James Setouchi

2025.2.26

  伊藤整『青春』

 

1 著者 伊藤整:1905年(明治38年)北海道松前郡に生まれる。父は軍人、教師。姉弟妹多数。小樽市塩谷町に育つ。小樽中学校で詩に出逢う。小樽高等商業学校の1年年上に小林多喜二がいた。小樽中学の教諭を経て昭和3年(1928年)上京、東京商科大学(現在の一橋大学)に学びつつ文芸批評を行う。昭和6年大学を退学。批評や創作を発表。昭和7年『生物祭』、昭和10年日大芸術科講師となる(~昭和19年)、『馬喰の果て』、『チャタレイ夫人の恋人』翻訳(検閲後で刊行できた)、昭和13年『青春』、昭和20年一時北海道に疎開、昭和21年再上京、昭和24年早大講師、昭和25年『生きる恐れ』、『チャタレイ夫人の恋人』検察庁に押収、起訴される。昭和26年から裁判。昭和27年『火の鳥』、昭和29年『海の見える町』『雪の来るとき』、昭和33年東京工大教授、昭和36年コロンビア大学、ミシガン大学で講義、昭和40年日本近代文学館理事長となる。昭和42年芸術院賞。昭和44年死去(64才)。

 

2 『青春』昭和13年(1938年)33才で書き下ろし

 伊藤整は大正11~14年(1922~1925年)小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)に学んだ。その時期を題材にした青春小説。書いたのは昭和13年(1938年)で33才のときだから、13年前を振り返って書いたことになる。舞台は小樽を思わせる港町。学校は商業ではなく本作では工業学校になっている。この本はよく売れた。

 

(登場人物)

神津信彦:20才。高等工業学校の学生。友人や女性に囲まれ、自分の青春の思いと世間の規矩との矛盾を感じている。

細谷教授:工芸美術史(?)の教授。神津ら学生が集まってくる。

美耶子:23才。細谷教授の妹。美しい。神津はその前で心が乱される。

庄司:大学の万年助手。美耶子に好意を抱いている。自動距離計の開発に励んでいる。

沖:23、4才。画家。細谷教授の邸に出入りする。モデルの百枝との関係で苦しむ。

武光:神津の友人。大柄なスキー(ジャンプ)の選手。専攻は物理。菓子製造業者の子。

藤山:神津の友人。秀才で饒舌。退職官吏の子。

辻さよ子:神津の隣に越してきた純真な女学生。16才。

梅田きよ:さよ子の姉。30才くらい。芸者。

ウラジミル:亡命ロシア人。喫茶店サモワァル経営。妻が逃げて苦しんでいる。

百枝:喫茶店サモワァルの店員。沖と関係する。

 

(コメント)(ネタバレあり)

 神津は美しい年上の美耶子に心乱されるが、現実にはその関係は発展しないとわかっている。年齢の相違、助手の庄司の存在、卒業後は大学に3年間進学するつもり、田舎町の風評の厳しい枠、細谷教授の思惑、隣室のさよ子との関係などがあるためだ。だが神津は世間の規矩はそうではあるが、それでも内面のロマンチックな青春の夢想に心乱される。何かしらそういう青春があってもいいのではないかと思い続ける。

 

 友人のは、ヌードモデルになって貰った百枝と関係し、悩む。百枝は店主のウラジミルにも無理矢理関係を持たされ、ウラジミルから逃げて沖に助けて貰いたい。沖は百枝の生活のために金が入り用だ。現実に女性と生活をするためには、自分のやりたい画業を後回しにして金を稼ぐことだ。自分は疚(やま)しさにまみれてしまった、と沖は言う。

 

 このように、神津と美耶子、沖と百枝という二組の男女関係が出てくるが、3才年長で芸術と現実生活の挟間に引き裂かれる沖の姿は、20才で青春のフワフワした夢想を抱きつつこれからの人生の選択を予感している神津に、現実を思い知らせる、という形になっている。

 

 美耶子は名古屋に実家があるがそこには継母が居て帰りたくない。百枝もウラジミルの店にいられず居場所がない。居場所のない女性が二人描かれている。

 

 女学生・さよ子は生き生きとしている。清らかで善良な少女としてさよ子は学生たちの前に現われる。ただしその姉は週に一度外泊をする生活をするようになる。姉について誇りに思っていたさよ子も心に屈折が入り込む。あと数年経てばさよ子も居場所のない女性になる危険性がある。

 

 女性に注目して読むと、三人とも危ない場所に立っている。しかもこの町には売春窟がある。貧しい女性が大勢そこで働いている。伊藤整は意図的に書き込んでいるのか? だが、本作ではその問題意識は掘り下げられない。学生たちはそこで立ち止まって人間や社会のあり方を厳しく考え詰めることはしない。

