James Setouchi

2025.2.17

 

芥川賞 鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』

        2024年(令和6年)下半期第172回芥川賞受賞

  併せて芥川賞二作の比較

 

1    鈴木結生(ゆうい):2001年生まれ。福島県郡山出身。(生まれは福岡だそうだ。)小学生時代に東日本大震災を経験。西南学院大学の院生(専門はシェイクスピア)。年間1000冊本を読むそうだ。ドストエフスキーやヘッセが好き。ラブレーやボルヘスも読む。小説を書くためにトルストイやゲーテも読んだ。『人にはどれほどの本がいるか』で林芙美子(ふみこ)賞佳作。父は牧師(プロテスタント)で本人も子どもの頃から聖書を読んできた。。(『文言春秋』R7.2月号の本人インタビューおよびスポーツ報知のR7.2.10の記事ほかを参考にした。)

 

2 『ゲーテはすべてを言った』 簡単な紹介

 大きなフレームとしては、語り手「私」が、義父・博把統一(ひろばとういち)から聞いた話を、統一を主人公とする三人称小説にする、というものだ。三人称小説の中では、統一とその妻・義子(あきこ)とその娘・徳歌(のりか)および義子の父・芸亭學(うんていまなぶ)やその周辺の人の関係が描かれる。舞台は2024年までの東京、仙台、ドイツなど。そこにもう一人重要な人物が関わるが、それはネタバレになるので、後ほど・・

 「私」の岳父・芸亭學は、ゲーテ学者。「ゲーテはすべてを言った」という題だが、「愛はすべてを混淆(こんこう)せず、渾然(こんぜん)となす」という名言を果たして本当に言ったかどうか、を追求する形で三人称小説は進む。

 大学の文学部の研究室の雰囲気がある。ゲーテはもちろんバッハなどドイツの文化の香りがする。

 あとはまたのちほど。

 

3 登場人物 なるべくネタバレしないように

「私」:語り手。岳父の博把統一とともにフランクフルトへ。そこで統一の過去の一件を聞き取り、小説に書くことになる。

博把統一:ゲーテ学者。ゲーテを尊敬し夢に見るほど。『ゲーテの夢』など実績多数。東京の三田(みた)に家がある。

博把義子:統一の妻。ガーデニングに夢中。

博把徳歌:統一と義子の娘。西洋文学専攻。ロンドン留学体験在り。22才。

芸亭學:義子の父。ドイツ文学者。仙台出身で、ルーテル教会の信者。ゲーテの『西東詩集』を訳出。

芸亭和子:義子の姉。統一の大学の後輩。

芸亭収:芸亭學の弟。ルーテル教会の牧師。

ウェーバー氏:義子が夢中になっているガーデニング指南のYouTuber

ヨハン:統一のドイツ留学時代の友人。画家。

然紀典(しかりのりふみ):統一の同僚で親友。表象文化論が専門。『神話力』の著者。

紙屋綴喜(かみやつづき):然の学生。非常に優秀。

K.M.:若い女学生。極めて優秀。

惟神光(いしんひかり):然紀典を批判する謎の人物。

驢馬田種人(ろばたしゅじん):小説『新孔乙己』の作者。

マリー:ドイツのヨハンの妻。

 

4 コメント ネタバレします

 まずまず面白かった。思わず読んで(読まされて)しまっていた。しかし出てくる世界の作家・文学者の人名の多さが、今の若い人には煩雑(はんざつ)すぎて「・・難しいです」とハードルになるかも知れない。ペダンチックだ(衒学的だ=げんがくてきだ=むやみに学問的知識を振り回している)、と評される所以だ。だが、名前自体は高校生のときに聞いたことがある名前なので、本当はそんなにハードルではない。世界文学の作家たちが多く出てくるのはよかったと私は思う。平野啓一郎も評しているとおり。

 

 ネタバレします。

 

 冒頭の語り手「私」は、最後まで読むと、紙屋綴喜であり、ペンネーム驢馬田種人であり、徳歌の恋人であるとわかる。綴喜が統一からフランクフルトで聞いたファミリー・ヒストリーを三人称小説で書いた、という体裁だ。なお作中の虚構の作品『新孔乙己』は魯迅の『孔乙己(コンイーチー)』を踏まえている。魯迅の『孔乙己』は聖人・孔子の(悲劇的な)パロディーであり、読書人だが科挙に通らず苦しむ現代(魯迅の時代の)中国の知識人の悲哀を描く。『孔乙己』をもじった「孔乙己文学」なるものが現代(21世紀)中国には登場しているとか(『月刊正論ONLINE』2023.6.5)。紙屋の『新孔乙己』はさらにそのパロディーと言うべきか。紙屋は徳歌の恋人であり博把統一の娘婿だが、正統的な研究者であり続けようとする統一に敬意を払いつつこれを相対化する存在だ。

