James Setouchi
2025.4.23
スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳で再再論)
F. Scott Fitzgerald〝The Great Gatsby〟 (R7.6月の読書会で扱う)
1 フィッツジェラルド 1896~1940
フィッツジェラルドは、アメリカの作家で、ヘミングウェイらとともに「失われた世代」(Lost Generation)と呼ばれるグループに属する。代表作『華麗なるギャツビー』『夜は優し』『富豪青年』『バビロン再訪』など。
ミネソタ州生まれ。両親ともアイルランド系。父親が事業に失敗し経済的に恵まれない環境に育った。スコットはプリンストン大学に学ぶも、第一次世界大戦に従軍すべく大学を中退、少尉となる。除隊後結婚。妻ゼルダも含め夫婦そろって浪費家で、社交生活につぎ込む金を稼ぐためにフィッツジェラルドは作品を執筆し続けた。1930年以降は不遇で、1940年死亡。1950年代に本格的に再評価され、今では文学史上不動の作家となっている。(以上、集英社世界文学事典から。)
2 「失われた世代(ロスト・ジェネレイション)」とは何か
1890年代に生まれ、第一次大戦中に成年期を迎えた世代で、第一次大戦を経験し、既存の思想、道徳、価値観に不信の念を抱き、自我だけをより所にして新しい生き方を求めた知識人、文学者たち。ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、フォークナーらを代表とする。「迷える世代」「喪失の世代」「幻滅の世代」などとも訳される。(集英社世界文学辞典による。)
彼らは1920年代のアメリカで活躍した。当時のアメリカは第一次世界大戦の好景気のため極めて豊かだった。例えばニューヨークの摩天楼は1920年代から建設ラッシュが始まった。それなのに、彼らはなぜ「失われた」「迷える」「喪失の」…などと言われるのだろうか? それは、19世紀まで営々と積み上げてきたヨーロッパ的価値が、第一次大戦で無惨にも崩壊したのを目の当たりにし、人間として生きる確かなより所を失った、という喪失感に彼らが充ち満ちているからだろうか。つまり、金があってビルが建ち並んでも、人間としての大切な生きるべきより所を見失ってもがいていたから、「失われた世代」「迷える世代」などと言われるのだろうか。
では、今の我々は、どうであろうか。
3 『華麗なるギャツビー』1925年
語り手はニック・キャラウェイ。中西部の名門の出身だが今は東部ニューヨーク州へ出てきて債権の仕事をしている。そう、今注目の≪株屋≫なのだ。ニックがあこがれるものは≪金≫と≪富≫だ。
ニックは、またいとこのデイジー(女)とその夫トム・ブキャナン(イェール大学時代の友人)と親しい。トムは不倫をしていてデイジーはつらい立場だ。そこにギャツビーが現われる。ギャツビーはなぜかわからないが大金持ちで、大邸宅で週末には豪華なパーティーを開いている。ギャツビーは≪金≫と≪富≫を握っている。だが、ギャツビーの仕事には黒い噂もある。でもギャツビーは本当は純情ないいやつなのだ。ギャツビーは昔…
以下は読んでのお楽しみ。最後は悲劇だ。実に残念な悲劇だ。ニックは東部にすっかり失望し、西部に帰ることを決意する。
この小説は1925年に書かれた。金持ちのアメリカにおける≪華麗なる≫ギャツビーの悲劇。その後アメリカを見舞うのは1929年の大恐慌だ。ギャツビーの悲劇はアメリカの悲劇を先取りしているようにさえ見える。
だが、別の見方もできる。多くの人が≪金≫と≪富≫に浮かれ、何が大切かわからなくなっている時代において、それでもなおギャツビーはたった一つの≪最も大切なもの≫にこだわり、手に入れ、守ろうとしたのだとすれば? そのためには≪金≫と≪富≫を惜しまず、蕩尽(とうじん)してもかまわなかったのだとすれば? ギャツビーにとって≪最も大切なもの≫、それはデイジーへの(との)愛だった。だが、ギャツビーもまた、≪金≫と≪富≫に溺れ、自分にとって≪最も大切なもの≫が本当は何かわからなくなっていたのかもしれない。だから語り手ニックは東部に失望し、東部を離れる。価値観の混迷する現代にあって、何を求め何をよりどころとして人は生きるのか? フィッツジェラルドの作品は私たちにこの問いを考えさせてくれる。
