James Setouchi
2025.7.11
Фёдор Миха́йлович Достое́вский “Белые ночи”
1 作者ドストエフスキー(1821~1881):19世紀ロシア文学を代表する世界的巨匠。父はモスクワの慈善病院の医師。1846年の処女作『貧しき人びと』が絶賛を受けるが、’48年、空想的社会主義に関係して逮捕され、シベリアに流刑。この時持病の癲癇が悪化した。出獄すると『死の家の記録』等で復帰。’61年の農奴解放前後の過渡的矛盾の只中にあって、鋭い直観で時代状況の本質を捉え、『地下室の手記』を皮切りに『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』等、「現代の預言書」とまで呼ばれた文学を創造した。 (新潮文庫の作者紹介から。)
2 ドストエフスキー略年譜 (NHKブックス 亀山郁夫『ドストエフスキー父殺しの文学』の年表他を参考にした。)
1821( 0歳)帝政ロシア時代の地主の家に次男として生まれる。
1339(18歳)父ミハイルが農奴によって殺される。
1848(27歳)『弱い心』『ボルズンコフ』『クリスマスと結婚式』『白夜』発表。
1849(28歳)『初恋』執筆。このころペトラシェフスキーの会のメンバーとともに逮捕。死刑宣告ののち恩赦でシベリア流刑。
1854(33歳)刑期満了。シベリア守備大隊に配属。
1858~59(37~38歳)『ステパンチコヴォ村とその住人たち』執筆
1859(38歳)ペテルブルグに帰還。
1861 農奴解放
1863(42歳)恋人アポリナーリヤとパリからイタリア、スイスなどを旅行しベルリンで別れる。
1864(43歳)妻マリヤ逝去。兄ミハイル逝去。
1866(45歳)『罪と罰』連載開始。『賭博者』執筆。速記者アンナ・ブレゴリーエヴナを愛するようになる。
1868(47歳)『白痴』
1869(48歳)『永遠の夫』
1871(50歳)『悪霊』
1877(56歳)『おかしな人間の夢』
1880(59歳)『カラマーゾフの兄弟』
1881(60歳)1月死去。
3 ドストエフスキー『白夜』 安岡治子 訳(新潮文庫)
Фёдор Миха́йлович Достое́вский “Белые ночи”
恋愛小説。ドストエフスキーが若手作家で、シベリア流刑になる前の作品である。1848年発表。
(登場人物)(ヤヤネタバレ)
僕:語り手。26歳。ペテルブルクの町の外れの下宿で暮らす、仕事はしている。孤独な夢想家。恋人はいない。友人は少ない。
ナースチェンカ:「僕」が出会う美しい女性。17歳。目の見えないお祖母さんと暮らしている。
謎の紳士:燕尾服を着た紳士。夜、酔ってナースチェンカにからみそうになる。
マトリョーナ:「僕」の下宿の召使い。高齢女性。
フョークラ:ナースチェンカの家の召使い。耳が聞こえない。
お祖母ちゃま:目が見えない。ナースチェンカにフランス語を教えてくれた。
若い下宿人:ナースチェンカの家に下宿した。スコットやプーシキンの本をナースチェンカに貸してくれる。お祖母ちゃまと3人でオペラの『セヴィリアの理髪師』を見に行った。ナースチェンカはこの下宿人に恋をした。彼は昨年5月にモスクワに移動し、今年ナースチェンカを迎えに来ると約束した。しかし・・
(あらすじ)(ネタバレ)
ペテルブルグの白夜の季節の4日間の物語。
「僕」は夢想家で町をふらふら歩いていると、泣いている少女に出会う。あやしげな紳士に絡まれそうになった少女を「僕」は救う。これが二人の出会いだった。少女は夜この街角に来る理由がある、明日の夜も会おう、と言って少女は去った。
二日目の夜、「僕」は2時間も前から少女を待つ。少女の名はナースチェンカと言った。「僕」は夢中で自分のことを話す。自分は夢想家だと名乗る「僕」を彼女は気に入ってくれたようだ。彼女は、自分の身の上を語り、自分は恋人を待つために毎夜この街角に立っているのだと告白する。
三日目の夜。ナースチェンカと「僕」は彼女の恋人を待つが、彼は現われない。「僕」は彼女を慰める。