 

 紙屋の書く三人称小説(それは博把統一の自分語りをもとにしたものだ)では、まず博把統一のキーワード「ジャムかサラダか」が大きなテーマだ。別の言い方をすればこれは、世界はるつぼ的に混ぜ合わせ一つの色にしてしまうべきか、それともサラダボウル的にそれぞれの色を生かしたままであるべきか、その場合統一性はどうなるのか? という問いだ。多様性と統一性をめぐる問いだ。多様であるとして、それらを結びつけるものは何か? それは、「」に違いない。そう言えばゲーテも言っている「愛はすべてを混淆(こんこう)せず、渾然(こんぜん)となす(愛は万物を混同・混乱させるのではなく多様性を認めつつあるがままにすべてよしとする、というほどの意味だろうか)」と。おや、これは果たして本当にゲーテが言った言葉であったのか? ここから博把統一の探究が始まる。 

 

 本作では事実か捏造(ねつぞう)か、というテーマが問われている。(登場する高名な文学者たちの「名言」ほかについて、歴史的事実なのか後世に作り上げられたものなのか、あるいはさらに作者の織り込んだフェイクなのか、を私は知らない。)統一は上記のゲーテの名言の真贋(しんがん=本物か偽物か)を時間をかけ知人友人を総動員して確かめようとする。彼は正統的な研究者だから。

 

 然紀典はそうではなかった。然紀典の論文は多くは盗用・捏造だ、と惟神光なる人物によって徹底的に糾弾(きゅうだん)される。だが、惟神光の正体は、実は然紀典自身だった。然紀典は、「学問というのは失敗と間違いの連続である」「失敗と間違いこそ、多様性の根幹にあるものだ」「神話や言語の多様性は、失敗と間違いです」という考えのもと、意図的に盗用と捏造を繰り返し、自らそれを暴いてみせる、ということをやってのけた、と告白する。ここで問われているのは、学問研究におけるオリジナリティとは何か? という問いだ。これはまた、ゲーテの名言は果たしてゲーテのオリジナルなのか? を探し続けるゲーテ学者・博把統一の問いにも通ずる。さらに広げて現代社会に惹(ひ)きつけて言えば、どこまでが事実、どこからが捏造、あるいはフェイクニュースか、という問いとも重なる。

 

 然紀典のこの態度は賛否両論を巻き起こし、然は教授職を解任される。

 

 私は、学問研究においては、やはり盗用・捏造は不可だと考える。学問研究においては、確かなことは確か、不詳のことは不詳、私見は私見、と明確に区別するのは当然だ。それが(この混迷する社会における)学問研究の意義だろう。大学生のレポートや論文も同じ。それらは創作ではないし印象批評ではないからだ。

 

 対して、創作においては自由に羽ばたける。例えばこの小説だ。鈴木結生は好きなように創作していい。作中の紙屋は驢馬田種人というペンネームで『新孔乙己』を書く。

 

 統一は、ゲーテの「愛はすべてを混淆(こんこう)せず、渾然(こんぜん)となす」という「名言」が、真にゲーテ由来の言葉であるかどうかを、調べ上げていく。友人の然によれば名言には、伝承型、要約型、仮託(かたく)型、および例外がある。統一はゲーテの名言にあるはずだと信じて調べ始めるのだが、次第に疑わしくなっていく。ドイツのヨハンの家を訪れたとき、その妻・マリーが、実は自分の先祖のお婆さんがゲーテから恋文をもらった、と言って一枚のペーパーをくれた。それには何と、かの名言がゲーテ直筆で書いてあるではないか。これが本物なら一級史料の大発見だ。だが、このペーパー、果たして本物なのか? これも疑うことができる。

 

 だが、「本当」のこととは何か? 「本当」に大切なこととは何か? 歴史的に事実であることよりも大切な「本当」のこと、というものがあるのではないか? という問いに読者は誘われる。 

 

 統一は、このゲーテの言葉を、繰り返し探し求め続けた結果、「本当」のものとして信じる。研究者としての立場を一歩踏み外して。ここで研究者と創作家はどこかで統一されてきている。 

