James Setouchi
2025.2.10 日本文学
永井荷風 『問わず語り』 昭和20年11月 荷風の弱点
1 永井荷風(ながいかふう)
明治12年(1879年)12月東京の小石川区金富(かなとみ)町(現・文京区。今の竹早高校の近くで、坂の上)に生まれる。本名壮吉。父は徳川の尾張の武家から分かれた苗字帯刀の豪農の子孫で(先祖に儒者もある)、プリンストン大学留学の高級官僚、のち日本郵船の上海や横浜の支店長になった人物。母は儒学者・鷲津毅堂の娘。一時下谷区竹町(たけちょう)(現・台東区。御徒町の近く。つまり下町)の鷲津家に預けられる。幼稚園(当時珍しい)、黒田小学校、師範学校付属小学校高等科を経て高等師範学校付属中学校に学ぶ。この間永田町や麹町(現・千代田区)にも住んだ。一時上海旅行。東京高等商業学校付属外国語学校(今の東京外大)清語科に学ぶが怠学し除籍。荷風は広津柳浪(作家)や朝寝坊むらく(6代目)(落語家)に入門して寄席に出たりしていた。明治32年厳谷小波(いわやさざなみ。作家)の木曜会会員となる。このころから懸賞小説に当選。福地桜痴(おうち、劇作家)の門人となる。フランス語を学びゾラの翻訳を出す。明治36年(1903年)森鴎外を知る。渡米。タコマ(ワシントン州)、カラマズー(ミシガン州)、NYなどに滞在。明治40年(1907年)フランスへ。リヨンで銀行に勤務するも続かず、明治41年(1908年) パリ、ロンドン、香港を経て帰国。『あめりか物語』。明治42年『ふらんす物語』、訳詞『悪の華』(ボードレール)、『すみだ川』。明治43年明応義塾の文科教授となる。『三田文学』発刊。この年幸徳事件(大逆事件)発生、証拠不十分のまま44年に24名死刑判決。明治45年ヨネと結婚。大正2年父が逝去、ヨネと離婚。翻訳詩集『珊瑚集』。大正3年かねて交際していた新橋の芸妓の八重次(ヤイ)と結婚。『日和下駄』。大正4年ヤイと離婚。大正5年浅草の芸妓・米田みよと一時同棲。慶応の教授を辞す。『腕くらべ』連載。神楽坂の芸妓・中村ふさを知る。大正7年『おかめ笹』。大正8年『花火』。大正9年麻布市兵衛町に偏奇館を建てる。大正10年『雨瀟瀟(あめしょうしょう)』。大正12年関東大震災。昭和6年『つゆのあとさき』。昭和12年『濹東綺譚(ぼくとうきたん)』。浅草に通いオペラ館などに出入り。昭和20年空襲で偏奇館焼失。一時岡山に疎開。昭和21年『問わず語り』。昭和22年から市川市に住む。昭和24年『断腸亭日乗』連載。また浅草ロック座に通い踊り子と交わる。昭和27年文化勲章。昭和34年3月浅草の洋食屋アリゾナで歩行困難に。4月自宅で逝去。(集英社日本文学全集の小田切進の年譜を参照した。)
2 『問わず語り』
昭和20年11月脱稿。21年7月『展望』に発表。作者67才。
昭和21年(1946年)は太平洋戦争が終わった翌年。戦中戦後の主に東京を舞台に、永井荷風に近い画家「僕」(但し1895年生まれで荷風より16才年下に設定してある)の日々を綴る。荷風には珍しく岡山の田舎の暮らしが出てくる。男女の話も出てくるので清潔な青少年諸君にはお勧めしにくい。シニア向け。
(登場人物)
「僕」:画家。昭和の戦中、雪江という娘と松子という女中と暮らしている。若い日々を回想し、現在にはすっかり興味を失っている。が身近な女性には手を出してしまう。(永井荷風を思わせるが、別人。)
田嶋:美術学校の同級生。パリで病死。
佐藤:同級生。イタリアに住み着く。
満枝:学生時代隣に住んでいた美しい年上の女性。姓は小林。「僕」は夢中になる。が震災で没したという。
辰子:満枝の妹。満枝の死後ダンサーとなる。「僕」の妻となるが四十才で病死。
雪江:辰子の連れ子。1923年生まれ? 幼かったが、美しく生長する。
花子:田嶋の恋人。モデルをしていたが、その後ダンサーとなる。その後大連へ。
松子:女中。「僕」のお手つきとなる。戦時中は主婦のようにして生活を支えてくれた。
春山:声楽家。雪江の恋人の一人。妻子あり。
牧山義雄:子爵家の跡継ぎ。雪江の恋人の一人。
佐原:子爵家の者。使いに来る。
