James Setouchi
2025.3.27 舟橋聖一『木石』リケ女の先駆?
1 舟橋聖一(1904~1976)
明治37年東京の本所(現・墨田区)に生まれる。父は東京帝大助教授(のち教授)(採鉱冶金)で仙台藩の儒者の子。母方の祖父は近藤陸三郎と言って古河鉱業の幹部で足尾銅山の所長もした人物で大金持ち。聖一は足尾鉱毒事件は「生まれながらに負わされた十字架」だった。陸三郎の妻(聖一の祖母)が聖一を溺愛、芝居に連れて行ったり花柳界(芸者の世界)に触れさせたりした。聖一は病弱で各地に転地するが学校では優秀で水戸高校から東京帝大国文科に進んだ。卒論は岩野泡鳴。明治大学の教師となった。小山内薫に入門、今日出海らと劇団「心座」を作った。徳田秋声門下となる。昭和9年頃行動主義運動。昭和13年『木石』『母代』、昭和15~16年伝記小説『歴史の一枚―北村透谷―』連載。昭和15年『りつ女年譜』(当初『氷雪』と言った)。昭和16~20年『悉皆屋康吉』。昭和22年『鵞毛』。昭和24年から芥川賞選考委員。昭和27年から「夏子もの」を書く。昭和30年『寝もやらぬ夏子』『山茶花匂う夏子』『産院へ行く夏子』。昭和31年『白薊』。昭和35年『白鷺記』。昭和51年死去。作品多数。横綱審議会や国語審議会、競馬運営審議会、社会開発懇談会の委員も務めた。日本文芸家協会理事長。日本芸術院会員。文化功労者。(集英社日本文学全集の野口冨士男の解説・小田切進の年譜などを参照した。)
2 『木石』昭和13(1938)年『文学界』に発表。作者34歳。本作で有名になった。
二桐医学士のもとで実験の助手を務める追川初というカタブツの女性を描く。
(登場人物)
二桐医学士:研究医。H・R細菌学研究所の所長。
追川初(おいかわはつ):H・R細菌学研究所の実験の助手。先代の所長・R博士の時からここに努めている。44歳。独身だが娘・襟子がある。カタブツ。モルモットの扱いに熟練している。リケ女の先駆者。
R博士:先代所長。立派な研究者。
襟子:追川初が連れている娘。
(あらすじ)(ネタバレ)
追川初という仕事一筋のカタブツの女性に、なぜか娘・襟子がいる。人びとは噂し合うが、追川初は黙して語らない。実は襟子娘は、追川初が敬慕してやまない先代所長・R博士がある婦人と不倫をして産ませた子だった。母親は名門一家で不倫の事実は公表できない。行き先のない娘を、追川初が自分の娘として育てることにしたのだった。先代所長・R博士の名に傷をつけないためだ。追川初は、それによって、襟子の命とR博士の名誉を守ったのだ。
やがて襟子が成長し、追川初は襟子に職業人として生きていけるようにさせようと考えるが、襟子は現所長・二桐を敬慕するようになる。襟子は娘を心配するが、二桐は襟子を正式のアシスタントとして採用する旨伝える。
追川初はあるときふとした過失で鼠の細菌が手から入り、死の床につく。追川初は自分の体の解剖を二桐に託して死ぬ。二桐は追川初の解剖を終え、遠い空に故郷を思い、襟子との結婚を思う。
(コメント)
追川初は先代所長・R博士を敬慕し、その不倫の過ちの子を自らの娘として育て抜くことでR博士への献身的な愛を貫いたと言えるのかもしれない。職業婦人として手に職を持っている点にも注目。娘の襟子にも手に職をつけさせようとする。
R博士は自分の不倫の知りぬぐいを追川初に押しつけた。研究所の名誉を守るためとはいえ、身勝手だと言うべきだろう。R博士にとって追川初は利用しやすい「都合のいい女」というわけだ。
R博士の不倫相手の女性は、出てこないが、どういう思いだっただろうか? 名門の夫人で、過ちを犯し、娘を人に渡して育てさせる。常識的には、苦悩があったと想像できるが、書いていない。階級社会の犠牲者とも言えるし、階級社会に加担する冷酷な女、とも言える。追川初はその夫人を「冷たい表情の中に、何ともいえない深く豊かな情炎をたたえていた。」と見る。
二桐と襟子との関係は、R博士と追川初との関係とは、違ったものになる。二桐は襟子との結婚を夢想する。本作のラストは救いがある。
但し、追川初の死体の解剖、生涯をかけたR博士への献身、ふとしたはずみで細菌に感染しての病死などは、痛ましい。これに対して、ラストの二桐の夢想による救済は、追川初の生涯の苦しみを補ってあまりあるとは言えない。
この小説は何を書いている小説なのか? 舟橋聖一の本当の意図は、知らない。プロレタリア文学が壊滅した時代、それとは違う立場で行動主義を唱えた雑誌『行動』同人となり(昭和8年)、『行動』廃刊後は小林秀雄に勧められて『文学界』同人となって(昭和10年)の作品(昭和13年)だ。明治大教授にもなった(昭和13年)。時局は、すでに日中戦争(昭和12年から)に突入している。読みかたによっては、男社会に尽くす女の生き方を称揚しているようにも読める。しかもラストで二桐が故郷の山々を思う、とはまさに軍国主義のアイテムが揃っている。だが、男上位の社会の中で献身的に生きた追川初の生き方の美しさを描いているかに見え、実はそうではなく、踏みにじられた女性の苦しみと、その上にあぐらをかく男たちの身勝手さ、また階級社会の冷たさ・非人間性を照らし出しているように、私には感じられた。いかがですか? フェミニズム批評の方のご意見を承りたい。