James Setouchi
2025.1.26
獅子文六(1)短篇からいくつか『達磨町七番地』『町ッ子』ほか
加えて、ユーモア文学について
1 獅子文六 明治26年(1893年)横浜市生まれ。本名岩田豊雄。父は備前中津藩の武士だったが慶応の福沢門下で絹貿易商。横浜の公立小学校、慶応幼稚舎(小5から)、慶応普通部(今の中学高校)を経て慶応理財科予科に進学するが文科予科に転科、中退。この間に一家は東京の大森山王に転居。大正2年、豊雄は徴兵検査で丙種合格。大正9年母が死去。文学で立つ決心をする。大正11年(1922年)フランス留学、パリに住み演劇に親しむ。大正14年パリで恋愛結婚したマリーと帰国。和田堀町(今の杉並区)に住む。岸田国士らと演劇活動を行う。昭和5年(1930年)マリー発病のため同伴してフランスに帰らせる。翌年単身帰国。東中野に住む。昭和9年愛媛県出身の富永シズ子と結婚。千駄ヶ谷に住む。獅子文六の筆名で『金色青春譜』を書く。ユーモア文学に新生面を開いた。昭和12年『達磨町七番地』連載。岸田国士、久保田万太郎らと文学座を開く。昭和18年中野区に転居。19年神奈川県吉浜町に疎開。20年8月終戦の後12月愛媛県岩松町(妻の故郷)に疎開。22年『塩百姓』発表、東京に戻り駿河台に住む。23年から『てんやわんや』連載、25年妻シズ死去。大磯に転居。26年松方幸子と結婚。29年『青春怪談』連載、31年から『大番』連載。33年赤坂に転居。35年『べつの鍵』発表、39年『町ッ子』刊行、『南の男』発表。41年『出る幕』発表。44年文化勲章。死去。(集英社日本文学全集巻末の細川忠雄の解説、小田切進の年譜などを参照した。)
2 『達磨町七番地』(少しネタバレ)
パリに留学した日本人をめぐるユーモア小説。獅子文六のパリ留学は1922~25年(第1次大戦後)で、1930年に再度妻を連れて行っている。『達磨町七番地』は1937年に朝日新聞に連載した。
1922~25年頃のパリと言えば、プルースト『失われた時を求めて』の後半部の時代であり、ジェイムズ・ジョイスや若き日のヘミングウェイもいたパリだ。獅子文六と接近遭遇したかも知れない。
「達磨町」とあるがセーヌ川の近くのD’alma町だ。この町のアパートに日本人留学生が多く暮らしている。その一人松岡範平さんは医学を研究しているが「国家主義者」(本文の言葉)つまり日本主義者であり最近のの若者の西洋かぶれが嫌いだ。その隣の中上川君は「個人主義者」(本文の言葉)で西洋風の開けた思想を持っている。或る日中上川君はセーヌ川の川べりで18才の失意の乙女を救い、恋仲になる。中上川君の西洋びいきはますます昂じ、これを憎む松岡範平さんの西洋嫌い・日本主義はますます昂じていく。ところが・・・
このあとある深刻な事件があって、二人の「主義」はあっさりと入れ替わってしまう、というオチ。これは単なるユーモア小説として読めばいいのかもしれないが、自称ナントカ主義などというものが、実に下らないちょっとした個人的なきっかけでできあがっていて、公憤の如く語っていてもその正体は私憤・私怨でしかない、ということを示してもいそうだ。フランス風のエスプリがきいていると言うべきか。
そう言えば西洋(欧米)にわずか留学しただけで、「アメリカはこうなのよ」「日本はやっぱりこうだよね」などと、外国嫌いの日本びいきになってしまう人、逆に外国びいきの日本嫌いになってしまう人がいるが。どっちも(ご本人にとっての経験は重いとしても)もう少し深く勉強しないと、本当のことは言えないのではないか? という気がします、ハイ。
漱石はイギリスにいて日本人であることを再発見し「非西洋の苦闘」を続けたかのように言う論調が一時あったが、漱石論としては不十分だ。漱石は『私の個人主義』を書いたのであって、『私の国家主義』を書いてはいない。日本に対する「贔屓の引き倒し」を警戒し「(日本は)亡びるね」とまで登場人物に言わせている(『三四郎』)。西洋思想と日本思想の挟間で真摯に苦闘し新しく創造的な思想を作り上げようとした、と言うべきだろう。
