James Setouchi

2025.6.27

 

ジャック・ロンドン『野性の呼び声』大石真・訳 新潮文庫

 

1        ジャック・ロンドンJack London1876~1916

 新潮文庫解説(大石真)によれば、1876年サンフランシスコに生まれた。父は旅回りの星占師、生まれる前に母が離婚し私生児として育てられた。母親はジョン・ロンドンと再婚。ジョンはカリフォルニアの農場を渡り歩く移住労働者。やがてオークランドに住む。ジャックは小学校時代から新聞を街頭で売り、小学校を出ると直ぐ働く一方、図書館に通い多くの書物を読んだ。十代後半で失業者の群れに加わりアメリカ・カナダを放浪。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』を読み影響を受けた。オークランドに戻り高等学校や大学に学ぶがすぐ退学し洗濯屋で働きながら作品を出版社に送り込むも採用されなかった。ゴールド・ラッシュで極地に旅立つが壊血病になり帰郷。『野性の呼び声』は6番目の著作で、非常に人気となった。他に『狼の子』『雪の娘たち』『どん底の人びと』『海の狼』『白い牙』『鉄の踵(かかと)』『マーティン・イーデン』などがある。1916年に狂気の恐怖に駆られて自死した。

 集英社世界文学事典の折島正司によれば、「彼の中には、アメリカ的個人主義や社会進化論的弱肉強食思想などが、社会主義思想と同居している。」

 

2        『野性の呼び声』The Call of the Wild

  1903年出版。作者27歳の時の作品。傑作で、発売直後1万部を売り尽くし、さらに大ベストセラーになった。日本ではいくつかの翻訳が出ている。入手しやすいのは新潮文庫(大石真訳『野性の呼び声』)、岩波文庫(海保眞夫訳『荒野の呼び声』)、光文社文庫(深町眞理子訳『野性の呼び声』)など。アオゾラ文庫にもある(山本政喜訳『荒野の呼び声』・・ここで紹介されているジャック・ロンドンの伝記は面白い。)。訳によっては表現が難しいが、もしかしたらジャック・ロンドンの文体自体が難しいのかもしれない。

 主人公は犬のバック。人間よりも犬が多く出てくる。

 

(登場人物及び犬)(かなりネタバレ)(太字は人間

バック:父はセントバーナード、母シェパード。140ポンド(1ポンドは450㎏強なので140ポンドは63㎏強。賢く、強い。カリフォルニアの富裕な家庭でぬくぬくと暮らしていたが騙されて売られカナダ・アラスカで犬ぞりを引くなど過酷な生活をするうち野性が目覚め狼の群れに投じる。

ミラー判事補:カリフォルニアでのバックの飼い主。

マニエル:ミラー家の園丁の一人で、金に困りバックを売りとばす。

赤いセーターの男:犬のブローカー。バックを棍棒でたたきのめし「棍棒と牙の掟」をたたき込む。

ペローとフランソワ:バックを買った男たち。カナダ政府の文書郵送係。犬ぞりで極地を走る。フランソワはフランス系カナダ人と北米先住民の混血。

カーリイ:ニューファンドランドの犬。バックの仲間になるが極地でエスキモー犬に襲われ殺される。

スピッツ:犬ぞりを引くリーダーの犬。バックと対立する。

デーブ:気難しい犬。

ビリー:人のいいエスキモー犬。

ジョー:気難しいエスキモー犬。

ソルクレス:年取ったエスキモー犬。そりを引くことに誇りを感じている。

パイク:仮病遣いの犬。

ダブ:へまな犬。

ドリー:発狂して殺される犬。

ティーク:リンク・ラピッドで合流したエスキモー犬。

クーナ:同上。

スコットランド系の混血児:バックたちを買い取った人間。単調で困難な郵便運びの仕事を犬たちに課する。

チャールズ:色の黒い中年男。バックたちを買い取る。極地の生活が分かっていない都会人。犬を虐待する。

マーシーディズ:その妻。

ハル:マーシーディズの弟。19歳。

外国犬6匹:チャールズたちが買い取った犬。過酷な労働でたちまち死んでいく。

ジョン・ソートン:金鉱探しの男。死にかかっていたバックを助け大事にする。

スチート:ジョン・ソートンの犬。バックを医者のように介護する。

ニッグ:ジョン・ソートンの犬。

ハンスとピート:ジョン・ソートンの仲間。

色黒のバートン:ならず者。ジョン・ソートンを殴り、バックに報復される。

マシューソン:エルドラド酒場の客。金鉱探しの一人。バックが重い荷を引けるか金を賭ける。

イーハット族:北米先住民。ジョン・ソートンの小屋を襲い、バックによって殲滅させられる。

ある狼:バックのそばに来て友人になる。狼の群れにバックを誘い入れる。

 

3-1感想

・犬の話で、犬好きにはたまらないはず。(私も犬派である。)私は中2で読んで面白く、今回が3回目。改めて面白い(考えるところが沢山ある)。

 

