James Setouchi
2025.3.14
今 日出海『天皇の帽子』『三木清における人間の研究』 昭和25年
1 今 日出海(こん ひでみ)(1903~1984):明治36年函館生まれ。今東光の弟。先祖は津軽の人。父は日本郵船の外国航路の船員。神戸第一中学で病気休学を経て暁星中学、浦和高校、東京帝大文学部仏文科を卒業(辰野隆らの薫陶を受ける。渡辺一夫、小林秀雄らと友人)後、法学部政治学科にも入る(中退)。大正15年から船橋聖一・村山知義らの劇団「心座」に参加(4年間)。美術研究科に就職、劇団蝙蝠座創設、明治大学講師などをしながら創作や翻訳や評論を発表。中島健蔵、三好達治、岸田国士らと交わる。昭和12年パリ滞在(1年間)。昭和13年から『文学界』同人、明治大教授。昭和16年太平洋戦争に徴用されフィリピンへ(18年帰国)。昭和19年文学報国会実践部長。年末再度フィリピンへ。昭和20年九死に一生を得て帰国。戦後明大を辞し文部省文化課長(のち芸術課長)に(1年間)。第1回芸術祭を開催。昭和24年『山中放浪』刊行。昭和25年『三木清における人間の研究』『天皇の帽子』を発表。直木賞受賞。昭和43年初代文化庁長官(47年まで)。「モナ・リザ」日本初公開などを実現。昭和53年文化功労者。昭和59(1984)年没。著作多数。(集英社日本文学全集の年表他を参照した。)
2 『天皇の帽子』昭和25(1950)年『オール読物』に発表。
(あらすじ)(ネタばれ)
成田弥門は成田家に養子に行った。養父の成田信哉は武士の育ちで弥門を厳しく躾けた。信哉はT伯爵に仕え、弥門は若殿に仕えた。弥門は体躯が大きかったがとりわけ頭がでかかった。それにあう帽子がないほどだった。若殿・秀麿はドイツ留学後暴君と化し、律儀者の弥門をいじめ、馘首した。弥門は帝室博物館の雇員となる。たまたま大正天皇即位記念切手の写真の随身のモデルとして、体躯の立派な弥門が選ばれた。弥門は字が綺麗で各位に重宝された。某侯爵から、畏れ多くも大正天皇(頭がでかい)の帽子を拝領した。弥門は大正天皇の帽子をかぶって以来、喜怒哀楽を表さず悠然と歩くようになった。旧主の秀麿が悪行がたたって病に臥し弥門を呼びつけたとき、主従の威風は完全に逆転していた。旧主家の使用人たちの敬礼に、弥門は、威風堂々たる貴賓のごとく、言葉少なく対応して去っていくのだった・・
(コメント)
戦後天皇が人間宣言をした。戦中まで現人神(あらひとがみ)だったのだが、戦後人間天皇になり、全国各地を巡行した。これについて世論はあれこれと騒いだ。大きく言えばその時代風潮の中で出てきた作品の一つと言えよう。解説の尾崎秀樹は、「今日出海はその状況自体を笑う意識で、これを書いている。つまり『天皇の帽子』という短篇を、天皇制批判と言うより、天皇制批判の批判として私は受けとってみたい。」としている。
が、私は、素朴に読んでそうとまでは感じなかった。一種のエスプリの効いた笑い話だ。旧家が没落し、一見無用の者に見えた弥門が威風堂々たる者として通用するようになる。時代の変遷による力関係の逆転を描いている。かつ、弥門という人間は、一貫しているようだが、「彼は変わった」と語り手は書く。彼を変えたのは、天皇の帽子だ。もちろん、写真のモデルになる、字の美しさで重宝されるといった経験が自信をつけさせた面もあろう。が、彼を威風堂々たる立派な存在として押し出しているのは、巨大な体躯と相まって、大正天皇の帽子、という、外見である。人間は外見だけで立派に見えてしまい、周囲もそれに敬礼をするのである。こういう人間認識を書き込んだ作品と言える。これはユーモア小説でもあるが、同時に、人間がいかに外見にとらわれ外見に(周囲も本人も)左右されてしまうか、を描いた、人間洞察の作品だ、と私は感じた。戦前の軍人の制服についても同様だ、と筆者なら言うのではないか?
