James Setouchi

2025.4.14

 

謝花直美『証言 沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか』岩波新書 2008年

     ナマの証言を集めている

 

1 謝花直美(1962年~) 沖縄生まれ。沖縄タイムス社会部、通信部、学芸部などを経て編集員。著書『戦場の童―沖縄戦の孤児たち』(沖縄タイムス社)(岩波新書の著者紹介から)

 

2 『証言 沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか』岩波新書 2008年

 昭和20年3月末、アメリカ軍は沖縄本島上陸に先立って、本島の北にある慶良間諸島に上陸した。そこでは住民の悲惨な「集団自決」が起きた。その生存者たちの生々しい証言を聞き取り、記録してある。全国民(いや、全世界の人)が必読の書だと思うが、あまりにもつらい描写が多いので、観じやすい人には薦められない。だが、これは現実なのだ・・・

 

 非常に残酷でつらい証言が続く。生存者たちは思い出すのがつらく、記憶を封印しようとしてきた。だが、いわゆる「新しい歴史教科書をつくる会」の運動を受けて、2007年の文部科学省の教科書検定で「集団自決」について「軍の強制ではなかった」かのような検定が実施されるに及び、県民の怒りが爆発し、真実を今語らなければ、真実がねじ曲げられてしまう、との危機感から、重い口を開いて語り始めた。著者もみずから生存者から聞き取りをし、この本になった。

 

 アメリカ軍の猛攻撃(空襲や砲撃や銃撃や手榴弾などなど)で住民が沢山死んだのは言うまでもない。が、同時に、日本軍が沖縄住民を殺害する例も多数あった。恐ろしいことだ。住民たちは逃げ惑い、やがて・・

 

・Kさん(娘二人を亡くした)「そのときは、・・北山(にしやま)に集まれと軍命が出ていた」(24頁)・・そこで多くの住民の「集団自決」が起った。

 

・著者「・・持ち込まれた手榴弾は、防衛隊員が持っていたものと、日本軍が米軍上陸直前に十七歳未満の少年を役場に集めて配ったものがあった。」(32頁)

 

・Sさん(国民学校入学直前の子どもだった)「軍が渡した手榴弾が住民の「集団自決」で使われた。それでも軍の責任は、軍命は、なかったと言えるのか」(45頁)

 

・Mさん(役場の助役兼兵事主任、29歳)「軍から自決しなさいと言われている。国の命令に従って、あの世に一緒に行きましょう」と家族に言う。(111頁)

 

・一人の中尉「おばさんの家族はこっちでひとかたまりになって、死んだほうがいいのではないか」と切り出し、手榴弾の扱い方を知らないはずだから、家族で輪になったところに投げ込んでやろうかと言った。(130頁)

 

・ある日本兵「米軍の上陸は目前だ。あんたたちも絶対捕まえられないように、自決しなさいよ」「あんたたちは捕まえられたらすぐ強姦される。ちゃんと潔く自決しなさい」と女子に向かって言った。(145頁)

 

・一人の中尉「米軍に見つかったら、捕まらないように舌を噛み切って死になさい」と、避難中の住民に指示した。(146頁)などなど。

 

・・・これらの証言があってなお、「日本軍の命令はなかった、強制ではなかった」と言いはれるのだろうか。おかしな話だ。これらの証言によれば、文書による命令書が発見されなくても、軍の命令があったことは明々白々ではないか。日頃から皇軍を背負ってモノを言う兵隊や中尉の言うことなら、住民は軍の命令として従うように訓練されていたのだ。

 

 結果として、沢山の住民に悲劇が訪れた。手榴弾が不発で死ねなかった場合もあるがさらに・・・ここから先は辛くて書けない。だが、沖縄の生存者たちはつらくてもこれを絞り出すようにして語り、これからは平和が大事、戦争は絶対ダメ、と言ってくれている。日本人は(世界中の人が)これに学ぶべきだ。

 

 前史としては、明治以降の皇民化教育がある。天皇陛下の権威は絶対、と教えられていた。教育勅語では「一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレハ、義勇公ニ奉(ほう)シ(ある朝非常事態があったなら、大義と大勇を持って公(公とは何か? 国家か? 天皇か? あるいは?)のために奉公し)」と教えた。戦陣訓(昭和16年、東条英機)では「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず(生き延びて敵の捕虜になるな、その前に死ね)」と教えられた。軍官民共生共死思想が徹底されていた。「アメリカ軍に捕まったら女は・・されて殺され、男は戦車に轢(ひ)かれて殺される」と教えられていた。実際には住民はアメリカ軍に保護され手当てされ食糧をもらえたのだが。日本軍兵士から「あそこの住民はアメリカ軍に吊るされた」と教えられた。本当は住民は助かっていたのだが。しかも手榴弾が配られていた。これらがあってなお、「軍は関与していない、住民が勝手に死んだのだ」と言い張ることはできない。関与どころか、軍によって事実上強制的に「集団自決(強制集団死)」は行われた、と見るべきだろう。紙の命令書が発見できなくとも、そう言わざるを得ない。なお、阿嘉島では防衛隊の伝令が「自決は中止」と大声で伝えた例も記載している。「集団自決」寸前まで住民は追い込まれていた。(190頁)