四日目の夜。悪天候にも関わらず「僕」は出かける。ナースチェンカは予告通り現われない。
五日目。(「第四夜」と書いてある節。)恋人は現われない。「僕」は思わずナースチェンカに対する愛を打ち明けてしまう。二人は具体的な生活の話を始め、彼女は「明日あなたはうちに引っ越していらっしゃいね」などと言う。「僕」は夢中だ。・・・ところが、その時、ナースチェンカの待っていた恋人が現われる。彼女は思わず彼の胸に飛び込む。彼女は不意に引き返し「僕」にキスをすると再び彼の元に飛び返り、彼をぐいぐい引っ張って行った。あとには「僕」が取り残された。
その翌朝、ナースチェンカから手紙が来た。「僕」は彼女と過ごした数日間の幸福を思い、漢書の幸福を心から祈った。
(コメント)
誰かが「ナースチェンカはしたたかでずる賢い」「身勝手な女」と書いていた。そうは思わなかったので、おお、そういう観点もあるかと思った。そもそも私は登場人物の女性に(『舞姫』のエリスや『三四郎』の里見美禰子など)に甘い、と他の人(女性!)から言われてきた。今回もその口か? ナースチェンカは17歳にして「二股」「乗り換え」を試みようとしているのだろうか? だが、待っていた恋人が現われないので苦しみ、親切な「僕」に友情と感謝を感じたとしても、それを「したたか」「身勝手」とまでは言えないのでは? どうだろうか。純情な(まだバランスの悪い)少女が失恋の恐怖に苦しんで血迷った科白を吐くことはありうることだろう。女たらしの悪い男ならそこにつけこむだろうが「僕」はつけこまない。彼女にとって「僕」は危険のない安全な男だったに違いない。その善良さを気にいった面はあるに違いない。
私には、「僕」の夢想家ぶり、恋情のしまりのない漏れ流し(と言うべきか)が印象的だった。年寄りはしまりなく涙を垂れ流す。同様に「僕」は出会って数日の少女に対してしまりなく恋情を(「愛」などと書いているが恋情と言うべきだろう)垂れ流す。内面で夢想したことが思わずあふれ出ている感じなのだ。現代においてこういうことはあるだろうか? 過剰な夢想を語り続ける若者を、現代の若い女性は受け入れず「キモチワルイ」と言うのではないか? だが「僕」の善良さ誠実さは少しは彼女の心を打った。彼女から別れの手紙が来る。「永久に私の親友で、兄でいてくださるでしょう・・・」「僕」は彼女との数日間を感謝し、彼女の幸福を祈る。「ああ! 完全なる至福の時間だった! あれは、人間の長い一生涯分に十分足りるほどのものではないだろうか?・・・」が結語だ。ここで作家が提示しているのは、片想いの実らぬ恋でも十分幸せということはある、ということだ。(現代なら「推し」のアイドルにこちらを見て貰って握手して貰っただけで満足、というのが近いのか?)人間の生活は即物的で単調なことがらの繰り返しでも、その中にこれだけの恋情を抱ける期間があり相手の幸福を心から祈ることができるならば、それはそれで充実して幸福な人生だ、ということであろうか? 恋情(エロース)に囚われていたが、最後の最後で恋情は「愛」(アガペー)と呼べるものに昇華した、と読むべきであろうか?(後述)
(国家権力から死刑を宣告されシベリアに送られるとなると話はいささか変わってくるかもしれないが。)
ところで、「僕」がいかに恋心を抱こうと、もし彼女と結婚したら、そこにはたちまち現実の生活が待っている。二人の会話の中でそれは少し出てくる。家賃を考えると「僕」が彼女の下宿に引っ越す、召使いもクビに出来ない、お祖母ちゃまの年金もあるが彼女が家庭教師に出て稼ごう、などと。彼女と恋人が結婚しても、具体的には書いていないが、必ず同様の問題が持ち上がる。彼は「僕」よりは生活力があるのかもしれないが、結婚生活をするということは、家計の収支をきちんとすることはもちろん、税金を納める、ゴミを出す、トイレが詰まったら直す、衣食住をととのえる、などなどの俗事をこなすということであり、子どもが生まれれば健康や教育の心配をする(それはそれで幸福なことではあるが)、やがて老親の世話をする(この場合目の見えないお祖母ちゃまの世話は必須)などなどが具体的についてくる。純粋な恋愛の夢想だけでは物事はすまないのだ。私はこのことを心配した。