なお、保阪正康『天皇が十九人いた さまざまなる戦後』(角川文庫)は面白い。
3 『三木清における人間の研究』昭和25(1950)年『新潮』に発表
三木清は高名な哲学者(京大系)で、戦時中官憲にとらわれて非業の死を遂げたのでも有名だ。戦前・戦中・戦後と読み継がれてきた。彼の『人生論ノート』『哲学ノート』などは若者の必読書と言われた。その三木清について、フィリピン戦線で同行すると、大変困った迷惑な人物であった、ということをすっぱ抜く短篇だ。回想手記の形を取っている。三木清は実名で出てくる。他にも多数の実在の人物が仮名で出てくる。どこまで事実か虚構かは知らない。署名は三木清『パスカルにおける人間の研究』をもじっている。
詳細は省く。今日出海によれば、昭和16年冬、軍の動きは無計画ででたらめだったが、南方に文化人が多数徴用されていった。17年に到着した三木清は才知があり弁舌が鋭いが、その才と弁で何をするかと言うと、人の悪口を言う。平気で嘘をつく。裏表のある人間だ。最後は周囲が皆彼に愛想を尽かした。彼は嫉妬深く、隊において自分が大事にされなかったことに腹を立てて悪口を言い続けたのだ、呆れ果てたことだった。これが大体の内容だ。
三木清が実際にこのような性質の人だったかどうか知らない。むしろ今日出海が三木に嫉妬しているのではないかという気がするほど、今日出海は三木を悪く書いている。私はよく知らないが、「三木が他の徴用作家・芸術家たちとは全く別の特命、つまり現地軍政監部の布告する文章や本土への報告書などの原案を執筆するという特命を、ひょっとしたらマニラに到着する以前から内密に受けていたかもしれないという可能性が」ある、と平子友永という人が書いている。「三木清と日本のフィリピン占領」(清眞人、津田雅夫、亀山純生、室井美千博、平子友長『遺産としての三木清』、同時代社 2008 pp.304-363 (全394頁) )だから三木だけが極秘の特別の動きをし、周囲には理解されなかったのだろうか。知らない。
三木は優れた哲学者、エッセイストということになっている。そこで、ダメ人間(であるとして)の書いたものでも著作自体は価値があると考えるか、誰が言うかが大事で何を言うかは二の次だと考えるか。
太宰治は非常に困った人間だが、小説は面白い。ダメ人間の書いたものでも著作自体は価値があると考えるか、誰が言うかが大事で何を言うかは二の次だと考えるか。
音楽家で非常に迷惑な人がいたとして、しかしその音楽はそれはそれとして素晴らしいと考えるか。
絵描きの場合はどうか。
書道家の場合はどうか。
ダンサーの場合はどうか。
野球やサッカーの選手はどうか。
武道・武術のチャンピオンの場合はどうか。柔道・剣道・相撲はどうか。
鮨職人や大工さんや外科医はどうか。
哲学・文学の場合だけ特別と考えるか。武道・武術の場合だけ特別と考えるか。医者だけは人格者であるべきか。
政治家はどうか。
数学者はどうか。
科学技術者はどうか。
このように問題をひろげてみることもできる。みなさんは、どうお考えになりますか?
それはそれとして、才芸がありすぎてそれを他の人に対する攻撃にばかり使う人は、確かに存在する。これは本当に迷惑だ。才芸のある人ほど謙虚になり、おのれをつつしみ陶冶(とうや)して、徳(何が「徳」か? も問い続ける)の考究・実践に孜々(しし)として努めるべきだろうに。競争主義を絶対善として他を蹴落とすことばかりしていては世の中の迷惑だ。司馬遼太郎が「その人の才と徳を比べたとき、才が少し劣り徳が少し上回っているくらいの方がよい」と言ったのは、その通りだ。内田樹が「本当に知性的な人というのは、周囲の知的パフォーマンスを上げることのできる人であって、他の人を黙らせて憂鬱に落とし込む人のことではない」という趣旨のことを言っているのも思い合わせたい。
*三木清:明治30(1897)年1月5日~昭和20(1945)年9月26日。哲学者。京大卒。
*パスカル:1623~1662。フランスの哲学者、物理学者、数学者。『パンセ』が有名。
*徴用:徴兵ではないが、国家が命令で動員するのである。モノを取り上げるのは「徴発」。
*フィリピン戦線:今日出海『山中放浪』も参照。大岡昇平『レイテ戦記』『俘虜記』『ミンドロ島ふたたび』なども。