James Setouchi

『奥の細道』は紀行文の代表とされるからここに再掲。2025.1.19

但し虚構が沢山ある。

 

読書会記録 2024年8月17日実施 松尾芭蕉『奥の細道』  担当:N

 

(レポーターのレポートと、参加者の発言とを、区別せず示した。信頼できるメンバーの集合的な知識に信頼する、という考え方からである。但し読者は、全てを信じず、安易に引用せず、個々に検証してみてください。)

 

1 松尾芭蕉1622~1694。江戸時代前半の人。生まれは伊賀上野で、江戸を中心に活躍、諸国を旅し、大坂で没した。

 松尾桃青とも言う。母の出自が伊予宇和島の百地氏であるとしてモモ→桃、青は未熟を示す謙遜表現だ、李白にあやかり、李→桃、白→青、としたなど諸説あるが、根拠はないらしい。

 伊賀上野の士分待遇の農民の出。兵農分離以降で、公家・武家ではないが百姓の中でも上位の名主・庄屋クラス、また医者などは、武家に殉ずるクラスだったから、そのクラスか?藤堂良忠(2歳上)に仕え俳諧のお相手をした。そこで松永貞徳派の北村季吟の影響を受けた。良忠が早世し、その後不明の数年間があったが、京都の寺で学んでいたという推測もある。西山宗因の談林派の俳諧を学び、江戸に下向し芭蕉庵に住み蕉風俳諧を創始。多くの弟子を育てた。

 貞門と談林と蕉風はどう違うのか? 貞門は、古典復興を行った北村季吟もいるように、古典の土台がある。芭蕉はまずは古典復興の気運を学んで出てきているはず。談林は、言葉遊びで新奇なものが多い。蕉風は、「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」でわかるように、わびしい草庵の暮らしに美を見いだすなど、芸術として高みを目指している

 各地を旅し紀行文を多く書いた。弟子たちと『芭蕉七部集』(『冬の日』『春の日』・・『炭俵』)を編んだ。「不易流行」の理念を提出した。「わび」「さび」「しをり」「細み」「軽み」などが蕉風の美の理念。

 「不易流行」とは? 芭蕉が言ったかどうかは知らないが、弟子の向井去来が『去来抄』で述べている。多くの弟子は、不易の句と流行の句がある、と理解したが、去来は、不易と流行はそう取るべきではないとした。(このへん『去来抄』を読んでいないのであいまい。)『奥の細道』の旅で経験した、無常迅速とも見える宇宙が、実は不易不変なものだ、という世界観を、文芸において述べたもの、とする意見がある。現代でも「不易」=変わらない普遍性、「流行」=時代によって変わる姿、といった日常用語で使われる。

 「さび」「わび」とは? 平安末期・鎌倉の美は幽玄・妖艶で、華やかな桜ではなく山里のわびしくさびさびとした風情をよしとした。「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」。中世の禅宗の影響もあり、茶道には「わび茶」がある。信長や秀吉は金ピカが好きだったが、芭蕉は改めて「わび」「さび」に回帰したと言える。「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店」は年末の客の来ない寒々とした情景。これか? どうかな?

 和歌や俳句は庶民のものか? 文字なき民にも口承文芸があった。ただし共同体の祭礼の歌と個人の内面を歌う歌は違う。歌う人は少しづつ自分の工夫を加えて改編していったかも。記紀歌謡もそれか。『万葉集』あたりで文字化されるが、東歌や防人の歌も、歌を詠む人は、全くの無学無教養の人ではなく、ある程度の知識人だったのでは。太宰府は国際都市で、今で言うと「みなとみらい」のような場所では。そこで外来植物であるウメを愛でて『万葉集』に載せた。参加者の出身も中国、朝鮮半島、日本というインターナショナルな会合だった。「令和」という元号は『万葉集』のそこからとっている。それを、明治以降のナショナリズムや戦後の民主主義運動の中で、『万葉集』=日本の国民的歌集、とやってしまったのでは。伊藤左千夫(正岡子規の弟子)は、牛を飼い牛乳屋をやっていたので「牛飼いが歌作るとき世の中の新しき歌大いに起こる」と詠んだ。

 万葉集の山上憶良の歌は子煩悩を歌い貧乏を歌う(それも杜甫の影響だが)。『万葉集』にも東歌や防人の歌がある。が、『古今集』以下二十一代集は、皇族・貴族の歌が中心だ。だから国民大衆から遊離しているとみて、伊藤左千夫は庶民の歌を詠むぞ、と宣言した。昭和浪曼派の某氏は『万葉集』の山上憶良の歌を「きたない」「そんなものを歌うべきではない」とした。歌うべきは、生活から遊離した美的なものであるべきか? それとも、庶民の生活に根ざしたものであるべきか?

