読書会実施記録  R7.2.8(土)9時半~雪のためオンラインで実施

 

『宇治拾遺物語』 読書会 レジュメ 担当:T

 

1 本日の予定

【テキスト一覧】  ◎…必須  〇…できれば  出典は新編日本古典文学全集『宇治拾遺物語』

◎1「児のかい餅するに空寝したる事」   (1-12)

〇2「田舎の児、桜の散るを見て泣くこと」 (1―13)

◎3「鼻長き僧の事」           (2-7)

◎4「絵仏師良秀家の焼を見て悦ぶ事」   (3-6)

 

〇5「鬼に瘤取らるる事」を題材に比べ読み (1―3)

〈他テキスト〉

〇6『御伽草子』太宰治 (青空文庫)

〇7『瘤取り』楠山正雄 (青空文庫)

〇8『瘤取話 ―その広がり―』鈴木満(武蔵大学人文学部名誉教授)

 

さらに時間があれば…

△『宇治拾遺物語』に描かれる「猟師(殺生)」をテーマに

〇「竜門の聖、鹿に代らんとする事」   (1-7)

〇「猟師、仏を射る事」         (8―6)

 

2 【『宇治拾遺物語』という作品に関する論点

●物語と説話の違い(略)

●『宇治拾遺』は、諸説あるが、いったん平安末にでき、加筆を重ねて1200年代(鎌倉)にできたのではないか。

●『宇治拾遺』は今昔とは違ってごく投げやりに収録されているように見えるがそうではない。この説話群には「連想の糸」によって一連の数珠のようにつながれている。(益田勝実「中世的風刺家のおもかげ―『宇治拾遺物語』の作者―」『文学』1966.12)

 

3 ◎「児のかい餅するに空寝したる事」   (1-12)

 ・児と僧たちの関係性について。僧たちはどうして笑ったのか?(JSブログ)

 ●児は一般に子ども、童子を指し、寺院や神社、また公家などで召し使われる少年のことも指した。寺社内での児は法会や儀式、祭式などに特別な衣装を着け、神の代役となり、あるいは神霊の憑依ともなった。また、女人禁制であった寺院では、僧の男色の対象となる場合が多かったので、「ちご」といえば男色の対象としての寵童を指す語として使われるようになる。(増古和子 国士館短大教授)

→この話も男色と関係づけて読むべきである? 増古は卷一の一話から一五話まで基本的に性に関する笑い話が並べられており、本話は(構成上においても?)中心的部分に位置している状況から性に関係がない部分の話だとは言い切れないとする。

・児の人物造形について。(1-13)と併せて読むべきか否か?

☆学校の授業では「いい話」で扱うことが多い。「子供が無邪気で愛されている」

☆比叡山が男色の巷であったことは有名であったが、この作品が描かれる時代もスタンダードであった? また、あまりに幼かったらイメージが合わない? 僧たちは男色をした、あるいは琵琶湖側の坂本で性を買った、と言われている。それを肯定するような(「煩悩即菩提」など)思想もあった。→法然は清潔な僧だった。親鸞は悩んで妻帯し「愛欲の広海に沈没し」ても弥陀の誓願によって救われるとした。確認だが、同性愛がタブーになったのは近代以降で、江戸までは普通だった。付言だが、キリスト教世界でも同性愛はダメとしたのはアウグチティヌスであって、旧約を丁寧に読むとそうでもない、という研究論文あり。

 

☆僧たちは児に敬語を使っている。児は高貴な家の出身? →そのまま寺で出世するか、下山して俗界で出世するか?

・筆者と児の関係性。内面描写があまりにリアル。体験談の可能性はないか?(T)

・この章段が教科書によく載る理由は何か?

・「ひしひし」という擬音語について→「ピシピシ、ピチャピチャ」のイメージかも?)

・神社仏閣は女人禁制と言うが、女子もダメだったのか?

 

4 ◎「鼻長き僧の事」           (2-7)

・内供は何を気にしていたか?(JSブログ)

●内供とは僧の中でも高官で宮中に出る。言わばトップ10に入る。社会的に成功している。貴族から仕事のオファーが多く財産も有る。世俗的な宗教家として大成功している

●中大童子は反抗期くらいの少年ではないか?

●真言宗のため密教関係か。加持祈祷をする。

●仮に作り話としたら「鼻が大きい」とは何を意味しているのだろうか?

●「身体的な特徴を持っていた人」・・呪術的な力を持つ、聖性を持つ、という文脈があるか? 古代中国以来身体的な特徴のある人(巨人すぎる人とかその他)は呪術的な力があるとされた。孔子も2メートル以上の大巨人。

●徳が高い人かと思っていたが、最後まで読むと人としてちょっとどうなのか?

