James Setouchi

2025.2.8  日本文学

 

永井荷風 『濹東綺譚(ぼくとうきたん)』  昭和12年  

 

1        永井荷風(ながいかふう)

 明治12年(1879年)東京の小石川区金富(かなとみ)町(現・文京区。今の竹早高校の近くで、坂の上)に生まれる。本名壮吉。父はプリンストン大学留学の高級官僚、のち日本郵船の上海や横浜の支店長になった人物。母は儒学者・鷲津毅堂の娘。一時下谷区竹町(たけちょう)(現・台東区。御徒町の近く。つまり下町)の鷲津家に預けられる。幼稚園(当時珍しい)、黒田小学校、師範学校付属小学校高等科を経て高等師範学校付属中学校に学ぶ。この間永田町や麹町(現・千代田区)にも住んだ。一時上海旅行。東京高等商業学校付属外国語学校(今の東京外大)清語科に学ぶが怠学し除籍。荷風は広津柳浪(作家)や朝寝坊むらく(6代目)(落語家)に入門して寄席に出たりしていた。明治32年厳谷小波(いわやさざなみ。作家)の木曜会会員となる。このころから懸賞小説に当選。福地桜痴(おうち、劇作家)の門人となる。フランス語を学びゾラの翻訳を出す。明治36年(1903年)森鴎外を知る。渡米。タコマ(ワシントン州)、カラマズー(ミシガン州)、NYなどに滞在。明治40年(1907年)フランスへ。リヨンで銀行に勤務するも続かず、明治41年(1908年) パリ、ロンドン、香港を経て帰国。『あめりか物語』。明治42年『ふらんす物語』、訳詞『悪の華』(ボードレール)、『すみだ川』。明治43年明応義塾の文科教授となる。『三田文学』発刊。この年幸徳事件(大逆事件)発生、証拠不十分のまま44年に24名死刑判決。明治45年ヨネと結婚。大正2年父が逝去、ヨネと離婚。翻訳詩集『珊瑚集』。大正3年かねて交際していた新橋の芸妓の八重次(ヤイ)と結婚。『日和下駄』。大正4年ヤイと離婚。大正5年浅草の芸妓・米田みよと一時同棲。慶応の教授を辞す。『腕くらべ』連載。神楽坂の芸妓・中村ふさを知る。大正7年『おかめ笹』。大正8年『花火』。大正9年麻布市兵衛町に偏奇館を建てる。大正10年『雨瀟瀟(あめしょうしょう)』。大正12年関東大震災。昭和6年『つゆのあとさき』。昭和12年『濹東綺譚(ぼくとうきたん)』。浅草に通いオペラ館などに出入り。昭和20年空襲で偏奇館焼失。昭和21年『問わず語り』。昭和22年から市川市に住む。昭和24年『断腸亭日乗』連載。また浅草ロック座に通い踊り子と交わる。昭和27年文化勲章。昭和34年3月浅草の洋食屋アリゾナで歩行困難に。4月自宅で逝去。(集英社日本文学全集の小田切進の年譜を参照した。)

 

2 『濹東綺譚(ぼくとうきたん)

 昭和12年(1937年)『朝日新聞』に連載。作者58才。(昭和11年脱稿と書いてある。)

 

 昭和12年(1937年)は日中戦争の始まった年。それまでにも山東出兵、満州事変などなど大陸で戦火は起きていたがここで本格化する。本作では荷風は時勢に少し触れている。後半の「作後贅言(ぜいげん)」で、「満州の野に風雲の起った事を知ったのは・・昭和五六年の間」「ラディオの軍歌」「白木屋の・・店の窓には黄色の荒原の処々に火の手の上っている背景を飾り、毛衣で包んだ兵士の人形」「霞ヶ関の義挙注1)」「露店の商人が・・兵器の玩具に螺旋(ぜんまい)をかけ、水出しのピストルを乱射」銀座のガード下には「血盟団注2)を釈放せよなど、不穏の語をつらねたいろいろの紙が貼ってあった。」などと書いている。本作で荷風らしき人物「わたくし」が町中のラジオの政談、浪花節、朗読と洋楽のミックスや蓄音機がうるさい、ラジオの声の聞こえないところに行きたい、と書いているのは、満州事変以降の戦争関係のラジオ放送など聞きたくなかった、ということもあるのかも知れない。荷風は、帝国が大陸に攻め込み戦果を挙げることなど、聞きたくもなかったに違いない。