内村鑑三はアメリカに行ってみてアメリカ文明に絶望したから『代表的日本人』を書いて日本人の偉大さを世界に喧伝しようとした、と言う論調をネットなどで散見するが、これも内村論としては不十分だ。内村は『代表的日本人』で、アメリカ文明と同じようにカネを拝む明治以降の日本の文明を根底から批判しているのであって、明治の拝金文明化した日本がエライなどとは決して考えていない。
獅子文六は・・? 私はまだ十分に研究できていないので、これ以上は発言を控えます。獅子文六自身は大正14年フランスから妻マリーを連れて帰りました。明治前半、森鴎外はエリーゼと結婚しようとしてかなわず、新渡戸稲造はメアリー・エルキントンと結婚しました。
3 『無頼の英霊』 昭和22年、54才のときか? (ネタバレ)
愛媛県の南の方、高知県に近い岩松町が獅子文六の妻の郷里で、文六は一時そこに住んでいた。ここを舞台にした作品が『てんやわんや』『大番』などいくつかある。これはその一つ。
佐上丑造(さがみうしぞう)はこの村の若者頭だが暴力的で皆から嫌われていた。丑造が召集されたとき、戦死してくれればいいと村人は思った。戦死の知らせが届き、墓を造り、村人は口ではお悔やみを言ったが悲しみはしなかった。戦後、しかし、何と丑造は生きて帰ってきた。人びとは恐怖した。・・だが、シベリア抑留で心身共にふやけた丑造は、自分用の卒塔婆を七寸づつに切断して、下駄を作るのだった・・「地獄へ行った者が、どれだけ唯物的になるか」と語り手はしめくくる。
これもオチのあるユーモア小説。最後の「地獄へ行った者」「唯物的」は、シベリア抑留中ソ連に思想教育をされ「唯物的」になった人のあることを連想させる。だがその含意の射程がどれほどか、「唯物的」と言われるがこの程度でしかないと言っているのか、宗教も死後の世界もすべて否定する「唯物的」を非常に問題視しているのか、わからない。
なおシベリア抑留では、ソ連に投降した日本軍や一部民間人約60万人がソ連に抑留され、遠くはウクライナやグルジアまで送られ、劣悪な環境下でラーゲリ(強制収容所)で強制労働させられた。5万5000人以上が現地で亡くなったと言われる。スターリンは、独ソ戦で失った若い労働力を、ドイツや日本の捕虜で補おうとしたのだ。数年で帰国できた者もあるが、非常に長期間抑留された者もあった。一部には人的交流も生まれたとか。「シベリア帰り」は「アカ」とみなされ嫌われる場合もあった。
4 『塩百姓』 昭和22年 54才 (ネタバレ)
上記の岩松町らしき村。戦後、貧農の赤松太兵衛は、独自の工夫で海水から製塩をする仕事を始めた。自家製塩は、今まで貧に苦しんできた太兵衛にとって、坐っていて金が儲かる、おもしろくてたまらない仕事だった。太兵衛は「塩焚(た)きは、休まれんぞ」と言って、来る日も来る日も病の日も塩焚くきを続けたが、無理がたたってあっけなく死んでしまった。あとには大きな貯金と妻子が残った。隣家のオゴロは怠けものだったが、薪を買う金さえなく、太兵衛の残した妻を手伝ううち、二人は仲良くなり、仕事も面白くなった。このありさまを天国の太兵衛が見ても、それほど不安に思わないかもしれない。太兵衛は「塩焚きは、やめられんぜ!」と言っていたのだ。
これも皮肉な話。ちょっとおかしくて悲しい。太兵衛はやりたい仕事をやって、その仕事の後継者もできて、充実した人生だった、となるのか。日本のモーレツサラリーマンが会社のために身心を捧げ尽くして早世したりしてきたが、それと同般かもしれない。後のモーレツサラリーマンを予言して皮肉っているとも見えるし、いや、大日本帝国の軍人・兵隊たちは、何のためにやっているのかわからないまま目の前の作業に夢中になって、結局次々死んでいったのと同般だと見れば、帝国軍人への皮肉と読めなくもない。仕事か人間かだったら、人間が大事なはずだ。
5 『遅日』 (ネタバレ)
上記岩松町らしき村。戦後、田舎の真面目な少年・子ノ助は、予科練帰りだ。春に見た共産党の赤松英子という年上の女性に初恋をし、米とタケノコを持って遠路町まで届けに行く。・・しかし、英子には会えず、タケノコは受け取って貰えたが、米を渡しそびれる。予科練の仲間だった若林がブローカーをしていて、その米を買い取ると言うが、子ノ助は代金を取らずに米を若林にあげてしまう。若林はおぼこな子ノ助を娼婦のいる店に誘おうとする・・
