James Setouchi

2025.2.13

挨拶をめぐる随想(身だしなみにも少し触れる)

   

 

 社会人になったとき、尊敬する先輩から「『お願いします』で始めて『ありがとうございました』で終わって下さい。」と言われ、その通りに実践してきた。数年後、別の先輩から「そんなことをしているようではダメだ。挨拶でけじめをつけなくても皆がおのずから作業に参加するような値打ちのある仕事をすべきだ」と言われ、なるほどと感じた。確かに、落語でも歌手のコンサートでも「起立・礼・着席」で始めるのは見たことがない。では、挨拶とは、何であろうか? どこかの運動部では、「大きな声で挨拶をせよ」と言う。部員は「こんちわ!!」と大きな声で、場合によっては怒鳴るように言う。これは最初違和感があった。が、いつの間にかなじんでしまった。(でも、おかげで、ご町内で出会う人にすぐ「こんちわ」と言う癖が付いた。悪くはない。)一体、挨拶とは、何であろうか?

 

 作業の場合、確かに、挨拶で始めれば、けじめをつけることができる。が、本当にその作業で実を上げようという強い意欲があるならば、挨拶などしている時間が惜しい。作業最後でも、終業のサイレンが鳴っても、作業内容の面白さに席から立てず、問題意識が強烈に生じ、たちまち周囲の仲間と友人と議論を始める。ひいてはそれが生涯のテーマになり、その分野の教授になったりノーベル賞を取ったりする。そういう作業が出来れば素晴らしい。(私に出来ているわけではないが。)これは管理職だけの問題ではなく、メンバー自身も、強烈な意欲を持って臨み、相互に充実した内容を引き出し合う。挨拶など時間の無駄、と言えるほどの意欲があれば、すごいではないか。(相互の知的パフォーマンスを高め合うのは相互なのだ。緒方洪庵の適塾の輪読形式の勉強会を見よ。)でも、現実は、今から作業を始めるよ、という動作の起点を示すかけ声のようなものとして挨拶は機能しているそれは本当の挨拶と言えるのか? 私は社会人になって初期の頃は、その都度その都度「わたしのつたない仕事に皆さんまじめに付き合って下さってありがとうございました」と心から思っていた。また作業の監督に行って「ありがとうございました」と言われるとき、「感謝されるほどのことは何もしてないのに」と思う。では、本当の挨拶とは何か? 日本における挨拶の様々なケースを見わたしながら、考察を加えてみたい。

 

 念のために言っておくが、挨拶廃止論者ではない。とりあえず挨拶(と身だしなみ)が出来れば生きていける。挨拶(身だしなみ)ができないと、社会から疎まれ、生きにくい。経験的にはそう言えるので、挨拶(と身だしなみ)だけはちゃんとしようよ、と若手に言ってあげるのは、よい。(但し、挨拶(や身だしなみ)一つ出来ない奴は社会人として失格だ、と大上段で切り捨てるのは、おかしい。以下を読めば分かる。)

 

 ずっと昔に本多勝一の『ニューギニヤ高地人』を読んだ。そこで著者・本多が出会った、ニューギニヤ高地人の挨拶は、およそ日本人の挨拶とは全く違うものだった。それでも本多は現地の人と交流するために、現地風の挨拶を見よう見まねでする。それはいい。だが、もし、相手のしぐさが、挨拶だとこちらに理解できなかったら? 見よう見まねのしようもない。私たちは、挨拶のやり方一つ知るためにも、文化の学習、つまり学力が必要だ。日本人のお辞儀だって、西洋人から見れば奇妙な振る舞いなのだ。「挨拶も出来ない人間が学力だけあってもダメだ」とイージーに言う人があるが、ぜひイスラム教世界のイランあたりに言ってペルシア語で挨拶をしてみるとよい。ペルシア語とイスラム教に関する理解(学力)が不可欠だと分かるだろう。フランスのセレブの社交術も同様だ。挨拶(文化)は後天的に学習すべきものなのだ。学力の対立項目ではない。が、学力を含む文化は差別を生むこともある。『魏志倭人伝』では下の者が上の者にうずくまりかしこまって挨拶するとある。挨拶は体制を強化し身分差別を可視化する機能を持つ。「挨拶一つ出来ない者は…」「挨拶くらい常識だ」の言い方は、差別する者の言い方だ。一休禅師があえて奇矯な言動をしたのは、かかる「常識」を逆転させ真の仏の世界に覚醒させようとしてではなかったか。(自文化の「常識」を相対化し他文化の「常識」を理解しそれらを越えたより普遍的な地平をめざすにも「学力」が要る。)

 

 また、禅宗『碧巌録』を見よ。住職と旅の修行者が出会い挨拶を交わす。これは相互の悟りの深浅の差を対決しているのだ。よく言えばそれで悟りの世界へと相互が解放される。が、悪く言えば、それによって寺の住職のポジションを奪い合う。そこで交わされる「挨拶」は親切丁寧に相手に配慮した言葉ではなく、あえて気合いの入った奇矯な言動で相手を黙らせているだけかもしれない。相手を沈黙させ自己主張をするための挨拶。それでいいのだろうか? そう言えば危ない人たちも「挨拶に来てやったぜ」と言って暴力を振るう。それを挨拶とは言いたくない。