 

 さらに言おう。明治以降に再発見され伝統であるかのように語られた「武士道」なるものにも、非常に危険な要素が埋め込まれている。『平家物語』で平氏は壇の浦で「一所に死なん(一つの場所で死のう)」と入水し全滅していく。大坂城の夏の陣では豊臣秀頼・淀君は自害、側近は殉死、大坂城は火に包まれたという(諸説あり)。幕末の会津では白虎隊だけでなく家老の西郷頼母(たのも)らは集団で自害。乃木希典(まれすけ)は明治天皇のご大葬の礼の日に妻と自害(これも「一所に死ぬ」のバリエーションの一つと言える)。乃木の死をよきものとして美化して喧伝し1億人に拡大すれば「一億玉砕(ぎょくさい)」思想になる。アッツ島以下の玉砕はこのライン上にある。イザとなったら潔くみんなで死ね! という思想が、いろんな場所で語られてきたのだ。それが日本の正しい思想というわけでは決してない。釈尊は死ねとは教えない。孔子も死ねとは教えない(斉の管仲が生き延びていい政治をしたことを孔子は評価している)。紀貫之も紫式部も藤原定家も松尾芭蕉も井原西鶴も伊藤仁斎も本居宣長も、死ねとは教えていない。日本には様々な思想がある。ブシらしく死ね! という要素を拡大して、あたかもそれが日本人の正しい伝統であるかのような言い方をする(桜はパッと咲いてパッと散るのが潔い、軍人魂はこれだ、など)のは、物事を正しく認識していないか、意図的にウソを言って国民を扇動しようとしているか、どちらかだ。無謀な作戦で玉砕した兵士に対して「軍神」と祭り上げ、「彼に続け」などと言うのも同じ。「彼に続け」ということは、「お前らも死ね」ということだ。そう扇動した連中は生き延びているのにね。殉国(じゅんこく)を美化する思想はダメだ。若者よ、汝らも死ね、という思想だからな。最近の若い子は「宗教怖い」と言うが、実は「国家も怖い」。宗教もある意味で人びとの救いや希望になりうるし、国家もうまく機能すれば国民生活を守るが、一歩間違えれば宗教も国家も怖い。特に全体主義・専制国家は。国家が国民に対しテロを行う。しかもテロをするのは洗脳され扇動(せんどう)され狂信に陥(おちい)った国民自身だったりする。戦前の日本を見よ。(佐藤優は現代における「神」は「国家」と「金」だ、と言っている。)

 

 『少年ジャンプ』のヒーローものや各種アニメなどにも奇妙なものが埋め込まれていそうだ。昔の子ども向けの『ジャイアント・ロボ』の最終回も特攻・自己犠牲の賛美だった。『鉄腕アトム』の最終回(複数パターンあるそうだが)の一つも。『宇宙戦艦ヤマト』の歌詞も。『北斗の拳』も。『鬼滅の刃』はどうだったかな。特攻・殉死・「集団自決」の根底に横たわっているのは、「大義」のために殉ずることを是(ぜ)とし、人の命を単なる手段として使い捨てる思想である。危険だ。しかもそれを唱えて人に強制する人自身はぬけぬけと生き延びているのだ。あぶないあぶない、気をつけないとあぶない。

 

 今、2025年現在、ウクライナにロシア軍が侵攻し一般住民がひどい目にあっている。ガザ地区にイスラエル軍が侵攻し、一般住民が虐殺されている。(日本にいて報道を見ていると、そうとしか感じられない。)犠牲になるのは弱い住民たちだ。もうけているのは武器商人、政財界のリーダーたち。そういう事態を起こさないようにしないといけない。ゲームの理論か何か知らないが、「もし・・になったらどうする? 二者択一で」などと聞いてくる場合があるが、安易にその手には乗らない方がいい。「もし・・たら」の大前提自体が空疎で非現実的だったりする(「もし地底人が攻めてきたら」など)。そもそもそのような事態にならないように手を打つことが大事なのだ。

 

(参考書)

大江健三郎『沖縄ノート』岩波新書

大田昌秀『沖縄 戦争と平和』朝日文庫

曽野綾子『生贄(いけにえ)の島』文春文庫

沖縄タイムス社『沖縄戦記 鉄の暴風』ちくま学芸文庫

小林照幸『ひめゆり 沖縄からのメッセージ』角川文庫

髙橋哲哉『沖縄の米軍基地』集英社新書            などなど