James Setouchi

2025.3.13

  今 日出海『山中放浪』 フィリピン戦線の悲惨

        

1 今 日出海(こん ひでみ)(1903~1984):明治36年函館生まれ。今東光の弟。先祖は津軽の人。父は日本郵船の外国航路の船員。神戸第一中学で病気休学を経て暁星中学、浦和高校、東京帝大文学部仏文科を卒業(辰野隆らの薫陶を受ける。渡辺一夫、小林秀雄らと友人)後、法学部政治学科にも入る(中退)。大正15年から船橋聖一・村山知義らの劇団「心座」に参加(4年間)。美術研究科に就職、劇団蝙蝠座創設、明治大学講師などをしながら創作や翻訳や評論を発表。中島健蔵、三好達治、岸田国士らと交わる。昭和12年パリ滞在(1年間)。昭和13年から『文学界』同人、明治大教授。昭和16年太平洋戦争に徴用されフィリピンへ(18年帰国)。昭和19年文学報国会実践部長。年末再度フィリピンへ。昭和20年九死に一生を得て帰国。戦後明大を辞し文部省文化課長(のち芸術課長)に(1年間)。第1回芸術祭を開催。昭和24年『山中放浪』刊行。昭和25年『三木清における人間の研究』『天皇の帽子』を発表。直木賞受賞。昭和43年初代文化庁長官(47年まで)。「モナ・リザ」日本初公開などを実現。昭和53年文化功労者。昭和59(1984)年没。著作多数。(集英社日本文学全集の年表他を参照した。)

 

2 『山中放浪』昭和24(1949)年刊。

 筆者は軍の報道部に従事するため昭和19年末にフィリピンのマニラに赴く。だが戦況既に悪化し、陸軍首脳部(司令官は山下奉文)はマニラを捨てバギオに移っていた。米軍のルソン島上陸は間近だ。筆者は同行の里村欣三や人見大尉らと共にマニラを脱出して北上。山中に移動、米軍の猛烈な爆撃下、餓えと病とゲリラに苦しみながら山中を放浪する。たまたま機会があって辛うじてフィリピンを脱出、台湾を経て日本に帰るまでを描く。読み応えがあり、考えさせられる多い。これが戦争と軍隊の現実だ。必読。どこまでが事実か創作かは知らない。

 

 内容は時間軸に沿って「マニラ退却」「山中挿話」「山中放浪」「台湾脱出」となっている。全編読む価値があるが、いくつかだけ紹介しよう。

 

里村欣三はプロレタリア作家で、しかも高学歴の理論家ではなく、貧しい生活の中から出てきた人物。「親切で善良で犠牲的」な非常にいい奴で、筆者はずっと行動をともにしてきた。だが、戦いに参加することを選び、戦死する。筆者は号泣する。・・・・・・P

 

伊波丹治郎はアメリカ育ちでアメリカびいきの戦争嫌いだ。軍人たちと行動を共にしているが、視点が偏狭でなく柔軟。・・・・・・Q

 

・人見大尉はじめ周囲の軍人たちが筆者を大事にしてくれる。筆者が年長でもあり身分上兵士ではなく文士あがりの報道班員であるからだろうか。

 

・フィリピン現地では日本人は嫌われている。食糧の現地調達をしたからだと私(JS)は思っていたが、筆者は、加えて、「人間が狭量で小っぽけだから嫌われるのだろうか」と書いている。「大東亜共栄圏」という「お題目」についても、「占領地の住民に総好かんを喰ってはせっかくのお題目も台なしである」とも。

 

・山中には瑞穂(みずほ)村や大和村と言って婦人と子どもを集めて自給自足の生活をさせている村がある。「不便不自由を忍び、和気藹々(わきあいあい)と暮らしている」と聞いていたが、伊波丹治郎に言わせれば「貴婦人組とインテリ組と夜業組とが三つ巴(どもえ)のいがみ合いをやっているそうですよ」。

 

「報道はことごとく嘘で固めている」「こんな嘘の報道で国民を欺いて戦争は継続できると思いますか」と筆者は参謀長に詰め寄った。

 

山中に武器も食糧も無く米軍に包囲されて籠城(ろうじょう)していると、もはや軍隊の階級など問題ではなくなる。「いちように戦争の将来に不安を持ち、生命の危険にさらされ、飢餓に襲われている」「ひとしなみに恐るべき運命に挑みかかられていると、人間的になってくるものだ」「私は人間的な雰囲気の中で救われたのだ」・・・・・・A

