James Setouchi

2025.7.17追加

 

 ドストエフスキー 『罪と罰』 各種文庫に翻訳がある。

  Фёдор Миха́йлович Достое́вский 〝ПРЕСТУПЛЕНИЕ и НАКАЗАНИЕ〟

 

[1] ドストエフスキー年譜   

 

1821( 0歳)帝政ロシア時代の地主の家に次男として生まれる。

1834(13歳)モスクワのチェルマーク寄宿学校に学ぶ。

1837(16歳)母マリヤ、結核で死去。ペテルブルグの寄宿学校に学ぶ。

1838(17歳)中央工兵学校に入学。

1839(18歳)父ミハイルが農奴によって殺される。

1843(22歳)工兵学校を卒業、陸軍少尉となる。工兵局に就職。

1844(23歳)工兵局を退職。『貧しき人々』の執筆に専念。

1845(24歳)『貧しき人々』完成、べリンスキーの絶賛をうける。

1847(26歳)ペトラシェフスキーの会に接近。べリンスキーとは不和。

1848     (マルクス「共産党宣言」)

1849(28歳)ペトラシェフスキーの会のメンバーとともに逮捕。死刑宣告ののち恩赦でシベリア流刑。

1853~56 クリミア戦争

1854(33歳)刑期満了。シベリア守備大隊に配属。

1857(36歳)知人イサーエフの未亡人マリヤと結婚。

1859(38歳)ペテルブルグに帰還。

1860(39歳)『死の家の記録』の連載開始。

1861(40歳)農奴解放宣言。だが農奴は土地を離れ貧困化し大都市に流入した。

1864(43歳)『地下室の手記』。妻マリヤ、結核のため死去。

1866(45歳)『罪と罰』連載開始。

1867(46歳)速記者アンナと結婚。

1868(47歳)(明治維新)  

1871(50歳)『悪霊』連載開始。

1875(54歳)『未成年』

1879(58歳)『カラマーゾフの兄弟』連載開始。

1881(60歳)1月死去。3月、皇帝アレクサンドル2世暗殺される。

1904~   日露戦争

1917    ロシア革命

(NHKブックス 亀山郁夫『ドストエフスキー 父殺しの文学』の年表を参考にした。)

 

[2] 『罪と罰』

 1866年執筆。当時のドストエフスキーは、妻の死、理解者だった兄の死、兄の雑誌『エポーハ』廃刊など、さまざまなことで追いつめられていた。ドストエフスキーはロシアからヨーロッパに逃げ出し、賭博でお金を使い果たした。友人・知人にお金を無心しつつ『罪と罰』を執筆。当時はロシア帝政末期で、解放農奴が貧困化しペテルブルクなど大都市に流入、犯罪も多発していた。このような状況下でこの傑作は生まれた。

 

*主な登場人物

1 ロジオン・ロマーヌイッチ・ラスコーリニコフ ペテルブルグの屋根裏部屋に暮らす、もと学生。「考えること」をしている。奇妙な妄想に取りつかれ金貸しの老婆を殺す。人に親切ないいやつでもある。