 

 沖は百枝との関係で最も苦しんだ一人だが、作品はさよ子の善良さを沖がほめる、という結末で終わろうとする。問題は何も解決していない、すべてはこれから始まる。だが、「まっすぐにぶっつかるという気持ちだけはなくしないでいるんだな。それさえあればだいじょうぶだ。」と沖は言う。

 

 神津の、青春の(恋愛の入口の、というべきか)ドキドキする心理を多く書いている。他に、

・人間は結局人間世界の付き合い方の規矩のようなものに従うしかないのか、

・その大人の規矩の中に居れば安全だが青春の情熱はともすればそれを打ち破ろうとする、

・外国人と日本人では付き合い方の規矩(習慣、文化)が違う、

などの問題が提出される。自分の内的情熱と世間の規矩との間でどう折り合いをつけて生きればいいか、迷い考える青春期にはよくある悩みと言える。

 

  伊藤整を何作かしか読んでいないが、彼の作品には神や仏や天が出てこない自分の本能、情熱のようなものと世間の規矩との対立・葛藤は出てくるが、神仏や天が出てこない。だから、世間の目を欺けば(人間が黙っていれば)規範を踏み越えることはできてしまうのではないか? ドストエフスキーがラスコーリニコフの「踏み越え」についてあれほど深刻に騒いだのは、いつも神の存在があるからだ。神はいないかもしれない、とすればどうなる? という問いも含めて、ドストエフスキーは、必ず神の問題を問い、神の前の自分を問う。内村鑑三や有島武郎は神の前に一人立つことの厳しさ(と恩恵)を知っている。法然上人・親鸞聖人は阿弥陀如来の名を呼ぶ。孔子も天の問いかけに応える。伊藤整はそうではない。伊藤においては、聖なる神仏や天はない。伊藤において聖化・神聖化されているのは、むしろ世間の規矩ではない自己の生命・情熱・本能だ彼は無神論者なのか? 自分の内なる生命・本能・情熱(女性に対する性的欲望を含む)を、彼は結局絶対善として肯定してしまっているのではないか? だから世間の規矩がうるさく感じられているだけであって、社会のあり方に対する根本的問いかけにも至らないのも同じ理由ではないか? 自己自身のあり方、社会のあり方に対する根本的批判、懐疑が、甘いのではないか? そんな風に感じたが、どうだろうか?

 言い直すと、伊藤の場合は、自分の大切な生命・本能・情熱のようなものVS世間の規矩のようなもの の二項対立しかない。ゆえに世間の規矩がうるさく感じられる。世間の規矩にしたがっているふりさえしていれば生きていける、と考え、バレなければ女たらしをしてもいい、となる。有島や内村の場合はそうはいかない。自分と社会と神、という三項がある。神は全てを知っている。ごまかしようがない。世間の目は欺けても、神の目は欺けないのだ。また、神は人間の社会(国家権力を含む)を相対化する。腐敗したバビロンは倒れ、堕落したエルサレムは破壊され、永遠と見えたローマも滅ぶ。それでも神の栄光は輝く。だから内村は、拝金主義に陥った明治の帝国に対する根源的批判者たり得た。法然や親鸞においても、誰にばれようがばれるまいが、業は業として積み上げてしまい因果の法則も明確に存在することは、仏の目には明かだ。当時堕落した僧侶は大勢居たが、法然や親鸞は彼らよりも潔癖だったのだ。だから他力信心となる。どうですか?(念のため、私は在家の一信者であって、浄土宗や浄土真宗の教学を代表する立場ではありません。宗門のプロの方が見られたら表現が少し至らないかも知れません。念のためお断りしておきます。)

 

 なお、本作の、友人や女性を前にして細々と考える心理描写は、私には面倒くさかった。自分は本心とは別にこのように振る舞った、それで彼は私をこう理解しただろう、彼はこう言ったが、本心はどこにあるのか、などなど。これが延々と繰り返される。恋愛で懐疑的になっているときにはそういうこともあるかもしれませんね。でも、ああ、めんどうです。すべて煩悩です。ごちゃごちゃ言わずにお念仏でも唱えたらどうですか? と言いたくなった。でも20才くらいの人が読めば感情移入できるかも知れない。伊藤整自身は執筆時33才で、恐らく青春の煩悶から抜け出した頃にこれを書いている。(自分を相手にどう見せて相手をどう動かすか、というのは、演技をしているということだ。神がすべてを見ておられる、のではなく、自分の本心を隠してウソをついてかまわない、と思ってやっているのだ。伊藤にその厳しい自己省察があるかどうか?)