・筆者は山中の一軒家をあてがわれる。毎日何回何十回となく空襲がある。防空壕に入っても至近距離に爆弾が落ちると爆風でやられる。それさえなければ天地自然を友として暮らす、言わば「方丈(ほうじょう)の庵(いおり)」だ。蝙蝠(こうもり)がおおくいたので「蝙蝠庵」と名づけた。朝は春のように穏やかで、真昼は夏だ。日が暮れると急に秋のようになる。「一日に春夏秋と来る」。

 

・「内地は本土決戦とか国民に聞こえのよいことを言っていながら、よぼよぼの首相を立てて・・・戦場で手も足も出なくなっている我々には腹立たしさを通り越して、むしろ悲報を聞くようなものだ。国民をいまだ駆り立てて本土決戦を使嗾(しそう)しても、比島の戦場を見るがいい

 

・「飛行機のあった時分は特攻隊である。なくなれば斬り込み隊である。悲壮ではあるが効果は何ほどもない

 

・「食うために、生きるために私は懸命に努力した。けれども何のために生きなければならぬか、食わねばならぬのかハッキリせぬのである。おそかれ早かれ、この辺で死骸をさらすに決っている」

 

・食糧がないので、畑を荒らし、トカゲを食べ、雑草を食べた。飼い主のない迷った豚や馬がいたらしとめてご馳走にありついた。爆弾が川に落ちたら浮いている魚を捕った。日本兵は武器弾薬も軍服も失い粗末な服で竹槍一本を持って立っている有様だった。

 

・「この悲惨が女子供のいる内地でも繰返されるのかと思うと、私はまったく絶望し、軍報道部の軍人や情報局の役人が嘘の報道で、国民を決戦段階へ押し込もうとしているのにやる方ない憤りを覚えた」

 

・原隊から離れて落人になり山中をさまよう兵たちが多数いる。「これが皇軍のなれの果てとはどう見ても思えない。」どの部隊も彼らに食事をわずか与えるが宿を与えず彼らを追い払う。軍律は乱れ、「人情の結び合い以外に何ものもない人間関係だけが、同じ悲しい境遇のうえに成り立っている」・・・・B 

 

特攻隊でたまたま死なずに生き残った人びとは「神様部隊」と呼ばれて、員数外で、飛行隊に三十名近くいる。その中に佐々木伍長もいた。((注)鴻上尚史『不死身の特攻兵』で有名。)彼らの中では「もう戦争はすんでいる」のであり、彼らは「つまらん」が口癖だった。

 

たまたま山中で出会ったロペス一家と仲良くなった。もとは地元の名士らしい。そこの娘を見ると日本に残した娘を思い出し涙が出た。手持ちの塩を与えると歓待(かんたい)してくれた。筆者はそのままロペス家に居着こうかと思ったほどだ。ロペスはフリーメーソンで、筆者と話が弾(はず)んだ。・・・・・・R

 

・たまたま飛来した双発機(そうはつき)に乗せて貰い、松尾少尉の運転でフィリピンを脱出した。その時見た雲海の壮麗(そうれい)な日の出を生涯忘れない

 

台湾では、爆撃はあったが米軍上陸がなく、内地と同様、位階勲等(いかいくんとう)や金銭が必要で、軍人が理不尽(りふじん)に威張っている。しかも高級軍人は贅沢(ぜいたく)のし放題で、無責任に大言壮語(たいげんそうご)している。フィリピンの山中ではそんなことはなく、「人間は虫けらの如(ごと)く死んでいく」。筆者は苛立(いらだ)つ。「この無謀な戦争から日本を日本人を救いださねばならぬのだ。」・・・・・・C

・台湾からもたまたま載れる飛行機があり、日本へ。激戦の沖縄の真上、敵機の情報。「何という空虚さだ。私は生きたいとも死にたいとも思っていなかった。感情も欲望も執着ももはやなかった。ちらッと子供の顔が頭を掠めた。それだけだった。/私はこの空虚さが胸に滲み徹るのを感じた。/黙然としてこの死の空虚さと対峙(たいじ)していた・・」

 

*見やすくするためABCを繰り返そう。

 