 江戸期は平和になり識字率も上がった。その中で俳諧など文字文化が相当に広がったとは言えそう。芭蕉の弟子は豊かな町人、あるいは上級武士など。俳諧の世界では俳号を用いフィクショナルな場面ではあるが一応平等な世界を演出しているが、元に戻ればやはり豪商や上級武士だったとすれば?

 『奥の細道』は、芭蕉最後の紀行文曽良と東北を旅した。旅の後何度も書き改め、没後に出版。全てが事実ではなく、虚構を多く用いている。曽良の随行日記と比較する研究もある。例えば、まずは草加(『奥の細道』による)に泊まったのか、春日部(曽良による)に泊まったのか? なぜそうしたのか? 芭蕉の創作意識、文芸意識を見て取るべき。では、文芸、芸術とは一体何か? 何のために?

 当時の東北のイメージは? 江戸や京の人にとってどう見えていたのか? 知らない。そう言えば、坂上田村麻呂から見れば「夷狄」だ。「蝦夷」は騎馬で戦い実戦力があったので、八幡太郎源義家はそこから学んだ。東北の奥州藤原は金(ゴールド)で栄えていた。北回りルートで大陸への通路もあった。日蓮聖人は弟子を渤海にやっている(と言われる)。鎌倉幕府は鎌倉で京都に対抗できるものを作ろうとした(鎌倉大仏、禅宗寺院、金沢文庫など)。鎌倉時代末の兼好法師は、関東の人の方が京の人よりも豊かだ、と言っている。関東管領、北条氏や伊達氏の戦国大名の時代を経て、徳川家康が関東に入る。江戸では河川などの大改良を行い、巨大都市を建設した。「ブラタモリ」などでやっていた。東北では会津→米沢の上杉、伊達(仙台)、南部(岩手)、相馬(福島)、佐竹(秋田)などがあった。参勤交代もあるので、ヒト・モノ・カネが行き交い、随分一体化が進んできているのではないか、という印象がある。それでも徒歩旅行であり、芭蕉が当時として高齢であることを考えると、旅に死ぬ可能性はあったろう。

 『奥の細道』の後世への意義だが、まずは、教科書に載って中学生も学習するので、全国民必須の基本教養の一つになった、とも言える。俳諧と俳句は違うが、今日の俳句ブームを準備する土台の一つではある。

蕉風俳諧の後世への意義として、談林を越えた独自の世界を築いた、各地に弟子がいて俳諧文化を広めた。がやがてマンネリ化するので、与謝蕪村や小林一茶が出た。正岡子規や夏井いつきもそういう一人と言えるかも。蕪村は「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな」と古典・歴史を踏まえた。一茶は「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」とは何とわかりやすい。子規については略。坪内捻典の「三月の甘納豆のうふふふふ」を芭蕉が見たら何と言うか? 不易流行だからそれでいいのか、となるのか。

 詩歌を共通の教養とした時代があったが、戦後に失われてしまったのか? いや、その問いは雑すぎる。江戸期は左国史漢(『春秋左氏伝』『国語』『史記』『漢書』)は必須だった。武士=教養人は儒学を勉強し歌を詠む。(俳諧についてはどの程度どのクラスが享受したか、知らない。)詩歌と言えば漢詩と和歌。明治以降西洋の詩歌が入ってきて、伝統的な詩歌を否定する動きもあったが、耐えずカウンターが出てきて、漢詩文や和歌や俳句は残った。戦時中は漢文調で軍国主義を叫んだので、戦後すぐ漢文否定の動きもあったが、すぐ「逆コース」で古典は再評価された。1960年代の大学生はフランスやロシアの文学を読んだが、80年代頃か、危機感を持った保守党政治家が古典(『万葉集』など)を学校で必須に持っていった。今の若者が出遭っている事態は、もっとあとのものだろう。新自由主義・グローバリニズムが押し寄せ、英語と金儲けとパソコンだけやったらいい、コスパとタイパが大事、株で稼ごう、という時代になり、漢字は書けない、漢文は読めない、古典は読まない、世界文学も読まない、という時代が来た。危機感を持った例えば藤原正彦(数学者)は本を読め、古典を読め、と言う。だが読む人と読まない人は二極分化し、読まない人はサッカーと五輪でわーわー騒ぐばかりで本は全く読まない。これでいいのだろうか? 学校でもグラフと数字と実用英語とPCばかりで、大事なことが抜けているのでは? 韓国はもっと前にIT化が進み、日本よりも深刻になっているようだ。BTSら韓国の若者は自分の名前を漢字で書けないのでは? 中国の簡体字も簡略化しすぎて漢字の元の意味が見えない。表意文字は大事だと思うが・・?

