James Setouchi

2025.4.19(土)読書会記録『枕草子』    担当:Y

 

[1]『枕草子』を考える視点 

1 最近戦争もののノンフィクション(沖縄の「集団自決」、ひめゆり学徒隊、朝鮮人特攻隊など)を連続で読んだので、頭の中はハード。対して『枕草子』の世界は平和でいいとは言える。だが・・・

 

2 高貴な人のそばにいて機嫌を取る仕事というのは、いわゆる「ブル・シット・ジョブ」ではないか? もちろん、本人は大好きな定子様にお仕えするので幸せだ、と書いているのだが。(全国から権力によって富を集め、それに群がる者に分配する、というシステムにぶら下がっているだけだ、「美しい殿上人が沢山いて素晴らしい」など、都の雅(みやび)な文化の絶対視もそれと連動している、と言うべきか?)→真に「働く」「労働する」「仕事をする」とは? (今のマスコミも会社の方針で「大阪万博は素晴らしい」などと笑顔で言わされているのでは?)

 

3 清少納言は長編小説(物語)を書かない。(当時の女性としては)漢詩文に詳しいと言っても歴史(『史記』など)や哲学(儒学など・・朱子学はまだだが)に踏み込んではいない。『白氏文集』くらいは暗誦(あんしょう)していたかもしれないが、実は漢学にさほど詳しくないのかも? 断片的な知識の受け売りを当意即妙にやってのけるだけのものでしかなかったのでは?→学ぶべき漢学の知識とは? また、学ぶべき西洋の知識とは?

 

4 彼女の「あくまで個人的な感想」を並べているだけだ。そこに普遍性はあるか? 男性上位の世の中で女性が内面を主張できたこと自体がすごいと評価するむきがあり、それはそうかもしれないが、真に内面の主張と言えるか? 藤原道長の権力の元でそれ以上言えない、という抑圧(忖度(そんたく)、自粛(じしゅく))が働いているのか? 彼女の美意識は、それまでの常識に乗っかったものか、それに対して斬新な何かを付け加えているか、それが日本の新しい「伝統」を作り出すことに繋がっているか? →日本文化における「美」とは? 「日本文化」とは?

 

5 一瞬の光景を切り取ったもの、断片的なものが多い。俳諧(はいかい)(→俳句)に似ている。そこには問題意識の深まりがないから、楽だ(一瞬の逃げ場になる)とも言えるし、浅い(社会や人間の問題を掘り下げない。よりよく生きることに繋がらない。一時の気休め、逃避でしかない)とも言える。→表現(文芸表現)のあるべきありかたとは? なぜ楽なものがはやるか? 一見荘重に見えて実は人びとを扇動するだけの擬似(ぎじ)哲学・擬似思想のようなもの(戦前の国策思想の宣伝、最近では某カルト宗教思想、あるいは、・・など)も多いので警戒すべきだ。だが、「これが真理だ!」という教祖の提出する安易(あんい)な答に欺かれないためにも、問い続ける(仮に言えば「哲学し続ける」)ことは必要だろう。

(感想)

・最近の人は長い文章を読む力が落ちているかも知れない。

・多忙だからとAIで要約してもらって読むとか、映画を2倍速で見るとかする人があるが、言葉の運び方や映画における「間」もふくめて味わわないと、本当に鑑賞したことにならないのでは?

 

[2]地図、年譜、家系図などを確認

1 大内裏(だいだいり)における内裏(だいり)と職の御曹司(しきのみぞうし)(定子が落ち目になっていた時の居場所)の位置関係

2 内裏における登華殿(定子のいた場所)、淑景舎(しげいさ)(桐壺)(『源氏』にも出てくる)

3 御殿の中の、昼の御座(おまし)、廂(ひさし)の間(女房たちの部屋はここに)、廊下

4 清少納言966~1020(1027)か? 受領階級、先祖はなんと天武天皇、清原氏は名門、曾祖父の清原深養父(ふかやぶ)は古今集の歌人、父の清原元輔(もとすけ)は後撰和歌集の撰者・梨壺(なしつぼ)の五人の一人。(同時代で5本の指に入る文化人、と言うべき。)兄あり、武人。夫・橘則光との間に男子(橘則長)、のちの夫・藤原棟世との間に女子(小馬の命婦=みょうぶ)、それ以外に藤原実方とも恋人だったとか。晩年は説話にあるが、史実かどうか不明。出世した女性は晩年落ちぶれる、というパターンの(女性差別的な)説話のパターンで作っているのかも。