 

 本作も男女の話が出てくる。それだけでなく、老境を自称する作者の心情は、若い人にはピンとこないかも知れない。シニア向け。

 

注1         霞ヶ関の義挙:ここでは昭和7年の五・一五事件のこと。永井荷風は『断腸亭日乗』に次のように書いている。「五月十五日。晴れていよいよ暑くなりぬ。晴下銀座に往きて夕飯を食す。日曜日なれば街上の賑ひ一層盛なる折から号外売の声俄に聞出しぬ。五時半頃陸海軍の士官五六名首相官邸に乱入し犬養を射殺せしと云ふ。警視庁及政友会本部にも同刻に軍人乱入したる由。……然れども兇漢は大抵政党の壮士又は血気の書生等にして、今回の如く軍人の共謀によりしものは、明治十二年竹橋騒動以後骨て見ざりし珍事なり。或人日く今回軍人の兇行は伊太利亜国に行はるゝフワシズムの摸倣なり。我国現代の社会的事件は大小となく西洋模倣に因らざるはなし。伊国ファシズムの真似事の如き竜も怪しむに足らずと。或人又日く。暗殺は我国民古来の特技にして模倣にあらず。往古日本武尊の女子に扮して敵軍の猛将クマソを刺したる事を見れば、暗殺は支那思想侵入に先立ちて既に行はれたるを知るべしと。この説或は正しかるべし。」(浅草紅団のサイトから孫引き。)ここで五・一五事件はイタリアのファシズムの模倣だ、という見方と、ヤマトタケルがクマソを刺した例など中国思想移入以前から日本でやってきたことだ、と述べている。荷風が戦闘や軍人を嫌いだったことから考えれば、この言い方は、「日本人の武威の伝統(当時しきりに喧伝されていた)のようなものがあるとすればそんなものは願い下げだ」ということを遠回しに言っているのではないか? 「義挙」とは皮肉な言い方であろう。

 

注2         血盟団:井上日召の作った極右団体。昭和7年2月に旧大臣や財界の重鎮らにテロを行うなどした。荷風は『断腸亭日乗』に次のように書いている。「三月五日、快晴、春風頻々たり、表通には自働車の音絶間なく、遠く砲声のきこゆるにも係らず、庭の鶯早朝より午頃まで鳴きつゞけたり、都会の鶯は自ら物の響に馴れたりと見ゆ、……風月堂に往き独晩餐をなす、給仕人の持来る夕刊新聞を見るに、今朝十一時頃実業家団琢磨三井合名会社表入口にて銃殺せられし記事あり、短銃にて後より肺を打ち抜かれしと云ふ、下手人は常州水戸の人なる由、過日前大蔵大臣井上準を殺したる者も同じく水戸の者なる由、元来水戸の人の殺気を好むは安政年間桜田事変ありてよりめづらしからぬ事なり、利と害とは何事にも必相伴ふものなり、昭和の今日に至りて水戸の人の依然として殺気を好むは、之を要するに水戸儒学の余弊なるべし、桜田事変のことを義挙だの快挙だのとあまりほめそやさぬがよし、脚本検閲の役人は鼠小僧の如き義賊の狂言は、見物人に盗心を起さしむる虞ありとて、往々その興行を許可せざる事あり、此の後は赤穂義士、桜田事変の如き暗殺を仕組みたる芝居も、其筋にては興行を禁止するがよかるべし、盗賊の害は小なり、暗殺の害は盗賊の比にあらず、……」(東京紅団のサイトから孫引き。)ここで荷風は血盟団のテロを水戸の儒学のマイナス面の現われだと批判している。テロや軍人の嫌いな荷風は水戸学に遡って批判している。私見では儒学は人間を解放する教えでもあるが他方封建的で人間を抑圧する方向に機能することもある。水戸学(特に後期水戸学)は尊攘思想や忠孝一本思想など非常に非人間的で抑圧的かつ暴力的なものとして発現した。桜田門街の変で井伊大老を暗殺して以来テロが続発、その延長上に維新革命と大日本帝国の戦争、血盟団など各種のテロがある、という歴史認識は、本質を突いていると思う。(『日乗』にはこのあとに甘粕大尉の大杉栄一家虐殺への言及もあるが省略。)