2 マルメラードフ:酔っ払い。ソーニャの父。酔っぱらって長い長い話をラスコに聞かせる。馬車に轢(ひ)かれて死ぬ。

3 ソーニャ・マルメラードワ:マルメラードフの娘。貧しい一家を養うため売春をしている。心優しく熱心なキリスト教徒。ソフィヤ。

4 カテリーナ:マルメラードフの妻。もとは上流階級だった。今は貧しく病弱で苦しんでいる。幼い子どもが3人。

5 アリョーナ:金貸しの老婆。ラスコに殺される。

6 リザヴェータ:アリョーナの義理の妹。ソーニャの友人。ラスコに殺害される。

7 ドゥーニャ:ラスコーリニコフの妹。美しい女性。かつてスヴィドリガイロフという奇怪な人物に言い寄られたことがある。アヴドーチャ。

8 プリヘーリヤ:ラスコーリニコフとドゥーニャの母。息子を愛している。

9 ルージン:金持ち。独自の価値観によりドゥーニャと結婚しようとするが、ラスコに反対される。

10 スヴィドリガイロフ:異様な人物。金持ち。ドゥーニャに言い寄る。噂の多い人物。

11 マルファ:スヴィドリガイロフの妻。夫に殺されたという噂がある。

12 ラズーミヒン:ラスコーリニコフの友人。ラスコーリニコフのために尽力する。

13 ポルフィーリィ:予審判事。ラスコーリニコフを犯人とにらみ追いつめるが・・

14 ミコールカ:ペンキ職人。殺人事件の現場近くにおり、自分が犯人だと自白してしまう・・(ニコライ)

15 レベズャートニコフ:進歩的な思想を持っている若者。

16 ゾシーモフ:ラズーミヒンの友人で医者の卵。

17 アマリヤ:カテリーナの家主。カテリーナと大げんかする。

18 プラスコーヴィヤ:ラスコーリニコフの下宿のおかみ。

19 ナスターシャ:ラスコーリニコフの下宿の女中。

 

*ドストエフスキーの仕掛けのいくつか(江川卓『謎とき『罪と罰』』、亀山郁夫『『罪と罰』ノート』などを参考にした)

1 ロジオン・ロマーヌイッチ・ラスコーリニコフという名前

(1)「ロマノフ王朝の祖国をたたき割る英雄」という意味だ。

(2)200年前にロシア正教から分離した、ロシア土着のキリスト教(ラスコーリニク=分離派)の意味だ。

(3)ロシア文字で書くと「PPP」。逆すると悪魔の数字「666」になる。

2 ラスコーリニコフの部屋

 屋根裏部屋だ。それは棺桶に近い。ラスコーリニコフはそこから自分は選民だと思って地上を見下している。大地から遊離した思想に取りつかれて。ソーニャはラスコーリニコフに言う。「ひざまずいて大地に接吻しなさい」と。高所から降りて大地に接吻した時、ラスコーリニコフの再生・復活は始まるのだろうか。

3 ラスコーリニコフの夢

(1)少年時代の夢。田舎の村でミコールカが周囲にはやし立てられて、興奮状態の中でやせ馬を殺害する。恐ろしい夢だ。

(2)老婆殺害の夢。何度も殺そうとするが老婆は笑っている・・・これも恐ろしい夢だ。

(3)シベリアで見る夢。伝染病が世界を覆い尽くす。人々は互いに自分が正しいと主張し暴力的に殺し合う。これも恐ろしい夢だ。

・・・これらの恐ろしい夢を配置することで、ドストエフスキーは何を言いたかったのだろうか?

4 強きスヴィドリガイロフと弱きマルメラードフ

 マルメラードフは酔っ払いで娘を売春に売りに出すような、どうしようもない弱い男だ。スヴィドリガイロフは金と権力があり自己の欲望のためには他の人間を単なる手段として用いる(かと思われる)、悪魔的な人物だ。

 しかし、マルメラードフは馬車に轢かれて死んでしまうものの、神への信仰は捨てていない。これに対しスヴィドリガイロフの最後は・・・一体、人間における真の強さとは何であるのだろうか?

 

[3]コメント

 (某読書会での会話をヒントにして書いた。) 

 マルメラードフは、飲んだくれのどうしようもない男だが悪魔に魂を売ることだけはしていない。ラスコーリニコフは、マルメラードフ一家を助けるいい奴でもあるが、他方悪魔の思想にとりつかれている。

 

