James Setouchi

2025.3.3

  伊藤整『火の鳥』 加えて、他を愛する心

 

1 著者 伊藤整:1905年(明治38年)北海道松前郡に生まれる。父は軍人、教師。姉弟妹多数。小樽市塩谷町に育つ。小樽中学校で詩に出逢う。小樽高等商業学校の1年年上に小林多喜二がいた。小樽中学の教諭を経て昭和3年(1928年)上京、東京商科大学(現在の一橋大学)に学びつつ文芸批評を行う。昭和6年大学を退学。批評や創作を発表。昭和7年『生物祭』、昭和10年日大芸術科講師となる(~昭和19年)、『馬喰の果て』、『チャタレイ夫人の恋人』翻訳(検閲後で刊行できた)、昭和13年『青春』、昭和20年一時北海道に疎開、昭和21年再上京、昭和24年早大講師、昭和25年『生きる恐れ』、『チャタレイ夫人の恋人』検察庁に押収、起訴される。昭和26年から裁判。昭和27年『火の鳥』、昭和29年『海の見える町』『雪の来るとき』、昭和33年東京工大教授、昭和36年コロンビア大学、ミシガン大学で講義、昭和40年日本近代文学館理事長となる。昭和42年芸術院賞。昭和44年(1969年)死去(64才)。

 

2 『火の鳥』昭和27年(1952年)47才で発表。

 当時ベストセラー。 

 

 チャタレイ裁判で控訴し裁判が長引く中で書いた。(最高裁判決は昭和32年、訳者の伊藤は罰金10万円、出版社社長は罰金25万円と敗訴。)「裁かれる立場にありながらも、新聞の報道を通じて英雄的な名士になってゆくのを、伊藤氏は奇妙に感じてはいなかったであろうか。」「社会の中にあって、個人ははたして自主性を保つことができるのであろうか」「ジャーナリズムの力の支配の下で、はたして芸術家に自由が存在するかという問題にもなる。『火の鳥』の主題もまたそこにある。」と磯田光一は言う(集英社日本文学全集62の解説)。

 

 本作には確かに、新聞報道と役者の関係、さらには社会の諸関係と個人の生き方の関係を問うている。それは重要なテーマの一つだ。だが、同時に、一人の女性の(男性との関係を含めた)人生の自己語りの物語であって、西鶴『好色一代女』宇野千代『生きていく私』に近いもののようなものでもある、と私は感じた。「チャタレー裁判で有名な、言論出版の自由のために私たちを代表して戦ってくれている伊藤さんの作品」という同時代のイメージがなくとも、十分(通俗小説的に)面白い。この日本社会に異質な存在として投げ出され寄る辺なくどう生きていいか模索し続ける女の一代記として面白い。(但し彼女は父親の遺産があるので経済的には困っていない。今の若者は経済的なテーマを抜きにしては語れない。)

 

 時代は戦後、発表当時に近い昭和20年代か。語り手は「私」生島エミという有名な女優。戦前戦中のことも回想される。

 

(登場人物)(ややネタバレします)

生島エミ:語り手「私」。イギリス人の父と日本人の母との間にできた。父は英語に帰国、多額の生活費を残していった。母はなくなった。自分とは何かを求めて彷徨っている。美しい女優。薔薇座という小劇団から出発し、今(語りの最終地点)ではコマーシャリズムに乗った大女優。

姉:エミと同居する姉。母が同じ。父親は日本人。

タア子:姉の子。幼く、泣く。

田島先生:薔薇座の指導者。新しい演劇理論で時代をリードした。エミの父親のような存在、また恋人でもある。

杉山:脚本家。田島先生の弟子。エミの昔の恋人。戦時中田島に変わり薔薇座を率いて軍部に翼賛する芝居をする。苦境にあったとき荒れ、エミに子の中絶を命じ、二人は別れた。

潮田(うしおだ)さん:薔薇座の年配の役者。エミの理解者。

大鳥さん:薔薇座の先輩の女優。エミに主役を奪われ嫉妬している。

お芳さん、お葉さん、笛子さん、土岐さん、紀伊ちゃん:薔薇座の俳優。

徳ちゃん:薔薇座の裏方。若く、左翼グループに近づく。

飛島さん:薔薇座から映画俳優に転身した先輩俳優。

富士監督:映画監督。エミを映画出演に誘う。

長沼敬ちゃん:若い俳優。映画でエミと共演、恋に落ちるが、左翼劇団に入る。

島田トネ:若い映画女優。

草壁父子:大劇場・大都劇場の支配人父子。商業主義。

江上:学生劇団のリーダー。左翼。

牧田さん:学生劇団の若い女優。

山岸康吉:劇団・新生座のリーダー。かつて田島先生のライバル。今新生座を立ち上げ新理論で時代の注目を浴びる。

 

(コメント)(完全ネタバレ)