 

(あらすじ)

 荷風と思われる「わたくし」は、浅草・吉原の下町を歩き、警官に疑われて交番に連れて行かれる。やがて隅田川の東に渡り、向島の寺島町の玉の井(注3)貧しい裏町の雪子という女性(おそらくは私娼)と知り合う。そこは溝が臭く蚊の多い所だったが、雪子は同時代では珍しく古風なタイプの女だった。時勢遅れを自認する「わたくし」は雪子を気に入り、毎日そこへ出かける。「わたくし」は『失踪』という小説を書き始めていたが、どう展開するか行き詰まっていたところだったが、雪子との出会いで物語の展開にヒントを得た。その後雪子が病気で入院したと聞いた。雪子とはしょせん恋愛遊戯の関係でしかなく、別れてしまったが、老境の自分にとって忘れがたい女性となった。ここまでが本文で、「作後贅言」が付いている。

 

 神代帚葉翁(こうしろそうようおう)という老人があり、「わたくし」は大正10年の頃からの知己だ。彼は不遇の文筆家だが市井の風俗の観察を楽しみとし、ゆうゆうと日を送っていた。彼は濹東の地理の細部に至るまで詳しかった。考証癖が強く東京の今昔に詳しい。彼は「わたくし」と同じく明治に成長した人間で、大正時代に成長した現代人(昭和初期の人間)とは価値観が違う。「わたくし」の見るところ、現代人は何事も「人に先(さきん)じよう」とする、「先を争う」、「自分の名を売る」、「大臣や顕官に手紙を送る」、「人より先に」職や富を求めようとする。だが話の通じたその帚葉翁も去年の春に亡くなってしまった。今や意見を問うべき相手もいないせめて「わたくし」はかの人びとの墓を掃いに行こう・・

 

注3         玉の井:向島辺りにあった私娼窟(ししょうくつ)。多数の私娼がいた。永井荷風はこの入り組んだ町を「ラビラント」(迷宮)と呼んだ。荷風は本作で銀座などはいやで墨東のこのエリアが好きだと書いている。その描き方はあたかも一種の異世界であるかのようだ。そう言えば埴谷雄高『死霊』でも「川向こう」の運河のある一帯を夢幻のごとき異世界であるかのように描いている。

 

(コメント)

 隅田川の東の貧しいエリアに住む雪子との交情、その中で描かれる『失踪』という小説、それに加えて神代帚翁との交流、現代(昭和初期)への批判、が主な内容だ。あらすじで見たとおり。

 

 いくつか補足しよう。

 

・一人散歩をしていると、警官に誰何(すいか)されて交番に連れて行かれた。警官はしつこかったが、「わたくし」は戸籍抄本、印鑑証明書、実印を持ち歩いていたので身元が分かって解放された。あるときは大金を持っていたので警官は「こんな処は君みたような資産家の来るところじゃない。早く帰りたまえ・・」と解放してくれた。→カネのある者には優しく、カネのない者には厳しい警官とは? 永井荷風は知らぬ顔をしてこの問いを書き込んでいるとも言える。(今の日本の警察はそうではない、と私は思っているのだが・・)

 