 聖なる娼婦ソーニャとラスコーリニコフが対決する。なぜソーニャが読むのは「ラザロの復活」のところでないといけなかったのか。「復活」とは何か。ラザロは死んでなおこの世に復活するが、我々は死んでのちあの世(天国)に復活するのか。復活する場所は再創造されたこの地上の楽園だと誰か(多分エホバの証人の方)が教えてくれたが本当か。今私(たち)に必要なのは希望も生命力もなくうつむいて生きる日々を脱し希望と生命力を持って立ち上がる力ではないか。ラザロはキリストにプネウマ(霊。神の息)を与えられて立ち上がることができたということか。ラスコーリニコフは肉体が死んだわけではなく悪魔の思想に取り込まれていたのが悔い改めて悪魔の思想から解放されるということなのか。(自白の場面ではまだプネウマは与えられていない。では、シベリアでそれは起きているのか?)

 

 ラスコーリニコフの「自由と力だ」の叫びは何を意味するのか。ラスコーリニコフは悔い改めているのか、自分がナポレオンの器でない(「踏み越え」を行ったつもりが大したことはできていないし不安になっている)ことで苦しんでいたのか、不安はつかまりたくないという不安だけなのか。

 

 斧を持つラスコーリニコフは、「デスノート」を持つキラと同じだ。自分は正しいと信じ自分が認定した「悪」を殺害する。NATO(だけではないが)が高度な軍隊を持ち高い所から爆撃するのも同じだ。高度な科学・技術を用いて高みから見下ろし他を攻撃するのはラスコーリニコフと同じだ。あなたは、高度な科学・技術を習得し一体何をしようとしているのか? ドストエフスキーは「に、にんが四は悪魔の思想」と言った。算数・数学・科学技術だけでは、人間にとって大切なものを破壊しながら、しかも気付けないでいるのだ。ナチスの技術官僚や旧ソ連の技術系ノーメンクラツーラたちはどうだったか。では現代はどうか。藤原正彦は「論理」だけでは不可で「情緒」が要ると言った。「情緒」? キラや数学者・技術屋に欠落しているものは何か? それをどうやって補うのか?

 

 ラスコーリニコフはセンナヤ広場でひざまづいて大地に接吻した。現代において、我々が降り立ち接吻すべき「大地」とは何か? 田舎に住んで農業をしろと? 具体的な顔の見えるローカルな人間関係を親密圏として水利組合や地方祭(注)とその飲み会にせっせと精を出して生きろと? それも一つの人生ではある。いや、その狭さがいやだから都会に住んでいるのでは? 「人生の楽園」はどこに? 都会で教会(エクレシア)あるいはイスラム教のウンマに帰属する? パウロは「私の国籍は天にある」として神に直結しつつ地上では旅に生き旅に死んだ。無論カルトにからめとられるのはいやだ。

 

(注)脱線するが、タマフリについて、神様を神輿にお乗せして上下に揺らすのは大変失礼なことであるから、後世に始まったことで、本来タマフリはそうではなかった、と國學院系の偉い先生が書いておられた。そうだと思う。今や酔っ払って騒ぎたいだけの人も多い。祭りのあり方については別に論考が要るだろう。「これが日本の伝統だ」というものは大体が後世のでっち上げだ。そもそも縄文1万年には神社も延喜式内社も秋祭りもなかった。神社神道と神輿と山車(だんじりの場合も)は日本に太古からあった、というのはフィクション。大陸から高度な仏教が来たときに何かが起こり、さらに律令制を整備するときに何かを(政治的意図で)したのでは?

(さらに補足)それでも宗教は宗教なので、神道行事を公的行事としてやるべきではない。政教分離が肝心だ。真剣に神様を信仰している人ほどそう考えるはず。公的行事として行ったとき、他の宗教を信じている人を抑圧・排除することになる。江戸幕府の役人(多神教徒)がキリシタンを逆さにつるして拷問した。軍国主義・国家神道(自称多神教)の時代にもキリスト教の学校を締め上げたし、大本教をも弾圧した。ガンジーを暗殺したのはヒンドゥー教徒(多神教)だ。多神教徒も実は不寛容だったりするのだ。しかもしばしば政治に使われて。不寛容な国家は短時間で滅んだ。他民族・他文化を寛容に受け入れる国家や社会の方が長く存続する。世界史はそれを教えている。