若林のような世間ずれした連中や、村の人びとのような何も分からず興奮して大げんかをする連中の中にあって、子ノ助の、世間ズレしておらず、シャイで真面目な様子が、好感が持てる。また、都会から来た共産党の人の演説会の、内容ではなく話しぶりが、田舎の人びとの憤激を買って大混乱に陥るというのは、田舎ではいかにもありそうだと思った。
6 『べつの鍵』昭和35年 67才 (ネタバレしない)
52才の町医者が脳卒中になる。脳卒中になると実は食欲と性欲が昂進した。彼の医学研究に対する情熱が復活して・・というユーモア小説。
谷崎潤一郎の『鍵』(昭和31年)をどこかで意識しているかも知れない。
7 『町ッ子』昭和39年 71才
自伝的エッセイ。慶応幼稚舎に学ぶと「町ッ子」と「山の手の子」がいた。前者は町人の子で後者は旧武士の子だ。「私」の家は武士の家風だったが、私は儒教や武士道から解放されている「下町ッ子」が好きだった。慶応中学も「町ッ子」が多かった。ところが近年昔はいた素敵な「下町人」(センスがよく、節度があり、アクドサを忌み、虚飾をきらい、生活の折り目正しさを好んだなどなど)がどこかへ消えてしまった。「山の手の子」も断絶してしまった。今では銀座も、「食い気と色気の商人 ばかり軒を列(なら)べては、たんなる盛り場に過ぎない。」兜町も、「少数の大資本に支配されるようになって、すっかり気風が変わ」ってしまった。強いて言えば「いま住んでる赤坂に、昔の下町人らしい人物を、見いだすことがある。」
これは昭和39年、東京五輪(1964)の年に出た本だ。獅子文六が慶応に通ったのは明治の末から大正の初年。今(2025年)赤坂は更に変容している。だがこのエッセイの「下町人」と「山の手人」の比較は面白い。ぜひ御一読を。本作では旧「下町ッ子」への郷愁を書いているが、彼の父親は武士出身で商人になった。「山ノ手人」の武家気質への郷愁もあったろう。高齢になって、世の転変を見て、自分が幼い頃親しく接したものを懐かしく思い出すということはあろう。
渋沢栄一『論語と算盤』も武家と商人の倫理の違いを書いている。商業系の学校では「士魂商才」という校是のあるところも。橋本健二『階級都市』も御一読を。
なお慶応幼稚舎とは幼稚園ではなく小学校。福沢は「天は人の上にも人の下にも人を作らず」と言ったが、慶応の人は「幼稚舎から慶応でないと本物ではない」などと人を出自で色づけしてみるクセがある、と言われているようだが・・・? どうなんですか・・?
8 『南の男』昭和39年 71才 (ネタバレしない)
「私」は作家で、鹿児島に行った。すると宗像(むなかた)六郎太という男から電話がかかってきた。六郎太は実は「私」がかつて書いた小説の主人公で、実在するはずがないのに。おかしな話だと思いながら・・
ここから先はネタバレしない。
昭和16年の『南の風』の続編とも言うべき作品。多少面白くはあるが、何を言いたいのか?
話の展開とは別に、昔の男尊女卑の思想の浸透した鹿児島で、あくまでも男を立てる女性の姿が描かれる。だがその鹿児島も、随分世の中が変わってきた、旧華族も今は没落している、という話が織り込まれる。言いたいことはこのへんにあるのかもしれないが、よくわからない。そう言えば獅子文六の父親はもとは九州(備前中津藩)の武士だった。
内村鑑三は『代表的日本人』で西郷は「最後のサムライ」だと述べている。渡辺京二は『逝きし世の面影』で、西郷が体現していたような、昔の日本人の、他者との親密な交わりに生きる感覚が失われ、明治政府の計算高い連中に取って代わられてしまった、と惜しんでいる。西郷は西南戦争で朝敵とされ靖国神社にも祀られなかったが、庄内の人びとは西郷をひどく慕い『南洲翁遺訓(なんしゅおういくん)』を編纂したと言う。
9 『出る幕』昭和41年 73才 (ネタバレあり)
二・二六事件を題材にしている。首相は岡田啓介ではなく緒方貞輔という名に変更している。軍人が押し入ったとき風呂場に隠れ九死に一生を得たが、その後懸命に参内し総理として力を振るおうとしたら、すでに自分の出る幕は無くなっていた、という話。
