~1881。帝政ロシア末期の時代。

ヴァルヴァーラ:妹。全くの変質者だった、と小林は書く。真偽は知らない。作家の死後殺人事件で殺される。

アンドレイ:弟。

ヴェラトリ、リュボフ:妹。双生児。リュボフは生後まもなく死亡。

ニコライ:弟。廃人同然、と小林は書く。真偽は知らない。

アレクサンドラ:妹。

マリヤ・ドミトリエヴナ・イサーエヴァ:作家の第一の妻。監獄を出て赴任したセミパラチンスク(モンゴルにも近いあたり)での兵役時代に出会う。イサーエフという夫と息子パーヴェルがあったが、作家が恋をした。イサーエフが死亡し作家と結婚。(1857年、作家36歳の時。)作家とは別に愛人があった。病弱で、1864年に没。(作家は43歳で兄と妻を失った。)

アポリナリヤ・プロコフィエヴナ・ススロヴァ(ポーリナ):1862年(この年、ツルゲーネフ『父と子』が出た)に作家が出会った若い女性。ペテルブルクの活動的な女学生だった。二人でヨーロッパ各地を旅行。但し彼女はイタリアでスペインの医学生に遊ばれ捨てられた。この時作家は賭博(ルーレット)に耽っていた。この時のことを題材に作家は『賭博者』を書いた。

マルタ・ブラウン:1864年頃作家が出会った若い女性で、恋愛の相手。

アンナ・コルヴィン・クルコフスカヤ:同じ頃出会った若い女性。恋愛の相手。文学少女で、『白痴』のアグラーヤの原型。

アンナ・グリゴリエヴナ・スニトキナ:若い速記者。21歳で作家の第二の妻となる。(1867年、作家46歳。この年、トルストイの『戦争と平和』第1巻が出た。)作家の生活を支えた。

ソフィヤ:長女。生まれて3ヶ月で肺炎で亡くなった。

リュポフ;次女。いわゆるエーメ。長生きして作家について回想を書いた。

フォードル:長男。

アレクセイ:次男。3歳で亡くなった。『カラマーゾフの兄弟』の四男の名前はアレクセイ(アリョーシャ)。

 

(友人・知人関係ほか)

ベリンスキー:1811~1848。当時のジャーナリスト。ドストエフスキーより10歳年上。ドストエフスキーの処女作『貧しき人々』を賞賛して世に出した。

ツルゲーネフ:1818~1910。先輩作家。ドストエフスキーより3歳年上。『父と子』で有名。新人作家で社交の下手なドステフスキーをからかっていじめる。ドストエフスキーは怒って絶交するが、他方金を借りたりもしている。

ペトラシェフスキー:1821~1866。ドストエフスキーと同年。もと外務省官吏。毎週金曜に勉強会を開いていた。穏健な勉強会だったが、ニコライ1世の統治下の言論統制下で、フーリエ(社会主義者)の誕生日を祝ったことが1849年帝政への反逆とみなされ弾圧される。ドストエフスキー28歳の時。

デカブリストの妻たち:シベリヤに送られるドストエフスキーらを慰問、聖書を贈る。

ヴランゲリ:男爵。シベリヤにいた地方検事。ドストエフスキーを支えた。

ステルロフスキー:悪徳出版社。ドストエフスキーの借金につけ込み出版権を安く買いたたく。

マイコフ:ドストエフスキーの数少ない友人の一人。ドストエフスキーから金を無心される。

ネチャーエフ:モスクワ大学学生。1869年ネチャーエフ事件(仲間への殺人事件)を引き起こす。『悪霊』の題材となる。

ソロヴィヨフ:1853~1900。ドストエフスキー晩年の友人。ドストエフッスキーより32歳年下。ソロヴィヨフは当時二十代の哲学者。『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャの原型とも言われる。(小林は当時28歳の哲学教授と書いているが、少し違うかも知れない。)のち西欧とロシアのキリスト教の統一を目指し普遍教会を唱え、世界の終末を予感しつつ亡くなった、と言われる。(wiki)北大の杉浦秀一に「ウラジーミル・ソロヴィヨフとオカルティズム」という論文がある。(『スラヴ研究』52巻、2005年)