虫が出ていったら一応しぼむけど2、3日で再び大きくなる

→人の欲、肥大した自尊心のように再び戻ってしまうという表れか?

→本文の「徳」…「儲けている」という意味。人徳とは別の意。

●内供には誰も発言ができない状況であった。今で言えばワンマンで成功しているパワハラ社長。が、中大童子だけは反論したので、人びとは喝采した? 抑圧されてきた者の意趣晴らしの、意地の悪い笑いのようでもあるが・・

●天狗のイメージと重なっているか?「天狗」の色が赤い色というイメージもあったかわからない。鞍馬の烏天狗は長い鼻のタイプではない。

●内供の「我ならぬ…」の発言は内供の自己認識の不十分さを表しているのか。鼻の長い人は自分だけではない、と。対して中大童子は、「お前だけだ」と言い返す。

●「我ならぬ…」で想定しているのは「やごとなき人」。「やごとなき人」は鼻が長いと思っている? プライドの表れであって、本人に容貌のコンプレックスはないかも

●「やごとなき」(高貴な)人が視界に入っている。彼のコンプレックスは高貴さ(身分の高い人、世俗に成功している人)に対するものであるのでは? つまりニセモノの宗教者

●第三者からの視点と本人の自己認識が大きくずれている。そこがミソではないか?

●末摘花(すえつむはな、『源氏』に出てくる)はロシア系の人ではないか!? 渤海との交流があってロシア系の人も来ていた?(「100分de名著」でやっていた。)北方ルートの漂着民もいたはず。いや、日本列島はそもそも各地から人が集まってできている。

・人々はなぜ嘲笑していたのか? もしくは内供はなぜ嘲笑されたのか?(JSブログ)→俗物のワンマン住職で、人をアゴで使い(鼻で使い、と言うべきか?)気に入らないと罵る、そういう人格が気に入らないのであって、鼻自体を笑っているのではないのかも

・体の特徴を馬鹿にして笑っているとすればやはり不愉快な笑いだ。本人なりに頑張ってやっているのに?

・出世しているのでルッキズムではない? いや、その怪異な顔で人を圧倒した? 中大童子にひどく怒っているので小人物ではある(聖人とはいえない)? その前のお仕えした法師はよく耐えた?  

・本文の書きようは異形の者として描いている?

・少し補足したい。読書会では禅智内供をパワハラ社長のように悪者にしてしまったが、中大童子よりも前の人はうまくやれていたわけで、中大童子も(内供にひどく罵られたとはいえ)あのように(意訳すると「世間にはあなたのような鼻の人はおられませんよ!私は折角来て差し上げたのに!」)相手の身体的特徴を罵倒することはなかったのではないか? その意味では、中大童子も、まだ人間ができていないのである。最初だから失敗することはあるわけで、内供もあそこまで罵倒することはなかったが、中大童子も(仮にも相手はエライお師匠なのだから)引き下がってもいいはず。日頃から鬱憤があったのかもしれないが、「あんたのような鼻のでかいオバケに私は親切にしてあげたのに」という「してあげた」意識(優越感)があるような気がする。それが砕かれたので言い返してしたのでは? また失敗した自分がふがいなくて怒りを相手に持っていったのかも? 後味の悪い結果だ。周囲の者が物陰に隠れて笑った、というのも、やっぱり後味が悪い。(JS)

 

5 ◎「絵仏師良秀家の焼を見て悦ぶ事」   (3-6)

・絵物師良秀の人物造形について。家族や仕事道具など、全て放りだして真っ先に逃げ出す。必死であったからか?それとも最初から火を見に行こうと思っていた?

・良秀は芸術家か?(仏の絵を描くのは金のためなのか?)

●周囲の目には異様な人物に映る。

●説話は世俗説話は宗教説話か、という問題。この話は宗教説話として読めるか?

「よぢり不動の絵を描きたい」という狂信的な情熱があると読めば宗教家、宗教説話と読める?

「真実の絵、アートを描くために」?

「世俗的な芸術家で、絵画を通して物欲を満足させたい」?