(あらすじ)
「僕」は今辰子の娘の雪江、女中の松子と住んでいる。過去を回想すれば、かつて若い頃隣に住む年上の満枝に夢中だったが、海外留学時に捨ててしまった。震災後帰国し満枝の妹・辰子と再会し、満枝に似ていたので関係を持った。辰子と連れ子の雪江と「僕」は実の親子のように暮らし、辰子が戦時下の生活を支えたが、「僕」は女中の松子と関係した。辰子が若くして病死してからは、女中の松子と、辰子の連れ子である雪江と暮らしている。戦時下の一家の生活は事実上松子が支えている。雪江からは「パパ」と呼ばれている。雪江にさる子爵家から縁談があったが破談になった。空襲下で「僕」は雪江に対し「人頭獣体の怪物」となってしまう。松子は出て行ってしまう。空襲はますます烈しく、食糧は乏しい。「僕」は雪江を東京に残し縁故のある岡山の田舎(沿岸部ではなく総社線エリアで山地)に疎開する。田舎は空襲もなく穏やかないいところだった。戦争が終わり雪江からはアメリカ人の友人ができて生活には困らないと連絡があった。「僕」は雪江が心配でもあるがこの穏やかな田舎でこのまま老い朽ちてしまおうかとも思う・・・
本作では「僕」の好色と非人間性が私には明かなのだが、永井荷風は読者に「僕」の自己中心性を「ひどい」と感じて貰おうと、意図的に書いているのだろうか? それとも・・?
女性を一人一人見ていくと、満枝:「僕」の洋行で別れたきり、その後死亡。辰子:「僕」と雪江と一時幸福な家庭を築けたかに見えたが「僕」は女中と浮気、それを気に病んでか四十才で病死。松子:戦時中食物の買い出しも含めて懸命に一家を支えるが「僕」が雪江と関係を持ったので怒って逃亡(その後実家の関係で結婚するそうだが)。雪江:空襲を生き延び戦後アメリカ人の友人ができたと称しているが、米兵相手にどのような生活をしているかわからない。・・こう並べてみると、「僕」が手を出し放り出した女性はそれぞれに不幸になっている。このことの痛みをもっと感じ、書き込むべきだろうが、あまり書いていない。どういうことだろうか。村上春樹だったら若いときに自分が傷つけた女性の苦しみと、自分が傷つけたという自分の痛みを、もっと書くだろう。同じ男目線の「男流文学」であっても随分違う。荷風は芸妓や女給との交流を描くことが多い。本作では家庭内の手近な女性に手を出して傷つけている。これをどう考えるか。
時局(戦争)については、あくまでも生活を圧迫するものとして捉えられている。愛国心で熱狂はしていない。空襲と敗戦、食糧不足だからなおさらかもしれないが、二千六百年祭(昭和15年)をはじめとしてナショナリズムや戦争に対しては冷ややかな態度だ。かといって反戦運動をするわけでもない。当時は多くの人は身動きが取れなかったろうが。戦時下、空襲と食糧難と言論統制で閉塞していた。紙もない。仕事の意欲は湧かない。その閉塞感からの逃げ口が身近な女性の肉体だった、ということだろうか。フラストレーションのはけ口として、軍国主義に熱狂するのと、女性に手を出すのと、どうか。(あなたは、軍国主義者と女たらしとどちらがお好きですか? 私はどちらも好きではありません。)
「僕」は回想する。フランスに数年間留学し、帰国してみると、震災後の東京は随分変わっていた。(同様の指摘が『雨瀟瀟』にもある。荷風の肉声に近いだろう。荷風の留学は明治36~41年、「僕」の留学は震災(大正12年前後、と時間のずれがある。が荷風は『雨瀟瀟』で震災後の東京を随分嘆いている。)「僕」はもはや「悲哀と絶望」しかない。「忘却と虚無」を求めるのみだ。(下の三)
モネーやロダン、ドビュッシイらが「文化の絶頂を示したような、そういう目覚ましい時代」は、いつ還ってくるのか。このように「僕」は言う。年代を確認するとモネ(1840~1926)、ロダン(1940~1918)、ドビュッシー(1862~1918)であるから、「僕」が憧れているのは第1次大戦(1914~1918)後の(自分の留学時代の)パリではない。第1次大戦前の荷風の留学時代のパリだ。これを作者・荷風の不注意と見るべきか? 意図的にそう書きこんだのか?