ここで主要登場人物の階層を想像してみると、「僕」はかなり教養がある。文学、歴史、哲学の話題が当たり前に会話に出てくる。(注)また別荘に行く連中と知り合い・友人だ。するとある程度以上の階層だとわかる。但し自分の家で別荘は持っていない。生活のために仕事をしている。不労所得で暮らせる階層ではない。ナースチェンカのお祖母ちゃまもフランス語の素養があり若い頃は家庭劇で『セヴィリヤの理髪師』をやったことがある。今は没落しているが貴族の家系かも知れない。ナースチェンカの恋人もスコットやプーシキンを読む。オペラのボックス席のチケットを入手してくる。オペラを見る階層は上流である。「今のところ、ちゃんとした職もない」からまだ結婚できないと言ったが、モスクワに行って1年後に結婚できるようになったということは、「ちゃんとした職」を得たか、遺産を相続したか何かだろう。本作に出てくる主要人物は(召使いは別として)19世紀中葉のロシアの階層社会における、上流~中流以上の、教養人階層だと言える。
(注)聖バルソロミューの夜、処刑されたフス、『悪魔のロベール』の墓場の匂い、処刑されたダントンなどなどを列挙するのはなぜだろうか? これらは「廃墟の風景」を連想させる、と金沢美知子は言う。(「ドストエフスキー『白夜』における18世紀の「甘美な憂鬱」」(『Slavistika : 東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室年報』30 55-65, 2015-03-15)
別件だが、彼(ナースチェンカの恋人)が誘ったのはどうしてオペラ『セヴィリヤの理髪師』(ロッシーニ)なのだろうか? 文庫本の傍注によれば、ロシアでは1823年初演、1843~44年と1845~46年にイタリア・オペラ・シーズンでも上演された、上演は大成功、とのことだ。当時(本作は1848年発表)の作者・読者にとって話題のオペラだったに違いない。これはムソルグスキー『ボリス・ゴドノフ』やチャイコフスキー『エフゲニー・オネーギン』よりも以前である(ahayakawaという人のサイト「音楽史年表記事編69.東欧、ロシア・オペラ創作史」2023.4.14から)。『セヴィリヤの理髪師』の内容は、アルマヴィーヴァ伯爵が貧しい学生の振りをするが美しいロジーナと結ばれる話。(失恋するのはロジーナの後見人の医師バルトロ。理髪師フィガロは伯爵に助力する。)ロジーナの恋人への手紙がキー・アイテムとなる。本作『白夜』と較べると、ナースチェンカの恋人が今はまだ貧しいが結局ナースチェンカと結婚するハッピー・エンド(オペラではアリマヴィーラ伯爵は貧しい学生のふりをするが最後はロジーナと結婚するハッピー・エンド)、両作品とも女性が手紙を書く、という類似点がある。すると、ナースチェンカの恋人は、ペテルブルクでは「今はまだ貧しい」と言っていたが、実は富裕層や上級貴族である可能性もある。彼がモスクワに移動して1年間で何をしていたかは書いていないが、遺産相続などをしていた可能性もある。これは想像に過ぎない。
但し本作でナースチェンカの恋人は(ドストエフスキー作品によく出てくる)悪辣で権力欲の強い男としては造形されていない。(そのタイプがあるとすればナースチェンカに最初の夜にちょっかいを出そうとした謎の紳士だ。彼はスヴィドリガイロフの原型かも知れない。)本作ではあくまでもけがれなき純情・純愛・裏切らない愛がクローズ・アップされている。彼の愛に裏切りはなく、ナースチェンカの愛も彼に向かい、「僕」の愛も美しいままに終わる。