ここで越智道雄『ワスプ(WASP)』(中公新書、1998年)(なお、WASPとは、White Anglo-Saxon Protestants)を参考に、少し注釈をすると、
トム・ブキャナンはスコッチ・アイリッシュで代々の上流階級(オールド・マネー)。ギャツビーは新興の上流階級(ニュー・マネー)。同じWASPでも違いがある。
ギャツビーを金持ちにしたのはメイヤー・ウォルフズハイム(ウルフシャイム)というユダヤ系の男だ。ブキャナンのモデルはトミー・ヒチコックやリチャード・ホイットニーというWASP。ギャツビーのモデルはマックス・フォン・ガーラックという酒の密造販売者という噂のあったドイツ・ユダヤ系の成金。ウォルフズハイム(ウルフシャイム)のモデルはロシア・ユダヤであるアーノルド・ロススタイン。(同書16~17頁)
すなわち、当時の社会背景を踏まえ、同じ白人上流階級でも、先発の富裕層と、あとから成り上がった富裕層との違いが、描き込まれている。
ブキャナンはマディスン・グラントの『偉大な人種の死』(1916)なる書を読んでいた。この書は「後発移民の侵攻に風前の灯となったワスプという危機感をあおり、ワスプ保守派の間ではバイブル視され」ていた(同書25頁)。
(JS注:村上春樹訳ではゴッダードの『有色帝国の興隆』となっている。高橋美知子「F.Scott Fitzgeraldににおける人種表象」(福岡大学研究部論集A13(5)2014)に考察がある。)
フィッツジェラルド自身に戻すと、彼はアイルランド系の家庭に生れた。父方は名門のプロテスタントだが、没落。母方はカトリックで富裕層。スコット自身は名門プリンストン大学に学ぶが、中退。プリンストン大学は東部アイヴィ・リーグでは最も差別色が濃い大学だった(同書25頁)。
フィッツジェラルドは、最上流富裕層に対する複雑なコンプレックスを抱いていたとしばしば言われる。
だが、『ギャツビー』においても語り手ニック・キャラウェイは東部の狂騒に嫌気がさす。ブキャナンの汚いやりかたを作家は嫌悪している。後年の『夜はやさし』(1934年)においては、金持ち階層に使い捨てられる医師ディック・ダイヴァー(清貧な牧師の子)に対し作家は同情的だ。富裕層の華やかな生活への憧れはあったが、それは本当の人間の生き方ではない、とするまなざしが作家・フィッツジェラルドには常にあったのではないか。『バビロン再訪』(1930年)では享楽の街・パリをバビロンと呼んでいる。
では、フィッツジェラルドはどこへ行くのか? 清貧で敬虔な信仰心を持った生活に作家自身は最後のよりどころを持っていたのではないか、という気がするが、それはフィッツジェラルド論全体の課題となる。
(登場人物)(ややネタバレします)
ニック・キャラウェイ:語り手「僕」。中西部の名門の子。イェール大卒。NYで株屋をしている。ロードアイランドのウエスト・エッグで謎の大富豪ギャツビーと知り合う。田舎に幼なじみのGFがいる。NYでジョーダン・ベイカーというテニス選手と知り合う。・・・ギャツビーの悲劇を見届けたあと、回想としてこの語りを行っている。「正直」な人間。
トム・ブキャナン:ニックのイェール大学での知り合い。ニックの親戚のデイジーと結婚している。富裕層。大学ではフットボールの選手。今はポロ競技をしている。マッチョ。人を上から見下ろす、傲慢な男。ロード・アイランドのイースト・エッグの大邸宅に住む。女癖が悪く、今はマートルと浮気をしている。嘘も平気でつく。
デイジー:トムの妻。娘が一人いる。西部ルイヴィルの出身で、かつてギャツビーと恋仲だった。小声で話す。
ジェイ・ギャツビー:ウエストエッグに大邸宅を持つ謎の大富豪。32歳くらい。連夜豪華なパーティを開く。笑顔が素晴らしい。怪しい人物だとの噂もある。実は成り上がりで、昔の恋人・デイジーをひたすら思っている。オックスフォードに学んだことがあり、イギリス風の不思議な言い回しをする。
ジョーダン・ベイカー:デイジーのルイヴィル以来の友人。ゴルフ選手。ニックと付き合うことに。チャーミングだが、ややいんちきな女性。
ジョージ・ウィルソン:「灰色の谷」という貧しいエリアに住む、自動車修理工場の工場主。金に困っている。妻をトムに寝取られているが気付かない。
マートル・ウィルソン:ウィルソンの妻。トムと浮気をしている。夫を馬鹿にしている。
キャサリン:マートルの妹。赤毛の短髪。
