James Setouchi
2025.7.4
「がんばる」という言葉について
1 まず、以下のコメントをお読みください。
「浅野先生はまず、「頑張る」の語源を「我張る・我に張る」とする『広辞苑』などの説に疑問を呈している。そして、「がんばる」は江戸時代中期頃の文献に現れるが、それらは「見張りをする・目をつける」の意の「眼張る」に集中していて、現在の意味の「頑張る」は一つもないとする故穎原退蔵(えばらたいぞう)氏の説を紹介しつつ、江戸後期から明治にかけての用例「眼張る」と「頑張る」の混用と移行の実態がはっきりと見ることができるとしている。
「がんばる」の原義は「見つける・周囲を見張る」の意であるが、明治期に入ると見張りの仕方が威圧的で、相手の行動を制約する用例が出てきて、現在でもいう「入り口に頑張っている」などの意味と重なってくる。とすると「我張る・我に張る」の転とする説は根拠を失うというのである。その上で、「眼張る」から「頑張る」への移行の過程で、「頑」という威圧的な態度で相手の行動を制約し、圧倒するエネルギーを表現する漢字に置き換えられるようになっていく。現代の「頑張る」は、昭和11年の「前畑ガンバレ」のようにスポーツの世界で使われ始め、童謡「お山の杉の子」(昭和19年)で歌われたように広く国民的な語彙として広まり、さらに第二次世界大戦後は相手を圧倒するほどの個人のエネルギーの表現として意識されるようになったのではないかと結論づけている。」(神永 曉(かみなが さとる)「第17回 『日国』で「がんばる」の語源を読み解く」というサイトから。)
・・・これは目から鱗だった。辞書では「我張る」という説明が載りがちだが、そうではないよ、という説明だ。勉強になった。感謝します。
2 次に、「願生(がんば)る」という言い方について
誰かが「願生る」と書いて「がんばる」と読ませていた。いいような、わるいような、どうなのだろうか・・? と思い、検索すると、お寺のお坊さんや学校の先生が使っておられた。「頑張る」ではなく「願生(がんば)る」という形で。つまりそこでは「頑張る」だけではだめで、大事なことが忘れられるから、あえて「願生る」という表現を採用したのだろう。では、そこで強調される大事なこととは何か? が問題になる。
3 私は実は「頑張る」世代で、「頑張れ、頑張れ」と言われて育てられたし、人にも「頑張れ」と(つい)言ってしまっていた。「頑張る」ことはいいことだという価値観から自由でなかった。だが、神戸の大震災で被災した人に向かって「頑張れ」と言っても無理なものは無理だしかえって逆効果だ、というカウンセラーたちの発言を聞いて、なるほどと思った。それでも「頑張る」ことはいいことで、特別な場合にのみ使わない方がベターかもしれないな、でも回復すればやっぱり「頑張れ」と言うことはいいことなのだろう、という気持ちが混入していた。「がんばろう神戸」という言い方もマスコミでよく見かけた。東日本のときはどうだったかな。スポーツの大会などでは何の疑問もなく「頑張れ」と多くの人がやっている。羽生さんにもオータニさんにもサムライ・ジャパンにも「頑張って欲しいですね」などなど。「頑張っている人を応援します」などという政治家もいる。だが、果たしてそれで本当にいいのだろうか? 本当に?