・犬にも個性がある。まるで人間の世界のようだ。特にソルクレスは孤高の職人で、カッコイイ。だが、動物と人間をあまり重ねて呼んでいいものかどうか・・?(後述)

 

・バックという犬の冒険譚である。過酷な環境の変化に耐え適応して生き延びていく。旅立ち、冒険、助け手、仲間、帰還(この場合は本来属していたであろう野性のオオカミの世界への帰還、と読める)などの道具立ての揃った英雄譚と言える。

 

・同時に、極地の話で、暖かい地方に住む読者には、極地の自然や金鉱堀りたちの世界が異世界であり興味深い。

 

・アウトドア感満載。カナダ・アラスカの雪と氷の中でキャンプをし、犬ぞりを走らせる。アウトドアの好きな人にはたまらないだろう。(私はインドア派だが、それでも面白かった。)

 

・闘争シーンが多く出てくる。『少年ジャンプ』の格闘ものの好きな人には嬉しいだろう。私には、いつも争って勝ちに行こうとしているあの人やその人(ほら、皆さんご存じのあの方などはその代表です)の姿がちらついて、どうして勝ちに行くのか? 平和共存しないのか? いつも勝った勝ったと言い張っている、人間はそんなものじゃないぞ、という疑問が、読みながらいつも出てきてしまった。実際この小説にはイエスもブッダも出てこない。

 

3-2疑問に思った点

赤いセーターの男は、バックを飼い慣らすために棍棒で殴りつける。(1章)このやりかたでいいのだろうか? 極地でそりを引く犬を服従させるために今もそうしているのだろうか? 完全な動物虐待だと思うが・・知らない。

 

カーリイ(ニューファウンドランド犬)は極地でいきなりエスキモー犬の大群に襲われ殺害される。(2章)犬が犬を襲って殺すなどということがあるのだろうか? 疑問だ。

 

・「棍棒と牙の掟」を始め、力の強い者・狡猾な者が勝ち、そうでない者は死ぬしかない、という図式が繰返し強調される。弱者への情けは無用、と作者は書く。だが、本当にそうだろうか? 動物の世界でも、ボノボはもちろん、ゾウやイルカ、イヌやオオカミ、ライオンなどが群れ・仲間を作って助け合うことは知られている。(本作では、大シカの群れは一度は団結するが最後はリーダーを見棄てた、と作者は書く。どうなのか?(7章))

 

人間の倫理については作者はどう考えているだろうか? ここで描かれた動物の世界の「棍棒と牙の掟」を、直ちに人間の世界の現実のメタファーだと取っていいのだろうか? だが、作者は、「そりの旅」については「はげしい労働に、苦しみ耐えながら、やさしい言葉をかけることを忘れず、親切な心を失わない人たちの中に生まれる、あの驚くべきそりの旅の忍耐」(5章)と書いており、過酷な条件下では人間は助け合う能力が発動するという見通しを作者が持っていることがわかる。他方、極地では金採掘人たちが賭けに熱中したり先住民のグループがいきなり金採掘人の小屋を襲って皆殺しにしたりする、という描写もある。本当にそんなことがあったのか? 図式化しすぎた偏見では? と問いたくもなる。私の乏しい知見ではアラスカのイヌイットは互いに助け合って暮らし、来客を手厚くもてなす、ということだった。(新田次郎『アラスカ物語』に書いてある。)

 

 バックの最初の飼い主であるカリフォルニアの判事補は、言わばシステムに守られた(システムを守っているのかも知れないが)存在である。政府の文書郵送係のペローとフランソワはシステム内の人間。判事補の家からバックを盗んでたたき売る園丁マニエルは賭博が好きで金に困った人間、言わばシステムからの脱落者だ。システム内の搾取の構造を人間社会について暴き立ててはいない。本当はシステム内の「負け組」が致し方なく主人の犬を盗み転売し極地に金鉱を掘りに行っているのではないか? そこを暴かないで、どうして社会主義小説と言えるのだろうか? 金鉱を掘りに行く連中はシステムからの脱落者が一攫千金を夢見ているのだろう。だが、そこが完全な無法地帯というわけでもない。色黒のバートンはジョン・ソートンを殴り金鉱掘りの人びとから有罪とされる。ある形で社会のルールが形成される。ジョン・ソートンの小屋を襲う先住民たちは、書いていないが、システム及びシステム外の金鉱掘りたちによって攻撃されたので報復したとも想像できる。つまりシステム外の人間。

 

 作者は、システム外の極地では「棍棒と牙の掟」に近い闘争状態になりつつも、ある形で社会のルールが再構築される、根底には人間の助け合う力がある、と(よく読めば)書いているように私は思う。

 

 よく読まなければ? よく読まなければ、野生動物の弱肉強食をそのまま人間社会の現実でもある、と読者は読み取ってしまいそうだあるいはそう読まれることが作者の狙い? 人間社会の搾取の構造を表立っては描けないので、犬の世界の弱肉強食を描いて、人間社会の弱肉強食の寓話として読み取らせようとしたのであろうか? 