「僕」は第1次大戦後のフランスに留学したはずだが、第1次大戦以前のパリの文化をよしとしている。また明治大正の日本を、追憶している。現実の荷風はアメリカ滞在が長く、フランス滞在は短期だが、荷風はフランス時代を幸福だったと言っている。荷風の中で憧れのフランスが現実以上に美化されていて、思わず書いてしまったのかも知れない。が、当時のパリも貧富の差がありベル・エポック(第1次大戦前のパリの文化的繁栄の時代)は結局大戦を止め得なかった。このことへの意識は弱い。同様に、明治のシステムが大正と昭和の戦争を生んだことへの認識は弱い。社会や歴史への意識が弱いのだ。文化は(文芸も絵画も音楽も)所詮はあだ花だと見切っているのか? 「僕」は情緒的な追憶に逃げ込む。「僕」のこの弱点を読者に意識させるように書いている、とも思えない。荷風の弱点でもあるのだろう。荷風はすごく勉強しているようだが実は肝心なことは勉強できていないのでは。好きなことしかしていない人間の限界と言うべきか。
戦争は終わったが、「平和の基礎は果たして確立したのであろうか。・・平和は一時の小康に過ぎないのではなかろうか。・・人の世の破滅はまさにこれから始ろうとしているのではなかろうか。・・」これが彼の感慨だ。戦争は終わった、今こそ新しい時代を開こう、と戦後の『近代文学』派らが意気込んだのとは全く違う捉え方だ。私は『近代文学』派や戦後派の志を買う。もちろん、上記の言葉は、それだけを取り出してみると、時代への警鐘であるようにも見える。現代(2025年)の危機を予言しているようで、不気味でもある。だが、これは誤った解釈だろう。本文の文脈に則して解釈すれば、ベル・エポックや明治大正を喪失した、それ以降はすべてニセモノだ、との悲嘆の延長上の言葉であるに違いない。(もしくは、雑誌掲載に当たって荷風が戦後新時代に際して言ってみただけの言葉かもしれない。)
末尾。「僕」は岡山の山地で日に当たって休息している、セザンヌやジャムの愛したプロヴァンスに行かなくともここにも日の当たる所はある、「穏な日のあたるところはどこへ行っても好い国だろう。」と結ぶ。これは一面真理ではある。だが本作の場合老人の呟きと解釈すべきだろう。とりあえずこの岡山の田舎で平和を得た。そこでのんびり暮らす。それ以上の新しい気概は読めない。早坂暁『東京パラダイス』(玉の井が出てくる!)が田舎から戦後の東京に出て新しい建設の渦に自ら飛び込んでいくのとは随分違う。老人に(しかも空襲と食糧難で苦しんだ老人に・・といっても作中の「僕」は50才なのだが!)あまり過酷なことを要求してもいけないのかもしれないが・・
思いつきだが、本作の最後の四つの段落は、律詩(または絶句の起承転結)の形で展開しているのかもしれない。どうですか?
実際の荷風自身はその後東京に戻り浅草のストリップ劇場の女優たちと交わる。この点だけは元気だ。そういう老人もいてもいいとは思うが・・・余生を過ごすべき「日の当たる場所」は、現実の荷風には、岡山の田舎でなく東京の浅草にもあったということか?
