James Setouchi
2025.2.20
読書会資料『枕草子』(清少納言) 令和7年4月19日(土)9時半~(予定)
その1 清少納言を取り巻く人びと
1 著者 清少納言 966?~1025? 没後千年?
平安中期の女性。本名不明。清原諾子(なぎこ)という説がある。近親者に少納言がいたはずで、それで清少納言と呼ばれたのだろうと言われている。
清原氏は名門。天武天皇の皇子・舎人(とねり)親王の子孫という。曾祖父(そうそふ)は清原深養父(ふかやぶ)。父は清原元輔(もとすけ)。彼らは著名な学者で歌人だった。
父親・元輔は高名な学者で歌人(梨壺(なしつぼ)の五人=村上天皇の和歌所寄人(よりうど)=の一人)だが、世俗的には受領(ずりょう)階級。周防(すおう)守(山口)、肥後(ひご)守(熊本)になる。一夫多妻で複数の子が居るがさほど出世していない。990年没。
「ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは」百人一首42
姉の一人(多分異母姉)は、藤原道綱母(『蜻蛉(かげろう)日記』)の兄弟と結婚した。つまり、清少納言は道綱母と義理の姉妹。
兄は清原致信(むねのぶ)と言って大宰少監(だざいのしょうげん)になった。また藤原保昌(やすまさ。藤原道長に仕えた武人)の郎党(ろうとう、ろうどう))でもあった。後年源頼近一派に殺害された(『御堂関白記』)。つまり武人。
弟に戒秀(かいしゅう)という僧がいる。花山天皇に近かった。「春ごとに 心をそらに なすものは 雲ゐに見ゆる 櫻(さくら)なりけり」(詞花集・26番)
一人目の夫は橘則光(のりみつ)。橘氏も名門で橘諸兄(もろえ)・奈良麻呂の子孫。「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と称されるが、この頃は振るわず、下級貴族で受領階級で武人。陸奥守(東北)になった。盗人を斬り殺した話がある(『今昔』23-15、『宇治拾遺(うじしゅうい)』11-8)。「われ獨 いそぐと思ひし 東路に 垣根の梅は さきだちにけり」金葉集 巻6 371
彼との子どもは橘則長(のりなが)で、越中守(富山)になる。「置く露に たわむ枝だに ある物を 如何(いか)でか折らん 宿の秋萩(あきはぎ)」後拾遺301
また清少納言は藤原棟世(むねよ。藤原南家で、あまり出世しない。二十年くらい年上)と986年頃再婚したと言われる。棟世も受領階級で、摂津(せっつ)守(神戸の辺り)になった。
二人の間に小馬命婦(こまのみょうぶ)という娘ができた。(田辺聖子『むかし、あけぼの』では小馬命婦は棟世の連れ子となっている。)小馬命婦は、一条天皇の中宮・彰子(上東門院)に仕えた。歌人でもある。
「その色の 草ともみえず 枯れにしを いかに言ひてか 今日はかくべき」
後拾遺集908
「露の身の 消えばわれこそ 先立(さきだ)ため おくれん物か 森の下草」
新古今和歌集 巻第18 雑歌下 1737
藤原実方(960~999)(藤原北家)(すごいプレーボーイで、光源氏のモデルの一人)とも恋人だった、または結婚していた。「かくとだに えやは伊吹(いぶき)の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」百人一首51
清少納言は993年、一条天皇の中宮である定子に出仕した。定子は18才、清少納言は27才くらい。
中宮定子の父は、中の関白・藤原道隆。兄は、伊周(これちか)、隆家。
中宮定子の妹弟は、原子(もとこ。三条天皇の妃)、御匣殿(みくしげどの)別当(べっとう)、小松僧都(そうず)隆円ら。
中宮定子の子は、脩子(しゅうし)内親王(未婚のまま過ごした)、敦康(あつやす)親王(一条天皇の中宮・彰子に育てられたが結局皇太子にならずに過ごした)、媄子(びし)内親王(生まれたときに定子は死去。本人は7才で死去)。