(A)山中に武器も食糧も無く米軍に包囲されて籠城していると、もはや軍隊の階級など問題ではなくなる。「いちように戦争の将来に不安を持ち、生命の危険にさらされ、飢餓に襲われている」「ひとしなみに恐るべき運命に挑みかかられていると、人間的になってくるものだ」「私は人間的な雰囲気の中で救われたのだ」

 

(B)原隊から離れて落人になり山中をさまよう兵たちが多数いる。「これが皇軍のなれの果てとはどう見ても思えない。」どの部隊も彼らに食事をわずか与えるが宿を与えず彼らを追い払う。軍律は乱れ、「人情の結び合い以外に何ものもない人間関係だけが、同じ悲しい境遇のうえに成り立っている

 

(C)台湾では、爆撃はあったが米軍上陸がなく、内地と同様、位階勲等や金銭が必要で、軍人が理不尽に威張っている。しかも高級軍人は贅沢のし放題で、無責任に大言壮語している。フィリピンの山中ではそんなことはなく、「人間は虫けらの如く死んでいく」。筆者は苛立つ。「この無謀な戦争から日本を日本人を救いださねばならぬのだ。」

 

 このABCを併せて考えてみる。ABでは軍隊の規律・階級制度が崩壊したときに人間のギリギリの本性が出て来るとする。それは、Bでは、人情の結び合いだとする。部隊も同様と考えられる。近しい人・そうでない人、身(み)ウチ・身ソトの区別があって、食糧を身ウチには与えるが身ソトには与えない。Cでは人間は平時には階級や金銭によって社会を成り立たせておりそれは筆者にとって腹立たしい事実だ特に高級軍人が前線の現場を見ずに贅沢しながら大言壮語するのはけしからぬ。

 

 対してPQRを見ると日本人にもいい奴はいる。アメリカ人は日本人とは違った視野の広さを持っている。現地人とも戦争でなければ心は通じ合う。(なお、人間の本来の性質については、さらなる考究が必要だろう。)Cに戻って、この無謀な戦争、また戦争体質、無責任な軍人の支配、位階勲等や金銭を重視し、他の人を踏みにじり自分だけが贅沢に耽って恥じないありかたから、日本を救い出さねばならぬ。日本は生まれ変わらねばならぬ。あのフィリピン山中の自分のナマの体験がそう叫ぶ。このようなメッセージが読める。

 

 内地にあるような、階級や権威や資金力を笠(かさ)に着る社会や生き方は、人間本来のものではなく、不愉快だ、と筆者は言っている。戦後日本はそうであってはならぬ、ということだ。

 

*フィリピンでも台湾でも、顔見知りや初対面の人の情けにすがって生きている。人の情けに助けられて人は生きている、ということがよくわかる。

 

*生と死については、何のために生きるのか分からぬ。「死にたくない」というレベルではない。ただ生に執着したい。その一念でフィリピンを脱出した。だが、沖縄上空を飛ぶとき、すでに生きたいとも死にたいとも思っていなかった。ただただ空虚だった、と書いている。ここをどう読むか。実感を記したに過ぎないかもしれない。この時疲れ果てていたかもしれない。あるいは、生と死を一挙に相対化する「空」とも言える視点を得てしまっていると言うべきかも知れない。

 

フィリピン戦線は悲惨だったので有名だ。50万人の日本人が戦没したと言われる。(日本遺族会のサイトによる。)現地人は日本側ゲリラとアメリカ側ゲリラに分かれたが、アメリカ軍優勢となり、アメリカ側ゲリラは、飢えて彷徨(さまよ)う日本兵を背後から襲ったと言う。かの安岡章太郎は中国大陸からフィリピン戦線に送られるところをたまたま病で離脱、他のメンバーはフィリピンで全滅したと言う。私の知り合いはハルマヘラ島にいたが、ここは米軍が上陸しなかったので戦闘はなかったが、食糧がなく、トカゲを食ったと言っておられた。制空権も制海権もなかったから、物資が輸送できないのだ。今日出海が生きて帰国できたのは非常な幸運と言える。

 

*筆者は脱出できたが、筆者と行動をともにしてきた人びと(兵隊を含む)はどうなっただろうか。多くはフィリピンで死んだだろう。まだ二十代なのに。

 

*現地第14方面軍司令官山下奉文は終戦で投降し帰国後処刑された。