 

 ラスコーリニコフは、シベリアで、アブラハムの時代以来神の祝福を受けて幸福に過ごす遊牧民の姿をはるかに遠望する。(それはシベリアのオムスク監獄でドストエフスキーが見た姿であったにちがいない。)そこに救いの予兆があるのではないか。

 

 (ここぼやき)いや、現実の農林水産業(牧畜はもちろん)は資本の圧力ですでに歪んでいる。(堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』シリーズ参照。)円ドルレートに左右され石油を買わなければ成り立たない農林水産業、牧業。ではペルーの奥地に住み狩猟採集生活に戻る? そんなことは無理だ。所詮文明に守られて生きるほかはない。都市の周辺、しかし貨幣経済・市場経済の圧力のあまりないところで半自給自足で暮らす? 金のかかる子育ては無理だな・・・子ども二人憧れの都会の大学に行かせるなんて無理だ。・・・自分一人生き延びるだけなら、その辺で芋を植えることくらいならできる。旧ソ連では配給された家の庭で芋を育てていたのでソ連崩壊時に餓死を免れた人が多かったと聞く。そう言えば「国民の生命と財産を守るのが政府(国家)の仕事だ」と誰か首相が叫んでいたな。一部の富裕層・「上級国民」だけでなく無力な私(たち)の生命と財産を!・・・「財産」!? 生まれつき多い人と少ない人、それどころか大きなマイナスを背負っている人もいる。安心して学び仕事をし結婚して子育てができるくらいには国民の生活を守るのが政府(国家)が第一義的にやるべきことでは? そう言えば「国民の生活が一番」という名の政党もあったな。・・・ともあれ、芋でも作って貧乏しながら暮らしなさい、と言うのは政府(国家)の言うべきことではあるまい。ましてシベリアに行って遊牧民になりなさいとか・・・?(そう言えば昔「満蒙に行け!」とかありましたね。中南米に行った人たちもいる。苦労した人の話をリアルに聞いた。)そこを解決するのが経済学(経世済民の学)で、「自分が儲けて富裕層になればいい」というのではちょっと違う。渋沢栄一先生に現代の状況について聞いてみたい。(では、大事なのは儒学(『論語』)の勉強ということか? ソロバン勘定ばかりあって儒学の学びの欠落している現状は、渋沢先生の嘆くところだろう。では『論語』をどう読むか? は別の機会に。)

 

 そもそもラスコーリニコフに真実の救いは訪れるのか? ラスコーリニコフはシベリアでの経験を経て、もっと強烈な存在になって首都に戻ってきて「革命」をやらかすのだろうか。そこで救われるべきはマルメラードフ一家やミコールカのような存在であるはずではなかろうか? 

 

 (またぼやき)スターリンや毛沢東、また習近平(彼は「下放」された経験がある)は、最も善良な人、困っている人を助けたかどうか? 

 

 スヴィドリガイロフは救われるのか? ユダ(聖書)もスメルジャコフ(『カラマーゾフの兄弟』)も救われるべきではないか? 神には何でもできる、とキリストも請け合っている。             

                                    

 議論は尽きない。『カラマーゾフの兄弟』も読んでみよう。

 

*なお、ドストエフスキーを読むには、『貧しき人々』→『罪と罰』→『カラマーゾフの兄弟』の順がよい。そこまで行けたら『未成年』『悪霊』などどんどん読めるだろう。『地下室の手記』『白夜』などは短いが初心者は挫折しがちだ。

 

[4] 追記(2025.7.17)

 『罪と罰』はこれで何度目か。今回は講談社世界文学全集第18巻(1967年)の北垣信行の訳で読んだ。どの訳が一番いいかは私には判定できない。どの訳で読んでも面白い。(念のために、私はロシア文学の専門家ではない。素人です。)

