James Setouchi
2025.4.28
1 Jerome David Salinger 1999~2010
アメリカの作家。ユダヤ系の父とアイルランド人の母の間にニューヨークで生まれた。名門私立校マクバーニー高校中退、ペンシルバニア州の陸軍幼年学校に学ぶ。第二次大戦に志願、ノルマンディー上陸作戦にも参加。ドイツに行きユダヤ人虐殺の跡に接し衝撃を受けたと言われる。戦後『ニューヨーカー』誌にデビュー、1951年の『ライ麦畑でつかまえて』は世界的ベストセラーとなる。のちハンプシャー州に転居し引きこもる。後半生は禅を中心とする東洋思想に傾倒したと言われる。代表作『バナナフィッシュに最良の日』『ライ麦畑でつかまえて』『フラニー』『シーモア・序章』など。寡作である。(集英社世界文学事典などを参照。)
なお、フィッツジェラルド1986~1940(第1次大戦時内地勤務)、ヘミングウェイ1899~1961(第1次大戦、スペイン内戦に参加、第2次大戦にも関わる)、サリンジャー1919~2010(第2次大戦に参加)である。
2 〝The Catcher in the Rye〟 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳
(主な登場人物)(かなりネタバレ)
ホールデン・コールフィールド:語り手「僕」。17歳でハリウッドの近くの病院にいる。去年のクリスマスに起きたことを語っている。パンシルヴァニア州のペンシーというエリート学校にいたが怠学と学業不振で退学になった。退学は4回目。周囲の同級生や大人たちのインチキが嫌いで悪口を言い続ける。NYに実家がある。英語(文学読書と作文など)が得意。日本で言えば国語(文学読書と作文)のようなものか。
父親:企業の顧問弁護士。金持ち。NY在住。アイルランド系カトリックだったが改宗した。
母親:神経質で感情的になる。
DB:ホールデンの兄。作家。今はハリウッドで映画脚本を書いている。ホールデンは兄を尊敬しているが、ハリウッドに「身売り」したのはよくないと考えている。
アニー:3年前に白血病で死んだ弟。
フィービー:妹。9歳くらい。妙に大人びている。ホールデンは妹が大好きだ。妹も兄が大好きだ。
スペンサー先生:ペンシー校の世界史の先生。老人。
ロバート・アックリー:ペンシー校の寮の隣人。巨人でニキビ面。友人がいない。ホールデンのことは気に入っていていつもやってくる。
ストラドレイダー:寮の同室の男。バスケの選手で女たらし。ホールデンにKOパンチを食らわせる。
サーマー校長:ペンシー校の校長。インチキな校長(だとホールデンには見える)。
ミスタ・ヴィンソン:ペンシー校の口述表現の教師。「単一化しろ、簡略化しろ」と生徒に迫る。
アーネスト・モロウの母親:列車で乗り合わせた。アーネストはペンシー校の生徒。ホールデンは適当に話を合わせる。恐らく、名門進学校に息子を通わせる俗悪な母親の代表として登場している。
ホーウィッツ:NYのタクシー運転手。
バーニス:ホテルのロビーにいたブロンドの子。田舎から来ているが踊りがうまい。
リリアン・シモンズ:兄DBの昔のGF。海軍士官とデートしていて遭遇。
サニー:娼婦。
モーリス:ホテルのエレベーター係。サニーとぐるで、ホールデンから金を巻き上げる。
尼さん二人:慎ましい修道女。ホールデンは思わず多額の寄付をしてしまう。
サリー・ヘイズ:幼なじみ。GF。昔よくデートした。メアリ・A・ウッドラフ校に行っている。ホールデンは家出をしてサリーを呼び出すが・・
ジェーン・ギャラガー:ホールデンの近所だったことのある女の子。ストラドレイターのデートの相手がジェーンだと知ったホールデンは気になって仕方がない。