 「火の鳥」とは、エミが出演する映画の題名であるとともに、我が身を焼き尽くしては再生する女優・生島エミの生き方を込めた言葉だ。通俗小説としてのここの部分は面白い。但しその描き方に、伊藤整の女性観のバイアスがかかっている。性欲(リビドー)のようなものにエミが動かされるシーンがある。これはフロイトの影響を受けたものであるようだ(多くの論者が指摘する)がそれについてはここでは論じない。西鶴『好色一代女』や宇野千代『生きてゆく私』などと比較すれば面白いかも知れない。

 

 エミの男性遍歴を簡単に見ると、まずは若い頃同じ劇団の脚本家の杉山と恋仲だった。戦時に慰問団を杉山が組織したときエミは行動を共にするが、生活苦の中で杉山は荒れ、子供も中絶、二人は別れた。戦後田島先生の下で薔薇座が再出発したときエミは田島の愛人の座に収まった。田島はエミにとって父親、先生、愛人だった。やがて若い長沼敬ちゃん(若い頃の杉山の面影がある)と出会い、立場を省みず思わず衝動に駆られ逃避行をしてしまう。女優としてエミはもうだめかもしれない。だが、周囲の取りなしで田島に許され、劇団に復帰。劇団の分裂の危機に際しても田島の愛情を利用して危機を回避。このときすでに興行的にも成功した大女優になっていた。それでもエミはまた長沼敬ちゃんと再会し立場を忘れて衝動的に動こうとするが・・

 

 エミは、社会システムの中に絡め取られて与えられた役割を生きるしかないと自覚しつつ、そこに収まりきれない自分本来の欲求は何か、を問いながら進んでいった、と言える。

 

 だが、自分本来の欲求など本当は無く、誰かから与えられた役割を果たしているだけでないか? という疑問が、たえずエミに湧き起こる。エミはその都度夢中でやってきたのだが、後で思い返してみたならば、エミが長沼敬ちゃんと愛し合ったことすらも、エミの体を欲望の目で見た富士映画監督の筋書きに沿っただけではなかったか、とエミは疑う。

 

 男性との関係だけではない。社会の中で人間はいやおうなくシステムに絡め取られて生きていることを、エミは知るに至る。この辺はフロイトと違う(はず。フロイトをよく知らない。)

 

 エミは始め杉山と恋仲だったが、戦時生活苦の中で中絶し、杉山と別れる。今でも幼子の泣き声を聞くとつらい。この段階でエミは家庭におさまる幸福を捨てたとも言える。戦時の困窮という特殊な環境の結果だった、とエミは考える。(同僚俳優のお芳さんは家庭がある。)

 

 美しい容姿と幼時から培った演技力で女優として認められ、小劇団・薔薇座での、チェーホフなどの翻訳劇に自分の生きがいを見出してきたのも、イギリス人と日本人との間の子として生まれ、自分のアイデンティティーを探してきた必然の結果かも知れない。

 

 しかも、田島先生の愛人でもあるという立場ゆえ周囲から特別視されていたことに気付く。若い長沼敬ちゃんとのスキャンダルの時も、商業主義的な収益を重視する大劇場の支配人・草壁らの手によって連れ戻された。マスコミの論調は操作され、スキャンダルも含めて商業主義のシステムの中でエミは大女優になってしまう。俳優たちの嫉妬からくる劇団分裂の危機に際しても、田島先生との関係を周囲に見せることで回避する。気がつけば、そこから自由になりたいと思っていた社会秩序の中心に今度は自分が座っていたのだ。

 

 敬ちゃんの方も、気がつくと左翼運動のシステムに組み込まれ使われていた。

 

 社会組織の中で歯車として使われている点では自分も敬ちゃんも同じだ、とエミは思う。(敬ちゃんは、社会の進歩によってそれは違うものになる、と言うが。)

 

 ここでエミは、商業主義のシステムの歯車も、左翼運動のシステムの歯車も、歯車であることに変わりはない、人間は結局社会システムに組み込まれた歯車として生きているのだ、と感じている。どこに人間の自由はあるのか? その問いは問われ続けるであろうが、結局のところ真に自由であることは不可能ということか。(「真の自由」とは何か?)相対的にエミが自由を感じているようなのは、(そこで作者は「自由」という言葉を使っていないが)「八 猿と人」の冒頭で、劇団分裂の危機を回避し、田島先生が軽井沢の家に帰り、敬ちゃんとも別れ、冬の東京で一人静かに過ごすときだと言えようか。エミは他者と離れ一人でいるとき静かな落ち着きを得ている。これは長明や兼好などの閑居に通じるものがあるかもしれない。ただしそれも、前提として、経済的な安定、今後の俳優としての見通しがあるからではある。冬の東京の町を見回しながらエミは考える。人間はそれぞれ自分の利害、誇り、好悪で生きている。エミには人びとのその姿がよく見える。エミはその中で女優として成功し、相対的な安定と自由を得た(八の一最終部)。エミは人間と社会を見切ったかのようだ。小説末尾八の四の説明(自分の衝動も左翼の理論と運動に左右されたに過ぎない、とする)もそれに連動する発想だ。

 

 だが、どうかな。

 

 まず、そもそも人間が社会システムにいやおうなく絡め取られた形で存在していることは、エミに教えられなくても、周知のことだ。(それとも、戦後の新しい個人主義や自由主義が理想を持って語られたときには、エミのような人間観は珍しかったのだろうか?)