5 中宮定子977~1001? は清少納言より9歳くらい年下、その父は藤原道隆という最高権力者、兄弟に伊周(これちか)、隆家隆円(僧)、年下の一条天皇の妻となり、男1人、女2人を生むが24才くらいで早世。男児も帝になれず。権力が藤原道長サイド(彰子紫式部はこのサイド)に移ったから。

 

[3]『枕草子』

 随筆、と言われるが、日記的章段、類従的章段、随想的章段がある、と言われる。全300段くらい(分け方は諸説あり)。一部は996年ころまでに書かれ、書としての成立は1001頃か、と或る研究者は言う。中宮定子のサロンを下がってから書き継いだとも。父から貰った家、あるいは第2の夫・藤原棟世の摂津(せっつ)(神戸)の家で書いた、と想像する人も。

 「をかし」の文学、と言われる。(『源氏』は「あはれ」の文学。)宮中の辛いことは書かず、キラキラしたことしか書いていない。権力が道長サイドに移ったので、自粛したのかも?

(感想)

彼女は陽キャラ? 紫式部は陰キャラ? 昔から「ネアカ」「ネクラ」という言い方はあった。60年代までは左右イデオロギーの対立もあり、村上龍は佐世保の高校時代に尻馬に乗って騒いだが、村上春樹は早稲田時代におそらく冷めていた。70年代以降西城秀樹やピンクレディーやキャンディーズでワーワー騒ぐ時代が来た。80年ころに「パラノ型」「スキゾ型」の分類が流行った。その後は? 今のアニメで「陽キャ」「陰キャ」で二分するのはどうかな。(むしろ、場や関係によって現れ方は変化するのでは? 職場では輝いているが家庭内ではしおれているとか、体育の先生の前では萎縮(いしゅく)しているが国語の先生の前ではのびのびしているとか。)

・NHK『光る君へ』では清少納言と紫式部が周知(しゅうち)の仲で交流が随分あったように描いていたが、果たして史実なのか? 知らない。基本的には創作では?

・紫の方が漢学がよくできた、対して清少はわずかな知識をひけらかしているだけで、紫から見ると軽薄に見えた? 今でもありそう。

・二者の対照をする場合が多いが、実際にはほかの女流歌人らとも交流があったのであって、二者だけで語るのは簡略化しすぎかも。

 

[4]第1段「春はあけぼの」

 孟浩然(盛唐)の「春眠(しゅんみん)暁(あかつき)を覚(おぼ)えず」を清少納言は知っていただろう。大江維時『千載佳句』には「春暁」という項目もある。時間の経過、色彩、京都の東方の実景を踏まえているのが清少納言のオリジナル? 春の夕暮れの憂いは大伴家持(万葉)も歌う。

 白楽天(中唐)の「廬山(ろざん)の雨の夜 草庵(そうあん)の中」を清少納言は知っていただろう。『千載佳句』の蛍は晩夏と秋興、『和漢朗詠集』では蛍は夏。道綱母(みちつなのはは)の蛍は五月雨(さみだれ)の夜。清少納言は、月光から光が減って闇へ、と並べたのがオリジナル? 夏は昼間で海水浴、とはならない。

 秋の夕暮れで恋の歌は多くあった。清少納言は、京都の西の山に夕日、烏(からす)、雁(かり)、と視覚、日没後は風と虫の音で聴覚。これがオリジナル? 西方極楽浄土は述べて欲しかったが? のち後鳥羽院(ごとばいん)は「春の夕暮れもいいね」と歌った。漢詩でも秋と言えば仲秋の名月だが、清少納言はそうしなかった。

 冬は早朝の緊張感がいい、昼間は緊張感が緩んでよくない、とするのが彼女のオリジナル? なお、冬だけ人事が入る。

(感想)

・冬は暖かい昼がいいけど。

・当時は火力で暖を取り空気が濁るので、昼はよくないと感じたのかも。

・中学で暗誦した。中味はともかく。

 

[5]299段「雪のいと高う・・」

 白居易(楽天)の詩を知っていて行動した。女房たちは讃えてくれているのか、皮肉を言っているのか。白楽天は都から左遷(させん)され廬山(ろざん)に来ている。中宮定子も道長一派に追い落とされ内裏から職の御曹司に来ている、とパラレルに解釈する見方がある。「例ならず」(普通と違って)に注目すると、中宮定子がいつもと違って格子を開けず朝寝坊していたのは、異常事態。その危機を、この機知に富んだ会話できりぬけた、との解釈あり

(感想)

・もっと素朴に自慢しているだけかと思っていた。

・清少納言はサロン生活を楽しんでいる。それを聞いた紫式部は「あんなやつ」と思ったのか。

・中宮定子は村上天皇の女御(にょうご)のサロンに憧れ、漢詩文を含めて高度な知的サロンを演出しようとした。

だが、それをすることが一体何になるのか? 庶民は置き去りでは? ロシアの皇帝がフランス文化に憧れ巨大な都と宮殿を作る。日本の明治政府が西洋に憧れ華やかなパーティをする。それは一体何になるのか? 庶民から収奪しつつその血税で。

・海の向こうへの憧れではないか?