 

・細かいところから。ある訳ではミコールカとなっている人物が別の訳(翻訳を含む)ではニコライとなっており、どういうことか分からなかったが、ある人の話によれば、ニコライは南部地方ではミコライと言うそうだ。彼はザライスク郡の出身で、ポルフィーリイも指摘するとおり、分離派の信者で、「苦しむことが必要」と考えている(第5編の2)彼は無実の罪をみずからかぶっていく。自分でも混乱して事実が何かわからなくなっているのかもしれないが。なお、始めの方で、ラスコーリニコフが見る怖ろしい夢(第1編の5)で、田舎で痩せ馬を殴り殺す男の名前もニコライ(ミコールカ)だ。田舎の無学な、悪意があるわけではないが過ちをやらかしてしまう男の一人として同じ名前を使っているのか。なお私にはカテリーナがボロボロになって死ぬ様子が、この痩せ馬が殺される様子と重なって見えた。こんなにひどい目にあわされてよいはずがないのだ。

 

・『罪と罰』という題名は人口に膾炙(かいしゃ)しているが、原語の意味では「踏み越えと刑罰」という意味で、「罪」は宗教的な「罪」(sin)ではない。だが、内容としては宗教的な(神に背く)「罪」が問われているようでもある。

 

ラスコーリニコフは改悛・改心したか? エピローグの所では「新しく蘇った未来への曙光が輝いていた。二人を復活させたのは愛であり、二人の心はたがいに相手の心の、涸れることを知らぬ生命の泉となった」「彼は蘇った」「完全に生まれ変わった」「弁証法にかわって生活が訪れた」などと繰り返されており、彼は改悛・改心したと言える。6編末尾の自白の所ではまだ改悛・改心していなかった。彼はまだ「英雄・しらみ」論(「非凡人・凡人」論)に囚われており、「自分の見下げ果てた根性と無能ぶりに愛想をつかして自首を決意しただけ」だ(第6編、ドゥーニャとの会話)。

 彼を変えたものは何か? ラストの直前に置かれているのは、ソーニャとの愛の発見(自覚)だ。さらにその直前に置かれているのは、世界を滅ぼす旋毛虫の夢だ。この怖ろしい夢を経て彼の中で一種のデトックス(毒出し)が行われ、そこにソーニャとの愛の気付きが生じて、改悛・改心に至ったと考えられる。もちろん、そこに至るまでの葛藤、スヴィドリガイロフとの対決、母親との別れ(母親に「祈って下さい」と依頼する)、それよりも前のソーニャとの対話(ソーニャが「ラザロの復活」を読む)などなども、彼の心の変化に影響を与えてはいるだろう。

 だがここで、ラスコーリニコフは一体何をどう改悛・改心したのか? という疑問が生じる。自分も人も神に生かされ許された存在だ、人は殺してはいけない、という改悛・改心だろうか? そうは書いていない。その改悛・改心は、ソーニャと生活し聖書をひもとくこれからの生活の中で起きるかも知れないが。では、いかなる状態からいかなる状態に移行したことを改悛・改心と考えればよいのか? 恐らく、ソーニャに限らず他人を人間として認めず自分だけの世界に閉じこもっていた状態から、ソーニャとの関係(愛)を実感し、ソーニャを始め他人が人間として生きており尊重されるべきものだと考える状態へと、移行した。それにともない、シベリアでの他の囚人たちとの関係もよくなった、と書いている。それまでは、他人を「凡人」「しらみ」として見下していた、ということだろう。

 もちろん、ラスコーリニコフは、困っている人を助けたりしてきた、善良な面を持っている。同時に「英雄・しらみ」論に象徴される独善的で観念的な思想の持ち主でもあった。それはまさに「棺桶」のような彼の部屋で、他の人とほとんど交わらず、「考えること(だけ)をしている」、「生活」のない彼の日々の中から生み出された、異常な思想だった。彼はこの異常な思想と生来の善良さとの中で、揺れていた、というのが本当のところだろう。

