James Setouchi

2025.7.1

  ドストエフスキー『おかしな人間の夢―空想的な物語―』

    (『ドストエフスキイ後期短編集』から)  米川正夫 訳(福武文庫)  

Фёдор Миха́йлович Достое́вский  “Сон смешного человека

 

1         作者ドストエフスキー(1821~1881):19世紀ロシア文学を代表する世界的巨匠。父はモスクワの慈善病院の医師。1846年の処女作『貧しき人びと』が絶賛を受けるが、’48年、空想的社会主義に関係して逮捕され、シベリアに流刑。この時持病の癲癇が悪化した。出獄すると『死の家の記録』等で復帰。’61年の農奴解放前後の過渡的矛盾の只中にあって、鋭い直観で時代状況の本質を捉え、『地下室の手記』を皮切りに『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』等、「現代の預言書」とまで呼ばれた文学を創造した。 (新潮文庫の作者紹介から。)

 

2 ドストエフスキー略年譜 (NHKブックス 亀山郁夫『ドストエフスキー父殺しの文学』の年表他を参考にした。)

1821( 0歳)帝政ロシア時代の地主の家に次男として生まれる。

1839(18歳)父ミハイルが農奴によって殺される。

1845(24歳)『貧しき人々』完成

1848(27歳)『弱い心』『ボルズンコフ』『クリスマスと結婚式』発表。

1849(28歳)『初恋』執筆。このころペトラシェフスキーの会のメンバーとともに逮捕。死刑宣告ののち恩赦でシベリア流刑

1854(33歳)刑期満了。シベリア守備大隊に配属。

1858~59(37~38歳)『ステパンチコヴォ村とその住人たち』執筆

1859(38歳)ペテルブルグに帰還。

1861 農奴解放

1866(45歳)『罪と罰』連載開始。

1868(47歳)『白痴』

1869(48歳)『永遠の夫』

1871(50歳)『悪霊』

1877(56歳)『おかしな人間の夢』

1880(59歳)『カラマーゾフの兄弟』

1881(60歳)1月死去。

 

3 ドストエフスキー『おかしな人間の夢―空想的な物語―』

(『ドストエフスキイ後期短編集』から)  米川正夫 訳(福武文庫)  

Фёдор Миха́йлович Достое́вский  “Сон смешного человека”

 ドストエフスキーの個人雑誌『作家の日記』1877年4月号に発表。作者56才。

 

 江川卓は「珠玉の傑作」「『作家の日記』のなかでももっとも完璧な芸術作品であり、ユートピア幻想がこれほどまで濃縮された形で語られたことは、世界文学にあまり例があるまい」と絶賛する。

 

 あえて言ってみよう。「世界には二種類の人間しか存在しない、『おかしな人間の夢』を読んだ人間と、『おかしな人間の夢』を読んでいない人間と。」もちろんドストエフスキーの他の傑作『カラマーゾフの兄弟』などについても、同じことが言える。それを読んだ人間と、読んでいない人間と。但し『おかしな人間の夢』は、短篇で、人間はこの理不尽な地球人類社会に絶望して死ぬべきか、それでもなお生きてやるべきことがあるのか、というテーマを正面から(恥ずかしげもなく正面から、と言ってもよい)扱った作品である。これを読んで、自分の生きている意味を再確認することができる。

 

 ドストエフスキー論としては、ドストエフスキーの最後の傑作『カラマーゾフの兄弟』の直前の作品であり、彼の思索の到達点の一つを示唆する作品であるから、これを読めば、彼の超大作を読むときにも得心しやすいのではないか。ドストエフスキーのポリフォニーの好きな読者には単純に見えるかも知れないが、その分明確な形で彼の考えたことが表されている、と私は感じる。

 

(登場人物)(ややネタバレあり)

おれ:語り手。自称「おかしな人間」。ペテルブルク在住。去年の11月3日に自分は真理を知った、他の人間は真理を知らないのに自分だけが真理を知っている、としてこの語りを書いている。それまでは、世の中のことは要するに何もかも同じことだ、と確信し、考えることをやめてしまっていた。「おれ」は去年の11月3日、ピストルで自殺しようとする。だが、女の子のことが気になり自殺をためらううち、ある夢を見て、「おれ」は劇的に変貌(へんぼう)する