 

 政治家が支持者の集会で「一言ご挨拶を申し上げます」と言って長々と話すのは何か。それは、相手に対し自分が尽力していることを示しさらなる支持を訴えているのだ。多数の支持を目指す民主主義だから当然なのかもしれないが、票にならないところにあえて「挨拶」に行けるようになれば政治家も尊敬されるはず。連歌や俳諧にも挨拶はあるが省略。儒学(特に朱子学)では「敬」を重視する。「敬」は「うやまう」と同時に「つつしむ」とも読み、自分をつつしみ相手に接近しすぎない(「敬遠」など)という面も持つ。「敬」が勝ちすぎて「仁愛」「忠恕」が後退するとよそよそしくなる。挨拶(と身だしなみ)(威儀)によって自他の接触を巧みに回避し、自己の利権を保全し封建的支配体制に加担しているので、人間の真の解放とは言えない。

 

 私たちの身の回りに目を転じよう。

 

 誰もいない部屋に向かって「いただきます」「ごちそうさま」「行ってきます」「ただいま」と言うのはなぜか。そこに誰かパーソナルな存在があると想定して発語しているとも言えるが、自分の動作の起点としてかけ声をかけているだけかも知れない。中学生が集団のランニングで「ファイトー、ファイ!! ファイトー、ファイ!!」と声を出すのはなぜか。共に走る仲間の存在に配慮しているとも言えるが、動作のためのかけ声でしかないかも知れない。祭で神輿を担ぐときの「わっしょい、わっしょい」「よいさ、よいさ」とどう違うか。日本の挨拶はかけ声に近い。これらは有名な大学の先生が書いておられた出た例である。

 

 また、大学運動部の後輩が先輩を見かけると(そこが銭湯で裸でもまた遠くからでも)反射的に「コンチワッス」「チワッス」「オッス」と叫ぶのは何か。相手に敬意を払っているのかも知れないが、こちらの存在を相手にぶつけてアピールしているだけかも知れない。登山に行ったとしよう。こちらは大集団で200人いる。山中の一本道で向こうから老夫婦がやってきた。200人が全員で「コンチワ!」「コンチワ!」…と言ったら、老夫婦はふらついて崖下に顚落してしまうかも知れない。どうすればいいのか? 私は知らない。昔登山に詳しいある方が、「そういう場合、高齢者ご夫婦の安全を優先して、挨拶は、行列の最初と最後の人だけがすればいい。途中の人は会釈でもすれば十分」と言っておられたが、そうなのだろうか。少なくとも、こちらの存在を相手に押しつけて相手を危険にさらすのは、値打ちのある挨拶とは言えまい。

 

 ここに人混みがある。そこをすり抜けて通ろうとした時、黙って人に体当たりしながら進むのは、困る。「どけどけ~」と叫びながら進む(ジャイアンのように)のも、暴力的だ。では「ごめんよ、へい、ごめんなすって」と江戸仕草で(寅さんのように)進むのはどうか。これは相手への配慮があるので、いいようにも思えるが、所詮は警笛を鳴らして自分の通路を確保しているのと根本的には同じではないか。警笛と変わらない挨拶。どうすれば警笛でなくなるか。すれ違う相手がか弱いおばあさんなら立ち止まって荷物を持ってあげるようなら、それは警笛ではなくなるだろう。私がしているわけではないが。

 

 では、次の場合はどうか。道を歩いていると、交差点で、右からは昔の(旧恩ある)担任の先生、左からは今の利害関係のある商店連盟の会長がやってきた。両方に同時に挨拶することは出来ない。あなたは、いずれに対して先に挨拶をするのだろうか? ここで「旧恩ある担任の先生」と即答した人は、昔の道徳を備えた立派な人である。「もしあなたの主君と父と恩師が同時に海に溺れていたら、誰を先に救出すべきか?」が江戸時代の少年たちの真剣な議論のテーマだった、と内村鑑三は記す(『代表的日本人』)。他方、今利害関係のある商店連盟の会長、と答えた人は、道徳よりも今の利害関係を優先したのである。少しでも迷った人は、道徳よりも今の利害関係の方が大事かもしれない、と迷ったのである。ことほどさように、現代社会を生きる私たちは、知らぬ間に道義をないがしろにし、利益追求の欲望に生きているのである。(反論してみよう。昔の担任の先生なる人も自己の利益や欲望のために生徒を利用しただけだとすると? 今の商店連盟会長は、実は高潔・仁慈の人格であり、私腹を肥やさず、町内の困っている人のために粉骨砕身しているとすれば? この場合は、話は当然違ってくる。)

 