日本人は古来海の向こうから様々なものを取り入れて文化(精神生活)を豊かにしてきた。米、馬、梅、漢字、すべて海の向こうからの移入だ。日本文化のよさは、海外から学びつつ内容を豊かにしてきた点にある。

 

[6]102段「中納言まゐりたまひて」

 扇の説明は略。くらげは宮廷料理にあった。珍物を入手したのは貿易によるのか。「当時のことを全て書きとめておけと言われたから書いておく」は、後になって書いていることを示す。「くらげ」は「海月」すなわち中宮定子が子を産んでその子が皇太子、帝になることを(なれなかったことを)連想させるので、書きにくい、という意味かも、とする論文あり。面白い。

(感想)

・自画自賛の自己弁護でしかないのでは。

「このユーモアは隆家の発言だった」という常識に対して、「実は私・清少納言の発言だったのよ」という「真相暴露」の記事だと取れば面白い。この時期清少納言はすでに道長に遠慮してものを言う立場にあったとすれば。

・なるほど・・・そういう学説は聞いたことがないが・・・

 

[7]151段「うつくしきもの」

 「うつくし」は「うるはし」などとどう違うか。今の「カワイー」とどう違うか。今は小さいがあとで大きく実るものを並べているという説を立てる人あり。

(感想)

・「あくまで個人の感想」だよね。

・今の時代は世の中が不安定になり、不安ゆえに「カワイイ」もの、ワンニャンに「いやし」を求めているかも。清少納言は、どうであったか?

 

[8]184段「宮にはじめて参りたるころ」

 最初の方は高校教科書に載っているが本当はもっともっと長い。清少納言が初めて宮中に出仕したときのドキドキ感が書いてある。中宮定子様はすばらしい、ほかの高貴な方々もすばらしい、とあるが、地方文化、江戸や大坂の文化、北陸の文化なども本当は素晴らしいはず。なぜ都に憧れるのか? 今なら東京に。

 それは本当に仕事と言えるのか? 

 そこに真の対話があるか?

 文化や教養は権力や権威を誇示するためのものでいいのか? 真に人を生かし社会を善くする文化や教養とは?

 色彩にも注目。清少納言は視覚や色彩に強い人?

(感想)

・初日は緊張しているが、やはりコミュ力の強い女性だ。ともだちは多かったかも。

・容姿(ようし)へのコンプレックスはあったかも。

母親が出てこない。母親はどうだったのか? 母がいないので社交の心得や化粧術なども学べなかったのでは?容姿コンプレックスとも関係が?

・伊周(これちか)はこまったおじさんだ。新人の女性にちょっかいを出す。

・いや、権力者の男とはそういうもの? 最近の芸能界も?

・男女が別世界に暮らしていたのは、イスラム社会などと同じだったのか? 

ビクトリア朝の偏(かたよ)った形を明治に真似(まね)したから歪(ゆが)んだ、という意見がある。男性は背広、女性は華やかなドレス。

・明治~昭和20年までは男女別学(小学校は共学)。戦後に西日本は共学、東日本はエリアによっては最近まで別学。戦後は「正しい男女交際のあり方」などの教本があり、フォークダンスなどを教えた。家庭科男女共修は1990年代からかな。でも学校で男女平等にしても、社会(企業)は女性差別が残る場合が多かった。最近やっと女性も出世できるようになった。進学校も男女半々に。(進学校は男3女1だと、フォークダンスを3年生男子と全学年女子でやり、余った12年男子は・・騎馬戦をしていた学校もあったとか!)

男らしさと女らしさはそう簡単ではない。y染色体の有無で決めてしまう立場もあるが、仮説では、ほかの遺伝子や生育歴における環境ホルモンなどの影響で、誰にでもいわゆる「男性的な」特徴と「女性的な」特徴とが多様に混在する。だから性自認が多様になるのは当たり前。カリブ海の某島では生まれたときは女児だが15歳くらいで急速にテストテトロンが出て男子になる例が多数報告されている。安堂ホセ『D―TOPIA』のモモは成熟拒否。保健体育の時間に「正常な発達はこう」と習うかも知れないが、本当か? あやしいのでは? 「正常な発達はこうだ、これに合わない者は異常だ」と言うと差別になるのでは? 

