James Setouchi
2025.1.19紀行文として再掲
小田実『何でも見てやろう』講談社文庫1979年(単行本1960=昭和45年)
1 小田実(おだまこと)1932(昭和7)年大阪生れ。作家、社会活動家。東大文学部(言語学科、古代
ギリシア文学)、大学院へ。フルブライト基金でハーバード大学へ。その帰路欧州、中近東、インドを経由して帰国。「ベトナムに平和を!市民連合」の代表となり社会活動。中国や西ベルリンにも滞在。執筆活動としては『何でも見てやろう』『アメリカ』『日本を考える』『現代史』『ガ島』『HIROSHIMA』『ベトナムから遠く離れて』『深い音』などなど。2007(平成19)年没。(ネットミュージアム兵庫文学館の記事から)
2 『何でも見てやろう』
1960(昭和35)年に出た本。小田実は1958(昭和33)年にフルブライトの留学生として渡米、約1年間ハーバード大学に籍を置いた。その帰途、太平洋ではなく、あえて大西洋・欧州・中近東・インドを大回りした。その2年間の紀行文。特に最後あたりは1日1ドルの貧乏旅行を決め込み、インドでは路上にも寝た。この本はバック・パッカーの教本のようにも言われ、のちの沢木耕太郎『深夜特急』にも影響を与えた。1970年代の沢木耕太郎『深夜特急』、1980年代の村上春樹『遠い太鼓』を比べると、日本と世界がどう変わったか覗き見ることができる。今はさらに日本も世界も変わった。
当時は敗戦からまだ十年あまりしか経っておらず、戦争の記憶は消えてはいない。日本は豊かになりつつあるが、アメリカが圧倒的な豊かさを示していた時代だ。東西冷戦もあった。小田実はこの時はソ連や中国には行っていない。
小田は東大卒・フルブライト留学生・ハーバード大留学という肩書きを持つスーパー・エリート(日本から見ると)だが、その雰囲気はこの本ではあまり(ほとんど)出てこない。小田はあえて非エリートの側に身を置く。NYでは売れない芸術家たちと暮らした。訪れたのはハレム、南部(黒人差別が明白にあった)、メキシコ。帰途は北欧、南欧、トルコ、エジプト、イラン、インドを経由する。イランはホメイニ革命(1978年~)以前のイランであり、豊かな欧米人とイランの上層階級が少数いる反面、貧しい大多数の人々がいる。インドでは圧倒的な貧困を目にし、路上にも泊まった。周囲には病気のおじいさんもいる。(今のインドにはいわゆる中産階級でモールで買い物をする人々が数億人と出現している。当時はまだそうではなかった。)これらの経験の中から、小田実は、アメリカ文明と日本人・日本文化について考え、自分のなすべきことを考える。これは、青春時代の自己確立の旅でもあった。
「アメリカで私が感じたのは、・・すくなくとも重圧として身に受け止めたのは、それは、文明、われわれの二十世紀文明というものの重みだった。二十世紀文明が行きついた、あるいはもっと率直に言って、袋小路にまで行きついて出口を探している一つの極限のかたち、私は、アメリカでそれを何よりも感じた。」(55頁)/「私の場合、インドでの経験は、私の心を根底から揺り動かし、今、私の未来の進路まで変えさせようとしているかのように見える」(401頁)/(戦死した人々への追悼の儀式を目にして)「それらのむくわれざる死者をして安らかに眠らしめるただ一つの道は、判りきったことだが、ふたたび、このような死者を出さないこと、それ以外にはないのだ。」(421頁)
(紀行エッセイ・旅行記)村上春樹『ラオスにいったい何があるというんですか?』(ラオス、北欧、トスカナ、北米など)、『雨天炎天』(アトスとトルコ)、伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』、小田実『何でも見てやろう』(欧米、アジア)、北杜夫『どくとるマンボウ航海記』(インド洋~ヨーロッパ)、中村安希『インパラの朝』(中央アジア、アフリカ)、沢木耕太郎『深夜特急』(アジア~ヨーロッパ)、安岡章太郎『アメリカ感情旅行』(アメリカ南部)、藤原新也『黄泉(よみ)の犬』(インド~熊本~オウム)、椎名誠『インドでわしも考えた』、池澤夏樹『セーヌの川辺』、高野秀行『語学の天才まで1億光年』(世界の辺境)、辺見庸『もの食う人びと』(世界の問題の現場で現地の人と食事)、石井光太『物乞う仏陀』(アジアの貧困)、金田力『ハノイの寺』(ベトナムのハノイの寺)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)『日本の面影』(明治初めの日本)、松尾芭蕉『奥の細道』、紀貫之『土佐日記』、宮本常一『忘れられた日本人』
(R6.2.5)