 自分はナポレオンのように英雄的行為で人間社会の法律や道徳を「踏み越え」てもよい、非道な金貸しの老婆を殺しそのカネでもっといいことを社会のためにするのだから。(結果のためには手段として殺人が肯定される。)これが彼の思想だ。ところが実行してみると実行しきれない。自分は「英雄」「非凡人」ではなく「しらみ」「凡人」の仲間でしかなかった。ゆえに自首してしまおう。自首すれば刑期も短くなるかも知れないし。こう考えているうちは、彼に本当の改悛・改心はない。上記の通り「エピローグ」での曲折を経て、彼は改悛・改心の一歩を踏み出した。はるか川の向こうには、遊牧民たちが、まるでアブラハムの時代からそうしてきたかのように、神の祝福に満たされて暮らしている(ように彼には見えた)。ここには救いの方向が示されている。それを準備したのはソーニャとの愛、その前段階として旋毛虫の夢、更にそれを準備したのはそれまでの彼の全ての歩みだ。善良な友人・ラズーミヒンとの交流、愛してくれる母親、妹ドゥーニャ、ソーニャとの関係が大きい。人間の救いは、他者(身近な家族や恋人、友人)との具体的な交わりの中にある、それを支えるのはロシアの大地だ(ラスコーリニコフはソーニャに言われてひざまづいて大地に接吻する。遊牧民もロシアの大地に生きている)。西欧渡来の観念的な思想や技術主義、社会進歩思想には救いはない。そこがドストエフスキーのイイタイコトなのだろう。

 ロシアの大地と愛。そこに生活がある。監獄の囚人たちも同じだ。ラスコーリニコフはそこではじめて民衆と同じ地平に降り立ったのだ。こう読める。

 

 ・・・だが、やや安易で図式的ではないか? 今回初めてそう思った。孤独の城から抜け出してソーニャと具体的な生活を営む、それはよい。だが、監獄の囚人たちと話ができるようになるのだろうか? ソーニャは出来る。だが、ラスコーリニコフに可能なのだろうか? ドストエフスキー自身はどうだったのだろうか? 本編(1~6篇)に較べエピローグでの変化は安易ではないか? ラスコーリニコフに真に神のプネウマ(霊、息)は与えられているのだろうか? 

 

 また、「ロシアの大地と伝統」について、ドストエフスキーは、どういう実態を「ロシアの大地と伝統」と考えていたのだろうか? 西欧思想と出会い、そのカウンターとしてロシアがせり出してくるのはわかるが、その「ロシア的」なるものの内実は、実はどうなのか? これを今詳細に説明することは出来ないが、「伝統」なるものが実はあるときに捏造され仮構されたものだというのはしばしば起きることだ。例えばモンゴル人が支配していた時代の風俗習慣や価値観はどう扱うのか。スラブ人は侵略者・支配者としてあるとき入ってきたわけで、スラブ人侵入以前の人々、また被征服の民族については、「ロシア的」という範疇(はんちゅう)に入れるのか? という素朴な疑問が誰にでも生ずる。ことは「外来思想と伝統思想」という二項対立ですむ話ではない。ロシア正教の改革以前の大地に根付いた民衆の信仰は「分離派」(ラスコーリニク)とされた、ラスコーリニコフはこれを継承している、というのは、先学の指摘する通りだろう。 

 