清少納言が出仕したとき、中宮定子はまさに後宮(こうきゅう)の中心だった。定子は、村上天皇の宣耀殿(せんようでん)の女御(芳子)の後宮の文化的サロンに憧れ、自分の時代にもそれを取り戻したいと考えていたようだ。そのためにも才知ある清少納言を呼んだ。
中宮定子の御殿は基本的には登華殿(とうかでん)。(のちには転々とするが・・。)清少納言はその廂(ひさし)部屋にいて、定子の部屋に呼ばれて活躍した。その様子は『枕草子』に書いてある。清少納言は漢詩文の教養の裏打ちを持ち、当意即妙の会話が上手だったようだ。(紫式部とはタイプが違う。)
実際には疫病(えきびょう)が流行ったり地方が乱れたりしていたが、宮中の定子のサロンは明るく華やかなものだった(と清少納言は描く)。
中宮定子の父・藤原道隆の没(995)後、権力は、道兼、道長に移行し、伊周・隆家・定子のファミリーは没落していき、やがて中宮定子は死去(1000年)。
清少納言はその後まもなく宮仕えをやめた。その後の確実な資料はない。
夫・棟世の任国・摂津(神戸辺り)に下って『枕草子』を書き続けた、などと田辺聖子『むかし、あけぼの』ではしている。父・清原元輔の旧居に隠れ住んだとも言われる。赤染衛門(あかぞめえもん)や和泉式部(いずみしきぶ)とのやりとりもあったとか。
説話ではいろいろある。真偽不明。
・鎌倉始めの『無名草子』(1200頃)には、「・・乳母の子なりける者に具して、遥かなる田舎にまかりて住みけるに、襖などいふもの干しに外に出づとて、『昔の直衣姿こそ忘られね。』と独りごちけるを見侍りければ、あやしの衣着て、つづりといふもの帽子にして侍りけるこそ、いとあはれなれ。まことに、いかに昔恋しかりけむ。」
・鎌倉時代の説話集『古事談(こじだん)』(1210年代か)第2臣節56:「清少納言零落之後、若殿上人アマタ同車、彼ノ宅ノ前ヲ渡ル間、宅ノ體破壊シタルヲミテ、少納言無下ニコソ成ニケレト車中ニ云フヲ聞キテ、本自棧敷ニ立タリケルガ、簾ヲ掻上ゲ鬼ノ如キ形ノ女法師顔ヲ指シ出シト云々 駿馬之骨ヲバ買ハズヤアリシト云々」
・『古事談』156では、兄の致信が賊に襲われ殺されたとき一緒に居たが辛うじて助かった。
・これらは、美女で優秀な女性は年老いてから没落する、という当時の説話のパターンを踏まえているだけであって、事実である確証はない。
(旺文社の古典解釈シリーズ『文法全解 枕草子』(安西迪夫(みちお))他を参照した。)
清少納言は歌も詠んだ。一つだけ挙げると
「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂(あふさか)の 関はゆるさじ」百人一首62
(藤原行成と交わしたとされる。孟嘗君(もうしょうくん)の函谷関(かんこくかん)の「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」の故事を踏まえる。藤原行成は能書家。)
家集『清少納言集』は後人が編集したもの。
2 『枕草子』
・一部は996頃までに書かれ流布したが書としての成立は1001頃。以後も加筆・増補。
・約300章段。
・類聚(るいじゅう)(類想)的章段(ものづくし)、日記的(回想的)章段、随想的章段があると言われる。
(1) 類聚的章段:「ものはづけ」とも。「山は」「鳥は」「にくきもの」「あてなるもの」なお。全体の半数。体言止め、連体形止めが多い。
(2) 日記的章段:サロンの人びととの交流を描く。長文が多い。自賛譚が多い。
(3) 随想的章段:「春はあけぼの」「月のおとあかきに」など。
・全体として、中宮定子のサロンの明るく華やかな雰囲気を伝える。暗く不遇だった面は描いていない。定子への憧れ、自賛、鋭い感性で捉えた日常の事物などが描かれている。
・「をかし」の文学と言われる。(『源氏』は「あはれ」の文学。)知的で洗練された雰囲気。
・人びとはよく「笑う」。(『源氏』の人びとはよく「泣く」。)