James Setouchi
2025.2.2 日本文学
永井荷風 『日和下駄(ひよりげた)』
1 永井荷風(ながいかふう)
明治12年(1879年)東京の小石川区金富(かなとみ)町(現・文京区。今の竹早高校の近くで、坂の上)に生まれる。本名壮吉。父はプリンストン大学留学の高級官僚、のち日本郵船の上海や横浜の支店長になった人物。母は儒学者・鷲津毅堂の娘。一時下谷区竹町(たけちょう)(現・台東区。御徒町の近く。つまり下町)の鷲津家に預けられる。幼稚園(当時珍しい)、黒田小学校、師範学校付属小学校高等科を経て高等師範学校付属中学校に学ぶ。この間永田町や麹町(現・千代田区)にも住んだ。一時上海旅行。東京高等商業学校付属外国語学校(今の東京外大)清語科に学ぶが怠学し除籍。荷風は広津柳浪(作家)や朝寝坊むらく(6代目)(落語家)に入門して寄席に出たりしていた。明治32年厳谷小波(いわやさざなみ。作家)の木曜会会員となる。このころから懸賞小説に当選。福地桜痴(おうち、劇作家)の門人となる。フランス語を学びゾラの翻訳を出す。明治36年(1903年)森鴎外を知る。渡米。タコマ(ワシントン州)、カラマズー(ミシガン州)、NYなどに滞在。明治40年(1907年)フランスへ。リヨンで銀行に勤務するも続かず、明治41年(1908年)パリ、ロンドン、香港を経て帰国。『あめりか物語』。明治42年『ふらんす物語』、訳詞『悪の華』(ボードレール)、『すみだ川』。明治43年明応義塾の文科教授となる。『三田文学』発刊。この年幸徳事件(大逆事件)発生、証拠不十分のまま44年に24名死刑判決。明治45年ヨネと結婚。大正2年父が逝去、ヨネと離婚。翻訳詩集『珊瑚集』。大正3年かねて交際していた新橋の芸妓の八重次(ヤイ)と結婚。『日和下駄』。大正4年ヤイと離婚。大正5年浅草の芸妓・米田みよと一時同棲。慶応の教授を辞す。『腕くらべ』連載。神楽坂の芸妓・中村ふさを知る。大正7年『おかめ笹』。大正8年『花火』。大正9年麻布市兵衛町に偏奇館を建てる。大正10年『雨瀟瀟(あめしょうしょう)』。大正12年関東大震災。昭和6年『つゆのあとさき』。昭和12年『濹東綺譚(ぼくとうきたん)』。浅草に通いオペラ館などに出入り。昭和20年空襲で偏奇館焼失。昭和21年『問わず語り』。昭和22年から市川市に住む。昭和24年『断腸亭日乗』連載。また浅草ロック座に通い踊り子と交わる。昭和27年文化勲章。昭和34年3月浅草の洋食屋アリゾナで歩行困難に。4月自宅で逝去。(集英社日本文学全集の小田切進の年譜を参考にした。)
2 『日和下駄(ひよりげた)』
大正3~4年(1914~5年)に『三田文学』に連載。荷風は35才。大正3年は漱石が『こころ』『私の個人主義』を書いた年。また第1次世界大戦が始まった年だ。荷風は『日和下駄』の中で世間から身をひいた人間のポーズをして東京の町を歩き回り江戸時代の名残を見つけては目を楽しませている。荷風はまだ35才なのにどうして世をすねた隠者のふりをしているかというと、大きく言えば国家権力が西洋近代文明を取り入れて江戸以来の風物(生活)が失われつつあることへの反感のためだろうし、直接には明治43年の幸徳事件(大逆事件)で国家権力の横暴に恐怖した、ということもあるだろう。
幸徳事件(大逆事件)は国家権力による冤罪事件の大きなもの。
荷風は『花火』(大正8年)の中で「・・わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだ為(た)め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者(げさくしゃ」のなした程度まで引下げるに如(し)くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。・・」と書いている。荷風はフランスの作家を尊敬しゾラの翻訳も出している。ゾラはドレフュス事件ではユダヤ人に対する不当な扱いを批判し権力批判を展開した。一時イギリスに亡命するがすぐ帰国。対して荷風は権力の横暴に恐怖し、沈黙た自らを恥じ、以来江戸戯作者なみの文筆活動しかしないようになった、と言っているのである。『日和下駄』もこの文脈の中で読むことができるだろう。