「わたくし」は徒党を組み群れをなすのが嫌いで、彼らのことを「怯」だと考えている。文藝春秋社が徒党を組んで小山内薫を攻撃した例がある。「三田文学を早稲田に負けないようにしてください」と言った人があり、自分はその愚劣さに眉をひそめた。「わたくし」は三田(慶応)を去った。銀座には昭和2年以来三田の学生が野球見物の帰りに群れをまして歩き狼藉を働く。親は憤って子弟を退学させるべきだがそうした親は見ない。→早慶戦で熱狂した慶応の学生が銀座で飲み歩き、そこに早稲田の学生が乱入する「銀座早慶戦」というのが当時あった。昭和8年(1933年)の「リンゴ事件」の夜は特に大騒動になったことは有名である。一体何をしに大学に行っているのであろうか? 一方で帝国は大陸で戦争をしている。この後十数年で列島は焦土と化す。大学生が早慶戦で酒を飲んで銀座で暴れていていいはずではなかったのだが・・

 

・日比谷公園で「東京音頭」と称して若い男女が舞踏をなすとは。地方の農村の盆踊りでさえ明治末には禁止されたこともあったのに。このように「わたくし」たちは嘆く。→「東京音頭」はプロ野球のヤクルトの応援団が歌うが、もとは昭和7年「丸の内音頭」昭和8年「東京音頭」(日比谷公園の盆踊り大会で披露)で、全国で大流行した。震災以降の東京の復興の気分にマッチした(刑部芳則「東京音頭の創出と影響―音頭のメディア効果」(日大商学部『商学研究』第31号、2015年)、「一九二九年(昭和四)の世界経済の大パニックや、中国大陸へ広がる戦火などがあり、庶民は重苦しい気分を転換させたがっていた」(レファレンス協同データベース、2020.4.9更新、東京都立中央図書館提供から)などの考察があるが、昭和6年(1931年)の満州事変以降の帝国の状況を考えると、国民を歌と踊りで総動員する方向に機能したことは間違いあるまい。永井荷風はそこまで見抜いて、群れをなして国策に動員される様子を憎んでいるのか、それともただ単に男女が公園で踊ることを憎んでいるだけなのか?

 

・街路の風景も、銀座ではなく玉の井の方が「浅薄に外観の美を飾らず、見掛倒しでない」のがよい、「血まみれ喧嘩もここではほとんど見られない」、「古下駄に古ヅボン」に変装して(彼は本来は高級な山の手の紳士の服装)この場末を歩けば「いかなる雑踏の夜でも、銀座の裏通りを行くよりも危険のおそれがなく・・」とある。反対に銀座は、洋服の身なりだけは立派だが人相の悪い中年男が肩で風を切り杖を振り通行の女子を罵りつつ歩く、などと書いてある。→永井荷風は昭和初期の浅薄な銀座が嫌いだった。貧しい路地裏のようだが昔風の雪子のいる玉の井を愛した。雪子が病になったと書いているので、玉の井の貧しい私娼たちを襲う過酷な運命について「わたくし」(永井荷風も)は知っている。がそれを社会問題として取り上げて追及はしない。大切な日々が失われた、と哀惜の情を綴るだけだ。社会批判はストレートには表現されない。

 

・雪子目線で読めばどうなる? たまたま知り合った「わたくし」なる人物と慣れ親しみ、やがて結婚して貰いたいとすがるが、「わたくし」は肯(がえん)んじない。やがて「わたくし」は来なくなる。雪子は病気になって・・雪子はまだ二十代だ。

 

・震災後繁華街が復興し皆で東京音頭を踊り早慶戦で騒ぎ軍艦を揃え「日英米」などと称して列強の一員になった気でいても、雪子のような若い無力な女性に苦しみを負わせているようでは、真に一等国とは言えない。いい国ではない。「楽しい日本」ではない。警官は貧しい人を取りしまり金持ちにペコペコする。本作は体制批判をストレートに書いてはいないが、体制批判の書でもありそうだ。五・一五を「義挙」とあえて荷風が言ってみたのはそういうことだったのだろうか・・? 国文の方、どうですか?