マッキー夫妻:写真家夫妻。トム、マートル、キャサリンの友人。
ウルフシャイム:ギャツビーの友人。どうやら暗黒街で闇の商売をしている。ユダヤ人。
ダン・コーディー:かつてギャツビーと深い関係にあったとされる大富豪。故人。
クリプスリンガー氏:ギャツビーの邸宅で体操をしている人物。
フクロウ眼鏡の男:ギャツビーの邸宅の図書館で本を読んでいる男。
ミカエリス:自動車工場のウィルソンの友人。ギリシア人。コーヒーショップ経営。自動車事故の目撃者。
ギャッツ氏:ギャツビーの実父。
(補足)(完全ネタバレ)
ギャツビーは結局、成り上がりの食わせものではあった。金と上流階級にコンプレックスを持つ俗物だ。だが、デイジーに憧れ続け、そのために努力し続けてきた姿は、誠実で真摯だ。ニックはギャツビーのその姿に打たれる。ギャツビーは、デイジーの交通事故をも、自分がやったことにする。ギャツビーはデイジーに対して、献身的だ。但し実在のデイジーはその愛の重さに応えることができない。ギャツビーの強烈な片想いの観念は、現実とのバランスを欠いてしまった。ギャツビーは自分の作り出したデイジー像に献身したのであって、自己満足でしかなかったと言うべきか。ギャツビーは一歩間違うとストーカーになるのか? それでも、ギャツビーなりに幸せだったかもしれないと考えるか?
多くの人びとも問題だ。ギャツビーが悲劇の死を遂げた後、葬儀に誰も弔問に来ない。ニックと父親ギャッツ氏と「フクロウ眼鏡の男」以外には。パーティの時には多くの客が押し寄せたのに。人びとは華やかな物質的豊かさを享受したいだけであって、真の人間関係を求めてなどいなかった。ニックは「誰も彼も、かすみたいなやつらだ」「みんな合わせても、君一人の値打ちもないね」と言う(第8章)。手記の冒頭ではニックはギャツビーは「人としてまっすぐであった」と明記している(第1章)。
ギャッツ氏は貧しい苦労人だ。息子の建てた邸宅を見て、息子は成功した、と思い込みたい。息子を愛する哀れな父親として造形されている。
弔問に来た例外的な男、「フクロウ眼鏡の男」はなぜ来たのか。彼が来なければこの世はもっと寂しい場所になっていただろう。作者は、たった一人でも弔問客を来させることで、この世にわずかに望みを繋いだのか。
上流階級で大富豪のトムは卑劣な男だ。ウィルソンの妻を寝取り(デイジーがカトリックだから離婚できないと嘘をつく。マートルを殴ることもしている(2章末尾))、しかしそのことは知らせず、ウィルソンが事態を誤解したままギャツビーを殺害する原因を作ってしまった。自分はデイジーと共に安全な場所で逃亡する。トムの中では自己正当化が完全に為されている。ギャツビーは自分の妻に手を出し出自が卑しい成り上がりのくせに闇商売で荒稼ぎしマートルを轢(ひ)いた悪人だ、とトムは考えている。トムは自分が不倫をして妻を苦しめていることには思いが至らない。本作ではトムは傲慢(ごうまん)なエリートであり他人を思いのままに動かそうとする、完全な悪役に見える(もっとも、各所で嫌われている、と書き込んであるが)。
(パワー・エリートという点では、村上春樹作品の『ねじまき鳥』のワタヤ・ノボルや『ノルウェーの森』の大沢さん(「俺のシステム」にこだわる先輩。女性を傷つける)のタイプだろう。明治初年なら『浮雲』の要領のいいエリート・本田昇(内海文三ではない方)、『舞姫』なら相沢謙吉(太田豊太郎でない方←分からない方は再読を)、ロシア文学なら『貧しき人びと』のブイコフ(よく読むと結構やばい男)、『カラマーゾフの兄弟』ならイワン(無神論者。人を使嗾(しそう)して父殺し←ネタバレ)、といった系譜につながる。)
デイジーはギャツビーとトムの間に揺れるが、ギャツビーの元に走る勇気を持てないまま、悲劇を起こしてしまう。あとはトムのいいなりに逃亡してしまう。デイジーは、果たしてギャツビーに愛される価値のある女性だったのだろうか? デイジーは富によってちやほやされたいだけのつまらない女のように私には思えた。ニックは、デイジーもつまらない人間の仲間だと判断する。もちろん、デイジーにもデイジーの悲しみ(夫の浮気)がある。ギャツビーと結婚しても子どもはどうなる? ギャツビーは確かに闇商売ではあるし? デイジーはこのままトムと暮らすしかない? トムは相変わらず浮気をするだろう。デイジーに安らぎが訪れる日は来るのか?