●妻や子を顧みずにただひたすらに作品に熱中できることはすごい。

●不動尊(アチャラナータ)は「揺るぎなき守護者」の意を持つが、良秀は慌てて逃げ出すとは、矛盾があっておもしろい。いや、家族などにもかかずらわない「揺るぎなき信仰心」とよめばまさに不動尊への信仰となる。→渡辺照宏『不動明王』(朝日選書35,1975年)という本がある。不動尊(不動明王)は密教・修験道で重視される。成田山も不動尊。東京には目黒不動、目赤不動など。

●「これこそせうとくよ」の「せうとく」は「所得」「抄徳」か? 金儲けできるぞ、ではなく、不動尊の炎を見られるなんてありがたい、千載一遇のチャンスだ、の意味かも。

●不動尊の炎は量が問題か質が問題か? すべてを焼き尽くすほどの圧倒的な質をもっている炎ということか? つまり家族や家財や自己の世俗のワークをすべて超えたところに燃え上がる聖なる火、とここで悟った?

●『ヨブ記』には悪魔がヨブを試して財産や家族を奪いボロボロになったヨブはさらに「お前が悪いから、因果応報だ」と友人に言われる。すべてを失ったヨブだが、神と直接対話して彼は幸せになる。すべては神と出会うことが大切だ、とする解釈がある(内村鑑三)。「仏だによく書き奉らば」をその解釈の流れにおけば? 

●芸術とは何か? 古代においては道徳と芸術と宗教は混然一体としていた。それらは例えば人格の完成のため(あるいは聖なるものに近づくため)にあった。孔子は「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」と言っている。人間の道徳的(宗教的でもある)完成は芸術による、という意味だ。対して近代はそれらを峻別していく芥川『地獄変』=芸術至上主義=では、芸術と宗教と道徳ははっきり分かれている。では、平安頃はどうか? 少なくとも、近代以降の色眼鏡で読んではいけない。

 

6 「こぶとり爺さん

〇「鬼に瘤取らるる事」を題材に比べ読み (1―3)

〈他テキスト〉

〇『御伽草子』太宰治

〇『瘤取り』楠山正雄

〇『瘤取話 ―その広がり―』鈴木満(武蔵大学)

・「瘤」とは何を象徴しているのか? 人が生まれたとき否応なく与えられてしまった不条理な運命のようなもので、しかし鬼のようなパワーがあれば除去したり倍増させたりできるもの。例えば?・・・親からの相続物(エジンバラ城を相続してしまったとか)、ガン遺伝子(医術で除去できる)

 

・『宇治拾遺』「鬼に瘤取らるる事」におけるおじいさんの人物造形について。

 

・参考1 太宰治『御伽草子』におけるおじいさんの人物造形について(アオゾラ文庫から)

 

 「実に、気の毒な結果になつたものだ。お伽噺に於いては、たいてい、悪い事をした人が悪い報いを受けるといふ結末になるものだが、しかし、このお爺さんは別に悪事を働いたといふわけではない。緊張のあまり、踊りがへんてこな形になつたといふだけの事ではないか。それかと言つて、このお爺さんの家庭にも、これといふ悪人はゐなかつた。また、あのお酒飲みのお爺さんも、また、その家族も、または、剣山に住む鬼どもだつて、少しも悪い事はしてゐない。つまり、この物語には所謂「不正」の事件は、一つも無かつたのに、それでも不幸な人が出てしまつたのである。それゆゑ、この瘤取り物語から、日常倫理の教訓を抽出しようとすると、たいへんややこしい事になつて来るのである。それでは一体、何のつもりでお前はこの物語を書いたのだ、と短気な読者が、もし私に詰寄つて質問したなら、私はそれに対してかうでも答へて置くより他はなからう。

 性格の悲喜劇といふものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。」

 ・・・ここでは、おじいさんは、立派な妻子に挟撃されて孤独。コブは孫のようにかわいい。取られてみると少し淋しいが気が晴れるような気もする。鬼に対しては思わず踊ってしまう。となりのおじいさんはコブは嫌い。鬼に対して格調の高い舞いをやってみせようとし、嫌われる。太宰の現代芸術(大衆の嗜好)への皮肉がある。

 

・参考2 楠山正雄『瘤取り』におけるおじいさんの人物造形について (アオゾラ文庫)

 

 「おかしらはみんなの騒ぐのを止めて、

「いや、何よりもいちばん、あのじいさんのほおの瘤を取るのがいいだろう。瘤は福のあるものだから、じいさんのいちばんだいじなものに違いない。」といいました。

 おじいさんは心の中では、「しめた。」と思いながら、わざとびっくりした風をして、「おやおや、とんでもないことをおっしゃいます。目玉を抜かれましても、鼻を切られましても、この瘤を取ることだけはどうかごかんべん下さいまし。長年の間、わたくしが宝のようにしてぶら下げている、だいじなだいじな瘤でございますから、これを取り上げられましては、ほんとうに困ってしまいます。」といいました。」