 

 女性蔑視とロシア人への偏見を指摘している人があったが、それはその通りだ。

 

 本作発表時の時局は、昭和13年=1938年と言えば、すでに日中全面戦争を始めており、太平洋戦争開始まであと3年だ。また、作者自身の年代記に即すれば、大正14年=1925年は関東大震災直後であっって、第1次・第2次戦間期で、大正デモクラシー関係始め書こうと思えば書くべき「時局」はいくらでもあった。が、伊藤整はそれら「時局」の話題をほぼ消去する。亡命ロシア人ウラジミルの問題は本当は深刻だが、日本人とロシア人の比較の問題に終始する。百枝やさよ子の姉・かよが陥る問題も実は深刻で、売春窟の描写も含めて、当時の社会の貧富の格差をチラとは書き込んでいるが、伊藤整はそれ以上は深く掘り下げない。フワフワした学生たちが甘い、と意図的に造形しているのか、伊藤整がそもそも甘いのか。

 学究として将来が不安定な庄司。画家としてやっていけない沖。年長の者はそれぞれに実社会の壁にあたる。神津もいずれ選択を迫られる。だが本作の中心は、神津信彦のフワフワとした物思いだ。情熱、本能からくる(?)憧れと、しかしそうは問屋が遅さない世間の規矩との間で、フワフワと悩む、もうすぐ実社会と折り合いをつけないといけない、でもまだ何も持っていない、世間の枠におさまりたくはない、でも枠に収まって生きるほかない、将来への期待と不安を抱きながらフワフワと漂う、こういうのが青春時代というものだ、と書いている。『雪の来るとき』も同時期を扱った自伝的小説だが、文学(詩)に比重が置かれている。本作は工業学校で、理系の技術屋が出てくる。

 

 青春小説と言えば

 二十才くらいの学生が主人公の小説と言えば・・

   (当ブログ「各種読書案内」の「十代が主人公の小説」も参照)

 

夏目漱石『三四郎』は日露戦争後の本郷の東大の青春。

夏目漱石『こころ』の若い「私」は明治45年の東京帝大生。「先生」と「K」は明治

 30年頃の東京帝大生。

森鴎外『青年』も同様。(『舞姫』も青春文学ではある。)

島崎藤村『春』『桜の実の熟するとき』は北村透谷、島崎藤村の青春。

田山花袋『田舎教師』は北関東(行田)の青春。

 

 加えて、

有島武郎『星座』は札幌農学校の青春群像。

埴谷雄高『死霊』も理屈っぽい旧制高校生の青春文学ではある。

石坂洋次郎『海を見に行く』の「私」は大正末年の慶応の学生で学生結婚している。

伊藤整『青春』は大正末期の小樽らしき町の学生たちの青春。

田中英光『オリンポスの果実』は、1932(昭和7)年のロス五輪に参加する早大 

 のボート選手。

北杜夫『どくとるマンボウ青春記』は旧制松本高校での青春。結構面白い。

『きけわだつみのこえ』は学徒出陣した若者たちの手記。

早坂暁『ダウンタウン・ヒーローズ』『東京パラダイス』は戦後松山から東京へ。賑

 やかで面白い。戦争が終わってよかった。

三島由紀夫『青の時代』は現役東大生が屈折し犯罪に手を染める。戦後。

畑正憲『ムツゴロウの青春記』は九州の日田から東京へ。戦後。中学生にも読める。

大江健三郎『遅れてきた青年』は東京。上昇志向の東大法学部生の屈折。大江さんに

 は東大本郷ものがいくつかある。

石坂洋次郎『陽のあたる坂道』は国文科3年の女性が主人公。ハンサムな医学生と問 

 題児の絵描きの卵にはさまれ・・

柴田翔『されどわれらが日々』は左翼学生の苦悩を描く。

石川達三『青春の蹉跌(さてつ)』の主人公も大学生。

村上春樹『ノルウェイの森』は東京の大学生。村上の初期短篇にも東京の大学生の出

 てくるものは多い。

田中康夫『なんとなく、クリスタル』は1980年ころの東京の大学生。田中康夫は 一橋の学生だった。

 

スタンダール『赤と黒』:ジュリアン・ソレルは上昇志向の青年。

ドストエフスキー『罪と罰』:ラスコーリニコフは「もと学生」。「考えること」を

 している。

ドライサー『アメリカの悲劇』:主人公はたしか二十代くらいだったような・・

ノーマン・メイラー『裸者と死者』:太平洋戦争のアメリカ軍兵士の青春群像ではあ

 る。

中島敦(あつし)『山月記(さんげつき)』:李徵(りちょう)は二十代で虎になっ

 たのだろう。