ディック・スレイグル:エルクトン・ヒルズ校にいたときの同室の生徒。金持ちでないが見栄っ張り。
アーサー・チャイルズ:ウートン・スクール時代の友人。クエーカー教徒。
ハリス・マックリン:エルクトン・ヒルズ校にいたときの同室の生徒。退屈な男だが口笛だけはうまかった。
カール・ルース:ウートン・スクール校での先輩。今はコロンビア大学に行っている。東洋の哲学に惹かれ、年上の中国人女性と交際している。その父は精神分析医。
ジェームズ・キャッスル:エルクトン・ヒルズ校にいたときの生徒。暴力的な連中にいじめられて自死。ホールデンは彼のことを好いている。
ミスター・アントリーニ:エルクトン:ヒルズ校の英語の先生。高級住宅街サットン・プレイスの高層アパートメントに住んでいる。ホールデンに親切にしてくれるが・・
アリス・ホームボーグ:フィービーの友だち。(ヨーガのチャクラを教えてくれているようだ。(23))
(コメント)(かなりネタバレ→完全ネタバレ)
1951年に発表した。アメリカ国内だけでなく世界各国で翻訳され読まれている。日本でも野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』が出てベストセラーとなっていたが、2006年に村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が出て、これもよく読まれている。後者は特に「やれやれ。」など村上春樹らしい文体の訳になっている。私見だが、主人公のホールデンは、ニューヨークに家がありしかもかなりの金持ちのシティー・ボーイでかつエリート学校の生徒、上品なふりのできる少年であるから、村上春樹訳のちょっと澄ました感じが似合っているのではないか。(幼い妹のフィービーが兄のことを「あなた」と言うのはおかしい、と書いている人がいて、それはそうではあるのだが。)
主人公ホールデン・コールフィールドの独白で話は進んでいく。時代設定は戦後のある時期、計算すると弟のアリーの死が1946年、その時ホールデンは13歳(5)、すると一連の出来事は1949年、ホールデンが16歳の時のこと。場所はアメリカ東部、季節は冬のクリスマス前。主人公のホールデンは16歳、ニューヨークに家があり父親が顧問弁護士でかなりの金持ちでペンシルバニア州のペンシー・プレップスクールの生徒だが、怠学と学業不振でいままさに退学しようとするその時を描いている。その後1950年、17歳の彼はハリウッドに近い場所、恐らくはカリフォルニア州のどこかの病院か施設に入院し精神分析医の治療を受けつつこの語りを行っている。なお、朝鮮戦争が1950年6月に勃発。書いていないが。
プレップスクールとは名門大学への入学準備をする私立学校のことで、アメリカでは全寮制の私立中学・高校を言う。(イギリスでは名門パブリック・スクールに入るための私立小学校。)ペンシー・プレップスクールは架空の学校だろうが、全寮制男子校で、寮の仲間や教師の描写などにリアリティがあり、あるいはサリンジャー自身の経験を踏まえているのではないかという印象がある。
同室のストラドレーターはスポーツマン(バスケットボール)で自分大好き人間で女たらしでいやな奴(だとホールデンは思っている)。昔ホールデンのGFだったジェーンとストラドレーターがデートをしたのでホールデンが怒り、ストラドレーターが強烈なKOパンチを浴びせホールデンは倒れる。(書いていないが、その後のホールデンの頭痛や吐き気は、悩みのせいもあるだろうが、このパンチのせいではないか?)