4 「頑張る人を応援します」「頑張って欲しい」「頑張れ」という言葉を何の反省・疑問もなく使う人には、頑張れない人、頑張る力を失った人、頑張りすぎてボキッと折れた人への想像力が欠如している。自分や家族がそういう目に遭ったことがない、たまたま幸せに過ごしてこられた人たちなのだろう。よかったですね。でも、世の中にはそうではない人たちが沢山います。現実です。そこへのまなざしと共感、ではどうすればよいかという問題意識を忘れないようにしたいものです。ドストエフスキー『罪と罰』の飲んだくれマルメラードフはどうしようもない泥酔漢で、娘を売春婦として売ってしまいます。最後は馬車に轢かれて死んでしまいます。ドストエフスキーにはそういう人たちへの温かい眼差しがありました。本当は善良で心優しい、いい人たちなのです・・・
政治家が「頑張る人を応援します」と言うとき、大金持ちで働く人からピンハネしている人たちではなく額に汗して働く人を応援する、くらいのつもりで言っているのだろうか。だが、職に就いていて税金と保険料と年金を払っている人を応援します、という意味にいつの間にか変換されていないか? さらに、その時、エッセンシャルワーカーのことを忘れ、高額所得者で高額納税者を応援します、にいつの間にか変換されてないか? だが、頑張りたくとも頑張れない人も多数いる。学校や会社をクビになって腐っている人は沢山いる。大勢の年寄りや障がい者の面倒を見ているので職を離れるしかなく、したがって収入はゼロ、GDPにも貢献していません、という人も結構いる。そういう人をちゃんと見て考えてくれているのか? 極端な例を挙げているのではない。どこにでもある老老介護であり、明日はあなたの身の上に確実に起きることなのだ。政治家はここを見て下さい。
(お断りしておくが、私は支持政党なしのいわゆる「無党派層」だ。賢明な有権者諸君は自分の判断で投票なさって下さい。)
5 本当は善良で心やさしい人たちがどうしてそういう目にあっているかと言うと、「頑張る」「我を張る」ことが絶対正しいとする価値観の中で、人々がせめぎ合い、大きな声で自己主張して強欲に我を通す人が勝ち残り、心優しい人が譲っては譲ってはドロップアウトしていった、という経緯があるのではないでしょうか? 「私だって頑張ってきた」「甘えたことを言うんじゃない」という声が聞こえてきそうですね。そうです、あなたは、頑張ってきました。でもあなたには、たまたま頑張れるだけの天与の知力や体力がありました。頑張れば逆境をはね返せる環境もありました。あなたが多少頑張ってもその都度もっとひどい目に遭っていたら、あなたはつぶれていたのかもしれないのです。あなたの兄弟姉妹やいとこで潰れた人もいるでしょう? あなたが批判する「頑張っていない人」にあなたは紙一重の差でならなかっただけかもしれないのです。「運を呼び込むのも実力のうち」と言うのは運を呼び込めるラッキーな状況にあなたがいただけの話です。あなたは実はあなたの努力以前に恵まれていたのです。あなたが今(2025年)ガザ地区に生きていて今朝の爆撃で自宅と家族を失っていたら、同じことが言えますか? 結局今のあなたは競争社会で勝ち組を目指す思想の信奉者であって、つらい人の痛みの分からない人です。アニメ映画で恐縮ですが『鬼滅の刃』遊郭編の上弦の陸の鬼の妓夫太郎と堕姫を見ながら、炭治郎は、自分たち兄妹も一歩間違っていればああなっていたかもしれない、その差は紙一重なのだ、と考えます。この想像力と謙虚さが大事なのです。(『鬼滅の刃』の残虐シーンは怖ろしいですが。ああ、鬼を斬らずに改心させる方法があれば・・宮沢賢治『ひかりの素足』では「大きな人」の前で鬼が泣いて改心します。炭治郎や宇随天元にはまだそれだけの力がありません。)湯浅誠は「東大に入れるなんて場頑張ったわね」という周囲の人の発言に「いいえ、それほどでも」と答えながら内心ではまんざらでもなかったかつての自分を恥じ、今では環境の与える影響の大きさに目を向ける、と何かの本で書いていました(文言は正確ではないが、大意はこの通りのはず)。頑張ってもいい、でも頑張れるための条件がある。たまたま自分のやったことがうまくいき、周囲が祝福してくれた、その成功体験が自信になり、頑張れば報われる、自分は生きていていいし努力することはいいことだ、と思えるようになる、そういうことでしょうか。(私は発達心理学などは勉強していませんが。)
*湯浅誠氏は法政大学で教えておられたが2019年4月から東大先端研の特任教授になられた。特任教授って何をするのだろうか? 法政大の学生は湯浅誠の授業に出られてラッキーだったですね。今は東大の学生がラッキーだ。東大生は湯浅誠に学んでほしい。特任教授はもしかしたら期限付きなので、早く受講しないと、おられなくなるかもしれませんよ。
6 明治近代以降の「頑張れ」主義が実は問題です。軍国主義時代、高度成長時代を通じて、「頑張る」は形を変えて重要な価値観・思想として人々に浸透してきました。本当は頑張りきれなかった人が沢山いたにもかかわらず。戦場で頑張りすぎて玉砕(ぎょくさい)=全滅した人がいたにもかかわらず。もっと頑張っていたら「本土決戦・一億玉砕」で日本人は全員死んでいたであろうにもかかわらず。猛烈サラリーマンが頑張りすぎて家族が壊れ自身は過労死し社会環境や自然環境は劣悪化したにも関わらず。そして今は? それでもまだ「頑張れ」と言い続けるのでしょうか・・・?