ウイルソンの妻マートルは夫をバカにし、トムの富と強引さに憧れ、NYのアパートで贅沢をする。マートルも不幸な女の一人だ。当時の享楽的なアメリカの(NYの)物質文明の中では、このような不幸(欲望と貧しさゆえ)に引き裂かれる人間が多数いたかもしれないと思わせる。
ウィルソンは最も不幸な者の一人だ。貧しく、妻を寝取られ、再出発しようと計画していた矢先妻をひき逃げされ、トムにあざむかれ(使嗾され)、ギャツビーを殺害し、自死する。ウィルソンはどうすればよかったのか?銃を使わず、まずはギャツビーと話し合うべきではなかったか? ウィルソンは「神様はあざむけないぞ!」と妻を脅し、「神様はすべてをごらんになっている」と呟く(8章)が、実際に彼らを見つめているのは、歯医者のエックルバーグ博士の目の巨大な広告板だ。ウィルソンは神の目ならぬ自分の目でギャツビーを浮気相手と思い込み、殺害に及ぶ。
ミカエリスはウィルソンの隣人だ。悲嘆にくれるウィルソンにつきそう。「どこかの教会には属していなくちゃ」とウィルソンに言う(8章)。彼は「灰の谷」の住人で恐らくは貧しい。ギリシア人だ。彼は親切で、信心深い(または教会の力を信用している)と言える。辛うじて残っている、「良き隣人」の一人か。(ヘンリー・ミラーのNYのブルックリン(マンハッタン島の東)を舞台にした小説には、WASPではない下町の隣人が多く出てくる。あるいは、ジョイスの『ダブリンの市民』や『ユリシーズ』にも素朴な隣人が多数出てくる。それを思い出す。)
誰もが富や乱痴気騒ぎに酔い、人間のまっとうな生き方を見失っている。辛うじて人間的な礼儀を保っていたのは、ギャツビーの邸宅の図書館に入り浸る「フクロウ眼鏡の男」や、ウィルソンの隣人のミカエリスくらいのものだ。そういう隣人が全くいないわけではない、だが、ほとんどいない。圧倒的大多数の人びとは、ギャツビーやギャッツ氏の悲しみに立ち会うことなく、物質的で享楽的なパーティーに熱中している。パーティー・ピープル(パリピー)なのだ。
ニックは東部にうんざりし、中西部の故郷に帰る。そもそもニックはなぜ故郷から東部に出てきたか? 第1次大戦後の社会変動でNYで株屋をすれば儲かる、と踏んだからだ。オハイオ川以西は「退屈」で「窮屈な監視の目」のあるところだ、とかつては思った(第9章に回想している)。ニックは中西部に帰ってどうするだろうか? 幼なじみのGFと結婚するのだろうか? 書いていない。ニックは故郷の都市ではちょっとした名家の出(父は金物卸売りの仕事)ではあるから、生きていく手立てはあるのだろうか。
恋愛小説でもあり、ギャツビーがデイジーを恋い慕うシーンの描写などは見事だ。村上春樹の訳がうまいのかも知れない。恋愛小説の好きな人は嬉しいだろう。私のような朴念仁(ぼくねんじん)にとってはまどろこしい感じもするが。
トムが愛読している本は、白人が世界の支配者たるべきだが、今や有色人種が勢力を伸ばしてきた、白人は危機だ、といった内容であるようだ。トムは「北方人種」「支配民族」を自称している。スコッチ・アイリッシュだとすれば、スコットランドからアイルランドに入植したプロテスタントの末裔で18~19世紀に渡米、ということになる。(アイルランドのカトリックとは違う。アイルランド系でもカトリックは、19世紀半ばのジャガイモ飢饉で大挙渡米、アメリカの白人の中でも差別された存在。)白人のプロテスタントが世界を制覇すべきだ、という思想はアメリカでは今でも根強いのか? キリストは僕(しもべ)であろうとしたのだが、彼らは支配者を目指すというのは、よくわからない。これも現代アメリカ論になる。
Q それぞれの生き方についてどう思うか?
