James Setouchi

2025.2.21

 

読書会 清少納言『枕草子』R7.4.19(土)予定

その4

 

内容(3)      102「中納言まゐり給ひて」(日記的章段)

 

(登場人物)

中納言藤原隆家(たかいえ)。中関白・藤原道隆(みちたか)の次男。長男が伊周(これちか)、次男が隆家。隆家は16歳の時995年4月に権中納言(ごんのちゅうなごごん)。6月に中納言になった。左遷(させん)され京に戻って1002年に23才で権中納言になった。このエピソードがいつのことかは不明だが、内容の明るさから、左遷よりも前で、隆家がまだ16歳だった時のことでは? 中宮定子の弟。

清少納言:995年だとすると29歳くらい。

中宮定子:995年だとすると20才くらい。

 

(エピソード)

 中宮定子のサロンに隆家がやってきて中宮に献上して「扇の骨の素晴らしいものを入手しました」と言う。定子が「どのような骨か」と問うた。隆家が「まだ見たことがない骨です」と言う。そこで清少納言が「それでは、クラゲの骨ですね」と言うと、隆家は「(うまいこと言いますね。)私の言った言葉にしてしまおう」と言って笑った。・・このようなことは「かたはらいたき」ことのようだが、「一つも書き落とすな」ということなので、どうしようもない、(、書くしかない)。

 

(コメント)

・扇:奈良時代にはウチワ型の翳(さしば)が中国から伝来。平安時代には木簡を束ねた檜扇(ひおうぎ)ができた。男性貴族が略式の笏(しゃく)として使用、メモ代わりにも使った。翳(さしば)の扇面に絵を描いて装飾的になると宮中の女性に普及、装飾品であり顔を隠す道具としても用いた。袙扇(あこめおうぎ)と言う。和歌を書き花を添えて贈答にも使った。蝙蝠扇(かわほりおうぎ)は片面に紙を張り付けた紙扇。扇子は鎌倉時代以降中国に輸出、中国で両面に貼ったものができ唐扇として日本に逆輸入。これが今の扇子。武将は戦場で鉄扇を使った。貴族・神職だけのものだった扇子は鎌倉・室町を通じて庶民にも浸透、能、茶道、舞踊(ぶよう)などにも使うようになった。大航海時代に中国を通じてヨーロッパに輸出、17世紀パリには扇子屋が150軒あったとか。パリの上流階級が使った。日本の庶民が扇(あお)いで涼(りょう)を取るのが普及したのは江戸後期から。(株式会社大広の扇DAIKOというサイトから。)ここは、蝙蝠扇になろうか。NHK『光る君へ』では道長がまひろに扇を贈った。紙が貼(は)ってあり美しい絵が描いてあった。あのタイプということだろう。

 

・扇の骨:扇子の骨の部分。上の説明だと、蝙蝠扇の骨の部分ということになろう。竹や木を使うようだ。扇の素晴らしい骨を得た、これによい紙を貼らせるつもりだ、と隆家は言った。

 

くらげ:「天平18年(746年)の旧暦9月に、備前国から奈良朝廷へクラゲが送られたと記録されている。酒の肴(さかな)か、それともご飯の友だったか。いずれにせよ、好もしいものだっのだろう。「水母」や「海月」といった風流な漢字を当てている。平安時代には、宮中の行事食にも用いられており、「四角に切って酒で洗い、鰹を酒に浸(ひた)した汁と生姜酢(しょうがず)を和(あ)えて食す」と料理法も残っている。武士の時代は、宴席(えんせき)を彩(いろど)る珍味だった。」(柴田書店FOOD LABO「日本の伝統食品 くらげ(福岡県・柳川)」から)

 

・この段は敬語と人間関係に注意。

 

・隆家が「見たこともない骨だ」と言ったので、清少納言が「見たこともないのならクラゲの骨ですね」と機知を利(き)かせて冗談を言った。隆家は「うまい! もらった!」と言った。

 

中宮定子のサロンで中納言と定子と清少納言が仲良く冗談を言っている。明るい雰囲気。

 

・「このようなことは・・」以下の意味は。清少納言の自慢話のようでもあるので『枕草子』に書きとめるのは、側で見ていたら苦々しいかも知れないが、当時のことをすべて書きとめておけと言われたから、書くしかない。・・これが一般的な理解。

だが、本当か?

 

誰に「書け」と言われたのか? 『枕草子』の草稿を見た誰か(敬語を使ってないから、同僚の女房?)が、「もっと書け、書き落とすな」と言ったのか

 

清少納言はいつ書いているのか? すべて終わった後で回想して書いているかもしれない。

 

「くらげの骨」は長生きすれば見られるかも知れない奇蹟・幸運の意味の成句であり、定子が皇子を懐妊または出産した直後で、皇子の将来を<予祝>した発言だ、「またこの章段末尾の部分は、この章段の執筆によって、そのような<予祝>にも関わらず若くして亡くなってしまった定子、結局皇位には就けない皇子・敦康(あつやす)親王の悲運を読者に再確認させてしまうことに対する「言い訳」と考える。」と松本昭彦は言う。(「『枕草子』「中納言まゐりたまひて」段試考―「海月の骨」の意味と「言い訳」の意図―」三重大学教育学部研究紀要 第67巻 人文科学 (2016))。くらげは「海月」と書き、「生み月」でもある。珍しい扇の骨をどこから得たのか? 中関白家が交易(こうえき)を通じて得た? 実際には皇子は即位しないままで終わった。これらを考え合わせることができる、と松本氏は言われる。(この論文は面白い。

 

・とすると、「このような自賛めいたことは」ではなく、「このように中宮定子と皇子の悲劇を連想させることは」とも解釈できる。悲劇(原因は道長派の圧迫)は、清少納言の執筆時=すでに道長派に圧倒されてしまった現在、道長一派の手前、あからさまには書けない。そこに清少納言の屈折を読むのは、深読みに過ぎるだろうか? 国文の方、いかがですか?