 

・『宇治拾遺』本文にはないが一人目のおじいさんが「しめた」と思うように楠山は解釈している。コブはいやだった、と。

・瘤取りの類話について・・アジアにはある。ヨーロッパにも。

●踊っているおじいさんが違っていることに対して鬼が言及しなかった

 →人の顔がどうかはどうでもよくて踊りにしか興味がなかったことに、人間よりも上位の存在の余裕を感じる。二人には「瘤」という特徴があるのに区別がついてない。

●人間の宴会と同じようであることは同意。また僕たちが雀の顔の区別がつかないこととも同じとも思った。

●太宰ではじいさんは孤独だったから瘤を愛する。瘤を取られるとちょっと淋しいがすがすがしい。あとのじいさんは立派すぎる。→一種の文化批評(太宰独特の世界)

●鬼とはどのような格好をしているのか? 中国の鬼は死者の霊。でも今回はかなり具体的なイメージ。般若の顔か、絵本や子ども向け節分グッズで見る顔か。本当は拙文の鬼についてもいろ考察がある。

●最初のじいさんは瘤を取ってもらおうと思ってはいない。ただ思わず踊ってしまう。二人目は作意があって、大失敗。本作は教訓に仕立てている。

いい爺さん悪い爺さんと区別をつけて道徳を説くのは後世。古い形は、なにがなんだかわからないが異世界に行く、オオカミに食われる。道徳的な善悪以前の世界では。後半の悪い爺さんの箇所は、なくても話としては成り立つ。前半の一人目のおじいさんはコブがいやだとは書いていない。むしろ「コブ」は「ふくの物」(鬼の言葉)で「長年持ってきた物」(爺さんの言葉)。

●二人目の意地がわるい爺さんは欲のままに失敗する。瘤を取ってもらった方の一人目のじいさんが鬼には「また来ますよ」と言っておいて自分は行かず隣家のおじいさんを行かせるのがおもしろい。おとぎ話で見る誠実なじいさんではないのでは?

●室屋(むろや)、洞になっている部分は異世界。世界中にある。不思議の国のアリスも。アマテラスも岩屋戸に隠れた。テダ(太陽)はムロから出てムロに隠れる、という伝承あり。ヨミの国はヤマの横穴式の洞穴に? 

●山に住んでいる人々(山人)。山人説は否定されているようだが、山に住んでいる人々を「鬼」と読めなくはない。

 

7 △1-7と3-8:『宇治拾遺物語』に描かれる「猟師(殺生)」をテーマに

(1)大きな違い

〇「竜門の聖、鹿に代らんとする事」(1-7)

 ●師匠の行いによって漁師が仏の道に入る→仏教説話の典型

〇「猟師、仏を射る事」 (8―6) 今昔 20―13 「狸」→「野猪」

  ●猟師が狸だと気づくことで人びとは狂信から抜け出た

(2)共通点

 ●共通点は「猟師が賢い」。自分の目と腕で生きている知恵のような力。『源氏』には出てこないタイプの人間。→猟師の生きてきた経験によって裏打ちされた観察眼、その観察眼が真実を見抜いた。

 ●「竜門の聖」は知恵がある。猟師を信心の道に連れていける。「漁師、仏を」は、僧に知恵がなかった、にせものの宗教家だ、と批判。まり、1-7も3-8も期待している宗教者は智恵がある人。信仰には知恵が要るとする点で共通。

(3)その他

 ●猟師は自分に自信があった? 自分に対する自己批評ゆえに? 修行していない自分に普賢菩薩が見えるはずがない、と。・・当時の宗教の世界の常識を前提とした謙虚さ。

→だが、普賢菩薩は相手が何者であろうとも姿を現すのでは? 修行を積んだ人だけに現われるなどとケチなことはなさらないのでは?

 なお、釈迦三尊は、中央が釈迦如来、両脇に普賢菩薩(象に乗る)、文殊菩薩(獅子に乗る)。

 ●正体は狸だった、は気持ちがわるい。『今昔』20-13では野猪となっている。狸は何のために欺いたのか?

●欺かれていても信じていた間は幸せだったかも?

●「普賢菩薩に見えたが狸だった」は、「絶世の美女に見えたが狸だった」などなら多くありそう。

 

8 有益だった。複数人でやると新しい発見がある。今回は雪のためオンラインで実施。

 次は3月15日(土)9時半~『竹取』。その次は暫定的に4月19日(土)『枕草子』、5月17日(土)西鶴を考えている。