 

 もちろん、これはおかしい。研究者はあくまで研究者であるべきで、創作家ではない。捏造してはいけない。統一が出演するNHKの放送でも「この言葉がゲーテが本当に言ったかどうかの確証はないが、私としては本当だと信じたい」と言えばすんだ話だ。

 

 だが、本作の狙いはそこにはない。統一は思う。「善い言葉とはすべて演技だとしても、だからといってそこに意味がないということではない。それは何度も訓練し、口に慣らしていく中で自然さを獲得し、やがてその意味が開示されるだろう。そう信じるとすれば、言葉はどれも未来へ投げかけられた祈りである。」これが統一の辿り着いた到達点だ。

 

 ここは感動的だ。私は感動した。作者の好きな(私も好きな)大江健三郎の世界に近い。もちろん、これは、元に戻るが、やはり創作の場合であって、学問研究では、先述の通り、事実と感想や意見、また祈りは、区別せらるべきである。だが、これは、小説である。研究論文ではない。だから、作者が、この言葉を本作の末尾に持ってきて、よい。作者は作家なのだから。人はいかなる言葉を発するべきか? 学問研究において正確な言葉も大切だ、だが、例えば小説の創作において、人びとを未来へと生かしめる祈りの言葉を発することは、もっと大切かもしれない。とくに今日のような混迷した時代においては。

 

 芸亭學も言っている「この昏(くら)い時代には・・善き言葉を語り続けて下さい。」(芸亭學がこのあとに続ける「恐れるな・・」は新約聖書の使徒行伝18-9。)

言わずもがなだが、気をつけなければならない。大日本帝国の民はアメリカにきっと勝つと信じてその言葉を口にし続けた。ヒトラーは同じ言葉を繰り返し国民に聞かせて国民を扇動(せんどう)した。この落とし穴に陥(おちい)ってはならない。ゲーテの恋人への「愛」の手紙、統一の娘を含む家族への「愛」、徳歌と紙屋の「愛」、本作では「」がすべてを乗り越えるキーワードだ。まことに「愛は・・すべてをそのまま然りとなす」のである。だが、愛はオキシトシンを出し、「身内」以外の対象を排除することもある。自国のチームを応援し相手チームに暴行を加える例を見よ。民族紛争、自称愛国主義者たちの戦争を見よ。だが、コリント前書13章の愛の讃歌アッシジの聖フランチェスコの平和の祈りも、大日本帝国やヒトラーの仕掛けた落とし穴にはまるものではないはずだ。

 

 鈴木結生氏の思索はこれからまだまだ続くはずだ。大江健三郎も考えたのだ。一緒に考えようではないか。

 

 人名が何かを象徴している。博把統一は、ファウスト博士のごとく博(ひろ)く世界を統一的に把握しようとする。ファウスト博士とベアトリーチェを結ぶものは「愛」だ、と統一は考えている。然紀典はそのままでよしとする「然」と正統的な典範(てんぱん)を思わせる「紀典」との組み合わせだ。芸亭學の「芸亭(うんてい)」は日本初の公開図書館。「ゲーテー」とも読める。(作家自身の言。)「學」は当然学問。紙屋綴喜はいかにも紙の本で読んだり書いたりするのが楽しいというイメージ(実際には私どもから見ればネット時代の子でもあるが)。徳歌(のりか)は「歌徳」とするとゲーテの中国語表記。(作家自身の言。)だが「徳」はキリスト教三元徳なら信仰と希望と愛だ。その歌を歌うのだ。私見だが、娘にかけた祈りがそこには見える。作者・鈴木結生は徳歌の世代なのによく父親世代の祈りが分かったものだ。父親世代の気持ちになって娘の人生への祈りを書けてしまうとは。なお作者・鈴木結生が本名かどうかは知らないが、愛によって異質なものを「結」びつけて「生」きる、アッシジの聖フランチェスコの平和の祈りに繋(つな)がる名前だ。本作は全編にキリスト教信仰のしかも良質のもの漂っている。

 