ユーモア小説と言うには題材が深刻。緒方貞輔の、自分こそがやらなければ、という自負心と、周囲の、「もうあなたの出る幕ではありません」という冷めた意識とが対照的で、緒方貞輔が哀れである。それでも大戦末期に彼はもう一度「出る幕」がある。終戦工作をしたのだ。これを「出る幕がもう一度あった」と書くか「それまでなかった」と書くかで印象が随分違う。私は前者で書いてほしいが、獅子文六は後者で書いた。
私は岡田啓介という方についてよく存じあげないが、ある解説によると、私腹を肥やさず清貧な方だった、と書いてあった。獅子文六はどうしてこのように真面目な人をからかうような書き方をしたのだろうか。
二・二六事件は一部軍人のテロと言われる。テロはもちろんダメだが、背景には、財閥・政治家などの腐敗があり、貧富の格差と貧困があったことまで見ておくべきだ。戦前(1868年の明治維新から1945年の昭和20年まで77年間)は戦争も多かったがテロも多かった。戦後80年はテロは(いくつかあったが)戦前に比べれば圧倒的に少ない。
10 付言
年譜を見ると富裕な商家の出で、慶応に学んでいる。当時と今は違うとは言え、親の遺産でフランス留学できるなど、金持ち階層だな、と思った。実際には金持ちでもいろんな苦労がある。だが、彼のユーモア小説は、金持ちで余裕のある育ち方をした人のユーモアかもしれない、と思った。
河盛好蔵『エスプリとユーモア』もかつて読み、面白かった。獅子文六は「ユーモア小説」と書かれていたが、エスプリ小説かも? オー・ヘンリーや星新一と比べて、どうですか?
日本にもユーモア文学、笑いの文学は結構ある。私は今の段階でその通史をここで陳列するだけのものを持ってはいない。思いつくまま少し挙げてみよう。
『土佐日記』にも奇妙な平安ギャグ(しゃれ)があるがピンとこなかった。
『落窪物語』で馬面の男「面白の駒」を馬鹿にする記述、『源氏物語』で末摘花を馬鹿にする記述がある。これらはいただけない。ルッキズムであり、容貌・容姿で人を蔑んでいる。『堤中納言物語』にもお笑いがある。これは抵抗がなかった。どう違うのだろう。「はいずみ」はちょっとした失敗がおかしいだけで、生まれつきの容貌・容姿を笑ってはいないからか。
江戸文学は笑いの宝庫だ。西鶴は『一代男』など常識をひっくり返すスケールで面白い。十返舎一九『東海道中膝栗毛』はしゃれが面白い。面白くてやがて悲しいのだが・・北村透谷は、江戸の「粋」「侠」は身分社会という狭い世界のものでしかなく貧困だ、と言っている。
近現代文学ではよく知らないが、漱石の『猫』と『坊っちゃん』は最も有名。北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』などは非常に面白い。誰か他の人を笑い蔑むのではなく、自分を笑ってみせる。北杜夫氏はヒューマンな温かい方なのだ。安岡章太郎『サアカス』『幸福』などのとぼけた味も同様。根底に人間としての同情心がある。やさしさがある。
われらが大江健三郎も笑いを目指して書いている箇所だろうなと思いつつあまり面白くないのがある。でも人を蔑む笑いはしていない。仮に分類すれば、①自分が大げさにドジを踏む、②イーヨー(アカリさん)が大真面目でいいことを言う、③奇想天外なスケールに話が膨らむなどいくつかのパターンがある。①はロシアの小説の笑いに学んだのかもしれないが、北杜夫や安岡章太郎と同じくヒューマンな笑いだ。②ではイーヨー(アカリさん)は決して笑われない。彼は賢者であり勇者である。③の笑いの源流はガルシア・マルケスかもしれないが、「南予のとっぽ話」にもあるかも知れない。獅子文六の妻の故郷・岩松町(現宇和島市の南部)には「南予のとっぽ話」というものがあり、おおぼらを吹いて皆で笑って楽しむというものだ(獅子文六『てんやわんや』など)。岩松町と大江健三郎の故郷・大瀬村(現内子町)は、近いようで案外遠いけれども、大きく言えば「南予のとっぽ話」の影響を大江健三郎も受けているのだろうと私は思う。
エッセイでは丸谷才一『男のポケット』などはしゃれていた。今は土屋賢二(お茶大の先生)が面白い。
世知辛い世の中であるから、お笑いで幸せになり体調もよくなるのなら、お笑いも結構だ。最近はTVのお笑い芸人のお蔭でいろんな人が達者になったと感じる。人を馬鹿にして笑うのではなく、いいお笑いをお願いしたい。