James Setouchi
2025.2.24
伊藤整『生物祭』『馬喰の果て』
1 著者 伊藤整:1905年(明治38年)北海道松前郡に生まれる。父は軍人、教師。姉弟妹多数。小樽市塩谷町に育つ。小樽中学校で詩に出逢う。小樽高等商業学校の1年年上に小林多喜二がいた。小樽中学の教諭を経て昭和3年(1928年)、東京商科大学(現在の一橋大学)に学びつつ文芸批評を行う。昭和6年大学を退学。批評や創作を発表。昭和7年『生物祭』、昭和10年日大芸術科講師となる(~昭和19年)、『馬喰の果て』、『チャタレイ夫人の恋人』翻訳(検閲後で刊行できた)、昭和13年『青春』、昭和20年一時北海道に疎開、昭和21年再上京、昭和24年早大講師、昭和25年『生きる恐れ』、『チャタレイ夫人の恋人』検察庁に押収、起訴される。昭和26年から裁判。昭和27年『火の鳥』、昭和29年『海の見える町』『雪の来るとき』、昭和33年東京工大教授、昭和36年コロンビア大学、ミシガン大学で講義、昭和40年日本近代文学館理事長となる。昭和42年芸術院賞。昭和44年死去(64才)。
2 『生物祭』 昭和7年(1932年)27才で発表
(あらすじ)
父は死の床にある。「私」は秀才で東京の学校に行っている。弟が実家に居る。李が咲いている。「私」は蛇を殺す。看護婦たちが忍び笑いをする。八重桜が咲いている。父は死にかかっている。鶯が鳴く。父は咳をしている。「私」は否応なく父と同じく、肉体の敗北感と精神の卑屈さを持っている。「父の生涯につきまとったと同じ躓きが、屈服が、妥協とごまかしが、無限に私の生活を待っている。」「遅い春の緑」が「吐き出す息づまるような酸素が谷底の町のほうへ重々しく停滞して、そえにたえぬものは死なねばならないようであった。」
(コメント)
各種レビューを読むと、随分絶賛されている。が、私には、ぴんとこなかった。胸が苦しくなり息が詰まりそうになる小説だった。父の死に際して「私」の感じたことが書いてある。その時の心理を書いてあるだけだ。春の生物祭とも言うべき生命の盛んに燃えさかる中で父は死んでいく。その父を継承してしまっている惨めな自分がいる。自分はどういいか分からない。そういう内容に感じた。
3 『馬喰の果て』昭和10年(1935年)30才で発表
(あらすじ)(ネタバレ)
舞台は北海道の漁村。
準平は流れ者の馬喰(標準語を使う)だが漁師の手伝いもしている。喧嘩になると体で負けても決して負けたと言わず執念深く相手を追い詰めるので周囲から気持ち悪がられている。組合運動などではなぜか一目置かれている。
準平は久保山の親方に馬を売りつけた。馬を売りつけるときは筋金入りの馬喰の姿を見せる。久保山の親方は思わず準平の言うことにしたがってしまう。
金持ちの高沢の女房のお園は、自分関係した男たちが必ず没落する、という運命を信じていた。お園は準平とも関係を持ってしまっていた。やがて準平が時化に遭い船が転覆する。他の者は死んだ。準平も死ぬだろう。お園は運命の力を信じている。だが、準平は生きていた。お園は、「運命に裏切られた以上は、これからは事が単純に運ばないのを覚悟しなければならない」と思う。
(コメント)
準平は、有島武郎『カインの末裔』の仁左衛門を連想させる。比較すると面白いかもしれない。だが(作家の生き方から逆算してしまっているかもしれないが)有島にはいつも潔癖な倫理性がつきまとい、そこからくる根本的懐疑(自己否定)(少なくとも大きな振幅)があるように感じるが、伊藤整にはそれはなく、準平は暗い本能や運命のようなものに突き動かされ、作家もそれを根本的に懐疑(自己否定)していない、むしろ肯定しているように感じる。両者の差異は、神信仰の経験の有無から来るのだろうか?
私には、お園の「運命の力」のところが印象深かった。お園に繰り返されてきたジンクスのようなものが、準平のもつ暗い力には通用しなかった。これからどうなるのか。準平の女房・妙も含めて、四角関係になる。一種のホラーだ。これは暗黒ホラー小説として伊藤整は書いたのか? 準平は人間世界の倫理を脅かすある種の暗黒の力を持った存在、というわけか。そうか、それならはじめからエンタメ、と言ってくれればよかったのに。
だが、悪漢(ピカレスク小説)で有名なものの多くは、悪漢が実はもっと大きな社会悪に立ち向かうヒーローだったりする。対して本作の準平は社会悪に立ち向かったりしない。馬を売りつけ女房を苦しめ人の妻に手を出すだけの存在だ。やっていることが小さい。小さいから許されるわけではない。その近辺では十分に人倫の破壊者だから、迷惑千万な存在だ。厳しい倫理観を持った作者なら、これでいいのか? という問いを持つはずだが、本作は、準平の持つ不思議な力に負けるのは仕方がないかのような書きかたになっている、そこに作者の言い訳(自己弁護)があるような気がする。法然上人や親鸞聖人ならもっと厳しい自己省察があって、信仰へと反転するだろう。どうかな?
ピカレスク小説(「ピカレスク」とは「悪漢」)と言えば、
・芥川龍之介『羅生門』を誰でも知っている。主人公の下人はまだ16才くらいで(にきびがあるから)、盗賊としてまさに生まれ変わるその瞬間を描いている。
・三島由紀夫『青の時代』は、戦後現役東大法学部生が起こした光クラブ事件を題材にしている。三島独特のキャラクター設定がある。
・デュマ『モンテ・クリスト伯』は長編。おもしろい。エンタメ。世の中にはびこる世間的には支配者になっているが実は悪人、という連中を、モンテ・クリスト伯がやっつける。つまり本当の悪人はあっちだった、というわけで、モンテ・クリスト伯は一件悪人に見えて実は悪を倒す正義だった、となる。
・ドストエフスキー『罪と罰』のラスコーニコフは、アンチ・クリストの刻印を持っている。帝政ロシアの都ペテルブルクで、ラスコーリニコフは、西洋化・近代化したロシア正教の世界のいつわりを暴く宿命を負っているとも読める。また、『カラマーゾフの兄弟』のイワンやスメルジャコフはどうですか。
・マーク・トゥエイン『ハックルベリー・フィンの冒険』では、悪童のフィンが大人たちの悪を暴いていく。
・中国の『水滸伝』(施耐庵?、羅貫中?)は、反政府の悪漢108人が梁山泊に集結する話。政府から見ると悪漢だが、物語では好漢、英雄として描かれている。エンタメ。