 あなたが坂道を歩いているとき、向こうから顔なじみのおじいさんが歩いてくる。あなたは当然挨拶をする。今度は向こうから見知らぬ、しかし弱々しい足取りのおじいさんが歩いてくる。あなたは、やさしく挨拶をし、おじいさんの荷物を持ってあげようかとも考える。今度は向こうから、一見いかにも不審者ではあるまいかと思われる人物が、何やら声高に何かを罵りながら険しい目つきで歩いてくる。あなたは、挨拶をするだろうか? あなたが仁徳パワーの絶大な人で、あなたの挨拶一つでその人物の心が解きほぐされ、あらゆる危険が回避できるのなら、よい。だが、あなたはそうではない。この場合、挨拶をせず目を合わせずにそそくさとそこを通り過ぎようとするかも知れない。多分、それでいい。が、これらの例を、挨拶とは何か? という観点から見渡したとき、挨拶は決して普遍的なもの(いつでもどこでもだれにでも「挨拶をしなさい!!」と指導されるべきもの)ではなく、条件づきでしなくてもいいもの、しない方がいいものになってしまう。「挨拶をしなさい!!」というのは、条件によっては、誤りなのだ。ではその条件とは何か? 我が身の安全、自分の利益などを優先する場合である。

 

 ここで、挨拶ができて(身だしなみも完璧で)人間的には困った奴だ、という例を挙げてみよう。あなたは、どんな例を挙げることが出来るか? ここで挙げるのは、詐欺師(結婚詐欺師を含む)と藤原摂関家の例だ。詐欺師(結婚詐欺師を含む)は、挨拶は完璧、身だしなみも完璧、立ち居振舞も完璧で、すっかり相手をとりこにし、結局の所相手の財産を奪ってしまう。これは法律違反である。道義的にも違反である。藤原摂関家の全ての人が悪人かどうかは知らないが、彼らは、挨拶は完璧、身だしなみも完璧、立ち居振舞も完璧で、しかし、利権を独占し、一般庶民を蔑視し、利権を奪うために徒党を組んで嘘をつき誰かを追い落とす。『大鏡』で大宅世継が花山帝に同情し藤原摂関家の陰謀を暴き立てている条を見よ。この陰謀は法律違反ではないが、道義的に見ると尊敬できることではない。おや、そうして見ると、現代において、必ずしも買う必要のないものを言葉巧みに売りつけ買わせる詐欺的商法(それは法律的に詐欺ではないが、道義的にはどうなのか)の類いは、枚挙にいとまがないではないか。バイヤーが納得しているからいいのであれば、結婚詐欺で騙される人も納得していたのだ。どう考えればよろしいか? 「いただき女子」や悪徳ホストの場合は? 心ある方は眉をひそめるはずだ。反対に、挨拶や口上や宣伝や包装や店構えやブランド名はパッとしなくても、品質の良いモノやサービスを非常に良心的な価格で届けている場合もある。消費者がそれを見抜けるか、ということになる。

 

 こうして、挨拶(及び身だしなみ)は、あなたが生きていくためにはとりあえず出来た方がいいが、出来ているからと言ってさほど自慢するほどのことではないということになる。むしろ、あなたは、自分の利権を守り欲望を満たすために、選択的に相手を選び挨拶をしているかもしれないそこで排除されているのは、誰か。それは法律違反ではないが、道義的には問題があるかも知れないのだ。「あの人は挨拶一つ出来ない」と排除するべきではなく、「挨拶一つ出来ない人」もこの世に生きていてよい。ものを言えない人、巧みに表情を作れない人、考え事に夢中で挨拶出来ない人。すれ違う相手に片想いしていているので緊張してものも言えない人。セレブの社交術になじめない人。服を一着しか持っていない人。いろんな人がいていい。それらの人を全て生かす「挨拶」ができればすばらしい。キリストは、イスラエル社会から見捨てられた人、価値がないとみなされた人と共にいた

 

 これらの事例から、本当の挨拶とは、どうあるべきか? をとりあえずまとめてみよう。「こんにちは。よいお日和でございます」と言うのは、「今日もお天道様が、あなたと私が暮らすこの世界に昇りました。あなたと私は価値観も違い相互の文化も理解できないけれども、それでもあなたと私はこのお天道様の下で共に生きていく存在でございます。さあ、今日も共に生きて参りましょうぞ」という意味を込めて言っている。(これも誰だかが言っておられたことに共感したから書いている。)これはまた、相手の幸福を祈る言葉でもある。これが真正の挨拶であるべきはすだ。真のキリスト者であるゼノ修道士マザー・テレサ中村哲は、世の中からレッテル貼りされ排除され蔑ろにされた人びとと共にいて、「我と汝」の関係に入ったのだ。神はそれを嘉(よみ)されるだろう。

 

 孔子は言った、「外見の飾りが勝ちすぎると、文飾を重ねる歴史官の叙述と同じになる。他方、実質ばかり重んじて表面を整えないと、野卑に陥る。外見と実質とが共に揃ってこそ君子と言えるのだよ」と。これをもじって言うならば、「虚飾の挨拶や身だしなみばかりできて内面の善良さのない奴は嘘つきの詐欺師だ。他方、内面が善良だからと言って挨拶(文化)の学習・習得を怠ると、社会から排除される危険もある」。孔子はここまでで、その先にキリストがいる。その意味がお分かりになりますか?