・理数系に強いのは男、というのも偏見で、キュリー夫人はノーベル賞を取った。

・将棋や囲碁の世界で男性がトップであり続けたのは、女性の参加を許さなかったという社会背景のためでは? 

 

[9]37段「木の花は」

 ウメは奈良までに大陸から移入していたが、紅梅は平安期に移入された。当初は香りに注目。清少納言はこの新規移入の紅梅の色合いに注目した点がオリジナルかも。

 梨(なし)や桐(きり)など中国文化の素材に注目しているのが清少納言。

 山茶花(さざんか)も椿(つばき)も桃もない。辛夷(こぶし)も木蓮も山吹も。なぜ? 椿は『荘子』にある永遠の生命の木だが。桃も生命力の象徴。

 

[10]『枕草子』の西洋への紹介

 ミシェル・ルヴォンポール・クローデルに注目しよう。日本文化で西洋に紹介すべきものとは何か? 考えてみよう。ドナルド・キーンは欧州の戦乱の対極にある『源氏』の平和な世界に憧れた。

(全体の感想)

・今日扱ったのは有名どころだ。

・表面的に読んで知っているつもりだったが、詳しく読むと、背後の事情などもわかり、面白かった。

・平安期も今の人と同じようなことを考えたり悩んでいたりするのかなと感じた。

 

[11]補足 山本淳子「清少納言と則光―訣別の理由」(『人間文化研究』no.38, pp.242-216, 2017-03-10)を参照する。(山本氏は当時京都学園大学人文学部教授。)

 最初の夫・橘則光とは離婚後も兄・妹としてなかよくしていたが、二度目の別れが訪れる。これは、通説では「清少納言の勝気」のせいだと語られがちであるが、そうではなく、「当時の官人社会における派閥抗争」のためである、と論じている。橘則光は藤原斉信の家司(けいし、いえのつかさ)的な存在(逆に、清少納言と別れることで則光は斉信の家司に出世したかも知れない、と山本氏は(注)で付言する)で、道隆サイドから道長サイドに移行したが、清少納言は中宮定子サイドにとどまった。橘則光の立場は悪化した。もと夫・則光を思いやった清少納言はあえてもと夫から身をひいた。こういう説明である。

 清少納言が『枕草子』で夫・則光をやや愚か者のように描くのは、中宮定子に献上するために、位の低い者をあえて愚かなように書いて見せたに過ぎない(髙橋由記など)。道長サイドの斉信から清少納言をスカウトする意向もあったが、清少納言は拒んだ。橘則光ももと妻の清少納言を守った。清少納言は、則光との「関係を断ち切ることが則光への心寄せなのだ」とばかりに歌を送る。歌を送るのは別れを決意したときだ、という二人の約束にしたがって。

崩れ寄る 妹背(いもせ)の山の なかなれば さらに吉野の 川とだに見じ」(80段「里にまかでたるに」)

(夫婦の中は崩れてしまった。夫婦の間には吉野の川が横たわっている。今までのように「吉野の川」(仲良しの彼は)とは見ないようにしよう)

 則長は歌が下手なことにされているが、本当は勅撰集(ちょくせんしゅう)に歌の載る歌人だ。

 以上は山本淳子氏の説明である。

(感想)

・則光との関係については、面白い説ではあるが、当否はわからない。保留。

・姦通や不倫について厳しくなったのは明治末年の姦通法(かんつうほう)からで、それまでは結婚も離婚もわりあい緩(ゆる)かった。今はどうかな。

・女も宮中で仕事をすれば人間関係が広がっていい、とある。昨今、男も女もそうだ、と簡単に言いがちだが、男であれ女であれ、「いわゆる仕事をして人間関係を広げることが正しい生き方で、家にじっといるのは正しくない生き方だ」、などというのは、誰が決めたのか? きわめて一面的な見方にすぎないように思える。兼好も長明も閑居(かんきょ)して充実した人生を送った。修道院に籠(こも)って暮らす尼さんがいてもいい。何かしら「仕事」「事業」を成し遂(と)げることだけが人間のやることではない。美を堪能(たんのう)する人がいてもいいし神に仕える人がいてもいい。達磨大師(だるまだいし)は9年間も坐禅ばかりしていた。この間GDPへの貢献は0円だ。

 

次はR7年5月17日(土)井原西鶴からいくつか。

6月7日(土)フィッツジェラルド『華麗なるギャツビー(ザ・グレート・ギャツビー)』(アメリカ文学シリーズに入る)

7月中~下旬か? サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・イン・ザ・ライ)』