隣室のアックリーは長身でにぎびだらけで友人のいない男。ホールデンのことを気に入っているのかいつも部屋に入って来るがホールデンは彼のことを好いていない。先生も好意的に接してくれようとする人もあるのだがホールデンは迷惑に思っている。
ホールデンはペンシー・プレップスクールのことが好きではない。彼は周囲の大人や友人のやっているインチキに我慢がならない。彼は怠学と学業不振で退学になる。彼は一見不良に見えるが多分そう悪人ではなくちょっと生きるのが不器用なだけのいいやつなんだろう。でもこれで退学は4つ目だ。
退学となった彼は寮を出てニューヨークの街をさまよう。映画館、スケート場、サットンプレイスの高級住宅街、夜のセントラル・パーク、博物館、動物園、小学校などで、彼は昔の彼女や先輩や先生を呼び出し話そうとするが、彼は理解されず、あるいは自ら暴言を吐いて別れる。列車内で見知らぬおばさんに適当なことを言って会話し、ホテルのダンス・ホールで見知らぬ女性と踊り、エレベーター係との一件では殴られ金をとられ、タクシー運転手に話しかけても喧嘩。一見悪態ばかりついているように見えるが、金と欲望のうごめくニューヨークの街で、自分の居場所を求めさまようが居場所を見つけられないか弱く純情な16歳の少年の姿がそこに見える気がする。
彼は折角名門学校にいるのだからまじめに努力して進学し社会人となれば父親と同じようなエリート階層に所属できたかもしれないのに、今やそこから離れ(ドロップ・アウトし)、金もなく、ニューヨークの人の海の中に消えていってしまいそうだ。親や教師からはそう見えるだろう。本人も強がっているが同時につらいから何度も泣き出す。彼はインチキな大人社会の中で親から貰った小遣いを使って街をさ迷い悪態をつくことしかできない、無力な16歳なのだ。そう考えるとこの話は現代の日本の話でもある。(注1)
ホールデンの家族関係は。父親は顧問弁護士。金持ち。家はニューヨークにある。母親は子どもをある形で愛しており神経質。親はホールデンに東部アイビー・リーグのエリート大学に進学してほしいと考えている。兄(DB)は作家でハリウッドにいる。ホールデンは兄を尊敬しているが、ハリウッドの映画産業に「身売り」したのは厭だと思っている。弟のアニーは白血病で死んだ。ホールデンはしばしばアニーと対話する。妹のフィービーは9歳か10歳くらい。ホールデンは妹フィービーと会って…(以下は読んでのお楽しみ)
周囲のやっていることがすべてホールデンにはインチキに見える。十代の反抗期の人には共感しやすい内容も多いはずだ。各種書評を見ると「共感できる」「自分もそうだった」などの感想も多いが他方「何でも人のせいにするのはおかしい」という感想もある。彼が純粋無垢=絶対善というわけでもない。GFとデートし思い通りにならず悪態をつくなど、彼も矛盾を抱えている。(彼の欺瞞について、持留浩二「ホールデン・コールフィールドの語りにおける欺瞞」佛教大学文学部論集第98号(2014年3月)に心理学の観点から論考がある。)改めて彼の言い分を仔細に見ると案外正鵠(せいこく)を得たことを言っている部分もある。だが、彼の見方は、一面的に過ぎるようでもある。例えば、「学校を出て会社に入って金を稼いでもつまらない」という趣旨をホールデンが女友達に宣言するところがある(17)。たしかに十代の頃は大人社会=管理社会がそう見えて自由がないような気がして憂鬱になることがある。だが、学校で学びあるいは社会人になって仕事をすることは実は結構楽しいしやりがいもある、ということがあるのも事実なのだ。ホールデンは今病んでいるのでそこは見えない。
彼は悪態をつき続けるが、彼が比較的肯定し共感しているものは何か? つつましい修道女たち。昔の同級生で、うぬぼれた男を批判し大勢に囲まれ圧力を掛けられたが撤回せず悲劇的最期を遂げたジェームズ・キャッスル(22)。それから妹フィービー。彼は虚飾・偽りが嫌いで嘘偽りのない愛や正義を求める。彼は一見病んでいるように見えるが、実はしごくまっとうな感性の持ち主なのかもしれない。だが、今の彼はそれを実行してはいない。悪態をつくだけだ。
16歳のホールデンを17歳の語り手・ホールデンが批評するところがある。例えば、(17)の末尾、「真実を言えばだね、サリーを相手になんでそんな話をし始めてしまったのか、自分でもよくわからないんだ。・・僕は混じり気なしに本気だったんだよ。そいつが困っちゃうところなんだ。実にまじめな話、僕は頭がほんとにどうかしてると思うな。」の一節がそうだ。ほかにもある。新田玲子氏は、<語り手>ホールデンと<行為者>ホールデンとを分けて考察している。(「サリンジャーなんかこわくない : クラフツマン・サリンジャーの挑戦 : テキストの重層化とポストモダン的試み」第3章。2004年2月発行の大阪教育図書の本を、2012年1月に改訂した著者原稿。ネットで読める。)