荷風は背も高く(180㎝だそうだ)ハンサムで金持ちだ(高級官僚の父親の遺産があった)。フランス語もできるし江戸文学にも詳しい。それで女性にモテるわけだが、「身をやつして」娼妓やカフェの女給や浅草のダンサーの世界で遊ぶのは、一見身分制・階級制を嫌い人間平等の境地に立っているかに見え、実はどこかで自分より「下」の女性と交わって安心感を得ている印象がある。身分制・階級制を否定するのではなくそれを前提として財産を使って遊んでいる。上流階級へのコンプレックス(父親へのそれと繋がっているだろうが)と貧しい者への蔑視が実はあるような感じがするのだが、どうか。つまりはエゴイストである。
漱石『こころ』の「先生」は田舎の若い「私」の兄から「エゴイスト」と言われるがそれとは全く違った意味で荷風は「エゴイスト」なのだろう。『こころ』の「先生」は明治帝国システムの期待する「世の中に出て」「役に立つ」出世の類いは一切しないが、精神的な深みを持ち長い手紙に書き残した。「兄」は帝国の価値観のシステムにからめとられているので「先生」の価値を理解しない。対して荷風は親の財産を使って暮らす点では「先生」と同じだが、そのカネで自分より「下」の女性を買い漁り、恥じることがない。倫理性が乏しいのだ。「先生」は明治8年頃の生まれと想定できる。荷風は明治12年生まれ。ほぼ同世代だが、人間が違う。本作の「僕」は明治28年(日清戦争)生まれとなっているからさらに年下だ。『こころ』の若い「私」が明治20年代初頭の生まれだとすればそれより数年年下だ。
江戸文学については荷風は平民の文芸に傾斜していて、戦争や軍人や天下国家の大言壮語が嫌いなのはわかるが、漢詩文を含め相当程度の教養がないと到達できないものではある。「一文不知のともがら」には実際無理なのだ。荷風は先祖や近い親類にも儒者がいるという恵まれた環境だからこそ江戸文芸にも親しめた。
空襲下の東京に過ごしてそれを描いたと言えば坂口安吾『白痴』が有名だが、読んだ感じは全く違う。(当然だが。)
「Nearest Faraway Place 2013年 06月 09日 安吾と荷風」というブログに、坂口安吾が永井荷風の『問わず語り』を批判している、という記事があった。そこからの孫引きで恐縮だが、安吾は次のように言っている。「通俗作家 荷風――『問はず語り』を中心として――」(昭和21年9月『日本読書新聞』)
・「問はず語り」は話が好都合にできすぎてゐる。
・元々荷風といふ人は、凡そ文学者たるの内省をもたぬ人で、江戸前のたゞのいなせな老爺と同じく極めて幼稚に我のみ高しと信じわが趣味に非ざるものを低しと見る甚だ厭味な通人だ。
・風景も人間も同じやうにたゞ眺めてゐる荷風であり、風景は恋をせず、人間は恋をするだけの違ひであり、人間の眺めに疲れたときに風景の眺めに心をやすめる荷風であつた。情緒と道楽と諦観があるのみで、真実人間の苦悩の魂は影もない。たゞ通俗な戯作の筆と踊る好色な人形と尤もらしい風景とが模様を織つてゐるだけである。
→ブログ氏はもっと紹介し、さらに考察を進めて行くのだが、ここではこれだけにとどめておく。これを読み、なるほどと思った。安吾に言わせればそうだろうな、と思う。さすが安吾で、うまく言ったものだ。永井荷風はおもしろいが、何か違和感があった。そこをうまく言い当てている。人間も風景も同じように情緒的に眺めるだけだ。そのくせ女性には大いに手を出す。女性の苦しみに自分も大いに責任があるはずだが、そこは考えない。特に『問はず語り』はそうだ。次々と女性に(しかも身近な女性に)手を出し、彼女たちが苦しんでいるだろうに、この点を立ち止まって考えることはしない。すでに若い時期から同様のことを繰り返しているので、感覚が麻痺しているのだろうか? 情緒的であって倫理的でない。これが荷風の弱点だ。もちろん、安吾が何でも破壊してしまいそうなのはどうかとも思うが。
なお荷風は戦後は(本作を除いて)佳作がない、と複数の批評家に言われている。
ところで、荷風と「僕」の違いに注目し、「僕」の身勝手さを徹底的に批評・批判する小説として荷風は意図的に構成した、と読めるとしたら、どうなりますか? 国文の方、どうですか?
*参考までに表にしておこう。年齢は大体。ややズレがあるかもしれない。
1867慶応3 漱石生まれる。
1875明治8? 「先生」生まれる。
1879明治12 荷風生まれる。
1887明治20? 若い「私」生まれる。
1895明治28? 本作「僕」生まれる。
1900明治33~36漱石、イギリス留学
1903明治36~41 荷風、アメリカ、フランス留学。(20代)
1912明治45 「先生」死す
1914大正3 『こころ』
1914大正3~7 第1次大戦
1916大正5 漱石死す(49才)。
1919大正8ころ 「僕」学生時代(24歳?)、満枝(31歳?)・辰子(18
歳)と知り合う。
1923大正12 関東大震災。満枝死す(三十代)。この前後5年間「僕」はフランス
へ。
1927昭和2ころ 「僕」は辰子と再会。辰子25歳?「僕」32歳?
1929昭和4早坂暁生まれる。
1931昭和6 満州事変 このころ雪江は小学校高等科へ(12歳?)
1937昭和12年~日中戦争
1940昭和15年 紀元2600年
1941昭和16~20 太平洋戦争 この間辰子は40歳で死に、雪江は20歳。「僕」50
歳に。
1945昭和20 本作脱稿。荷風66才。 早坂暁16才。