スヴィドリガイロフとラスコーリニコフは、思想も感性もニヒルで似ている。どこが違うのか。スヴィドリガイロフはラストでついに愛に出会わなかった。「じゃ、愛してはいないんだね?」「愛せないというのかね?・・・絶対に?」(第6編の5)彼は絶望し自死する。ラスコーリニコフはソーニャの愛に出会う。その前に家族(母や妹)や友人(ラズーミヒン)の愛を受けている。ここが決定的に違う。スヴィドリガイロフは好色で少女への偏愛があるようだ。ラスコーリニコフにはそれはない。スヴィドリガイロフは、「自分の我意の行きつく先が砂漠の深淵であることに気がついたのである。その砂漠には生の泉はなかった」と北垣信行は巻末「解説」に書いている。ラスコーリニコフは周囲の愛によって辛うじて自死せずにすんだ。予審判事ポリフィーリイはラスコーリニコフに「生きなさい」と言う。

 

・スヴィドリガイロフが世話をするカーチャ一家(大道芸をする)は、カテリーナ一家(大道芸をする)の将来の姿かも知れない。だがスヴィドリガイロフのカネで、カテリーナの子供たちには別の未来が開けるかもしれない。

 

ルージンとスヴィドリガイロフは、どう違うのか。どちらも金持ちで、相手の弱みにつけ込む。ルージンは自分を高い存在とみて相手に認めさせたい。スヴィドリガイロフはそんなことはどうでもよいが性的に淫蕩だ。ルージンは結局吝嗇で、金を使えばリターンを求めるが、スヴィドリガイロフは死を決意すると自分の金を必要なところにばらまいてしまい、見返りを求めない。カテリーナの子供たちは結局スヴィドリガイロフの金で孤児院には入れる。ソーニャもスヴィドリガイロフの金でシベリアに行きラスコーリニコフの世話が出来る。

 

ルージンとラスコーリニコフは、どう違うのか。ルージンは相手の弱みにつけ込んで相手より優位に立ち相手を操ろうとする。この点をラスコーリニコフは大いに憎む。ラスコーリニコフは根が善良で、カテリーナが困っていればお金を渡してしまい、見返りなどは考えていない。

 

レベズャートニコフとラスコーリニコフ。どちらも西洋渡来の新思想の影響を受けているが、前者は単純な進歩思想の信奉者で、社会が変革されれば人間も変わる、と信じている。その際テロなどを想定せず、啓蒙で社会が変わると楽観的に考えている(ただちにルージンに踏みにじられるが)。後者は社会を変えるときには「英雄」が従来の社会のルールの踏み越えを行うと考えている。また自分は果たして第一歩を踏み越える英雄的人間になれるかなれないか? と自分自身のありかたをいつも考えている。なお、ラズーミヒンは、最近の社会進歩思想について、「数学的な頭から割り出された社会制度」が直ちに人類を救うなどということはない、「歴史」「いきた生活過程」「生きた魂」「生活」が大切だ、と力説する(第3編の5)

 

リザヴェータとソーニャは近い存在。十字架を交換した。表情が重なって見える。二人とも善良。リザベータはいつも妊娠している。売春婦とまでは言わないが男たちに利用される存在。神に近い、聖なる存在。(だが、いつも妊娠している彼女の産んだ子は、どうなるのか?)

 

カテリーナとプリヘーリヤ(ラスコーニコフの母親)。カテリーナは家柄を自慢しているが落ちぶれてしまった。プリヘーリヤも家柄への誇りがあるが落ちぶれている。プリヘーリヤも一歩間違うとカテリーナと同じ運命になっていたかも知れない。(実際、愛する息子の殺人を知り、発狂した?)カテリーナとプリヘーリヤの違いはどこにあるか? 紙一重だ。カテリーナは病気(結核)で、再婚した夫マルメラードフがリストラされて酒浸り、かつ子どもが幼い、という事情がある。プリヘーリヤには少しカネがあった。子どもも大きい。  

 

(補足)私は江川卓『謎とき『罪と罰』』や亀山郁夫『『罪と罰』ノート』を面白く読んだが、ネット上で検索していると、木下豊房という人が、様々な批判を繰り広げていた。私自身はその正誤・当否を判定することは出来ないが、これから学ぶ人は知っておくべきだと思うので、紹介しておく。