報われぬ恋、見返りを求めない恋と言えば『葉隠』の「忍ぶ恋」だ。「恋の至極は忍ぶ恋」「恋ひ死なむ後の煙にそれと知れ 終に漏らさぬ中の思ひは」と山本定朝は言う。この場合主君への忍ぶ恋だが、リターンを求めずひたすら滅私奉公する恋だ。鎌倉武士のギブ・アンド・テイクとは違う。今日の「ウィン・ウィン」とは違うのだ。『白夜』の「僕」の恋情も見返りを求めないのでこれに近いが、『葉隠』の禁欲に比べれば、恋情がしまりなくダダ漏れしている印象がある。それでも、リターンを求めず計算づくでない点が美しい、と言えるのだろう。もちろん滅私奉公・奉仕タイプの人間をカルト宗教の教祖や独裁国家が道具として使い捨てるのは許せない、これは警戒しないといけない。だが、最近は恋愛や結婚も打算によって富裕層同士で結婚して安楽な暮らしをしよう、互いに閨閥を利用して利権共同体を守ろう、などとやっている輩(やから)がいるやに聞いている。それに比べれば「僕」の純粋さはやはり心を打つのだった・・・
ゲーテ『若きウエルテルの悩み』も報われない一方的な恋情の小説だが、あまりおすすめしません。真似をして亡くなった方がおられるとか。
ドストエフスキー『罪と罰』のスヴィドリガイロフはラスコーリニコフの妹ドゥーニャに「愛」されたいと願うが報われず自死する。
西行は待賢門院璋子という高貴な女性への恋が叶わず出家したと言われる。
『伊勢物語』の「昔、男」なる人物も、さる高貴な女性(藤原高子?)に恋をしたがかなわず「月やあらぬ」の歌や「白玉か何ぞ・・」の歌を詠んだとされる。
ツルゲーネフ『初恋』(1860)ではウラジミールの恋は叶わない。彼女の相手は何と・・(言わない)
二葉亭四迷『浮雲』(1891)では優柔不断な内海文三は彼女を権力志向の本田昇に取られる。
伊藤左千夫『野菊の墓』(1907)も純愛で、報われない。
夏目漱石『三四郎』(1908)も、三四郎は美禰子を愛しているんだか愛しているんだか自分でも分からないのだが、恋情ではあるだろう。美禰子は突然「銀ぶち眼鏡をかけた立派な男」と共に去る。(なお『三四郎』では漱石は「愛」という言葉を用意周到に消していることに注意。)
田山花袋『蒲団』(1908)は近代文学史で名前は誰でも知っているが、読んでびっくり! これも絶対にばれてはいけない、報われない恋情の物語。是非お読み下さい。ラストで大爆笑するかしないか、それは、あなた次第です。
恋情(エロス的)は結局の所煩悩(ぼんのう)です。仏教で渇愛(タンハー)とはよく言ったものです。愛(アガペー)とは少し違うようですよ。『白夜』は、恋情に囚われてストーカーになるのではなく、相手を相手としてあらしめてそのままに生かそうとするので、大いなる「愛」(アガペー)に近いものになっているかもしれませんね・・
神の国(あるいは極楽浄土)では恋愛や結婚はどうなりますか・・?
私見では、皆が兄弟姉妹のように仲良くなるのではないでしょうか・・・
恋愛もなく、結婚もない。つまり失恋もなく、離婚もない。異性を奪い合う(そのひどいやつは、アフリカのマントヒヒがやっているやつ)こともない。ドストエフスキーは『1864年のメモ』で「娶らず、嫁がず(犯さず)、神の天使のごとく生きる」「結婚及び女性を犯すことは、いわばヒューマニズムからの最大の離反」と書いている。(光文社文庫『白夜/おかしな人間の夢』安岡治子訳212頁)・・・どうですか?
*エホバの証人の人が言っていました。聖書に「生めよ増やせよ地に満ちよ」とある。すでに人は増えて地に満ちたので、これ以上生むことも増やすことももはやない、とも解釈できるはずだ、と。これがエホバの証人の公式見解かどうか知りませんが・・どうですか・・? すると、「結婚しなさい、子どもを産み育てなさい、そして税金・保険料・年金を納めて国家のGDPに貢献する人を増やしなさい」という主張が、実は、ある一方に偏った極端な思想かもしれないと考察する視点が可能になりますよね・・・? どうですか・・?
*江川卓『謎解き『罪と罰』』『謎解き『白痴』』『謎解き『カラマーゾフの兄弟』』、亀山郁夫『『罪と罰』ノート』『ドストエフスキー謎とちから』などは非常に面白い。
(ロシア文学)プーシキン、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキー、ショーロホフ、ソルジェニーツィンら多数の作家がいる。日本でも二葉亭 四迷、芥川龍之介、小林秀雄、椎名麟三、埴谷雄高、加賀乙彦、大江健三郎、平野啓一郎、金原ひとみ、などなど多くの人がロシア文学から学んでいる。