女の子:八つばかり。町で「おれ」に懸命に何かを訴える。「おれ」は邪険(じゃけん)に扱ってしまう。

退職大尉たち:「おれ」の下宿の隣人。六人ほどの仲間でウォトカを飲み、カルタをやっている。

やせた主婦:借間人。子どもが3人。小さくなって暮らしている。

何者か:「おれ」が夢で遭遇した存在。誰とも知らぬ模糊(もこ)とした存在で、「おれ」をエメラルド色の小さな星へと運ぶ。

宇宙の統率(とうそつ)者:もうひとつの地球の人びとが絶えず連携をしている存在。

義人(ただしき人):堕落して争い合う人びとに対して警告を発する存在。人びとは彼を惨殺する。

 

(コメント)

「おれ」は、安岡治子に言わせれば「自分だけが大いなる真理を知っている賢人だと思いこんでいる『罪と罰』のラスコーリニコフやこの世の何もかもが「どうでもよい」という圧倒的な虚無感に襲われ、自殺を決意する『悪霊』のキリーロフ等々」と同じである。(「東京大学教員の著作を著者自らが語る広場」光文社 古典新訳文庫『白夜 / おかしな人間の夢』)2015年5月19日←サイトで読める)(私は安岡治子を尊敬しているが、)そう言うと、キリーロフが夢を見て自殺から帰還しラスコーリニコフになった、となりそうだ。だが私には違和感がある。ラスコーリニコフは西洋から来た知識を絶対視して金貸しの老女を殺害する、言わば病んだ精神の持ち主(悪魔の数字666を刻印された男)だが、「おれ」は自分の宗教体験(回心の体験)を確信し布教を開始する、言わば宗教的真理とリアルに遭遇(そうぐう)した人間だ。それを周囲が理解せず「おかしな人間」とみなしているだけだ、「おれ」はむしろ何事かを経験したアレクセイ・カラマーゾフ(あるいは神の人アレクセイ)に近いのではないか? と私は考えた。「ロシアの伝統にある宗教的奇人(ユロージヴィ)と呼ぶべきかもしれない。」と吉岡範武は言う。(「『おかしな人間の夢』にみる招きと応答」『鎌倉女子大紀要』2020年1月)

 

「おれ」は夢の中で「何者か」につれられ宇宙空間を旅し、ある美しいエメラルドの星に到達する。そこは言わばもうひとつの地球で、「おれ」が着いたのはギリシアの多島海に隣接する大陸の海岸のようなところだった。そこの人びとは限りなく幸福で、美しく、叡智と満たされた意識に輝き、無垢で愛のある人びとだった。彼らは「宇宙の統率者」とたえず連携を取っていた。・・そこは言わば人類堕落以前のエデンの園であり、あるいは極楽浄土であり、あるいは約束の日のあとに人類が相続する地上の楽園のような場所であるに違いない。「ギリシアの」とあるのでヘブライズム(ユダヤ・キリスト教)ではなくヘレニズム(ギリシアの)的な何かをイメージしているかも知れない。(江川卓は、キリスト教黙示録に語られる「新しいエルサレム」型のユートピアとはまた別の、「原罪に堕ちる以前の人類の状態」「黄金時代」だと言っている(福武文庫解説)。

 

 だが、「おれ」がそこに堕落を持ち込んだ彼らはうそ、情欲、嫉妬、残忍、殺人、非難攻撃、虐待を行うようになった。彼らは名誉を語り科学を生み出し四海同胞や人道の観念を口にし、正義を発明し法典とギロチンを造った。知識を感情よりも、生の知識を生よりも、幸福の法則の知識を幸福よりも重視し、自分を一番愛するようになり、奴隷制度を生んだ。そこに義人(ただしきひと)が現われたが彼らは神殿で義人を惨殺した。戦争があり、自称「叡智の人々」や高慢な連中や淫蕩漢が現われた。虚無と自己破壊を崇(あが)める宗教が出現した。・・「おれ」は自分のせいで彼らがこうなったことを嘆き悲しんだ・・・その時「おれ」は目を覚ました。

 

 夢から覚めた「おれ」はすでに自殺をしない。狂喜して「おれ」は自分の目で見た「真理」を「伝道」することを生涯の仕事にした。人々は「おれ」を笑うが、「おれ」はやっぱり伝道を続ける。「おれ」はあの小さな女の子を探し出した。「おれ」は伝道に出かける。