(エリオ・グレイシーは木村政彦との戦いで頑張って参ったせず腕を折られた(はず)。猪木十番勝負でもたしかアフガニスタンの英雄ペールワンが頑張りすぎて脱臼したはず。(私の記憶では猪木は「(彼は根性があって」参ったしないからね」と言っていたような気がする。)
そこまで「頑張る」べきであったか? 「英雄」「頼りになる」「一家の大黒柱」の名前がつくと引くに引けない、とすると責任は本人にあるだけでなく彼を英雄扱いして消費する周囲や一般大衆にもある。1964年の東京五輪の陸上の円谷幸吉を見よ。
頑張り抜かず参ったすることの尊さを老荘思想は教える。つまらない修羅の争いから離れることが正しいと仏教は教える。自分の強さ賢さや金や国家を偶像崇拝するなとキリスト教は教える。知足安分は昔聞いたことがある言葉のはず。
7 「頑張る」でなく「願生る」だと言い直すのは一つのヒントではあります。ですが、一体何を「頑張」り、どのような「願」を「生」「がんばる」のか、ここが最も大切なことになります。学校の教室に「願生(がんば)る」と大書してあるのを見たことがありますが、純情可憐な子どもたちは、「試合に勝つ、学校の成績を上げる」くらいに取ってしまいますか? だが、「がんばる」のは、何を頑張りますか? 試合で勝つことですか? 学校の成績を上げることですか? 筋力をつけることですか? ケンカに勝つことですか? ゲームで高得点を取ることですか? 自分が目立ってチヤホヤされることですか? おのれのスキルをアップすることですか?(それも悪くはないですね。そのスキルを使って何をするか、ですが・・) 会社で出世することですか? 会社を大きくすることですか? もっと利益を上げることですか? 戦場でもっと多くの人を殺すことですか? 相手国にもっとダメージを与えることですか? 自分の教会や教派の信者を増やすことですか? どこよりもでかい大仏を造ることですか? 他の人よりも早く科学法則を解明し特許をとることですか? 展覧会やコンクールで一等賞をとることですか?・・一体なにを「がんばる」のでしょう? 何のために? それによって何を実現するのでしょう?
・・宮沢賢治は「雨ニモマケズ」の中で「自分はデクノボーと呼ばれ、自分を勘定に入れず(「そこ私の席」「席取ってました」と言わない)、困っている人や弱っている人のために尽くしたい」と言いました。宮沢トシは「今度生まれてくるときはこんな病弱な体ではなく健康な体を持って人のために尽くしたい」と言いました。法然や親鸞は罪深く自分の力ではよい行いの一つも出来ずかえって悪事ばかりしてしまう人々の救済について真剣に考えました。法蔵菩薩は全ての人を救済すると誓願を立て成就されました。ゼノ修道士は貧しい人たちのために尽くして「ゼノ、死ぬひま、ない」と言いました。「願生(がんば)る」という時の「願」のありかが彼らにおいてどこにあるかは明らかです。
8 「ハールレムの英雄」という話で、オランダ(国土が海面下にある)の子どもが、堤防に小さな穴があるのを発見し、自分の指を突っ込んで穴を塞ぎ、決壊から人々を救った、とい話がある。実話かどうか知らない。かれは皆を救うために「がんばった」のだ。「がんばる」にはみんなのために最後のゲートキーパーとして踏ん張り抜く、こういう意味もある。
9 だが、ここで付言しておかねばならない。ひたすら他者のために奉仕し自己犠牲をしていくことを手放しで讃美していいか? それはもっとあくどい連中にたやすく利用され使い捨てられることに繋がりはしないか? 宮沢賢治は花巻の(稗貫の)農学校の教師をし、そこの生徒たちが日頃貧しく大変な農作業に従事していることを知っていた。もし宮沢賢治が富裕層向けの学校の教師で、そこの保護者は金持ちだらけで自分たちの利権を守ることにしか興味がなく、生徒たちも自分の下品な欲望を実現するために学校教育を受けている、という状況にあったとすれば、宮沢賢治はどうしただろうか? (そもそも賢治はそんな学校には勤めないだろう。何しろ親の質屋が厭で家出したほどだから。)賢治のような、菩薩とも呼べる人は、菩薩の叡智を持っていればよいが、そうではなく、ただ単に善良で奉仕的であって、悪巧みをする連中に悪用され使い捨てられるとすれば? ・・・? ・・・? これは避けなければならない。純真な白虎隊と純真な特攻隊は、悪意ある連中の広げた思想やシステムの犠牲になった。殉国美談にしてはならない。痛ましい犠牲だ。カルト宗教に搾取され使い捨てられる信者もそうだ。私にはそう思える。