1 ギャツビーがデイジーに夢中になったのは、出自が貧しく、上流階級への憧れ(コンプレックス)があったからではないか? ギャツビーは自分の作り出したデイジー像に献身したのであって、自己満足でしかなかったと言うべきか。ギャツビーは一歩間違うとストーカーになるのか?
2 トム・ブキャナンは本当に悪い奴だ。だが、トムにもトムの悲しみがあるとすれば?(同情したくはないが。)トムも寂しく、ニックを求めたのか。ニックがスコットランドの貴族の末裔だからか。トムが単純な悪役に見えるのは、(村上春樹の絶賛とは別に、)本作がまだ作者において「若書き」だからだろうか? トムはタフな支配者でありたいという傲慢な思想を捨てるべきだが、妻と愛人を同時に失えばそのチャンスになったかも知れない。だが、トムに改心・回心は訪れなかった。どうすればトムの考えを変えさせることができるのか? だが、容易ではない。ニックは諦めている。
(村上春樹作品なら「やれやれ」と言うところだ。だが、そういう奴が支配者になったらどうする? 戦うしかない、と村上春樹の主人公なら言うだろう。)
3 デイジーは、果たしてギャツビーに愛される価値のある女性だったのだろうか? デイジーは富によってちやほやされたいだけのつまらない女ではないか? デイジーはこのままトムと暮らすしかない? トムは相変わらず浮気をするだろう。デイジーに安らぎが訪れる日は来るのか?
4 ニック・キャラウェイはなぜ故郷から東部に出てきたか? 第1次大戦後の社会変動でNYで株屋をすれば儲かる、と踏んだからだ。オハイオ川以西は「退屈」で「窮屈な監視の目」のあるところだ、とかつては思った(第9章に回想している)。ニックは中西部に帰ってどうするだろうか? 故郷を「退屈」ではなく「安定」と考えるのはわかるが、「窮屈な監視の目」はどうだろうか? また、ニックの祖先はバックルー公爵で、スコットランドの貴族だ。だが、ニックは日頃そんなことを自慢にしてはいないようだ。
5 ウィルソンは悲劇に陥るが、どうすればよかったのか? 神はすべてを見ていると言いながら、自分の間違った目を信じて暴挙に及んでしまった。神の前に敬虔であれば、暴挙に及ぶ前にギャツビーと話し合いを持つ。ギャツビーは金持ちなので金で解決するかも知れない、マートルを失うがウィルソンには再出発があったかもしれない?
6 アメリカ東部(NY)の人びとは当時このように軽佻浮薄(けいちょうはく)なパーティーに浮かれ、人間の真実の生き方を見失っていた、と作者は書く。作者自身は妻と浪費を繰返しつつ、それが本当ではない、と気付いていたのだろう。浪費をしては「それが本当ではない」と書く、というかたちで作品を書いていたのか?(NYを離れてリヴィエラに行き、同じことを繰返した、と村上春樹の解説にある。)では、現代のアメリカや日本の人びとはどうであろうか? バブル期はそうだったかも知れない。今はどうか? 今も・・
7 (現代アメリカ論)アメリカの支配階級のWASPは今でも自分たちが世界の支配者であるべきだと考えているのか、それとも多様性や多文化共生を考える人が増えているのか? また、今のアメリカに「帰るべき中西部」「故郷」はあるのか? (現代日本論)現代日本ではどうか?