神父アンブロシウス:聖地オプチナ・プスチンの僧院の神父。『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ神父のモデルとされる。ドストエフスキーは1878年にソロヴィヨフとともにここを訪れた。(当時57歳。)但し、ドストエフスキーの宗教思想が、ロシア正教の正統派のものだったか、分離派を含む異端のものだったか、それらを越えたものを目指していたか、については詳論が必要である。

 

ニコライ1世:ロシア皇帝。西欧思想の流入等ですでに帝政は揺らぎつつあったが、秘密警察などを使って言論・思想の弾圧を行った。

アレクサンドル2世:ニコライ2世のあとに即位した皇帝。開明的と歓迎された。1881年(ドストエフスキーの死後だが)暗殺された。なおその後即位したアレクサンドル3世は統制を強めた。『舞姫』の太田豊太郎が明治21年=1888年に訪れたペテルブルクはアレクサンドル3世の統治下。

プーシキン:1799~1837。先輩作家。ドストエフスキーより22歳年上。『オネーギン』『大尉の娘』など。

トルストイ:1828~1910。同時代の作家。ドストエフスキーの7歳年下。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。

ニーチェ:1844~1900。ドイツの哲学者、思想家。ドストエフスキーより23歳年下。『罪と罰』のラスコーリニコフの思想との近親性がしばしば指摘される。『アンチクリスト』など。

 

 

小林秀雄『ドストエフスキイの生活』

 小林が昭和10年代(1935年以降)に書いたもの。時間をかけて連載したもので、割合長く、知識・情報量は結構ある。但しドストエフスキーの前半生に多くページを割き、作品論は割愛している。歴史家のカーとヤルモリンスキーの本を参考にした、と小林は書いている。この両者に対して小林のオリジナルな部分がどれほどあるのか、知らない。読んでいると、小林の長所でもあり短所でもある、「ドストエフスキーのここが超絶すごい! 他の連中にはわからないが私にはわかる!」という言い方が、小林の他の著作同様出てくる。果たしてドストエフスキーをきちんと客観的に祖述できているのか? という疑問も生じる。解説書としては他のロシア文学研究者のものを読んだ方がいいかもしれない。小林独自の世界を読みたければ本書はおそらくこれに応える。昭和10年頃の、時代は戦前で、思想弾圧もある中で書かれた本だ。ドストエフスキー当時(19世紀半ば~後半)のロシアの状況と小林当時の状況を重ね、「民衆」「インテリゲンチャ(知識人)」「民族」「対西洋」などの言葉を多用し、いかにも大正から昭和初期の言論、しかも戦時中の言論抑圧に向かう時代という印象だ。(シンポジウム「近代の超克」は昭和17年。)

 

 「民衆」とは何か? 「民族」とは何か? は簡単な話ではない。ここは小林も気がついて苦労しているが、戦争に向かう大日本帝国に許容される範囲で議論を展開しているように感じる。ドストエフスキーは西欧渡来の社会主義思想を捨てて皇帝・ロシア正教支持派になった反動思想家だ、と図式的に説明してしまう人があるが、ことはそう簡単ではない。ラスコーリニコフは反逆者で、作家はこれに感情移入しているかもしれない。ペテルブルクは悪魔の支配する魔都かもしれない。アレクセイ・カラマーゾフは生き延びて第二部で皇帝暗殺をするかも知れない。あるいは放浪の隠者になるかもしれない。ドストエフスキーは「二枚舌」(亀山郁夫)だったかもしれない。彼の作品の魅力は多様な思想が展開されている(ポリフォニーになっている)点にあることは誰しも認めるであろう。

 

 それにしても(小林の視角は別として)ドストエフスキーという人の個人史は面白い、と言ってはいけないのかもしれないが、大変な人生だ。父親が農奴に殺され、処女作は好評だったが直ちに文壇を敵に回し、自分は反逆罪で死刑になり(実際にはシベリア流刑)、流刑地では監獄で犯罪者たちと過ごし、複数の女性と苦しみながら関係し、賭け事(ルーレット)で借金まみれ、借金を返すために小説を書きまくる、友人は次々失い、子どもも病死するなど、なかなかのものだ。その中であの傑作を生んだ。

 

 兄の妻子や先妻の連れ子に対しては、嫌われながらも、借金まみれの中から送金を続けた、と本文にある。律儀できまじめな一面もあったのだろうか?

