James Setouchi

2025.3.29  

 

 舟橋聖一『白鷺記(はくろき)』  室津から姫路

 

1        舟橋聖一(1904~1976)

 明治37年東京の本所(現・墨田区)に生まれる。父・了介は東京帝大助教授(のち教授)(採鉱冶金)で仙台藩の儒者の子。母方の祖父は近藤陸三郎と言って古河鉱業の幹部で足尾銅山の所長もした人物で大金持ち。聖一は足尾鉱毒事件は「生まれながらに負わされた十字架」だった。陸三郎の妻(聖一の祖母)が聖一を溺愛、芝居に連れて行ったり花柳界(芸者の世界)に触れさせたりした。聖一は病弱で各地に転地するが学校では優秀で水戸高校から東京帝大国文科に進んだ。卒論は岩野泡鳴。明治大学の教師となった。小山内薫に入門、今日出海らと劇団「心座」を作った。徳田秋声門下となる。昭和9年頃行動主義運動。昭和13年『木石』『母代』、昭和15~16年伝記小説『歴史の一枚―北村透谷―』連載。昭和15年『りつ女年譜』(当初『氷雪』と言った)。昭和16~20年『悉皆屋康吉』。昭和22年『鵞毛』。昭和24年から芥川賞選考委員。昭和27年から「夏子もの」を書く。昭和30年『寝もやらぬ夏子』『山茶花匂う夏子』『産院へ行く夏子』。昭和31年『白薊』。昭和35年『白鷺記』。昭和51年死去。作品多数。横綱審議会や国語審議会、競馬運営審議会、社会開発懇談会の委員も務めた。日本文芸家協会理事長。日本芸術院会員。文化功労者。(集英社日本文学全集の野口冨士男の解説・小田切進の年譜などを参照した。)

 

2 『白鷺記』 昭和35年(1960年)4月『別冊小説新潮』に発表。

 一種の紀行文。「わたし」は文士で、赤穂の帰りに室津を経て姫路を訪れた。そこでの蘊蓄(うんちく)を記す。

 

 室津では、法然上人が晩年に流されてここに来た霊跡がある。『平家物語』の木曽義仲の愛妾の山吹(巴御前ではない方)が流れて室津の白拍子となって売春をしていた。そこに法然上人がやってきたという伝説がある。これを過去に「わたし」が書くと、法然上人の崇拝者から、そんな(上人様が遊女と契ったなどという事跡はない、とご批判をいただいたそうだ。私見だが、私は批判者に賛同する。法然上人はすでにご高齢であるし、そもそもが清僧であられた。遊女と「契り」を結ばれたとすれば、「仏縁の(極楽往生間違いなしの)契り」を結ばれたのだろう。

 

 姫路城では、千姫(徳川家康の孫。豊臣秀忠の子。幼くして政略結婚で豊臣秀頼の妻だった)と本多忠刻(徳川家重臣・本多忠勝の孫)の関係も語られる。千姫は大阪城落城時生き延びて本多忠刻と結婚し白鷺城に住んだ。山本有三の戯曲で有名だ。(補注によれば、『坂崎出羽守』という戯曲がある。)

 

 また、お菊の井戸についても『播州皿屋敷実録』に従い詳述(しょうじゅつ)。お菊は姫路城をめぐる男たちの権力争いの中で町坪(ちょうのつぼ)弾四郎に残酷な殺され方をし、井戸に投げ込まれた。幽霊となって皿を数え続けたという。(補足:お菊さんの話は類話が全国にあるとされるが、江戸時代に歌舞伎や浄瑠璃になり、さらに大正5年に岡本綺堂が『番町皿屋敷』として新歌舞伎を仕立てて非常に有名になった。)

 

 その後「わたし」は街の古い料亭に入り、按摩(あんま)を呼んだ。垢抜けた身ぎれいな按摩のお静さんが語るには、実はお菊は井戸には入らず若い城主の寵愛を受けて御台さまになった。お手討ちになって死んだのは女間者(おんなかんじゃ)(女スパイ)の紅桜という女だというのが真実だとか。それにしても、誰かさんの創作であって、「世の中に、実説なんてものはなかなか存在しないものだ」と「わたし」は言う。

 

 どこまで虚構が事実か分からない。歴史の細かい蘊蓄(うんちく)を語っている。が、女性に注目し、山吹、千姫、お菊、紅桜と並べてみると、権力欲に狂った男たちの争いに巻き込まれて浮沈した女たちの姿を書いているとも言える。特にお菊さんとその流れの上に目の不自由な按摩のお静さんがいるとも思えてくる。

 

 女たちも男たちに翻弄されるばかりではなかった。本作の記述によれば、千姫は坂崎を嫌って二枚目の本多と結婚した。お菊は真偽不詳ながら実は生き延びていたかもしれない。お静さんも何とか生きている。このように舟橋聖一は書いていて、救いがないわけではない。山吹も遊女になったが法然上人と出会えた。本文では、「私」自身は未来の展望を語るものには興味がなく過去の英雄美姫(びき)や無実の罪に殺された男女の話や落城の哀話を好む、と書いているが、その中に、個々の人間、ことに悲運に沈んだ者に対する愛惜がある、と私は感じた。