James Setouchi
2025.1.19再掲
『インパラの朝 ユーラシア・アフリカ大陸684日』中村安希 集英社2009年
(著者)中村安希:1979年京都府生まれ、三重県育ち。98年三重県の高校を卒業、2003年カリフォルニア大学アーバイン校、舞台芸術学部卒業。3年間の社会人生活を経て、06年ユーラシア・アフリカ大陸へ旅行。08年帰国。写真展・講演会をする傍ら、世界各国の生活・食糧・衛生環境を取材中。海外情報ブログ「安希のレポート」あり。(本のカバーを参考にした。)
(いくつかの批評)
「独特の傲慢(ごうまん)な切れ味、嫌いじゃない」(崔洋一)
「海外旅行の浸透(しんとう)はここまで深い世界観をもった日本人女性を生みだした」(佐野眞一)
「いわば、啖呵(たんか)を切りながら旅をしてきたのだ。その啖呵が小気味いい」(重松清)
「絶妙な距離感を持った清新(せいしん)な方法で描かれている」(田中優子)
「はっと立ち止まらせる色気と魅力がある」(茂木健一郎)
「中村安希さんは、世界を自分の眼で見て、自分の“モノサシ”ができたのだと思う。僕もいつか、自分の“旅”をさがしてみたい」(岡田准一)
(内容)
著者は27歳~29歳のとき、わずかな所持金を手に、アジア・アフリカの諸国を旅した。ヒッチハイクなどの手段を用い、あえて貧乏旅行をした。その記録。
この紀行エッセイの魅力は、
1 無名の女性の手によるものである。男性の手による紀行は今までにも相当数あるが、大学を出てOLをしていた女性が一人で貧しく危険な(とされる)エリアに足を踏み入れて紀行を書くのは(なくはないが)今までそう沢山あるわけではない。
2 欧米ではなく、アジア・アフリカの諸国をめぐっている。チベット・ネパール・キルギス・ウズベキスタン・トルクメニスタン・イエメン・ジプチ・ウガンダ・タンザニア・マラウイ・ザンビア・ジンバブエ・ブルキナファソ・トーゴ・ニジェール・モーリタニアなどなどを彼女は訪れるが、日本の読者の多くはこれらの国を訪問したことはないだろう。これらの国々についての情報がふんだんにマスコミを通じて降ってくるというわけでもない。地図上でどこにあるかさえ明確には理解していない。そういう国を彼女は訪れる。
3 危険を察知し巧みにかわす能力を有している。女性の一人旅である。男以上に危険が付きまとう。彼女はタフにそれらをかわし乗り越えていく。
4 あえて路地裏を歩き、自分の眼で確かめ、今まで届いてこなかった「小さな声」に耳を傾けようとしている。例えば、パキスタンで親切にしてくれた家族のことを、ありのままに紹介し宣伝したかった。(p.75)
5 その結果、貧しい(とされる)エリアに住む人々にとって「何が一番必要なのか?」という問いを筆者は抱く(p.163)。途上国に対する開発援助は、実は先進国の国内事情でなされているだけではないか(p.238)。反対に、ウガンダの孤児院はODAとは関係がなく、細々とした経営だったが、「細かい配慮を積み重ねながら、できることをできる範囲で一歩一歩実現していた。」(p.248)
(題名『インパラの朝』とは)
インパラに言及(げんきゅう)している箇所は二か所。ケニアのマサイマラ国立公園での朝、インパラを見る。インパラは静かにそこに立ち、遠くを見ていた(p.154)。モーリタニアの砂漠の朝、神に礼拝を捧(ささ)げるトゥアレグ(ガイド)の姿を見た。ケニアのインパラを思い出した(p.260)。本の題名になっている言葉なので、筆者の思い入れは強いはず。大地をしっかりと踏みしめ、遙(はる)か彼方(かなた)の崇高(すうこう)な何者かを見つめる、そういう存在でありたい、と筆者は考えているのだろうか。(なお、見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書)の「南の貧困/北の貧困」でも、「開発」のあり方が問われている。一読を。) H22.9
テロやコロナの後、また日本の貧困化により、海外旅行は難しくなってきた。どうすればよいか? 海外旅行しなくても人生は人生だ。家でプラトン以来の本を全部読めば海外旅行する暇はなくなる。但し一部の人は世界に現場に旅する人も必要だろう・・ 2025.1.19