 

 もう一つの地球は、理想の楽園だったが、「おれ」のせいで堕落した。その描写は、地球人類史そのものだ。文明が発達し人々は堕落し暴虐(ぼうぎゃく)に陥った。これは大きく言えば反文明、反進歩の思想だ。西洋近代文明がロシアを襲いそれによって昔あったはずののどかな暮らしが破壊された、ということだけではなく、全人類の文明の本質がそもそもそういうもので、人間にとって最も大切なものを踏みにじっている、と、よりマクロな視野で手厳しく言いたいわけだ。では、「おれ」が称揚するのはどのような世界であるか、は本文から丁寧に拾って分析すべきだが、ここではしない。(各自お読み下さい。)

 

 ここでは、その「夢」を見た後、「おれ」は、この世の中のことなんかどうでもいい、というそれまでの虚無感や希死念慮からすっかり解放され、自分が見た「真理」の「伝道」に生きがいを持って立ち上がっているところに注目する。「おれ」は宗教的回心を遂げたのだ。パウロ聖フランシスコ出口なお(大本教)や中山みき(天理教)の開祖のように、宗教的真理に出会って、「回心」(「改心」ではない)したと言える。これを今の若い人は「宗教怖い」と見るかもしれないが、少なくとも「おれ」が獲得したものは非常に奇妙な狂信的思想というわけではなく、むしろキリスト教的世界観(だけではなく老荘思想などにもある)の中に脈々と受け継がれている伝統的な思想、感性だと言える。それを「おかしな」と見なすのは、同時代の他の連中(「やつら」「みんな」)のほぼ全員が奇妙な無神論、西洋近代の合理主義、進歩主義、利己主義、戦争肯定思想等々に取り付かれているからだ。「おれ」は同時代で自分が「おかしな」人間と見做(みな)されている異端者との自覚を持ちつつ、それでもあえて「伝道」の旅に出る。(狂信的教祖は異端者の自覚がない。「おれ」は異端者の自覚を持つ。)

 

 おお、これは現代(2025年)と全く同じ状況ではないか!?

 

 「もしみんながその気になりさえすれば、たちまちなにもかもできあがってしまうのだがなあ。」よ「おれ」は言う。「おれ」には、この現実の地球人類において、「みんな」が気付き考えと行いを改めてくれる余地がある、と期待を持っている。「おれ」はすでに絶望していない。

 

 現代(2025年)の、社会からつまはじきにされ、取り残され、この社会に居場所がない、自分はやることがない、と感じる諸君は、一歩間違うと危険なカルト宗教にからめとられるかもしれない。それは賢明に避けるべきだ。(信教の自由はあって当然だが、信者をロボットにして財産を巻き上げたり毒ガスを撒かせたりするのは不可。)だが、この世(皆が戦争や空しい競争に狂奔(きょうほん)するなど)に違和感を持つのは当たり前であるとして、それでもある程度この世に付き合いつつ、しかし長年人々が培(つちか)い積み上げた「伝統」的宗教(何が「伝統」かは簡単ではないが)の中に保全されてきた叡智(えいち)に耳を傾け、落ち着いてものごとを眺めてみるのもいいかもしれない。ドストエフスキーは西洋近代の合理主義ではなくキリスト教(ロシアの土俗信仰を含む)の中に保全されてきたよきものについて、繰り返し語っている。本作を読み本作と対話することで、(今回はあえてとばした)ドストエフスキーが大切にしようとしていたものは何で、ドストエフスキーが批判していたものは何か、を丁寧に拾いながら、では自分の考えはどうか、を考えてみる時間があってよいと思う。そうすれば、次やることが見えてくるかもしれない。

 

*江川卓『謎解き『罪と罰』』『謎解き『白痴』』『謎解き『カラマーゾフの兄弟』』、亀山郁夫『『罪と罰』ノート』『ドストエフスキー謎とちから』などは非常に面白い。

 

(ロシア文学)プーシキン、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキー、ショーロホフ、ソルジェニーツィンら多数の作家がいる。日本でも二葉亭四迷、芥川龍之介、小林秀雄、椎名麟三、埴谷雄高、加賀乙彦、大江健三郎、平野啓一郎、金原ひとみ、などなど多くの人がロシア文学から学んでいる。