 

 ・・念のため、動物を主人公とした物語は(『シートン動物記』や戸川幸夫の動物小説もそうだが、)人間の倫理を動物に持ち込んで擬人化して語る、あるいは動物の世界を人間に投影して読ませてしまう、それゆえ物語としては面白いのだが、人間及び動物の冷静な観察に基づく知見ではなく多くの誤りを含む、ということに注意したい。

 

・バックは極地を駆け抜けながら、太古の、毛むくじゃらの人間とともに暮らした日々を幻視する。それは小説の表現方法の一つだから構わない。だが、その毛むくじゃらの人間はサルのように木の枝を伝って移動する、と書いている(7章)。そもそも、オオカミからイヌが分かれてヒトと共生し始めた頃、ヒトはサルのように木の枝を伝って移動していただろうか? ここは生物学的にあやしいのでは? ジャック・ロンドンは当時の生物学的知見にしたがって書いたのだろう。(バックが間違った夢を見た、と作者があえて書いたとすれば、読み方は全く違ってくる。)(私の乏しい知見では、犬は1万2000年か3万5000年昔から人間と共生していたそうだ。そのころ既にホモ・サピエンスの時代なので、毛むくじゃらだったか、また上手に枝から枝に飛び移れたか、疑問だ。)

 

バックは古代のオオカミだった頃の血が騒ぎ「野性の呼び声」を聞き取る。脳の古い部分にそれは眠っているかも知れない。だが、古代の先祖の記憶がバックの中に蘇る、というのはどうなのか? フロイト(1856~1939)やユング(1875~1961)の図式を使っているのかもしれないが、先祖の後天的な体験や記憶が、後世の人びとに蘇るなどということがあるのだろうか? 日本人で言えば、日本列島に移住した先祖の記憶が蘇ったりするのだろうか? ちょっと疑問だ。

 

・これらの、動物の世界・極地の世界の描写を手がかりに、読者は、人間の社会とは何か、人間とは何かについて、考えていくことが出来る

 

・「私たちは文明社会のシステムに守られて生きているが、本能の奥底に、自然の中で荒々しく生きたい! 闘争し、獲物を引き裂いて食べたい! という強い衝迫があるのだ、だから我々はラグビーをしたり格闘技をしたりして擬似的・安定的な形でそのエネルギーを発散しているのだ」式の感想を持つ人がいるかもしれない。ジャック・ロンドンはそう考えていただろうか? 知らない。だが、そう考えていたとしたならば、ジャック・ロンドンの人間観は間違っている。または一面的だ。牛や馬や豚をわざわざ殺して血の滴る肉を食べたいですか? できれは酷いことをせず草食で暮らしたい。他の生き物を殺さず、光合成と呼吸だけで生きていければいいのに! そう感じる人がいたっておかしくないし、実際いる。(宮沢賢治『よだかの星』はどうですか。)混雑した場所で人を突き飛ばすのも突き飛ばされるのもいやである。(サッカーもバスケも(やっている人が嫌いというわけではないが)方で人を突き飛ばすのでいやである。野球も球場に乗り込んだときに相手を睨み付けて気合いで圧倒するのでいやである。笑顔で仲良く出来ないのですか・・・?) 本作にイエスもブッダも出てこないのはなぜか? ジャック・ロンドンの生育歴においてイエスやブッダとの出会いはなかったのか? サリンジャーは第2次大戦の悲惨を見て東洋思想(ブッダの教えも含むか?)に傾倒した。西洋の弱肉強食・優勝劣敗の思想に出会った明治日本人(のある者たち)は、そうではない東洋の大調和の思想で対抗しようとした。

 

4 補足

・ジャック・ロンドンは1893年17歳の時アザラシ漁船で日本近海に来た。小笠原諸島や横浜に上陸。1904年には日露戦争の取材で来日、横浜、神戸、長崎、門司、小倉に行った。森晴孝『ジャック・ロンドンと鹿児島 : その相互の影響関係』(高城書房, 2014.12)に論考がある。

 

片山潜がジャック・ロンドンを社会主義者として紹介した。『野性の呼び声』を社会主義者・堺利彦が訳し(1919)、有島武郎も関心を持った。動物作家・戸川幸夫はジャック・ロンドンに影響を受けた。新田次郎も影響を受けユーコン川(アラスカ)を見に行った。堀口大学も影響を受けた。(上記森晴孝による。)

 

・ジャック・ロンドンは晩年に精神主義に傾斜したと言われる。芳川敏博ジャック・ロンドンの精神の永続性と幻想 -『星を駆ける者』と「水の子」を中心に」(立命館大学経済学会『立命館経済学 』58 (3), 71-96, 2009-09)に論考がある。

 

(まだ途中。追記していくかもしれない。)