 大学入試はペーパー一発でやるべきか、活動実績を重視すべきか? 科挙はどうだったか。今の日本の入試はすでに活動実績重視の特別選抜などが増えている。すると、活動実績を上げられる都会の富裕層の師弟が有利になる。中高時代に2回アメリカに留学でき、東大の近くに住んで東大の先生に総合学習や探究のコーチをして貰った人と、アルバイトで家計を補ってきた人では、前者が有利。すると、階層の拡大と固定化が進む。パックンは新聞配達の実績をハーバードが評価してくれたと言っていたが・・? オバマ大統領は、教育を受ける機会だけは十分に平等に供給するので、各自努力してほしい、と言っていた。前提としての機会均等、機会の平等、機会の公平、は、必須だろう。

 

 冒頭を読んだ。「草の戸も住み替はる世ぞ雛の家」は、ひな祭りを眼前に見てはいない。ここはイリュージョンだ。写生句ではない。この句を見てどこまで読めるのか。予備知識が無いと読めない。年中行事も家族構成も今は変化している。どうしても注釈が要る。17音では所詮語れないのだ。予備知識や教養の無いものにも享受できる文化とは? 俳諧や俳文は高度に文章をつづめてあり、素人には読みにくい。一部の人だけのものだ、と言われても仕方が無い。・・死ぬかもしれない旅だが、明るい感じがある。これは挨拶の句だからか。 

 「上野谷中の桜」も眼前にはない。「行く春や鳥啼き魚の目も泪」でも、水中の魚の目は見えていないので、空の鳥も水中の魚も泣いている、というイリュージョンだろう。ここで泪橋という橋が千住にあり、処刑場に行く者を家族が泣いて送る場所のようだ。自分も死ぬかも知れない旅に出る。生死の分かれ道の意味で「泪」の字を当てているのでは。

 松島は明るい、象潟は寂しい。太平洋側は明るく、日本海側はうら寂しい、という伝統的な観念でそう作っているのではないか、との説がある。とするとやはりリアリズムではない。一歩間違えるとパターン化したマンネリズムに陥る。

 歌枕とは何か? 実際に旅をした人もあろう。が、新古今などは、京都にいてそこを詠っている。芭蕉は江戸時代なので平和な時代で街道や宿場も整備されていたから実際に旅に出ることができた、と誰かが言っている。もともとそこは神様がいて、歌で神様のご機嫌を慰めた、という説あり(民俗学系)。

 立石寺は必見。巨大な奇岩に寺院の建物があちこちに立っている。写真で見てわかったきになるか、文字で想像するか、実際に行って見るか。どう違うか。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」のセミは何ゼミか? 油蝉かニイニイゼミかの論争が既にある。が、そんなことはどうでもいいのであって、世界全体の静けさに浸ればいいのだ。いや、注釈上は陽暦7月13日にアブラゼミなどでは不可で、夕暮れのヒグラシが静かに鳴き、やがて声が消えていく位の静けさでは? ヒグラシはそこで鳴くのか? 王籍の漢詩に類句がある。いや、これはキリスト教の「平安」に一番近い感覚では? 「平和」=シャロームには、戦争のない平和、社会の安寧、内面の平安の意味がある。すべて充たされるべきだ。そこに静けさがあり平安がある。世俗のせわしさから離れた閑寂の世界。それを書くことで取り戻そうとしているのか? 「古池や蛙とびこむ水の音」はどうか。その音が宇宙全体に広がる。そこに世界と自己の一体化がなされ、平安・静けさがある。これを芸術と呼ぶか、宗教とどう違うのか? むしろ禅宗の世界ではないか? 身心脱落の風景? いや、この蝉の声は、死霊の声!?  あるいは? ・・・様々な解釈がなされてきた。

 ラストも読んだ。大垣から揖斐川を船で下り伊勢に行くのだ。「ふたみに分かれ」はしゃれ。旅立ちは「行く春」だが重いが、ラストは「行く秋」なのに、しゃれを入れて軽やかなのは何故? それが「軽み」の境地なのか? 大垣から伊勢は海道も整備されていて楽な旅行のイメージだったのかな。伊賀上野にいたので土地勘もあったかも。私は知らないのだが、大垣の弟子に会ったのは、どこかですでに会ったことがあって、ここで再会しているのか? 死んだ人間が蘇ったかのように喜んだ、というところ。

 芭蕉は最後は大坂で死ぬ。芥川龍之介の『枯野抄』は芥川独自の世界だが、面白い。

 

*空也上人は平安中期に会津まで行ったそうだ。西行は東大寺再建の勧進のために旅をして奥州藤原氏まで行ったとか。高野聖、善光寺聖などは全国を旅したろう。親鸞は新潟に、日蓮は佐渡に流された。

 今、日本列島は南北(タテ)に長い。北は流氷が見え、南は珊瑚礁がある。高山もあれば離島もある。田舎もあれば大都会もある。日本語と円ですべて用が済み、安全で、食堂やホテル・旅館も清潔だ。海外旅行しなくてもまずは国内旅行で結構楽しめるのでは? (この安全で安心できる日本を壊さないでほしい。)                  (2025.1.19追記)