ホールデンはヘミングウェイの『武器よさらば』を否定し、フィッツジェラルドの『偉大なギャツビー』を称賛する。ヘミングウェイのマッチョに見える在り方にホールデンは(サリンジャーは)嫌悪を抱いていたのか。『ライ麦畑』は強烈な反軍・反戦思想を持っていると言われる。実は『武器よさらば』は主人公が軍の規則に反し恋人と戦線離脱する話で、戦争はいやだ、という話なのだが、16歳の未熟なホールデンにはそこまではおそらく理解できなかった、朝鮮戦争もあり、近々徴兵にとられるであろう状況の下でホールデンは毒舌を吐いている、などの点について、野間正二氏に論考がある。(「サリンジャーはなぜホールデンに『武器よさらば』はフォニーだと言わせたのか?」『佛教大学文学部論集』第38号、2014年3月)確かに、「戦争に行かなくちゃならないなんてことになったら、きっと僕は耐えられないと思う。」何より「軍隊」の生活に耐えられない、と彼は語っている。(18)本作の発表は1951年で、朝鮮戦争が1950年に始まっている。作者も読者も実感を持って読んだはずだ。その後はベトナム戦争などなど。
ラスト。完全ネタバレ。フィービーの必死の努力でホールデンは家出せず家に帰ることを選択する。結果として兄DBのいるハリウッドの近くの精神病院または療養所のようなところに住み、精神分析医からカウンセリングを受けている。家族の保護の元に戻った、とも言えるし、実社会から隔離された、とも言える。ホールディングのこれからの人生はどうなるのだろうか。
未読だが、これから読めば勉強になるかも知れない本:
竹内康治『ライ麦畑のミステリー』せりか書房2005年
竹内康治・朴舜紀『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』新潮選書2021年
なお、庄司薫『赤ずきんちゃん気をつけて』(昭和44年=1969年)との比較も面白いかも知れない。
(注1)『羅生門』で途方に暮れていた下人。『こころ』でエリート社会から脱落していくK。『舞姫』でドロップ・アウトしていく豊太郎。『檸檬』の「私」。あるいは、安吾や太宰。ドロップ・アウト者列伝をつなげて見ると共通の何かが見えるかもしれない。
(補足1 ニューヨークに関係の深い作家)
①ハーマン・メルヴィル NY生まれ。『白鯨』(1851年)。
②ウォルター・ホイットマン NY州のロングアイランドで生まれブルックリンなどで働いた。アメリカ最初の民主主義詩人などと言われる。詩集『草の葉』(1855年)。
③オー・ヘンリー 1902年からNYに住む。『最後の一葉』(1905年)。
④スコット・フィッツジェラルド 『華麗なるギャツビー』(1925年)は傑作。ギャツビーと同様、フィッツジェラルドはNYで派手なパーティーをして遊んだと言われる。
⑤ヘンリー・ミラー NY生まれ。パリでボヘミアン的な生活を送る。『北回帰線』(1934年)。
⑥J.D.サリンジャー NY生まれ。『ライ麦畑でつかまえて』(1951年)。主人公のホールデン君は大人の世界のいんちきが嫌いだ。
⑦トルーマン・カポーティ 『ティファニーで朝食を』(1958年)で有名。ティファニーはニューヨーク五番街にある宝石店。
⑧ジョン・アップダイク NY生まれ。『ニューヨーカー誌』のライターをしていた。『同じ一つのドア』(1959年)『走れウサギ』(1960年)など。
⑨村上春樹 『海辺のカフカ』(2002年)の英訳『Kafka on the Shore』は『ニューヨーク・タイムス』で2005年にベスト10に選ばれた。
⑩なお、ロバート・キャンベル先生(東大名誉教授、日本文学)もお生まれはNYのブロンクスで、ヤンキーススタジアムの近くである。亀井俊介『ニューヨーク』(岩波新書2002年)も読んでみよう。
(補足2 アメリカ文学)ポー、エマソン、ソロー、ストウ、ホーソン、メルヴィル、ホイットマン、M・トゥエイン、オー・ヘンリー、エリオット、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、バック、フォークナー、スタインベック、カポーティ、ミラー、サリンジャー、メイラー、アップダイク、フィリップ・ロス、レイモンド・カーヴァー、ティム・オブライエンなどなどがある。