 少し注文を。統一が探し求めた言葉の出所は結局娘の作るサイトの名言集だった。また妻・義子が私淑(ししゅく)しているウェーバー氏とは、統一の旧友・ヨハンの妻・マリーだった。しかもマリーの先祖に宛(あ)てたゲーテの恋文をマリーは所有しており、統一が探し続けてきた言葉がそこにはあった。これはできすぎだし世間が狭い何でも家族友人の世界の中で完結してしまっている。実際の人生はこうはいかない。もっと予測できないことに引き裂かれ打ちのめされ苦悩するのが現実の人生だ。本作に登場する人びとで破綻(はたん)を見せるのは然紀典だが、然のやったこと実は意図的にやった営みだったと回収される。全体が明るい。明るいのはいいが、もっと大変なことが世の中には(人生には)沢山あるのではないか? 東北の震災(2011年3月)や能登の地震(2024年1月)も出てくるが本作では深められない。作家自身は子どもの時に東日本大震災を経験しているはずだ。そう、大江健三郎が10才くらいで終戦を経験したのと同様に。作家自身は「不安だらけの時代を生きてきて」いるから「せめて文学には安心を求めたい」と言っている。それは分かる、いや、非常によく分かる。だが作中にもう少し葛藤(かっとう)がないと、良家のエリートの知的スノッブ(俗物)の話で終わってしまう。「ワカラナイし私カンケイないし」という誰かの声が聞こえてきそうだ。キリストは知的エリートではない人々と共にあって、自身も引き裂かれた人生を送ったのでは? 作中、長年ボランティアをしてきた学生が博把統一を批判するシーンがあるが、統一は深くは考えない。学者の世界の狭さを鈴木氏は書いてはいるが本作では深くは掘り下げない。博把統一の出身は会津(あいず)だが薩長との確執(かくしつ)も描かれない。(作者自身は福島の郡山。)研究室には、教授の後継者によって蹴落とされた多数のライバルがおり、研究者同士の嫉妬を交えた確執もあるはずだが、これもほとんど描かれない。紙屋は『新孔乙己』で、読書人=知識人だが時代の変遷の中で不遇となる「先生」を描くが、これも妻と教え子たちによって救済される形になっている。博把統一はこの話に感動する。博把ファミリーはまずまず順風満帆(まんぱん)だ。(もしかしたら、この狭く自足する世界を、「狭いよね」と感じ取って貰いたい小説なのだろうか? と疑ってしまったほどだ。)安堂ホセの世界とは全く違う。安堂ホセの方が引き裂かれている感がある。大江健三郎は戦中戦後の屈折を経験して『芽むしり 仔撃ち(めむしりこうち)』という傑作をものした。谷間の村から松山を経て東京に行くことで前期の多くの傑作をものした。障がいのある子が生まれヒロシマを訪問して『ヒロシマ・ノート』と『個人的な体験』という優れた著作をものした。ハワイやメキシコ体験も佳作(かさく)を生んでいる。ブッキッシュで勉強家の大江は(だからこそ?)現場での経験の中からつかみ取って傑作をものしている。村上春樹も地下鉄サリン事件の被害者からの聞き取りで『アンダーグランウンド』をものした。もちろん現場体験が多ければそれだけでいいというわけでは全くない。だが勉強量と想像力のある人が、或る経験を通して(その経験を深く把握することを通して)傑作を書くことがあるのも、事実だ。鈴木結生氏は、これからの人なので今後に期待できるだろう。

 

参考

筒井康隆『文学部只野教授』は文学部の教授の日々を冷笑的にユーモラスに描く小説。

今野浩『工学部ヒラノ教授』は小説ではない。工学部教授の生活(少し前だが)が分かる。

 

付記

 スマホを「済補」と表記するのも面白い。オリジナルらしいが?

 

補足

 作者は丸谷才一を尊敬しているようだ。丸谷才一も東北(丸谷は山形県鶴岡)の出身で、作家で学者。鈴木氏は『樹影譚(じゅえいたん)』『横しぐれ』を挙げている。私も丸谷を尊敬しているが個人的には『エホバの顔を避けて』が良かった。ヨナが主人公。『徴兵忌避者としての夏目漱石』『桜もさよならも日本語』も。丸谷はジョイス『ユリシーズ』を翻訳している。本作中にも『ユリシーズ』への言及(げんきゅう)がある。

 

 魯迅『孔乙己』も必読だが『故郷』『藤野先生』だけでなく『野草』ほか評論集も読むべき。

 

 然が行った、作中に架空の作品を登場させて言及する手法は、例えばボルヘスが多用している。

 

 マンガ(手塚治虫)が出てくるのは驚いた。博把は博学多識の碩学(せきがく)に見えて結構若い世代。計算上は1960年(昭和35年)頃の生まれ。まんがやTVから自由ではない。

 