 

 父親が酒を濫用したからか、その子供たちは全員病疾を持っていた、とある。酒は怖いですな。

 

 

小林秀雄「『罪と罰』について」

 小林の「『罪と罰』について」は新潮文庫『ドストエフスキイの生活』に入っている。昭和9年(1934年)にⅠを書き、戦後昭和23年(1948年)にⅡを書いたが、新潮文庫掲載のものはⅡではないかと思われる。手元の新潮文庫に断り書きがなく、わからなかった。

 

 私は昔読んでよくわからず(線を沢山引いていた)、久しぶりに書庫から引っ張り出して再読してやはりよくわからなかった。小林はシェストフ、『地下生活者の手記』をインデックスとして『罪と罰』を読み解いているが、『罪と罰』を読むというよりはこの本をダシにして自分を語っているようだと私は感じた。ラスコーリニコフの孤独な自意識に焦点をあて、小林自身を語っているのではないか。

 

 小林の読み取りには、ラスコーリニク(分離派)(つまりロシア正教の支配の正統性を疑う)の問題(ラスコーリニコフだけではない。ミコールカも分離派)も出てこないし、階層差(貧富の差)ゆえに苦しむペテルブルクの貧しい人々(カテリーナの一家も含む)の苦しみも出てこないし、酔漢のマルメラードフをも神はお許しくださる、ではスヴィドリガイロフはどうか? などの問いも出てこない。「棺桶」のような部屋(その高みからラスコーリニコフは下界を見下ろし、みずからを「英雄」「非凡人」とみなし、他の人々を「しらみ」「凡人」と見下していた)から降りてセンナヤ広場でロシアの「大地」に接吻する動きも出てこない。エピローグに明確に書き込まれているソーニャとの「愛」、「生活」のはじまり、「民衆(徒刑囚)」との和解なども小林は論じていない。つまり『罪と罰』において肝心な、宗教、倫理・道徳、社会に対する具体的な捉え方が、小林においてはほとんど捨象(無視)されている。もしかしたら小林はこの段階で『罪と罰』をあまり読めてないのではないか? (私が偉そうに言うことではない。私は江川卓や亀山郁夫ほか先学の研究のお蔭で面白く読んできただけだ。)小林は他の評家を十把一絡げで批判するが、小林の言い回しを借りれば、そう言うご本人こそ「あやしいものである」。

 

 高橋誠一郎という人が次のように書いている。サイトで見ることができる。有益なのでやや長く引用させていただく。(太字にしたのはJS。)

 

小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観」から

・小林は、「この小説で作者が心を傾けて実現してみせてくれてゐるものは、人間の孤独といふものだ」と書くことで、ラスコーリニコフの「良心」の問題を「孤独」の問題へと逸らしていた

・太平洋戦争の直前の一九四〇年八月に行われた林房雄や石川達三との鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という林の問いに「ナポレオンさ」と答え、ヒトラーを「小英雄」と呼んだ小林が、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、トルストイには「やはり凡人を正しいとする確信があったのだね」と続けた小林は、「暴力の無い所に英雄は無いよ」とも語っていたことである(小林秀雄『文學界』第七巻、一一月号。不二出版、復刻版、二〇〇八~二〇一一年)

・敗戦後の一九四六年に座談会「コメディ・リテレール」で、トルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言について問い質された小林秀雄は、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語っていた(傍線引用者、以下、同じ。『小林秀雄全作品』第一五巻、新潮社、二〇〇三年)

・戦前に書いた『罪と罰』論において小林は、二人の女性を殺害したラスコーリニコフの「良心」観について、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と書いていたが、それは「今は何の後悔もしていない」と語った評論家自身の「良心」観ときわめて似ていると思える。

 

 以上、高橋誠一郎氏からの引用。読者諸氏はぜひ高橋氏の本文をお読みください。原発問題につても小林の発言についても批判している。

 

 高橋氏に触発されて書くのだが、小林は少なくともこの段階では『罪と罰』読解・解釈についても小林自身に惹きつけて読んでしまっており、ドストエフスキー作品に展開されている、良心、道徳、神の前の正しさ、貧しく心弱き人々への優しさ、などなどの内容的な広がりを、(もしかしたら意図的に)見落としてしまっているのではなかろうか?