 

 また、エミのこの安定、見切りは、永続的なものである保証はどこにもない。エミの気付いていない大前提がある。戦後昭和二十年代後半、社会が安定化し豊かになっていくという大前提があって、映画も大劇場の興行収入も栄える。この大前提が壊れ、社会が再び貧困化すれば(それは2025年の現代において起こっている)、エミの安定は壊れてしまうのだ。杉山と暮らした悲惨な日々と同様の日々が再び来るかも知れない。また劇団薔薇座に再び危機が訪れるかもしれない。エミの容姿容色もいずれ必ず衰える。エミの今の安定は小康状態に過ぎない。それらがガラガラと崩れる日が来る。それに耐えるだけのものの見方を、エミは手に入れていないように私には思える。社会が右肩上がりでなく再び貧困化しても、自分が世の中でやっていけなくなっても、それでもなお生きていけるとする希望、人間を支える理想とは? (左翼思想については本作では少し触れられたのち除外されている。)

 

 エミは人間の嫉妬や利害感覚などのエゴイズムに敏感だ。だがそれですべてを説明した気になるのはどうか? 人間はエゴイズムよりももっと深いところに、他者に共感する本能を持っている。(それは神に与えられたものかも知れない。)エミは気付いていないが、エミ自身も持っている。

 

 温泉郷で敬ちゃんの劇団を見に来た労組の人たちの戦列に思わず参加しようとした衝動を、左翼の理論と運動に仕組まれて踊らされただけだ、とエミは結論づけた(小説末尾、八の四)が、本当はそれだけではなく、警官隊に追い詰められ殴られる必死の組合員たちの姿に動かされたのは、(エミの場合外界に動かされやすい軽はずみな衝動も確かにあるが、)左翼の理論と運動などというレベルのものではなく、本能の奥深いところにある、他者に共感し他者と共に人間として生きていこうとする愛の本能が実は発動した、と解釈することもできるのではないか? エミは(伊藤整は)そこまで考えが及んでいない。人間はエゴの塊だ、左翼理論もごまかしだ、でエミは(伊藤は)止まっている。だが、左翼理論であろうと右翼理論であろうと、理論がつねに不十分であることは自明のこととして、その根底には、自分や他人を何とかしたい、社会を何とかしたい、という利他的な愛の本能が発動している、だからこそ何らかの理論の構築に向かったのだ、と言うことも出来るはずだ。私はそう考える。

 

 このことはエミ(伊藤)の考えの及ぶところではなかった。なぜか。大きく飛躍するが、それは、伊藤に神信仰(仏教や天への信仰が、と言ってもよい)がなかったからではあるまいか。「神」という言葉は「六 渦巻」の二のラストに出てくる(「この世の中全体をも貫いているような神というもの」)。そこから離れて世間的な表面を演技でつくろって生きていくことの虚しさを予感したシーンだ。ここにこだわりここを掘り下げればよかったかもしれない。だが、そこまでだった。それ以上問題を掘り下げることはしていない。神信仰を知れば、神が人間に与えた良心、また他を愛する人びとがこの世に多く実在したことを知る。(天と性善・良知良能、惻隠・仁愛の関係、また仏と慈悲の心と利他行の関係も同様。)これを無神論的な科学の言葉で語れば、利他的な愛の本能、とでも呼ぶものになる。(よく知らないがフロイトは無神論者? ジョイスやプルーストはどうだったのか?)私は伊藤の作品をわずかしか読んでいないが、そのわずかの作品のなかでも、神や仏や天を扱ったところは、ないか、少なくとも私の目に入っていない。神や仏や天への追究の甘い作家、それゆえ愛や理想を語れないまま終わっている、というのが私の結論だ。同じ北海道関連でも、新渡戸稲造内村鑑三を読む方がいい、と結論づけよう。

 

*『近代日本における「愛」の虚偽』で伊藤は、日本には西洋のような絶対者がいないから「愛」は不可能、孔子は「礼」という節度によって上下の秩序の安定を予定した、孔子はリアリストだ、と言ってしまっている。孟子が性善・良知良能を唱え積極的な行為に出たことを伊藤は忘れている。陽明学を奉じた大塩平八郎吉田松陰グループは(是非はともあれ)蜂起し渋沢栄一は私財を投じて医療や福祉事業に関わった。また宮沢賢治のような法華経の行者は極めて積極的に動いた。大本教も世の中の立て替え、立て直しを唱えた。田中康夫も神戸の震災でボランティアになった。震災などがあるたびに利他的なボランティアが多数出現する。日本人にも利他的なすごい人はいるのだ。伊藤の日本人論は不十分である