 「コヘレトの言葉」は旧約聖書「伝道の書」。「雅歌」「哀歌」などと並ぶ諸書の一つ。コヘレトとはダビデの子ソロモンその人だという解釈もあるが当然そうではないという解釈もある。

 

 「使徒行伝(使徒言行録、Apostelgeschichte」は、新約聖書の四福音書に続く歴史書で、イエスの使徒たちの活躍を記す。ルカが書いたとされる。

 

 デイヴィッド・ロッジは1935~2025。イギリスの大学教授で作家。『大英博物館が倒れる』『交換教授』など。

 

 鈴木氏の第一作はトルストイ、第二作(本作)はゲーテをめぐる作品で、第三作はディケンズをめぐる作品になるそうだ。トルストイはロマノフ王朝創設以来の伯爵、ゲーテも富裕な市民の子で若くしてワイマール公国の宰相(さいしょう)。ディケンズはそうではなくきわめて貧しい時代があったので第三作に期待したい。第四作はアメリカになるなら誰だろうか?

 

 博把統一の文学史で弱いのは中国哲学(易経(えききょう)と老子は挙がっているが)、インド哲学(中村元=古代インド学の大家=はチラと出てくる)、イスラム教日本の儒学や仏教などなど。こう書いておけば鈴木氏がいつか勉強してくれるだろう。だが儒学も仏典も年間1000冊のペースで読めるものではない。『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』(解説ではなく)の研究に入り鈴木が行き詰まってしまうよりは、うまくスルーしてご自分の得意な世界でいい小説を書いてくださった方が日本の小説読者のためにはいいのかも知れない。だがもし親鸞聖人を扱うなら、その子の善鸞(ぜんらん)のその後をも扱って欲しい。宗門の統一解釈とは別に、本当の善鸞はどうだったのかを。法然・親鸞の他力浄土門とキリスト教プロテスタントの福音の教えは近いようでもある。ネット情報だからフェイクかも知れない(いや、フェイクだそうだ)が、親鸞はネストリウス派キリスト教(景教)の書物を読んでいたに違いない、と言いたい向きが一定数存在する。法然の母親が秦氏だったから云々(うんぬん)はともかくとしてもそれらも「信じ続け語り続ければ『本当』のことになる」のだろうか!?

 

 ゲーテは1749~1852。小説『若きウェルテルの悩み』や劇『ファウスト』や詩(随分恋をして恋人に捧げる詩を作っている)、また評論『親和力』などで有名だが、実は本作中にもある通り自然科学にも詳しく、一種の博物学的な学識を持っていた。政治家でもあった。森鴎外『舞姫』太田豊太郎がドイツ留学中にゲーテを読んでいない(恐らくは鴎外が意図的にはずした)ことに注意。太田が一方に振れた人間だとすれば博把統一はもう一方に振れた人間だとも言えよう。

 

 

 今回の芥川賞二作を比較対照するならば、二作とも現代の若者が書き現代の若者が登場するが(安堂ホセ氏の方が数年年上ではあるが)、違いは、

 

安堂ホセ『DTOPIA』

・ポリネシアと東京が出てくる。世界の多国籍の人びとが出てくる。

・主役は若者。

・アウトローの性と暴力の世界が出てくる。知的な世界はあまりない。

・現代のファッションや若者言葉が多出。(これはこれで私にはハードルとなった。)

・音楽も現代の流行音楽。アリアナ・グランデなど。

・国家、民族、家族への問いがある。家族はうまくいっていない。

・性自認の問題が出てくる。

・形而上学(けいじじょうがく)的な議論は出てこない。思索的ではなくもっと肉体的、感覚的。

・神、仏、天が出てこない。

 

鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』

・東京とドイツが出てくる。安定的な形で日本人とドイツ人が出てくる。

・主役は一つ上の世代。

・アウトローは出てこない。大学の研究者が出てくる。知的な世界だ。

・西洋古典古代以来の作家や文学者の人名が多出。(これは多くの若者にはハードルか。)

・音楽はバッハやビートルズ。ビートルズも今の若者には古典?

・国家、民族、家族への問いはない。家族愛はうまくいっている。

・性自認の問題は出てこない。

・多様性と統一性をめぐる形而上学的な(?)議論がある。思索的。

・神(神信仰)が全編に出てくる。

 

 芥川賞は、上記二作を並べて見せた。文藝春秋社は実にうまい。私は二作を読んで楽しかった。文藝春秋社と芥川賞関係のみなさん、ありがとう。

 

 今日はこれくらいにしておこう。ありがとうございました。2025.2.17