『日和下駄』では、荷風は、蝙蝠傘(こうもりがさ)と江戸時代の地図を片手に日和下駄を履いて東京の町を歩き回る。荷風はそこここに残る江戸以来の自然や景観を発見しては悦に入る。荷風は明治以降に国家権力が西洋近代文明にならって東京の町を改造してきたことを批判する。
荷風は言う。「十年の昔と、・・精魂ようやく衰え盛代の世に男一匹の身を持てあぐみ為すこともなき苦しさに、江戸絵図を懐中に日和下駄曳摺(ひきず)って、・・江戸名所の跡を弔い歩む感慨とを比較すれば、まったくわれながら一滴の涙なきを得ない。・・われらが住む東京の都市いかに醜く汚しと言うとも、ここに住みここに朝夕を送るかぎり、醜き中にもいくぶんの美を捜り汚き中にもまた何かの趣を見出し、もって気は心とやら、むりやりにも少しは居心地住心地のよいように自ら思いなすところがなければならぬ。これ元来が主意というものなき我が日和下駄の散歩のいささかもって主意とするところではないか。」(「第十 坂」)
心のどこかでは「男一匹」活躍せねばならぬとどこかでは思っている。文学で社会を論ずることもできる。だが彼においてそれはできない。その苦しさゆえ、このようにして醜く汚い東京の中にも美趣のあるところを見つけて心を慰めよう、と言っているのである。
荷風を苦しめたものは一言では言えないが、幸徳事件に見る国家権力の直接的な暴力もあるが、もう一つには高級官僚でパワーエリートであった父親へのコンプレックスもあるだろう。国家権力的なものは父親のイメージと重なってすべて嫌い、だったにちがいない。(荷風はその父親の残した莫大な財産で生涯を遊んで暮らすわけだから、荷風にも欺瞞があるわけだが。)対して母方の実家は下町にあった。下町の風情は彼にとって好ましいものだったにちがいない。
荷風は西洋近代文明によって改造された東京を嘆く。本作は文明批判の書でもある。彼はパリやNYにもいたのでこの点からも西洋の猿まねを批判できる。だが彼は、当時なお各所に残っていた、江戸以来の景物に憩いを見出していく。
本作では、淫祠、樹、地図、寺、水(渡し船も)、路地、閑地(あきち)、崖、坂、夕陽(富士眺望も)の項目を挙げ、自分の好みの場所を挙げては描写していく。その描写は実にうまい。
彼は表通りではなく路地を愛する。(『檸檬』の梶井基次郎とどうか。)彼は運河の眺望を愛する。(北村透谷の『漫罵』とどうか。)彼は文明の閑却した空き地を愛する。そこの雑草を愛する。江戸期の平民文化(川柳、狂歌、俳諧、浮世絵など)に描かれたそれらの景物を荷風は愛する。庶民の生活感のこもった旧地名を愛する。坂や崖など高低差がありそこに人びとが暮らした生活の臭いを愛する。(『ブラタモリ』とどうか。)権力者の目線で称揚された文化ではなく。あくまで平民の目線に信を置いている。
東京と言っても都心の山の手・下町エリアであって、多摩地区などは入っていない。随分沢山の地名が出てきて、よく歩き回っているな、と感心する。江戸東京の土地勘のある人ならもっとよくわかるだろう。一例を挙げると、森鴎外の観潮楼のある千駄木辺りの崖から上野浅草方面を見わたすことができる。お寺の鐘が聞こえる。その余韻の中で森は暗くなり市中の燈火は明るくなる。ここの描写は見事だ。(「第九 崖」)しかし今ではどこもビルが建ち、そう簡単に眺望は得られまい。赤坂・麻布あたりは私はよく知らないがかなり言及がある。近辺の方は読まれるとよろしいでしょう。
彼は、審美的な見方をする。倫理的ではない。例えば貧しい人びとの生活するエリアを、貧民街とし、そこにも情緒がある、汚い洗濯物が干してある、などとは描くが、だから社会を改良して貧困問題を解決しよう、そこに正義がある、とは言わない。わざと言わないのか、気がつかないのか。ゾラを読む荷風なら気付いていないはずがないので、わざと言わないのだろう。人権問題と労働問題は政治家と新聞記者が私欲を満たすものだ、という発言がある。この辺は完全に「反動」だ。屈折のある思いで書いているのだとしても、高級官僚だった父親の財産で遊んで暮らした点と共に、永井荷風の弱点だとは言える。
彼は長身でハンサムで大金持ちだった。彼は多くの女性と関係を持った。彼は最後は孤独に死んだ。バッグには大金の預金通帳が入っていたと言う。
彼は変な人だ。矛盾も沢山ある。しかし、その世をすねたような目で世を見つめる、その目は割合に確かだ。彼の書いたものを時々思い出しては読みたくなる。なお本作には性的な描写はないので、健全な青少年諸君に読んで頂いても大丈夫です。
2025.2.2